それでも朝日は昇る 2章7節

 今日のノルマの掃除を終え、カイルワーンが村に買い出しに出かけたのは日暮れ前のことだった。山荘から村まで徒歩で一時間。獣道ももうすっかり覚えた。
 アイラシェールの誕生日の一件以降、カイルワーンはシャンビランにある山荘の手入れに没頭していた。シャンビランはアルベルティーヌ近郊の小さな村で、一帯の森林は王家の所領で、立入禁止になっていた。
 王家にも忘れられた森の中心にある山荘は、見事なほどに荒れ果て、初めて訪れたカイルワーンを唖然とさせた。そしてそれ以降、修繕と掃除の毎日が続いている。
 彼が毎日塔を出てここの手入れにくるのは、それなりの――彼にとってはいたって重要な――理由があったが、本当はやはりあの一件以来、アイラシェールと顔を合わせづらかったためだった。
 僕は空しいことをしているのだろうか――ふと、疑問が頭をもたげる。すべて杞憂だと笑えばいいのだろうか。そんな声が、ふと心にささやく。
 けれども、とカイルワーンはあの誕生日の翌日のことを思い出す。
 センティフォリア・ノアゼットにて民衆が蜂起、駐留軍と交戦状態。その第一報をもたらしたのは、コーネリアだった。やがてより詳細な情報を携えて、リメンブランス博士もやってきた。そしてとどめが、オフェリアだった。
 彼女は王や閣僚にした説明を二人に語り、そしてこう告げた。
「何かが起こるとしたら、一ヶ月後。派兵部隊が両地方に到着し、戦端を開いた頃でしょう。アルベルティーヌが最も手薄になる瞬間が、そこだから」
「オフェリア様、近隣諸国に何か動きは?」
「サフラノ、フェディタ、オフィシナリス、どこにも動きはなし。ただ……」
「ただ?」
「ガルテンツァウバー海軍が、大規模な演習を行うとかで首都にかなりの船団が集結してると」
 オフェリアが浮かない顔で告げる言葉に、アイラシェールは問い返す。
「ですが姉上、ガルテンツァウバーからでは距離がありすぎます。海路でも到底間に合うものでは」
「そうなの。だから父上もガルテンツァウバーの今回の行動は、度外視していいと思っていらっしゃるようで」
 それでもオフェリアの表情は浮かなかった。心にかかるものを振り払うように笑った。
「だけど二人とも、気をつけていて。何も起こらないかもしれないし、何かが起こるかもしれない。起こったとしたら、それがどんなものであるのか、判らないのだから」
 それから一ヶ月。オフェリアが最も警戒せよ、と言った時が来た。
 何が起こるか判らない――オフェリアは言う。なぜだろう? オフェリアは何を警戒しているんだろう? そうカイルワーンは思う。
 他に一体どんな手が考えられるというのか。外国が動かなければ、アルベルティーヌは落とせない。それだけの軍勢を、突然アルベルティーヌのど真ん中に発生させる魔法が、果たしてこの世にあるのか。
 辿り着いたシャンビランの村は、ひっそりと静まり返っていた。
「なんだ?」
 何が起こったのか判らず立ち尽くすカイルワーンに、商店の女主人が声をかけた。
「おや? あんた、山荘の」
「……何か、様子がおかしいようだが」
「あんた、アルベルティーヌの人なんだろう? だったら知らないのかい、この騒ぎを!」
「騒ぎ……? 何のことだ」
 胸騒ぎを押さえて、努めて冷静を装いながらカイルワーンは問い返す。そんな彼にぶつけられたのは、想像だにしなかった言葉。
 それは終わりの始まりを告げる言葉。
「何でも王様が王宮に魔女を隠していたって話じゃないか。なんて恐ろしい! 本当かどうか知らないけれど、若いのは真偽を確かめるってアルベルティーヌに行っちゃうし、年寄は皆神様におすがりしてたところだよ。どうかアルバを魔女からお守りくださいって」
 その一瞬、カイルワーンの時は止まった。


 シャンビランからアルベルティーヌまでは、徒歩で一時間。だが中央陸路に出た瞬間、一台の荷馬車に行き合った。
「お前もアルベルティーヌへ行くのか? だったら乗りな!」
 いかにも農夫らしい身なりの男は、カイルワーンにそう声をかけた。
 不審が頭をかすめたが、一刻も早くアルベルティーヌに辿り着かなければならない。
 礼を言って乗り込むと、男が話しかけてきた。
「噂を聞いて、行くんだな」
 馬を御しながら、男はカイルワーンに問うた。彼は無言で頷く。
 何も言葉が出てこなかった。
「……決して悪い王様じゃなかった。重税をかけて遊興にふけるでも、無為な戦争をしかけて俺たちを兵役に駆り立てることもなかった。だが」
 険しい顔つきで、微かに震える声で、男は言った。
「だが、魔女を囲うなんてどういうつもりだ!」
「……でも白子はただの異常だ。病気だ。単なる偶然だって、迷信だって、子どもだって判っていることじゃないのか」
 とうとう堪えきれず言ってしまった後、カイルワーンは慌てて付け加える。
「僕は医者だ。馬鹿馬鹿しい迷信に人が振り回されるのは堪らない」
「そうか、医者か。若いのに、やるな」
「卵だけど」
「なら判るよな。カティス王から二百年の間に、魔女の疑いをかけられて殺された子どもがどれほどいたか」
 男の言葉に、カイルワーンは沈黙した。
「今まで沢山の人間が国を守るために、我が子を殺してきた。そりゃあ恐れもあったろうな。だがそれだけじゃない。どれほど頭では、その子に罪がないと、迷信だと判っていても、国を滅ぼすといわれるものを、国の他の罪のない人たちを殺すといわれるものを、どうしてそのまま放っておくことが許される? そうして今までアルバの人間は、皆子殺しの罪を負ってきた。それがどうして、王ならば許されるというんだ!」
 カイルワーンは、その言葉に返す言葉がなかった。
 馬鹿馬鹿しい、ということは簡単だった。呪いなど馬鹿馬鹿しいと、迷信だと言うことだけなら、とても簡単だった。
 もしかしたら、大陸統一暦1200年代の今となっては、誰にとってもそうなのかもしれない。
 だが、たとえそれでも、アルバ国民は止まれない。
 止まれないのだ。
 固定観念として――あまりにも当然の真理として、アルバ国民は『魔女の生まれ変わり』を許さない。どうあっても除かずにはいられないのだ。
 それが、『当たり前』なのだ。
「それでお前は何をしにアルベルティーヌへ行く? 医者として、馬鹿げた迷信に取り衝かれた者たちを制止するためか?」
「そんなこと、僕一人でできるわけないだろう?」
「ならばどうして?」
 どうして。理由はただ一つしかないのだが、敢えてカイルワーンはこう告げた。
「真実が、知りたい」
 それはそれで嘘ではなかった。
 なぜ、アイラシェールのことが漏れたのか。
 なぜ、そのことをこんな騒ぎになるまで掴むことができなかったのか。
 それはきっと。
「すべてが、計画のうちなのか」
 小さく小さく、カイルワーンは呟いた。目の前には、もうアルベルティーヌの外郭が見える。馬車から飛び下り、開け放たれた城門から中に飛び込んだカイルワーンは、ムッとする熱気に叩かれて顔をしかめ、そして見た。
 そこには、突如現れる『魔法の軍隊』が存在していた。
 暮れていこうとする朱色の空。街中に焚かれた篝火。群れ集う人々。振られているのは大きな青い薔薇の旗。
 マリアンデール・イントリーグの青い薔薇――。
「イントリーグ党か!」
 第三の勢力は。アルベルティーヌを落とそうとする、その勢力は。
 アルベルティーヌ市民――否、アルバ国民。

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