それでも朝日は昇る 4章7節

 その日も針のような細かい雨が降っていた。七月から降り続き、人々に沈鬱な思いを与えていた雨が。
大陸統一暦998年九月、アルバ国の王城・アルベルティーヌ城の大門の前に、一台の壮麗な馬車が停まった。常駐の衛兵たちは定められたとおり御者に身元を尋ね、馬車に刻まれた紋章を確認する。
 やがてゆるゆると開かれた大門をくぐり、馬車が進むと、ようやく城の全景を見渡すことができる。堀に浮かんだ中洲にそびえ立つ白亜の城、アルベルティーヌ城が。
 中門を抜け跳ね橋を渡ると、そこは車寄せである。ようやく停車した馬車から降り立った紳士は、中から降りてこようとする女性に手を差し伸べる。
 紳士の手を取り、優雅な身のこなしで馬車から降りた女性は、居合わせた侍従や女官たちに好奇と奇異に満ちた視線を送られた。
 バルカロール侯爵と、アイラシェールである。
 侯爵一行がアルベルティーヌに到着して三日。アイラシェールが女官として登用される日が来たのである。
「ここから先は君一人で行きたまえ。話はついている」
「はい」
 侯爵が車寄せから去ると、アイラシェールは女官に案内されて城内に入った。一歩一歩進んでいくごとに、城内からささやかな、けれども決してやむことないささやきが上がる。
『まあ、なんて珍しい髪』
『若く見えるのに、もうあんなに髪が真っ白くなってるなんて、どういうことでしょう?』
『それよりもご覧になりました? 目も、赤色でしたわ』
『アルバ人とは到底思えませんわ』
 そんなささやきを聞きながら、アイラシェールはため息をもらしたい思いを堪えた。
 奇異の目で見られるのも、噂になり陰口を叩かれるのも覚悟はしていた。けれども現実に直面すると、やはり滅入らずにはいられない。
 いちいち気にしてはいられない――そう呪文のように己に繰り返す。
 長い王宮横断の末、辿り着いたのは女官寮。アイラシェールが暮らしていた『赤の塔』とは比べ物にならないほど大きな塔で、最上階は幾つもの続き部屋を持つ豪奢な作りだった。
 執務室と呼ぶべき部屋に通され、アイラシェールはその人物と向かい合う。
「ようこそ、アルベルティーヌ城へ。私は女官長のシャノンと申します、あなたの話は、うかがっております」
 アルベルティーヌ城に仕える女官の長である女性は、五十代に差しかかろうかという年齢であった。きつめの顔だちは怜悧な印象を与え、自信に裏打ちされた気位の高さは、いかにもという感触を受ける。
 アイラシェールは半分で納得し、半分で感心すると、目上の者に対する礼を取る。
「お初にお目にかかります。私は――」
「お待ちなさい。ここで名乗ることは、なりません」
 シャノンに強い口調で制止され、アイラシェールは面食らう。そんな彼女に、シャノンは告げた。
「アルバの宮中において、女官は真実の名を名乗ることはありません。与えられた仮の名を用いるのが慣例となっております。私が名乗るこの『シャノン』という名も、本名ではありません」
 その言葉は、アイラシェールを大いに驚かせた。少なくともアイラシェールの知る宮廷作法では――ロクサーヌ朝では、そんなしきたりは存在しない。
 元は宮廷女官であったコーネリアのその名も、実名のはずだ。
「失礼をお許しください。その理由をお聞きしてもよろしいですか?」
 不思議に思って問うアイラシェールに、シャノンは少し考えてから答えた。
「その理由は、色々ありましょうね。昔は、働く女性は下賤だ、家名を汚すという偏見に満ちた考えもあったと聞きますし、女官が娼婦と同様に考えられていた時期もあったようですから、そのせいかもしれません。けれども一番の理由はおそらく、後ろ楯を隠すためでしょう」
 シャノンは厳しい眼差しを、アイラシェールに向けた。
「ちょうどいい機会ですので、申し上げましょう。あなたは確かにバルカロール侯爵の推挙でこの王宮に上がりました。そして私を始めとした他の女官たちも、同様に貴族の方々の推挙によって王宮にお仕えすることを許されました。それは身分保証という観点からは、仕方のないことでしょう。けれども、一度王宮に上がった以上、その女官の主は推挙した貴族ではなく、王家です」
 シャノンの言いたいことが、アイラシェールには判った。彼女の弁は至極もっともだ。
 女官がその立場を利用して、特定の貴族に利益を誘導したり、情報を洩らしたりすることはあってはならない――少なくとも、表向きだけでも。
「全ての女官は、王家にお仕えする者です。里や、かつての己の身分や、主君やそういったしがらみは、全てこの王城の外に置いてきていただきます。そのための仮名と考えていただきましょう」
 確かに女官の人間関係に、貴族間の勢力争いを持ち込まれるのは、統率する立場からいえば厄介なことだろう――無論、それが建物であることは明白なのだが。
「ですから宮廷女官の出自――名も、家柄も、推挙した貴族も、基本的には隠されます。自らのそれをみだりに他人に明かすことも、他の女官たちのそれを詮索することも許されません。よろしいですね」
「はい」
 アイラシェールにしてみれば、建前であろうがこの措置はありがたいと言えた。何といっても、アイラシェールは出自が後ろ暗い。
 バルカロール侯爵がアイラシェールに用意した経歴は侯爵家の縁続きの令嬢というものであるが、真実は娼館の出なのであるし、真実の真実となれば、口にしたところで誰も信用はしないだろう。
「さて、それではあなたの仮名を決めなければ。どうしましょうか」
 シャノンはぱらぱらとつづった紙束をめくっている。おそらくは、女官の一覧。名前が重ならないように、調べているのだろう。
「そうね。あなたのことはこれから、アレックスと呼びましょう。それでよろしい?」
 シャノンの告げた名を心の中で転がして、アイラシェールは不思議な感触を覚えた。
 これからこの宮廷で出会う全ての人は、この名を覚え、そう呼ぶのだろう。自分の本当の名を知ることなく。
 これからの時間に残るのがアレックスという自分ならば、アイラシェールは果たしてどこに行ってしまうのだろう?
「これからしばらくは研修に入ります。細かいことはそこで覚えてもらいますけれども、今の段階で何か質問はありますか?」
 問われて我に返ったアイラシェールは、意を決して口を開いた。
 バルカロール侯爵家に迎えられてから、ずっと考えていたことを。
「恐れながら、お尋ねします。この宮廷に――後宮に、私の他に、私のような白い髪と赤い目の女性は、籍を置いておりますでしょうか?」
 アイラシェールの問いかけに、シャノンは一瞬面食らった表情をした。そして考え込み、告げる。
「アレックス。あなたが珍しい病気であることは、バルカロール侯からの推薦状でうかがっております。そのことで何か心配していることでもあるのですか?」
「い、いえ。そういうわけでは」
「私は長く宮廷にお仕えしておりますが、あなたのような珍しい色彩を持った人に巡り合ったことはありません。確かに好奇の目にさらされることもあるでしょうけれども……女官の評価はその働きに負うものです。そのことを心に刻んで、頑張りなさい」
 シャノンの言葉は、アイラシェールの頭にはろくに届いていなかった。彼女の頭の中を鳴り響くのは、たった一つの言葉。
 いない。いない――。
 それは胸を掻きむしる言葉だった。だが、アイラシェールは自らを必死に言い聞かせる。
 そうよ。まだよ。まだ、いないのよ――。
 彼女より私が先に来た。彼女より先に来た分だけ、足元を固める余裕がある。態勢を整える余裕がある。そう考えれば、いいだけのことではないの。
 決して彼女を、王の側には寄せつけない。国政に携わらせない。どうにもならないのならば、この手で刺し殺したっていい――。
 アイラシェールは必死に自らを鼓舞する。
 歴史を、運命を、変えるんでしょう?
 私は歴史の岐路に、辿り着いたのだ。彼女の現れるこの場所に来た。あとは、ただ待てばいい。行動を起こすべき時を、待てばいい。
 それで歴史は――自分の運命は、全て変わる。
 全ては順調じゃないの。そう自分に言い聞かせながらも、アイラシェールは自分の心の奥底にわだかまる、暗い淀みから目をそむけることができない。
 全ては順調なのに。全ては計画通りなのに。どうして自分はこんなに不安なのだろう。
 どうしてもこんなに、恐くてたまらないのだろう。
 それは――それはきっと。
「それで部屋の方に案内させましょう。荷物を整理して、今日のところはゆっくりなさい」
 シャノンがかけた声にはっとし、アイラシェールは笑みを取り繕って礼を取る。
「ありがとうございます。どうぞこれから、よろしくお願いいたします」
 これ以上考えたら駄目だ――アイラシェールは無意識に、本能的に自らの思考に歯止めをかけた。そして一時、この思いを忘れようと努めた。
 それがなぜなのかも――どうしてこれ以上考えてはいけないのかも。そして不安の正体も何もかも、本当はアイラシェールは気づいている。
 本当は、気づいている。

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