それでも朝日は昇る 2章1節

第2章  青薔薇の旗の下 ―大陸統一暦1217年―


 それは、忍びやかに。
 しかし、確実に始まっていた。


 王立学院。貴族の子弟と大陸全土から選ばれた英才たちが学ぶアルバの――大陸の最高学府は、王宮の離れにある。
 アルバ内外を問わず選りすぐられた教授陣による講義や、ふんだんに予算がつぎ込まれた環境もさることながら、ここが大陸全土の学者や文化人たちの憧憬を集めるのは、大陸最高と称される大図書館の存在による。
 ブロードランズ朝時代の王宮図書館からの蔵書を受け継ぎ、時代とともに拡張・増収を続けてきた附属図書館には、国の内外から閲覧を希望する者が引きも切らず訪れる。
 カイルワーンにとってここは、『赤の塔』以外に存在する唯一の居場所だった。
 父が塔に持ち込む書物だけで飽き足らなくなったのは、一体いつぐらいだっただろうか。教授である父の特権で、貸出許可を受けたのは十三歳の時だったが、司書たちのおめこぼしで出入りを許されるようになったのは、もっとずっと幼いころだ。
 その当時と比しても、威容を誇る書架は決して低くなった気がしない。天井まで階層をなしている大閲覧室は、その頃と何ら変わらぬ静寂と冷やかさに包まれている。
 最下層にしつらえられている閲覧席。窓際のいつもの席に腰を下ろし、本を開いてまもなく、カイルワーンは突然声をかけられた。
「カイルワーン・リメンブランス、だな。リメンブランス博士の子息の」
 顔を上げると、席の前に青年が立っていた。灰色の目が、鋭く彼を見下ろしている。
「失礼は承知だが、一度話をしてみたかった。いいだろうか?」
「……お前は?」
 不愉快そうに問いかけるカイルワーンに、青年は笑顔で答えた。
「グラウス・ブレンハイムという。ガルテンツァウバーからの留学生で、君の父上の歴史学講義を聴講している」
「……それで?」
「その息子が、天才すぎて博士が表に出さないのだという噂を聞けば、会ってみたいと思うのは自然な成り行きではないかな?」
 グラウスの言葉に、カイルワーンは本をぱたりと音をたてて閉じた。
 黒い瞳が、剣呑な色をたたえていた。
「どこをどうしたら、そんな噂になるんだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「だとしたら、どうして王立学院への入学を蹴った。それは学者としても、文官としても、仕官の道を自ら閉ざす行いだ。……普通に考えれば、正気の沙汰じゃない」
 ふ、とカイルワーンは小さな息を口の中で漏らした。顔に苦いものが浮かび上がるのを、懸命に押し止めながら。
 カイルワーンに仕官の欲求はない。学問の欲求はないではないが、それは今の生活と立場と引き換えにするだけのものでもない。だから、学院の入学資格を得られる十七歳になっても、試験を受けなかった。だが、それが学院の者たちに不審を抱かせているとは、考えもしなかった。
 自分は、そんなに買いかぶられるほどの頭脳の持ち主ではないというのに。
「受けても受かりっこないからに決まってるだろう。僕は親父のような天才じゃない。あの父と同様に考えられるのは迷惑だ」
「『生きて歩くアルベルティーヌ王立図書館』と噂される御仁の言葉とは思えないな。……まあ、いい。そんなことを話すためだけに、君に声をかけたわけじゃない」
「まだ何かあるのか」
 迷惑そうに言い放ち、席を立とうするカイルワーンに、グラウスは言った。
「君の父上の講義はとても面白いんだが、実のところそれが博士の本音ではないような気がしてね。そこのところを息子の君に聞いてみたかった」
「……どういう意味だ?」
「『六月の革命』には、不可解な点が──謎が多すぎる。なぜそれほどの謎が発生したのか、その理由は突き詰めればたった一点に集約されはしないか。だがそれは、王宮のお抱え学士である以上、君の父上は決して口にできないのではないかとね」
 グラウスは、光の差し込む大窓を背にして微笑む。
「現在のアルバ王国の基礎を全て築いたとまで言われる、賢者カイルワーンの素性が、今日に一切伝わっていないのはなぜか。魔女に関わる歴史的事実が、何一つ残されていないのはなぜか。それは明らかにならないのではない」
 グラウスは、挑み、試すようにカイルワーンに告げた。
「明らかにしてはならないのだ。違うか?」
 カイルワーンは、黙して答えなかった。だが、グラウスが言わんとするところはカイルワーンにも判っている。
 それはカイルワーンにも、問うたことはないがおそらく博士にも判っていることなのだ。
 歴史はおそらく隠蔽されている。でなければ、王朝の滅亡と開闢に関わった人物たちの素性が、何一つ判らないなどということがあり得るだろうか。
 そして、そんなことができる存在は、ただ一つしかない。
 国、だ。
「お前は、何が言いたい?」
「だとすればだ。『魔女の呪い』はなぜ存在するのだと思う? 魔女の素性を隠蔽し、歴史から真実を葬っておきながら、なぜあんな呪いの言葉はむしろ煽るように残されたのだと思う?」
 グラウスの問いかけは、真実カイルワーンの、そしておそらく博士も持っている疑問だった。だからカイルワーンはすっと視線を落とした。
 グラウスが誘導しようとしている答えは、予測が着く。だが、それがなぜなのかがカイルワーンには判らない。それは、疑問を抱いてから十何年、考え続けてきたが、いまだに答えが出ない難問だ。
「歴史を隠蔽した『何か』には、魔女の呪いが──そしてそこから起こる全ての事象が、必要だった。お前はそう僕の口から言わせたいんだろう? だが、あいにく僕はそれを認められない──理由が判らない。どこにも益がない。人々の恐れをわざわざ煽って、かき立てて、それで何になる」
「その通りだ」
「お前の言う通り、革命にはおそらく明らかにしてはならない真実があったのだろう。魔女の呪いにも、それが残った理由にも、僕らには決して辿りつけない真実があるのだろう。だが、それは二百年前の事情だ。──今とは、時代が違う。いつか魔女の呪いも、ただの迷信と笑い飛ばされる日が来る」
「それでは君は、魔女の生まれ変わりは信じていないわけだ」
 さらり、と告げられた言葉は、カイルワーンの心の琴線をぴん、と弾いた。怒りとともに、警戒も抱かせるその言葉。
 だからことさら冷静を装って、言い捨てた。
「馬鹿馬鹿しい」
 それだけ言い残すと、カイルワーンは本を手にして図書館を後にする。その後ろ姿を敢えて止めるでもなく見送ったグラウスは、やがて口許に酷薄な笑みを浮かべて呟いた。
「なるほど、ね……」

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