それでも朝日は昇る 10章4節

 目撃者の名は、ドランブル侯爵アストリア。バルカロール侯爵エルフルト、ジェルカノディール公爵フィデリオと昵懇な、アルバ東方の大貴族である。
 大陸統一暦1000年六月一日。ついにイプシラントは、その日を迎える。
 侯爵が自陣内で騒ぎが起こっていると聞きつけたのは、午後の日が傾きはじめた時刻。相変わらず混迷を続ける軍議を終え、昼食を取り、天幕でくつろいでいた頃。
 勿論、兵たちが喧嘩や揉め事を起こすのは、日常茶飯事だ。だが彼は家臣の告げた言葉に、顔色を変えて現場に向かう。
 そこでは、二人の男が対峙していた。一人はよい身なりの、騎士とおぼしき男。そして今一人が、報告され、侯爵をこの場まで駆り立ててきた、問題の人物。
 黒い髪に、上から下まで全身黒い衣服をまとった男。
 この数日、盛んに貴族たちの間で取り沙汰され、だが誰一人補足しきれなかった謎の男――賢者カイルワーンに相違なかった。
 だがその姿は、ドランブル侯爵の想像を、大きく裏切っていた。
 賢者、という呼び名から喚起される想像で、壮年か老人を予想していたというのに、その姿はあまりにも若い。
 青年どころか、むしろ少年とさえ言っていいほどだ。
「貴様、何の意図があって流言をもって民を煽動するのだ」
「煽動? 僕はただ、真実を口にしているだけだ。ラディアンス伯、フレンシャム侯ともに、玉座に就くにはふさわしくはない――それはこの場に集った、誰しもが思うところではないか」
 小さな体から発せられた声は、驚くほど凛と響いた。
「玉座を巡って、なにゆえ力をもって争わねばならない? 真に国を思い、民を思うのならば、王位の問題とて、いかようにも解決すべき手だてがあろう。それを模索することもなく、ただ武力をもって互いを滅ぼすことしか考えぬ者に――その争いに全ての民を巻き込むことを何とも思わないような者に、王の資格があるというのか」
「なんだと……?」
「王とは血によってのみ選ばれる者にあらず。国民の信を負い、国民の生命を担う者――王を選ぶ者は、貴族ではない。このアルバに生きる、全ての国民だ!」
 青年の言葉に、歓声があがった。遠巻きに争いを眺める者たちを押し退け、最前に出て事態を見守っていた侯爵は、その場の雰囲気に危険を感じる。
 何かが起こるような――それは、予感。
「これほどの王権への無礼、許されると思ってか!」
 刹那、剣の滑る音が響き、そして悲鳴が上がった。
「賢者様!」
「いやあ!」
「お逃げ下さいっ!」
 騎士が抜いた剣は、高く振り上げられ――そして。
 誰もが飛び散る血を、惨劇を予想した瞬間。
 きいぃん、という甲高い音が、空気を振るわせる。
 騎士と青年の間に割って入った男は、己の剣で振り下ろされた騎士の剣を受け止め、渾身の力で押し返しながら叫ぶ。
「多くの民に慕われる、人格者の口をも剣で封じる――これが、お前たちの流儀か!」
 鈍い音がして、騎士は弾き飛ばされる。その様を見届けると、男は腰に剣を収めながら、鋭く告げた。
「去れ」
 怒気に満ちた声に、騎士は忌ま忌ましげに剣を引くと、身を翻した。
 そうして場には、男と賢者が残される。
「怪我はないか?」
 男がそう問いかけた時の賢者の顔を、その場に居合わせた誰もが見た――ドランブル侯爵も、また。
 それはまさしく、僥倖に出会えたような――至福の笑み。
 賢者は、跪き、頭を垂れると、喜びに震える声でこう告げた。
「貴方様のお越しを、心よりお待ちしておりました――殿下」
 その瞬間、空気が弾けた、と侯爵は感じた。
 先程とは比べ物にならぬほどの、怒号とさえ呼んでよいほどの凄まじい歓声があがる。それを真正面から受け止め、男は賢者を見下ろしている。
「あれは……あの剣は」
 ドランブル侯爵は、その光景を信じられない思いで見つめた。
 短く刈った金の髪に、明るい緑色の瞳。長身の、剣士と呼ぶにふさわしい見事な体躯の青年が、腰に帯びているその剣。
 優美な籠柄の先にはめられた、大粒の青玉――。
 知らず、一歩前へと進み出ていた。
「貴殿にお尋ねしたい。我が名はアストリア・マルリーズ・ドランブル。ドランブル侯爵領の領主で、この陣営の主だ」
 細心の注意と、焦る心を束ね合わせて、ドランブル侯爵は問いかける。
「貴殿のその剣は……もしや……」
「貴方が想像された通りのものだ、ドランブル侯爵閣下」
 何かを示唆するように、悪戯っぽく緑の目が笑った。そして剣士は、侯爵に問いかける。
「この地に集った、全ての封建諸侯に目通りしたい。仲介を頼めないだろうか?」
「貴殿は……」
 侯爵の動揺に震える声に返された明朗な声。
 それこそが、歴史に名を刻む、最初の第一声。
「我が名はカティス・ロクサーヌ。レオニダス・ブロードランズ先代王より、王剣レヴェルを託された者――そう言えば、判ってもらえるだろう?」
 真の王は、レヴェルと共に来たり――それは先王の遺言の、成就。
 きり、と拳を握りしめ、動揺する己を叱責すると、侯爵は彼を見上げた。
 自分がとてつもない局面に立ち会ったことを、自覚しながら。
「承ろう」
「感謝する」
 こちらへ、と己の天幕の方に剣士を誘うと、侯爵は先に立って歩き出す。だから、彼はその一瞬を見損なった。その一言を聞き漏らした。
 立ち上がった賢者に剣士は顔を寄せ、その一瞬だけ苦笑いを浮かべると、一言言った。
「……あんまり心臓に悪いことを、やらすな」

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