それでも朝日は昇る 10章11節

「君は、アレックス侯妃のことをどう思う?」
 カイルワーンは、向かいに座って酒杯を口に運ぶ公爵にそう問いかけた。
 六月七日夕刻、カティスとカイルワーンはジェルカノディール公爵に招かれ、彼の天幕を訪れていた。広く、ゆったりとした天幕の中で、三人は上等のワインと夕食を挟んで向かい合う。
「君はまだウェンロック王が存命の折り、バルカロール侯爵と共に彼女を擁して勢力を形成していたと聞いた。そうなれば当然、彼女と面識があったはずだ」
「ええ」
「君の目に、彼女はどう映った?」
「閣下は阿諛追従を好むような方ではないし、何をどう言えば阿諛になるのかも実はまだ判っていないので、正直なところを申し上げるが、よろしいか?」
「僕は君の、忌憚ない意見が聞きたい」
 香ばしく焼き上げられた鶏肉の一切れを口に運び、飲み込むまでほど考え込むと、ジェルカノディール公爵は口を開いた。
「大変博識な女性である、とは感じましたね。芯の通った考え方と、強い意思の持ち主ではあると感じました。ですが」
 厳しい眼差しが、断罪の鎌を振り下ろす。
「人を見る目が、なかった」
「……というと?」
 問い返したカイルワーンに、公爵は苦笑する。
「これに関しては、ひとえにアレックスを責めるわけにはいかない。判っていながら乗ったのが、私とドランブル侯爵ですから。ですが最後の最後に、あの選択を下したことで、私はアレックスをそう評価するのですが」
 前置きをして、公爵はカイルワーンに言った。
「彼女が、フィリス・バイドと共に、城に残ることを選んだからです」
 それを聞いた瞬間、カイルワーンが今まで一度も見せたことのない顔をした、とカティスは思った。ひどく不快そうな、苛立ったような、険しい表情。
 それが何なのか、カティスには判りすぎるほど判っているから、何も言わない。無論その感情がジェルカノディール公爵に向けられているものではないことも。
「バルカロール侯爵が城を脱出するまでの間、奴とアレックスと侯爵との間に、どのようなやりとりがあったのか、そこまでは私は聞いていない。彼女が侯爵を脱出させるために、身を呈したのかもしれない。しかし、それでも、あれから一年近い月日がたった。この一年、彼女はフィリスの元を逃げ出さずに彼と共に国政を専横し続けたのだから、やはり彼女は奴を選んだのだと考えるべきでしょう。私はそれが気に入らない」
「それはどうして?」
 努めて冷静に問いかけたカイルワーンに、酒杯を口に運びながら、侯爵は言いきる。
「決まっている。私が奴のことを嫌いだからだ」
 端的な物言いに、カティスとカイルワーンは少しばかり呆れた。そんな二人に、公爵は不意に冷徹な表情で説明を加えた。
「陛下と閣下ならば多分、判ってもらえるだろう。私は、努力すればいいと思っている奴は嫌いだ」
 公爵は己の力で破格の出世を遂げた元帥の甘さを、一刀両断にする。
「大貴族の傲慢と受け取ってくださっても結構。下級貴族に生まれながら、常人にはおよびもつかないような努力を重ねた奴を、世間が高く評価することもまた。私とて、努力自体を否定するわけではない。ですが、努力は目的達成のための手段であって、それ自体が評価の対象となるものではないでしょう。だから、努力したからそれに相応する報いがあってしかるべきだと考えている奴の姿勢は、私には不快なのですよ。それはお前の勝手だろう、と言いたい」
「それはそうだが……」
「この世界、どんなに努力をしようが、どんなに尽くそうが、変えられないことがある。自ら望んだものではなくても、生まれやしがらみといったものに押しつけられたものであったとしても、投げ出せないものがある。定められた檻――目には見えない、だが確実に存在する制限。それはどんな人間にもある。奴だけではなく、私にもある。判るでしょう? 私だって、ジェルカノディール公爵家に生まれたことで、諦めたものだってある。苦しんだことだってある。どんな身分に生まれつこうが、どんなに有力で、高貴な家柄に生まれようが、それ故にできないことはあるし不自由はあるし、涙を呑んで諦めることだってある。それを奴は認めようとしなかった。大貴族を――私を見上げるだけで、同じ人間なのだと、身分に相応した限界が、課せられたものが、制限があるのだと考えることもせず、私を羨み憎んだ。そういう心根こそを下賤だというのだと、私は言いたい。そういう人間が平等を語るなど、聞いて呆れる」
 アルバ随一の大貴族が語る言葉は、二人の胸に落ちた。
 この世界は、平等ではない。だがそれは必ずしも不公平と同義ではないのだろう。
「奴は言う。民が困窮に喘いでいる中で、貴族たちは私利から醜悪な権力争いを繰り広げ、徒に国を混乱させていると、そう非難する。確かにウェンロック陛下の後継を巡っての、ラディアンス伯とフレンシャム侯の争いが国政を混乱させたことは否定できない。だが、アルバ宮廷にあった者たちは、あの時他にどんな道を選びえたというのだろう? 誰しもが自領を――ひいては領民を守らねばならない。そのために、戦乱を勝ち抜かねばならなかった。それが領主の、貴族の責務だ。そしてラディアンス伯とフレンシャム侯は、争う以外の道はなかった。戦わなければ、相手に潰される――選択の余地はない。それを私利というのならば、人間は私利以外のために生きることなどできようもないし、奴の信じる『奴の正義』とて、奴の私利だろう。その己の正義だけが正しいと信じ、相手の都合や思惑を介錯することもなく、平然と他人を非難してはばからない――あまつさえ他人を排除しても良心の呵責を覚えない、そんな奴は私は大嫌いだ」
 勢い込んで言い捨てて、ワインを飲み干し、公爵は続ける。
「奴は自分の理想以外を認めない。そしてその理想が正しいと信じて疑わず、それが万民にとっても正しいと信じて疑わない。己の理想が、現実と折り合うのか――それを押し進めれば、その結果どうなるかなんて考えもしない。その証左が、今の事態です。民のことを真に思うのならば、なぜ奴は降伏しない」
 ここで革命軍と国軍がぶつかり、殺し合うことほど無益なことはない。そのことは誰の目にも明白なのに、フィリスは決して引かない。
「奴がこちらに間諜を送り込んでいないはずがない。おそらく陛下と閣下のことは、城に伝わっているだろう。正統な王位継承者が現れたこと、それに対しアルバ貴族がほぼまとまったこと、それにより内戦は回避されたこと、そして集った民が歓呼の声で陛下を迎えたこと――真に民のことを思うのならば、国を救うのならば、城と玉座と国軍を陛下に明け渡すのが、最良の策だ。ですが、フィリスは決してそれを認めない。それは共和制が最善と信じて疑わないからではなく、自分の負けを認めたくないからだ」
 やれやれ、とばかりに公爵はため息をもらした。
「アレックスに問題があったとすれば、彼女の語ったことが理想であったということです。そしてそのことを、彼女自身判っていたと思う。理想というものは掲げるものであって、直ちに遂行するものではない――長い歳月をかけて、現実と折り合いながら、少しずつ近づいていくものだ。だがフィリスは、それを解さなかった。奴にとって、理想が全てで、直ちに具現されて当然のことだった。そしてそれを実行することが、奴にとって正義だった――結局フィリスとアレックスは、最悪の組合せだったのだろう。現実にはいまだ実現不能な理想を抱いた者と、己の行為の正当化に他人を利用する人間が出会ってしまったのが悲劇だったのだろうと、私は思う。――そのことに、フィリスが暴走するまで気づかなかった私たちに、責がないとは申しませんが」
「己の正当化……」
 独り言のように問いかけたカイルワーンに、公爵は端的に答えた。
「『あなたのために』という意識は自己犠牲のようで一見美しいですが、それは自分の行為の正当化を他人になすりつけているだけにすぎない。民のため、国のため、アレックスのため――フィリスは真にそう思っているだろう。それが己の行動を正当化するための言い訳にしかすぎないということに、気づくこともなく――どうしました? 閣下」
 ふと公爵が見ると、カイルワーンは胸を押さえていた。
「放っておけ。身に覚えがありすぎて、痛いんだろうよ」
「痛みを覚える者は、自らの行いを省みることのできる者です。本当に手に負えないのは、自覚していない者――自覚していないから、己を疑うこともない者だ」
 おそらく、と沈んだ眼差しで、公爵はカイルワーンに告げた。彼をひどく、重苦しい気分にさせる言葉を。
「アレックスのため――フィリスはそう信じ込んでいるだろう。それが本当にアレックスのためになっているのかどうかを、考えることもなく。他人のためという幻想に酔えれば、人間なんだってできる。そういう点で、アレックスは確かに被害者なのかもしれない。だがそのことを見抜けなかったのならば、アレックスには人を見る目がなかったのだろうし、判っていて道を共にしたのならば、そこにはどんな理由があったとしても、愚かであると言わざるを得ないだろう。これが私の意見です」
 カイルワーンはジェルカノディール公爵を、沈んだ眼差しで見つめた。聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、胸が重苦しくなっていく話だ。
 アイラシェールとフィリスとの間に何があったのか、自分には知り得ようもない。自分が滅ぶ道だと知っていてなお、なぜ彼女が彼を選んだのか、想像もできやしない。それは運命の変革によって、己が消えることを恐れてのことだったのか。それとも。
 それとも、恋情だったのか。
 近衛騎士団長。ウェンロック王から聖剣エスカペードを下賜されるほどの、当代随一の騎士。ただひたすらに彼女に忠実に――道を踏み外してなお、最後まで彼女に忠を尽くして死んでいく者。それが己の知る――史書と伝説の中にいるフィリス。
 きり、と知らず握った拳が、手のひらに爪を立てる。微かな痛みが、己の心を表す。
 胸の中にわだかまり、かき回す思い。その暗い色の炎を何と呼ぶのか、カイルワーンにはよく判っている。


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