それでも朝日は昇る 3章7節

 アイラシェールは、自分がとりわけ狭い世界のみを見て育ってきた、という自覚はあった。けれどもそれは頭で判っていただけだった、ということを一座の女性たちと接して、実感させられることになった。
 ある日の舞台前、アイラシェールは『長春花』の階下に降りて、楽屋を訪れた。
「ローラ、この間の手紙。こんな感じでいいかな?」
「ああ、アイラ、ありがとう。嬉しい」
 頼まれていた手紙の代筆を渡すと、ローラは笑みを浮かべてそれを受け取った。封をされた封筒をしばし眺めやったあと、ローラはふと思いついたように問いかける。
「ねえ、アイラ、字の読み書きって、覚えるの難しいことかな」
「ええっと……どうだろう」
 アイラシェールが字の読み書きを教わったのは、物心つくかつかないかといった頃の話である。自分では『いつしか読めて書けるようになった』という自覚しかないので、その問いに関しては何とも答えようがない。
 そんな彼女に、ローラは決心をかためたといった表情で言った。
「ねえ、お仕事が暇な時でいいの。私に字を教えて」
 ローラの目は悲壮だった。字の読み書きに、どうして彼女がそこまで悲壮な思いを抱くのかアイラシェールには理解できなかったが、それでも気押されたように頷く。
 そんな二人のやり取りに、一座の女性たちは次々と追尾の声を上げる。
「私でも覚えられるかな?」
「ローラに教えるんだったら、私にも教えて!」
 こうして翌日からアイラシェールの授業は始まったのであるが、日を追うごとに受講者は増えていき、一週間もすぎる頃になればソニア以外のほぼ全員という次第になった。
「……みんなの気持ちが判らない」
 アイラシェールはそうベリンダにこぼした。昼食を終え、夜の舞台までにめいめいが自由時間を楽しんでいる頃。
 ベリンダは一座での最年少で、十八歳。アイラシェールと最も年が近いためか、一番気が合い、彼女と一番長く時間を過ごすようになっていた。
「というと?」
「私って、何なんだろう――みんなにとって」
 アイラシェールにとっていつも心にわだかまる思い。
 座長のソニアをはじめとして、一座の女性たちはアイラシェールにすこぶる優しかった。その気持ちは、その理由は、どこにあるのだろう。
 そしてそれは塔で暮らしていた時も考えたこと。
 自分のせいで母が狂ってしまったのだというのに、いつも優しい笑顔を見せてくれたオフェリア。宮廷女官としての華やかな生活を捨てて、自分を育ててくれたコーネリア。多忙を極める立場だというのに、貴重な研究時間を割いて自分に学問を教えてくれたリメンブランス博士。呪われた子どもである自分を逃がすために死んだ父。
 そして、自分の人生の全てを投げうとうとしてくれた、カイルワーン――。
 目の裏をよぎって、心を苛んで、やまない。
「どうしてみんな、私に親切にしてくれるの。優しくしてくれるの」
 アイラシェールの問いに、ベリンダは少しばかり考え込む素振りを見せた。
「アイラ、あんまり楽しくない話になるけど、それでもしようか?」
 ベリンダは、お客にもらったという苺を口に運びながら、アイラシェールに聞いた。要領を得ず、それでも頷くアイラシェールに、ベリンダは言った。
「あたしたちは、あんたみたいになりたかった。あんたみたいに生まれたかった。だけど、それは叶わない夢だ。だから、代わりでもあんたを大事にしたいと思う。夢を、汚されたくないと思う」
「私、みたいに……?」
 それはまさしくアイラシェールには寝耳に水だ。
 今までどれほど――アイラシェールは、心の中で呟く。
 今までどれほど、別の存在になりたかっただろう。自分の境遇を、生まれを――運命を呪ったことだろう。どれほど別の人間に成り代わりたかっただろう。
 それなのに、ベリンダたちはそう思うのか?
 何も知らないくせに――そう言いたかった。けれども、ベリンダの沈んだ眼差しが、それを許さない。
「この一座がどういう人間で構成されているか、もう判っているよね。ここにいる女たちは、みんな男に捨てられたり、親に売られたりした者たちだ。帰るところも行くところもなく、ただ身を売ることでしか金を稼ぐ術のない、そんな女たちだ」
 ベリンダの語る言葉は重く暗く、アイラシェールは口を挟む余地がない。
「どうしてこの一座が、舞台をかけるのかアイラ、判る? 収入のほとんどを売春でまかなっている。舞台は今のところ収支があまり合ってない。そこら辺の事情は、あたしよりアイラの方が詳しいだろう」
 こくん、とアイラシェールは小さく頷いた。必要経費に見合うだけの収入が、今のところ上がってきていない。そのことは、アイラシェールが一番よく知っている。
「舞台をかけるとなれば、当然負担が増える。練習時間だって必要だし、何より疲れる。芸人であると身分を偽らなければならないほど、この国は娼婦に対する締めつけが厳しいわけじゃない。それでもあたしらは、舞台を続ける。どうしてか、判る?」
 アイラシェールは、ただ首を横に振るだけだ。
「それはね、単純なことだ。あたしらは、好きで娼婦になったわけでも、好きで娼婦を続けているわけでもないんだよ。できることなら、すぐにだってやめたい。もっとまともな、人に胸を張れるような稼ぎがしたい。だけど、あたしらには、他の稼ぎはない。学もない、字も読めない、何の取り柄もない女が金を稼ぐには、体を売るよりないんだよ」
 ベリンダは暗い声で、けれども淡々と、アイラシェールに告げる。
「娼館にいて、体を売れば、それなりの収入が得られる。王侯貴族のような贅沢はできないけれど、綺麗なものを着てそれなりのものが食べられる。だけど、みんな心の中で不安を感じている。体を壊したら、年をとって客を取れなくなったら、体さえ売れなくなったら、その時どうするって。それまでにいい人を見つけられて、身請けしてもらえればいい。でもそんな幸運は、そうはない。社会の目は、娼婦上がりの女に優しくないからね。一生懸命稼いで、金を貯めたって、残りの人生を安泰に暮らすだけの金額なんて貯められっこない」
 ベリンダは、小さくため息をついた。
「ソニア姐さんは、そこら辺のことがよく判っている人だ。あの人は学も芸もある人で、自分一人ならばいかようにも身を立てられたんだろうけど、それでもあたしらを集めてこの一座を作った。そして、舞台をかけることにした。今は無理だけど、いつか。身を売らずとも芸で食っていくことができるようになるようにって」
 ベリンダはアイラシェールに、自嘲がほの見える笑みを見せた。
「あたしたちは、娼婦になる以外の道はなかった。選択肢は、存在しなかった。それは一重に、そういう育ちだったから――そういう環境に生まれついてしまったからだ。ろくな教育を受けることもできず、字さえ読めない。だけどそれは、あたしたちにはどうしようもなかったことだ。努力だけではどうにもならないことだった」
「……聞いていい?」
 やがておずおずとアイラシェールは尋ねる。
「……どうしてベリンダは……」
 最後まで問えずに、「やっぱりいい」とばかりに首を振るアイラシェールに、ベリンダは気にするなとばかりに首を振って、答えた。
「あたしはね、望まれてない子どもだったんだよ。生まれてきちゃいけなかったんだ。だから、捨てられた」
 ベリンダの言葉は、アイラシェールの胸を刺した。記憶が揺さぶられ、痛みが甦ってくる言葉だった。
 切なげに顔を歪めるアイラシェールの内心を、ベリンダはどう受け取ったのか――誤解されたか、それとも違うのかは判らなかったが、それでも彼女は苦笑して続ける。
「ディリゲントって知ってる? ノアゼットとの国境に近い町だ。あたしはそこの生まれなんだけれども、昔ノアゼットに攻められて占領されたことがある。すぐにアルバ国軍に奪還されたんだけど、ノアゼットの占領戦はひどいものだったんだよ。逃げ遅れた町民の多くが殺され、財産は略奪され、女性は凌辱を受けた。あたしの母親はそうして、名も素性も知れない男の子を生むことになった。それが、あたし」
 ベリンダの告白は、アイラシェールの想像を遥かに凌駕していた。驚きに目を見開き、何も言えずにいるアイラシェールに、ベリンダは微笑みかける。
 まるで自分の不幸な境遇にも、もう慣れたと言わんばかりに。
「しかも見ての通り、あたしは父親によく似ていた。男はノアゼット人ですらない、南方から来た傭兵かなんかだったのかな。それとも奴隷兵かもしれない。真実は何も判らないし、判りたいとも思わない。けれどもあたしは、母親にも祖父母にも疎まれて、三歳の時に娼館に売られた。……仕方ないとは思う。あたしがいたんじゃ、母は誰かに嫁ぐこともできなかった」
 諦めをにじませて、ベリンダは呟く。その切なさを、辛さを、誰なら判るのだろうとアイラシェールは思う。
 痛みは、本当は誰とも分かち合えはしないのかもしれない。
「娼館では、何も教えてはくれない。教えられることは、どうやったら男の気を引けるのか、どうやったら男を悦ばすことができるのか――ただそれだけ。他には何も教えられず、何もできず、ただ男と寝ることしかあたしにはできなかった。そして、そうこうしているうちに、ソニア姐さんに出会った」
 それは十六の春。その時のことを、ベリンダはよく覚えている。
「ソニア姐さんは、一生を娼婦で終えたくないのなら――這い上がる気があるのなら、引いてやると言ってくれた。無理かもしれない。やはり体を売ることしかできないのかもしれない。でももしかしたら、芸で身を立てられるようになれるかもしれない。身を売らなくてもよくなるかもしれない。だから、あたしはここに来た。ここにいる女たちは、みんなその願いを抱いて、ここにやって来た。そして、あんたが現れた」
「わ、私?」
「そう」
 ベリンダは、今度は屈託のない笑顔を見せた。
「あんたに何があったのか、あたしらは知らない。興味がないと言ったら嘘になるけれども、あんたが話したくないことを無理に聞き出す気もない。だけど、あんたが裕福な階級の人間だってことは、もう疑いようがない。あんたは実に色々なことを知っている。色々なことができる。それは幼い頃から金をかけて育てられた証拠だ。それはあたしたちがなりたくてなりたくて、でもなれっこない存在――お姫様って、やつだ」
 私たちのお姫様――そう一座の女性たちは呼ぶ。その切なさを、初めてアイラシェールは垣間見て、言葉を失った。
「あんたにも辛いことや悲しいことがいっぱいあったんだろう。だけどそれでも、あんたはあたしたちが憧れるに足る存在なんだ。だから、あたしたちと同じところまで堕ちてほしくなかった。憧れられるだけの存在のままでいてほしかった。判る?」
 アイラシェールは答えない。答えられなかった。
 ベリンダの――一座の女性たちの気持ちは、痛いほど判った。だからといって――だからこそ、その好意の上にあぐらをかくのはアイラシェールには辛いことだった。
 だがベリンダは、さらに言葉を継ぐ。
「そして同時に、あたしたちはこれは好機だと思った。今まで受けたくても受けられなかった『教育』というものを、身につけなくても身につけられなかった『教養』というものを、手に入れる絶好の機会だと」
「それで、字……」
 字を教えてほしいと言った時のローラの悲壮な目を、アイラシェールは思い出す。そしてそれに追随する女性たちの、真剣な態度を。
 這い上がりたい。この生業から、生活から抜け出したい。その必死な思い。
 決して自分には判ろうとしても判らないだろう、その気持ち。
 だからこそ。
「ベリンダ、毎日忙しいのは判っている。だけど、私に少しつきあうつもりはない?」
「アイラ?」
「ベリンダ、リュートの練習してるよね」
 一座に拾われて、目が覚めた時、たどたどしいリュートの響きが聞こえた。その後も隠れるようにして、誰かが練習している音が聞こえていた。
 その音の主に、アイラシェールは問いかける。
「気づいてたの。まだ恥ずかしくって、人に聞かせられる段階じゃないんだよ」
「私に、習う気はない?」
 そのアイラシェールの言葉を、ベリンダが理解するまで、一拍の間があった。その後、ベリンダの顔は呆れたような感心したような、複雑な表情に満たされる。
「リュートも、弾けるんだ……」
「リュートはあんまり得意な方じゃなかったけど」
「……ということは、他の楽器もできるんだね」
 今度は確実に唖然とした表情で聞くベリンダに、アイラシェールはおずおずと頷いた。
 カイルワーンが父であるリメンブランス博士から単独で医学を学んだように、アイラシェールもコーネリアから単独で学んだことがある。それは手芸など多岐にわたったが、その最たるものが音楽だった。
 それがアイラシェールにだけ行われた理由は、定かではない。コーネリアがこの点においてはカイルワーンの才能を見限ったのか、はたまた彼自身が興味を示さなかったのか。ともかく音楽――取り分け器楽の授業は、彼女一人に行われた。
 コーネリアは、管も弦も鍵盤も楽器と名のつくものなら、何でも巧みにこなす女性だった。彼女はアイラシェールに、自分にできる全ての楽器の手ほどきをした――どんなに教えられてもうまくならなかったものも、音が鳴らなかったものも当然あったが。
「ちょっと、リュート貸してくれる?」
 気まずさを振り払うように、アイラシェールはベリンダに頼む。手渡されたリュートは彼女が以前与えられたような上等のものではなかったが、その感触は懐かしく思えた。
 知らず指が奏でたのは、リュートが渡ってきた東方の国の民俗音楽。その不思議で複雑な旋律が、彼女の好みだった。
 上がって、下って、回る。繰り返される主題と、加わっていく装飾音。
 曲が終盤に差し迫った来た時、不意にアイラシェールは扉が開く音を聞いた。邪魔しないように無言で部屋に入ってくる人の気配を感じた。
 その人物はいつも壁に寄りかかり、穏やかな笑みを浮かべてじっと演奏に聞き入ってくれる。そして、演奏が終われば惜しみない拍手を贈ってくれる。
 それがいつものこと。当たり前に続いていた、毎日の光景――。
「……カイル!」
 思わず叫んでいた。はっと顔を上げ、扉を見て――だが、そこには誰もいなかった。
 幻すら、見いだせなかった。
「アイラ……?」
 止まってしまった演奏と突然の叫びに驚いて、ベリンダはアイラシェールを見た。
 アイラシェールは、リュートを抱えたまま、呆然と扉を見つめていた。その唇がわなないているのを見て取って、ベリンダはそっと手を伸ばして、彼女の頭を撫ぜた。
 私は何を捨ててきたのだろう――いまさらのように、アイラシェールは心で呟いた。
 幻すらも、こんなに恋しいというのに。

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