それでも朝日は昇る 4章10節

 感謝祭の夜会は、目が眩むほどに華やかだった。シャンデリアは真昼の太陽にも匹敵するきらめきを投げおろし、ふんだんな花と緑が潤いを添えた。緻密な計算の元に配色された様々なクロスやリネンが、見事な色彩の綾を織りなしている。
 舞台を終えたアイラシェールがヴァイオリンをしまい、『紫玉の間』に戻ってくると、他の楽士たちによる軽やかな円舞曲が流れていた。
 見ると壇上にしつらえられた玉座に王の姿はなく、正妃や寵妃たちの姿も見えない。意外なことに王は一足早く退出したようで、王妃たちはそれにつき従ったのだろう。
 最も敬意を払う――気をつかう存在が退席したことで、宴は羽目が外れたようだ。そこかしこで男女が踊り、愛のささやきをかわし合い、抱き合っては口づけをかわしている。
 何となく目のやり場に困って、アイラシェールは遠くを眺め、さらにため息をこぼした。給仕から冷たい飲み物を受け取り、口に運びながら、そこで自分の立場というものをしたたか思い知らされた。
 誰も自分に、声をかけてはこない。
 見れば先輩や同輩の女官たちは、何人かの男性に声をかけられ、談笑したりダンスを踊ったりしているのに、自分に声をかけようとする者は誰もいないのだ。
 それも無理のないことだ、とアイラシェールは内心思った。自分が王気に入りの楽士であることは、宮廷の誰もが知っている。そんな自分に迂闊に手を出し、王の悋気に触れたりしたくはないのだ。
 もしかしたら宮廷人たちは皆、私が王の愛人だと思っているのかもしれない――その思いは胸の奥を刺し、封じ込めてきた寂しさを呼び覚ます。
 もう誰も、私と親しくしようとしてくれる人はいないのかもしれない。男性であろうと、女性であろうも。
 『長春花』を出た時に、その覚悟は決めていたつもりだった。けれどもいざそんな立場に置かれてみると、その覚悟がいかに甘かったかを思い知らされる。
 目の前では華やかな宴が繰り広げられているのに、そこに自らの身の置き所はないのだ。
 もう、部屋に戻ろうかな――アイラシェールが椅子から立ち上がった時、不意に声をかけられた。
「私と一曲、踊っていただけませんか?」
 確かに聞き覚えのある声に振り返ると、そこに赤毛の青年が立っていた。数週間前、『黒真珠の間』で出会った、あの青年だ。
 黒に銀糸の華麗な刺繍のある礼服が、彼の緋色の髪を引き立てていた。
「ああ、あなたは……」
「またお会いできましたね」
 青年は驚くアイラシェールに、にこやかに笑う。
「でも、あの……私」
 自分を誘っていいのか――言葉にはできぬその思いが、彼に伝わったか否か。それはアイラシェールには確かめられなかったが、それでも青年は軽く首を振り、誘う。
「あなたのような美しい方が壁の花になっているなんて、許されることではありません」
 青年は絹の手袋をはめたアイラシェールの手を取り、ホールの中央へと導いた。右手と右手が絡まり、左手に腰を抱かれれば、もう足は動いてダンスは始まっていく。
 緩やかな三拍子に合わせて回りながら、アイラシェールは自分を導く青年に感嘆していた。
 こんなにも自分がうまくダンスが踊れるとは思ってもみなかった。
 それはすなわち、エスコートしてくれる青年の力量なのだ。
 思えば――アイラシェールの意識は過去に飛ぶ。小さな塔のそれでも一番大きな部屋で、一生懸命ダンスを練習した時のこと。
 思えばカイルワーンはダンスが下手だった。というより、ダンスの練習をすること自体をことのほか嫌っていた。
アイラシェールがダンスの練習をしようと思えば、体格が合うのはカイルワーンしかいない。それなのに、アイラシェールがどんなに頼んでもなだめすかしても渋々といった態で、年を重ねれば重ねるほどそのつきあいは悪くなっていった。
『カイルワーンは、どうしてそんなにダンスを嫌うの?』
 そんなに昔のことではない。三、四年前だ。どんなに頼んでもつきあってくれないカイルワーンに、苛々してそう問うたことがある。
 カイルワーンは読んでいた本から顔を上げ、苛立ちを隠さずに答えた。
『一体ダンスが何の役に立つというんだ』
『でも!』
『そりゃあ君は、必要になるのかもしれない。けれども僕には必要がない。僕は決して、そうはならない』
 彼にしてはひどく険しい声で告げられた言葉――脳裏に甦った言葉は、アイラシェールの心に引っかかりを落とした。
 何かが、引っかかる。
 もしかしたら、私は、大切なことを忘れている――見落としているのではないだろうか。そんな漠然とした不安をかきたてる、その。
 アイラシェールの思考は、曲の終焉と共に途切れた。青年はアイラシェールから離れ、優雅に礼をする。
「こんなに踊りやすいと――ダンスが楽しいと思ったのは初めてでした」
「お褒めに与かり、恐縮です」
 促され、二人は壁際に移動する。青年は冷たい白ワインのグラスを二つ取ると、一つをアイラシェールに差し出した。
 甘い上等のワインは、ダンスで火照った体にはとても心地よく感じられた。
「あれ以来、ずっとあなたにお会いしたいと思っていました」
 青年はぽつり、とささやく。その言葉に、アイラシェールは青年を見上げた。
 銀の目が、自分を一心に見ているのが判る。
「私、ずっとあの時の無礼をフェルナンダルル男爵様を始め、皆様にお詫びしたいと思っておりました」
「詫び? なぜ? あなたは正しいことを言ったのに」
 青年は、さもおかしそうに答える。
「でも、あなたが退出した後のリワードとエスターの様子は見物でしたね。本当に悔しがっていた。二人とも、次は絶対勝ってやると勢い込んでいますよ」
「……あの、勝つってそれは」
「つまりそれは、二人ともあなたの言葉の正しさを認めているんです。正しさを認め、己の浅薄さを恥じている。これであなたを『無礼』だなどと言ったら、愚かな自分を正当化することになります。それは騎士として、恥じるべき心根だと思いませんか」
 青年の言葉はある意味正しいが、それはあまりにも清廉で頑固な有り様だ。驚くアイラシェールに、青年は真摯な表情を向けた。
「私たちは――私は、あれであなたの深い見識と教養に感服したのです。ですからもう一度お会いしたかった。お会いして、もっと沢山のことを語り合いたかった。政治のこと、経済のこと、社会のこと――あなたの考えをうかがってみたいことは、それこそ腐るほどあるのです」
 真剣な眼差しで、青年はアイラシェールに請う。
「また、会っていただけますか?」
 揺るぎない銀の瞳が、自分を見つめている。そこに浮かぶ強い意思は、一体何なのだろうか、とアイラシェールは思う。
 これは恋うる者の眼差しなのか。それとも。
「失礼ですが、私、まだ貴方がどなたなのか、存じ上げておりません。お名前をお聞きしてもよろしいですか」
 アイラシェールの問いかけに、青年は一瞬虚を衝かれたような表情をした。だがやがて、照れ笑いにも似た苦笑を浮かべて、礼をとって告げた。
「これは大変な失礼をしました。私はフィリス・バイドと申します。恐れ多くも近衛騎士団の団長を仰せつかっております。どうか以後、お見知り置きを」
 かしゃん、という音が響いた。床にグラスが当たって割れる、乾いた音が。
 アイラシェールが取り落としたワイングラスが、少し残ったワインを床にまきながら、砕ける。
 だが、彼女にはそんな音は聞こえていない。人々のざわめきも、軽快な楽の音も、何も。
 血の気が一気に引いた、蒼白な顔で、アイラシェールはうわ言のように呟き続ける。
 そんな、そんな、そんな――。
 フィリス・バイド。南部に所領を持つバイド子爵の長男で、次期当主。宮廷一の剣の腕を持つ、当代随一の騎士。
 そして、後の緋焔騎士団団長――。
「どうなさいました? 気分でも」
 あまりの衝撃に、ふらついて立っていられない。よろめく自分を支える手を、アイラシェールは振り払いたい衝動に駆られた。
 触らないで。私に近づかないで。
 その王を裏切り、民を殺していく手で、私に触れないで――。
 否定したかった。信じたくなかった。決して認めたくなかった。
 だけどもう否定できない。認めざるを得ない。どこにも逃げ場がない。
 私なの――アイラシェールは、震える声で呟く。
 やっぱり、私が、魔女なの――?

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