それでも朝日は昇る 2章3節

 夜が明けて、その日が来た。
 今日が何の日なのか、カイルワーンもアイラシェールも判りすぎるほど判っている。それでもお互い、いつもと変わらない、何もない素振りでいた。
 しかしそれが『ふり』であることも、お互いには判りすぎることだった。
 カイルワーンは、アイラシェールに何も言わなかった。だが年ごとに、彼用にあつらえられた――けれども一度も袖を通すことのなかった礼服を身につけ、無言で出ていく彼をこっそり盗み見れば、アイラシェールも内心の不安を抑えることはできない。
 カイルワーンがどうして今日、礼装をして出ていったのか――彼が何のためにどこに行くのかは、おおよそ予想がついた。
 ずっと、このままで、いられれば――呪文のように小さく区切って、アイラシェールは呟く。
 たった一つのその切なる願いを、その実現を、実は本人が一番信じていなかった。
 動くことが、変わることが怖かった。ずっと子どもでいたかった。何も気づかないままでいたかった。
 でも、と小さく呟いて、アイラシェールは上着を小さくつまんで、襟元から自分の体を覗いた。ここ数年、背が伸びるのが止まり、どんどんカイルワーンに離された。その代わり、体の線が直線から曲線に変化していった。
 柔らかく膨らんでいく胸。まろくくびれを見せる腰。ふっくらとした弧を描く手足。
 もう、お互い気づかないままでは――否、気づかないふりは、できない。
「カイル……」
 小さく名を呼んだ声は、自分でも思ってみなかったほど切なく聞こえて、アイラシェールは床に座り込んだまま、己で己を抱きしめた。
 この切なさを、どうすればいいというのか。
「アイラシェール」
 その時ノックの音が響いて、扉が開けられた。大きな包みを手にして入ってきたコーネリアは、所在なげに座り込んでいたアイラシェールを見た。
 彼女は何も言わなかったが、その目にはなにか憐れむような、沈んだ色があって、アイラシェールは慌てて手を振る。
「コーネリア、あのね、あのね!」
「アイラシェール」
 穏やかで、暖かな声だった。だが、どこかきっぱりとした強い口調だった。
「陛下からの贈り物です」
「父上から?」
「今日が何の日か、判っているでしょう? だから、カイルワーンが戻ってくる前に準備をしておきましょう」
 一方、カイルワーンは博士に連れられて、王宮の最奥に足を踏み入れていた。当初謁見の間に通されるかと思っていたカイルワーンであったが、侍従に案内されていく先は、紛れもなく王の私室だ。
 通された控えの間。所在なげに立ち尽くす息子に、博士は静かに告げた。
「許されているのはお前だけだ。ここから先はお前だけで行け」
「親父……」
「カイルワーン、私はお前が望むように生きてくれればそれでいい。お前がどんな生き方を望もうとも、それが真実お前の望みであるのならば。たとえそれがどれほど苦難に満ちた道であろうとも、どれほど多くの人にお前や私が罵られることになろうとも」
 父が何を言いたいのか、カイルワーンには判った。その目を見返し、無言で頷く。
 だが、博士の言葉はまだ終わらない。
「そして同時に、どれほどお前が私や陛下や周囲のすべての、希望や期待やしがらみやそういったものを裏切ったとしても」
 その言葉は、カイルワーンの胸に重く響いた。何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべた息子に、父は静かに告げた。
「お前の人生は、お前が選ぶしかないんだ」
 さあ行け。静かに背を押され、カイルワーンは控えの間を出た。
 彼は前に進むよりなかった。
 そしてクレメンタイン王は、王女の侍従を静かに自室に迎え入れた。
「カイルワーンか。初めて会うな」
「はい」
 跪き、下を向くカイルワーンに、王は面を上げよ、と言う。恐る恐る顔を上げると、予期せず目が合った。
 オフェリアと同じ翡翠の瞳が、カイルワーンの黒い瞳を見ていた。
「幾つになった?」
「今年で十九歳でございます」
「あれから十四年だ。幼子がひとかどの若者になるには、十分な歳月だ」
 感慨深げに呟く王に、カイルワーンは返す言葉を持たない。静かに王の次の言葉を待ち……そんな彼に、王は傍らの小机を示した。
 そこには、小さな革袋が三つ載っていた。大きさの違う、同じ作りの革袋。その色は、白と、黒と、灰色。
「今日そなたをここに呼んだのは、これを渡すためであった」
 取れ、という王の言葉に、カイルワーンはためらいながら立ち上がると、王の傍らに近寄り、袋に手を伸ばした。
「すべてそなたものだ。開けてみろ」
 まずは黒い袋を取る。紐をほどき、中を覗き込んだカイルワーンは一瞬息を呑んだ。白を開け、そして灰色を開けた時、驚愕は頂点に達した。
「陛下……」
「そなたの体格や受けてきた教育は、リメンブランス博士に聞いている。使い方は、判るな?」
「どう、解釈すれば」
「それはそなたの判断に任す。カイルワーン・リメンブランス」
 王は名を呼んだ。同じ目線まで育った、第三王女ただ一人の側近に。
「手切れだと思ってよいのだ。そなたがそうしたいのなら、そうするがいい。そなたのこの十四年間には、それだけの価値があったのだ。だが、もし、お前が、王女の騎士になる気があるのなら――」
 不意にクレメンタイン王が呼称を変えたことに、カイルワーンは気づいた。臣民を、臣下を呼ぶのではなく、もっと近しい者を――だからこそ慈悲もあり得ない者を呼ぶように。
 ひた、と緑の目が黒い目を見た。偽りを許さない、強く真摯なその眼差し。
「お前にその気があるのなら、すべてを許す」
「へ、いか――」
「お前に、やる」
 強い言葉だった。
 王が何を言いたいのか。何を許すというのか。何をくれるというのか。
 その代わりに、自分に何を望むのか。
 すべてカイルワーンには判った。判ったからこそ、驚愕せずにはいられない。
「私で……」
 かすれた声が、ようよう口から出た。何とか王を見返し、カイルワーンは呟く。
「本当に、私でよろしいのですか……陛下」
「お前にその覚悟があるのならば」
 覚悟。その言葉を胸の深いところで聞き、カイルワーンは深く納得する。
 そう、すべては覚悟なのだ。
 王が、父が、周囲が望むものは。それが固まらないのならば、望むなと。
 放り出して、逃げてしまえと。
 もっともなことだと思う。それくらい、自分の望みは、重いのだ。
 この背中で背負いきれるかどうかも判らないほど。
 だけど――いや、だから。カイルワーンはその場に跪くと、まだ微かに震える声で――だがはっきりと、王に告げた。
「主命、確かに承りました」
「ならば、これを取れ」
 王は懐から鍵を取り出した。真鍮の、古びた鍵だ。
「これはカティス王の時代から、アルバ王に伝えられたものだ。何のために伝えられてきたのか、何のために今まで『赤の塔』が壊されずにきたのか……判るな?」
 カイルワーンは力強く頷く。長いこと塔で暮らした彼には、それだけでその鍵が何なのか判ったのだ。
「この鍵が使われる日が来ないことを、心の底から願っている。だがもしその日が来たら」
「はい」
「その日が来たら……娘を、頼む」
「……はい」
 カイルワーンはこの時、こみ上げてくる涙を懸命にこらえた。

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