それでも朝日は昇る 5章2節

「あなたが私のところに来るなんて、本当珍しい」
「お前に不実と恨み言を言われるとは思ってもみなかったな、エルマラ」
「あら、そういうことを言っているのではないのよ。あなたが来てくれて嬉しいと思っているわけではないもの。客観的な事実を述べただけよ」
「……それが客に言う言葉か」
 苦笑して、カティスは寝台から身を起こした。使い込まれた寝台は、人二人分の重さに、微かに軋みをあげる。
 窓から見下ろせば、夜半過ぎの花街はまだまだ人が絶えない。誰もが一夜の慰めを求めて、ゆらゆらと流れ漂っている。
 赤銅色の長い髪を寝乱した娼婦は、けだるい体を起こすと、薄い笑みをたたえ、古馴染となった今日の客を見つめる。
「だって、私はあなたが来なくなっても客に困るわけではないし、あなたは私以外に幾らでも馴染みの娼婦がいるわけでしょう? 何に困ることがあるかしら」
 容赦のないエルマラの言葉に、カティスは憮然とする。
「ここのところもっぱらの噂だったのよ。カティスは新しい恋人に熱を上げているから、しばらく花街には来ないだろうって。ところが私のところまで来るなんて、よっぽど不満がたまってるのね。そんなに可愛いあの子に袖にされ続けてるの?」
「…………その、新しい恋人ってのは、一体何のことだ」
 恐ろしい顔つきをして問うカティスに、エルマラはしれっとして言う。
「自分でも判りきっていることを、わざわざ聞かないの」
「俺には男色の趣味はない」
「あら、そう? でも気づいていない? ここのところのあなたのその苛立ちの原因が、誰にあるのか」
 図星を刺されて返す言葉もなく、カティスは再び憮然とするしかない。
「この間あの子に会ったわ。噂通りの、可愛らしい子ね。夢見がちなお嬢さんたちが歓声を上げるのがとてもよく判るわ」
「会ったって……ここに来たのか?」
 意外そうに問うカティスの内心を読んで、エルマラはくすくす笑いながら告げる。
「客としてきたわけじゃないわ。往診を頼んだの――勿論、昼間にね」
 エルマラの言葉に、カティスは複雑な表情をした。安堵したような残念なような、何とも矛盾した顔をした後、当然の問いかけに移る。
「お前、どこか悪いのか」
「いつもの医者に見てもらったんだけど駄目で、噂の賢者様におすがりしたというわけ」
 娼館の主人の頼みを快く聞き入れて、現れたカイルワーンは、物見高い娼婦たちの不躾な視線にも全く動じなかった。他の患者と接する時と同じく、柔らかな微笑をたたえたまま、エルマラを触診し、問診を重ねていく。
『症状は目眩や冷や汗、動悸、震え……頭がぼうっとして、ひどいと意識を失うと。それはさっきも言っていたけど、発作的なものなんだね?』
『なんかおかしいなと思っていると、どんどん具合が悪くなっていって。それで、食事をしてしばらくすればかなりよくなるんだけど』
『食べるとよくなる。じゃあ、もしかしてその発作が来る時って、空腹の時じゃないだろうか?』
『言われてみると、そうかもしれない』
 記憶を辿りながら言うエルマラに、カイルワーンは納得したように頷く。
『となると……やっぱりあれかなあ……』
『私、悪い病気なの?』
 深刻に問いかけるエルマラに、カイルワーンは軽く首を横に振る。
『君の病気は体質的なもので根治はちょっと難しいけれども、発作によく効く薬はあるよ。ちょうどうちに作っておいてあるから、今持ってきてあげるよ』
『判ったの? あんなに他の医者に見せても原因がはっきりしなかったのに』
 驚くエルマラに、カイルワーンは苦笑いをした。
『まあ、あんまり知られている病気でもないからね。仕方ないよ』
「そう言って、あの子が持ってきてくれた薬が、あれ」
 エルマラは窓辺に置いてあるガラスの壺を指差す。カティスが手を伸ばして取ると、中には黄色がかった透明の液体が入っている。
「棒が二本ついているでしょ。それでちょっと中身をすくって、練ってごらんなさい」
「これ、薬なんだろう?」
「いいからいいから」
 二本の棒を互い違いに回して練っていくと、透明の液体は空気を含んで白く重たくなり固まっていく。この『薬』を持ってきたカイルワーンも、しばらく練った後、棒をエルマラに差し出した。
『なめてごらん』
 受け取り、薬にありがちな苦さを想像してこわごわ口に入れ――エルマラは驚きに目を見開いた。
『甘い』
『だろう? だってそれ、飴だもの』
 くすくすと、エルマラの反応を楽しむようにカイルワーンは笑い、その意外な言葉にエルマラは面食らう。
『飴?』
『そう、水飴。それが君の薬』
 カイルワーンの言葉は、エルマラを心底驚かせた。砂糖の値段は彼女もよく知っており、それはそうおいそれと手を出せる品ではない。
 それが薬として必要だというのなら――それは決して裕福ではない彼女には、あまりに恐ろしい。
『ああ、代金のことは気にしなくていいよ。砂糖は使っていないから、そんなに原価はかかってない。実費はもらうけれども、そんなにしないから安心して』
 だが平然とカイルワーンが言ったことは、エルマラを混乱させることになる。
『砂糖を使ってないって……じゃあどうやってこんな甘いものを』
『糖って奴は、意外に知られていないけど、結構色々なものから作れるんだよ。澱粉さえあればそれでいいんだ』
『澱粉?』
『穀物の素になっているものだよ。それに麦の芽を加えると、麦芽糖というものになる。その飴は、そうして作ったんだ。穀物であればいいから、米でも稗でも粟からでも作れる。僕はジャガイモを使ったけれども、その時の安い穀物を使えばいいんだよ。手間はかかるけれども、単価はそんなに高いものじゃない。だから気にしないで、具合は悪い時は遠慮なく食べるといいよ。なくなったら、また作ってあげるから遠慮なく言って』
 棒の先で練り上げた水飴を舐めながら、カティスはエルマラの話に唖然としていた。
 カイルワーンは医者だけでなく、発明家としても有能だが、砂糖を使わずこんなに甘いものをこしらえてしまうこともできるとは。
 あのジャガイモから作られたという飴は、舌先が痺れるほど甘い。
「それ以来、どうしても疲れた時とか、具合が悪くなった時に、少しずつ舐めてるの。よく効く薬よ」
「ああ……そうだろうな」
 カイルワーンのやることは、いちいち間違いがない。素っ頓狂に、奇天烈に見えても、それには全て意味があり、その行動のもたらす結果は人を驚かせる。
 そしてその驚異の積み重ねは、やがて畏敬に変わる。まだ二十にもならぬ青年に、人々は最大限の敬意と尊敬を込めて頭を下げ、密やかに、そして確実にその呼び名を口にする。
 レーゲンスベルグの賢者――彼をそう呼びだしたのは、一体誰だったのだろう。けれども今ではもうその二つ名を、誰もが知っている。
『他に具合の悪い人はいない? まとめて診ていくよ』
 そう言って、何人かの娼婦たちを診察し、話を聞いたり薬の処方をしたりしたカイルワーンは、娼館の主に勘定の後、こんな言葉をかけられる。
『先生に来ていただいて、本当に助かりました。噂通り、本当に腕がよくっていらっしゃる――本当に、他の医者たちときたら、どいつこいつも藪ばかりで』
 主は曖昧な苦笑で応えるカイルワーンに、愛想よく申し出た。
『本当にこんな勘定じゃ申し訳ない。……よければどうです? うちの好きな子たちと遊んでいきませんか? お世話になったのだから、無論勘定はいりませんよ』
 エルマラはその時『鳩が豆鉄砲を食らう』というのはこういうのを言うのだな、と感じた。それほどカイルワーンは無防備な、素の表情を一瞬だけ見せた。
 一瞬呆気に取られたカイルワーンは、だがやがていつもの微笑を張りつけ、主人にやんわりと告げる。
『ご遠慮します。僕は今日は仕事で来て、その対価は十分にいただきました。これで恩だの情だのにつけこんで彼女たちをただ働きさせることは、失礼以外の何物でもない。彼女たちの働きは、ちゃんと対価が払われるだけの価値があるものでしょう?』
『それは……』
『だから、もし僕がそうしたいと思ったら、ちゃんと代金を持って夜に来ます。その時には足元を見ないで、客として扱ってやってください』
「そう彼はにっこり笑って言ったわよ」
 エルマラの告げた言葉に、カティスは今度こそ心底唖然とした。
 カイルワーンの行動は、カティスにしてみれば馬鹿げているとしか言いようがない。
「うちの主人は『なんて清廉な方だろう』と感心してたし、その言葉を聞いて賢者様に熱あげちゃった子もいるけどね、私はそこで、ああ、と思ったわよ。この子が客として、ここに来ることは絶対ないなって」
「エルマラ?」
「口で言うことが全て真実だと思うのは愚かよ。確かにあの子は、真実そう思っているのかもしれないし、違うかもしれない。それは判らないことよ。でもね、一つだけ確かなのは、あの子が真実であれ嘘であれ、自分がそういう人間だと他人に思われることは許容しているということよ」
 清廉潔白で公正な好人物。そういう風に他人の目に映ることを拒んではいない。
 エルマラの言うことは、的を射ている。
「あなたが素人には手を出さないように、あの子は逆に娼婦とは寝たくないと思っているのかもしれないし、実は性行為自体が好きじゃないのかもしれない。冗談の領域だけれども、もしかしたら男色なのかもしれない。でも、断る理由として、さっきの言葉を選んだのよ。それを聞いた時に思ったわ。あなたたちは、なんて似た者同士なのかしらって」
「……おい」
「もう気がついているでしょう? 嘘つきカティス」
 ざくり、と鋭い言葉でエルマラは切り込んでくる。
「どうして私たちがあなたがどれだけ沢山の娼婦の間を行ったり来たりしても、不実だと詰ったり、娼婦たちの間で争いが起こらないのか。それは簡単なことよ。私たちは知っているの――私たちが、あなたの心の中のどんな場所も占めてはいないことを」
 何の言葉も返せず、ただ自分の顔を険しい眼差しで見つめているカティスに、エルマラはただ笑って続ける。
「あなたがささやくどんな甘い言葉も、優しい言葉も、みんな上辺を飾る嘘だってことは、誰にも判っているのよ。あなたは私たちの誰かに心を許したり、何かを求めたりは決してしない。ましてや、愛したりしない。どんな女もみんな一緒。ただ女と寝たいから、ここにやってくるだけ。私たちの誰一人も、一人の女として――人間としては見ていないでしょう。いや、むしろこうして私たちと寝ることさえ、かけらも楽しんではいない。違う?」
 エルマラはカティスの厳しい視線にも、険しい顔つきにも怯むことなく、告げる。
「そんな男に、他の女への嫉妬を抱いても馬鹿を見るわ。あなたが特定の女に心を許しているのならばともかく、みんな一緒なのだもの。抱くのは、決して誰のものにもならない、心ものぞかせてくれない男を相手にし続ける虚しさの共感よ。争う気になんて、なるはずない」
 ゆらゆらと獣脂の灯火が揺れる。薄暗い娼館の一室は、先刻まで続いていた甘い行為とは裏腹に、張りつめた気配が漂っている。
「あなたは誰にも心を開かない。娼婦たちは勿論、街の人にも、傭兵仲間にも、あなたを取りまく全ての人間、誰にも。陽気な言動と気さくな態度――そういった嘘で自分を鎧って、本当の自分を隠している。自分の心に誰かが踏み込んでくることを拒む。あなたはそういう人よ――そして、あの子も、そう」
「カイルワーン……も、か」
「あなたはあの子の一番近くにいる。でも、あの子の何を知っているの? あの子が何者なのか。どんな生まれなのか。どんな育ちなのか。どうしてあんな年で、あれほどまでの学問を修めているのか。どうしてあれほどまでに、一人の女の子を探し続けているのか。そう、誰も、あの子の姓すら知らないのよ。あなたの問いかけに、あの子は一度でも答えてくれた?」
 エルマラの追及に、カティスは答えられない。それは、本当は一番自分が知りたいと思っていることなのだ。
 何度となく、問いかけた――それは厳しく問いただしたのではないけれども。それでも、カイルワーンはそのたびやんわりと追及から逃れ、何一つ答えてはくれない。
「人が人に奉仕する理由は色々あるだろうけど、その中にこんなものがあるの。人はね、感謝した相手を傷つけることはないわ。自分に何かをしてくれた相手を敵に回すことは、よほどのことがなければしないことよ。嫌われたくなければ、傷つけたくなければ、恩を売ってしまえばいい――慈悲深き賢者様の行動も、お人好しの傭兵の行動も、その心理はこれだけで説明がつくのではなくて?」
 ぞくり、と背中に寒けが走るのをカティスは感じた。それは裸だからではなくて。
 踏み込んではいけない領域に、踏み込まれる。
 暴いてはいけないことを、暴かれてしまう。
「そうね、こんな話はどう? 目の前に、か弱そうな小動物がいる。自分で餌も取れなさそうな、無力な小リス。それを拾う人間の心理というものは、どういうものかしら?」
「エルマラ!」
 切迫したカティスの声にも、エルマラは話をやめない。
「自分の手から餌を与えて、自分の胸で温めてやる。そうすれば、リスは自分の手から餌を食べ、自分の腕の中で丸まって眠り、自分なしでは何もできないくらい頼りきるようになる。小さなリスならば、何でもしてやれる。何でもしてやれる相手ならば、自分なしでは何もできなくなるようにできる。自分なしでは、生きてもいけないようにできる。そうなれば、決して相手は己を裏切ることも、傷つけることもない。ただ見上げ、慕い、身を自分に委ねきってくれる――そう、相手の全てを支配できる」
 つと、カティスの頬を汗が伝った。
「だけど、あなたが拾った小さなリスは、実は魔法を使うことができた。あなたにもできないようなことをやってのけ、沢山のお金を瞬く間に稼ぎ、あなたよりも名声を得て、あなたよりも多くの人に慕われる。あなたは気づかされた。このリスは、あなたなんかが偉ぶって世話を焼けるような――愛玩できるような、そんなリスじゃなかった」
 残酷な言葉が、醜い真実を掴み出すのを感じて、カティスは動揺するよりない。
「もうあなたは気づいている。リスはもう、あなたなしでやっていける。あなたの助けなど――あなたなど、必要ないのだということを」
「エルマラ……この話はもう……」
「リスの声望は、飼い主のあなたにも沢山の恩恵をもたらす。でも、あなたがリスに望んだことは、そんなことじゃなかった。あなたはただ、リスを可愛がりたいだけだった。リスに見上げて、慕ってほしかっただけだった。自分より弱いものを囲って、自分の優位を確立したいだけだった。けれどももう、リスは自分のものじゃない。自分の庇護などいらない。リスは己より、遥かに高みにいるのだもの」
「やめてくれ!」
 ついに悲壮な表情で叫んだカティスに、厳しい眼差しでエルマラは告げた。
「逃げられないのよ、カティス。このまま目をそむけ続ければ、あなたたちは最悪の形で破綻する。そのことに気づいているから、あなたはこんなところに逃げてきて慰めを得なければならなかった。たまった暗い感情を、吐き出さずにはいられなかった」
 つと手を伸ばして、エルマラはカティスの汗に濡れた頬に触れた。
「この世で一番あの子に嫉妬しているのは、あの子に羨望を抱いているのは、ほかならぬあなたよ。だからあなたはあの子が何かするたびに、感心しつつも苛立ちを感じずにはいられなかった。自分からどんどん遠くなっていくあの子を引き止めようと思ったら――あの子に感じる劣等感をぬぐい去ろうと思ったら、できることは何? あの子に対して、自分の優位を保ちたいと願ったら――あの子を貶める以外に、一体何があるの。そのことにあなたは気づいている。だから恐いんだわ。だから認めたくないんだわ」
 体が微かに震えているのを感じた。心の奥底に押し込めた感情を掴み出され、カティスはただ荒れ狂うそれを見つめるほかない。
 そうだ。気づいていた。自分の中にひどく暗い欲望が渦巻いていることに。
 高みから自分のいる所まで引きずり落ろし、ぼろぼろになるまで傷つけてしまいたい。自分の足元に伏して、泣き叫ぶ声が聞きたい。泣き叫んで、自分に許しを請う様が見たい。
 支配したい。束縛したい。屈伏させたい。
 自分の手で、ずたずたになるまで引き裂いてしまいたい。
 ああ、そうだ。確かに自分は、こんなにも奴を憎んでいる。
 羨望は、こんなにも簡単に憎しみに化ける。
「エルマラ、お前は俺にどうしろと言いたいんだ……」
 震える声が上げた微かな悲鳴に、ふと口調を変えてエルマラは告げた。
 穏やかで、諭すような響き。
「でもね、カティス。あなたは忘れてる――というか、気づいていない。さっきも言ったでしょう? あの子は魔法を使えるけれども、リスなのよ。とても弱い、小さなリス」
 慈愛と憐れみをない交ぜにした、仄かな笑みをエルマラは浮かべた。
「あの子はあなたと一緒よ。穏やかな物腰と柔らかな言葉で表をくるみ、他人に奇跡のような施しをすることで、他人に見上げられることで自分を隠している」
 行動は違う。二人はできることが、方法が違う。けれどもその意図は、一緒だ。
「あなたはあの子に羨望を抱き、憎んでさえいるのでしょう。でも、あなたが見ている――あなたが憎んでいる『賢者様』は、あの子が自らで作り上げた鎧でしかないのではないの? 私たちの目に映るあの姿が、真実のあの子の姿なの? 本当のあの子は――鎧の下に隠されている本当のあの子は、本当にあなたが羨まずには――憎まずにはいられないようなものなの?」
 カティスの残酷な真実を掴み出した手は、今度は奇跡のように仮定を取り出す。
「あの子の本質は、本当に誰かの助けを必要としていないの? あなたは本当に、あの子に必要ないの?」
 俯いて、カティスはしばらくエルマラの言葉を咀嚼するように考え込んでいた。やがて顔を上げた彼は、惑いがうかがえる表情で問いかける。
「俺には……判らない。本当のあいつが、どんな人間かなんて」
 カイルワーンは何も語らない。何も教えてくれない。そう思うカティスを、エルマラはせせら笑う。
「そんなこと当たり前よ。自分のこと棚に上げて、よく人のこと言うわね。あなたが本当の自分をあの子にさらそうともしないのに、相手にそれを求めるなんて虫がいい。狐と狸の化かし合いとは、よく言ったものだわ。あなたたちはお互いが化けて、本性が狐と狸であることすら明かそうとしていないんだもの。理解なんてできっこない。ましてや信頼なんて、お笑いだわ」
 あまりにも厳しい言葉にカティスは思わずため息をこぼし、そして問いかけた。
「なんでこんな話をしたんだよ。なんでここまで言われなくちゃならないんだ」
「あなたに間違って、ほしくないから」
 不意にエルマラは顔を寄せ、カティスの耳にそっと口づけると、優しく言った。
「こんなにも他人に心が動いたのは、初めてでしょう? あなたは誰にも執着しない。誰も欲しいと思わない。他人がどうなろうが、どうしようが、自分が傷つけられなければ関係ない。だけど、あの子だけは違った。自分の思い通りにならないことが、自分の方を向いてくれないことが、自分が必要とされないことが、こんなにも、苦しい」
 自分は苦しいのだろうか。そうカティスは己に問いかけるけれども、答えは出てこない。
 判らない。何も判らない。けれども。
 でも。
「他の誰も、私も、あなたのそんな相手にはなれなかった。だからあなたから心の鎧をはぎ取ることはできなかった。でも、あの子ならできるのかもしれない。あの子なら、あなたと分かり合うことができるのかもしれない。そんな相手を、羨んで、憎んで、その挙句に傷つけて失っていいの? 本当にあなたが望むのは、そんなことなの?」
 カティスの顔になお惑いが浮かんでいるのを見て取って、エルマラはぴん、と額を指で弾いた。
 景気づけのように――カティスの心の中の、何かを払うように。
「行きなさい。それでもう、こんなところに逃げてくるんじゃないわ。あなたが本当に必要としているのは、こんなところで与えられるような、一時の慰めじゃないのよ」
 首に手を回し、普段は客にはしない唇への口づけを与えて、エルマラは優しく告げた。
「さあ、もうお帰りなさい。あなたがいなければならない場所に」

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