それでも朝日は昇る 5章6節

「以前と同じ、こちらの部屋をお使いください、侯妃様」
 バルカロール家の家令は、以前とは比べ物にならない恭しい態度で、アイラシェールを部屋に案内した。王宮に向かう前三ヶ月間を暮らした部屋は、侯爵一家と同じ棟で、彼らがアイラシェールにこの日があることをすでに予見していた――望んでいたことは、明らかだった。
 ほんの少しの懐かしさを持って、開けられた扉から部屋に入った。部屋には秋咲きの白薔薇が飾られ、仄かな香りを漂わせている。
 その香りをもっと楽しもうと、薔薇が活けられた壺に顔を寄せた時、アイラシェールは扉を叩く音を聞いた。
「侯妃様。入ってもよろしいでしょうか?」
 その声音に――面はゆいような、照れてるような、そんな笑いが混じった声に、アイラシェールははっとした。
 彼女が振り返るのと、扉を叩いた相手が部屋に入ってきたのは同時だった。声の主はアイラシェールの姿を認めると、声と同じく照れた笑みを浮かべた。
「アイラ、久しぶり」
「……ベリンダ」
 そこに立っていたのは、豊かな黒髪を流した『長春花』の住人だった。半年前となんら変わらない優しい笑顔を浮かべて、アイラシェールを見ている。
 たまらずドレスの裾をからげながら、アイラシェールは駆け寄った。礼儀も体面も何もかも投げ捨てて、ベリンダにしがみつく。
「ベリンダ、ベリンダ、本当に、本当に来てくれたんだ! 本当に……」
「何よ、アイラ。何を泣いているのよ」
 アイラシェールを受け止め、抱きしめ返してやりながら、ベリンダは馬鹿にしたように言った。だがそう言う彼女の声も震えていて、強がりであることは明らかだった。
「会いたかった……私、本当に会いたかったの……」
「うん……本当に。あたしだって、会いたかったよ。あたしも、みんなも、アイラに本当に会いたかった」
 堪えきれず泣きじゃくるアイラシェールを、ベリンダは長いこと抱きしめ続け、落ち着くのをただ待った。部屋は明るく、薔薇の甘い香りが漂い、他に音をたてるものもなく、ただ静かに時は流れた。
 侯妃の称号を戴くことが決まった時、アイラシェールはバルカロール侯爵に一つのことを願い出た。
 ある人物を一人、侍女に加えてほしい、と。
 そしてその人物は要請に応えて、北のモリノーからはるばるアルベルティーヌまで来てくれたのだ。
「みんなはどうしている?」
 ようようアイラシェールが落ち着くと、二人は向かい合わせに座って話を始めた。
「相変わらずだよ。ソニア姐さんの怪我も治ったし。そうだね――夏至祭以来、舞台の方も結構評判がよくてね。収支の方もぐっと上向きになってきているようだよ」
「それはよかった」
「ただ、あれ以来、あの白い髪の女はどうしたんだって問い合わせが絶えなくってね」
 苦笑するベリンダに、アイラシェールはすまなさそうな顔をした。そんな彼女の額を、ベリンダは笑って指先で小突く。
「そんな顔しなさんな。ソニア姐さんが『あの子は器量を見込まれて領主館に奉公に上がりました』と言えば、それで終わりよ。客は大抵納得するわ――アイラがそれだけの器量だったことは、あの舞台を見た人なら認めるところだろうし、侯爵家相手じゃ、どうこうしようがないもの」
 ベリンダは自分につられて笑うアイラシェールを見つめ、感慨深げに言った。
「だけど本当に、お姫様になっちゃったんだね。そんなに綺麗なドレスや首飾りを着こなせるのは、やっぱりアイラだからなんだね」
「ベリンダ」
「お妃様になるって聞いた時は最初は驚いたけど、後で何となく納得したよ。あんたはやっぱり、それだけの存在だったんだって――それがあんたにとっていいことだったか、悪いことだったかは、この際抜きにしてね」
 ベリンダの言葉に、アイラシェールは表情を落として問いかけた。
「ねえベリンダ、本当によかったの……? 無理してない?」
 アイラシェールはベリンダに、自分と一緒に宮廷に上がってくれと頼んだ。けれどもそれが強制ではないことは、再三重ねて申し伝えたことだ。
 侍女とはいえ、一目で混血だと判る彼女に対して、風当たりは強かろう。これからきっと彼女は、辛い思いも悔しい思いも沢山することだろう。
 自分の我が儘だということは判っていた。それでも堪えられなかった。寂しかった。
 判ってくれる人が、自分をさらけ出せる人が、ただ一人でいいからほしかった。
「さすがにね、あたしも色々考えたし、悩んだよ。宮廷は厳しいところだろうし、あたしみたいなのに優しくはないだろう。それでも、さ」
「それでも……?」
「アイラの申し出が、嬉しかったんだよ。だから来たんだ」
 ベリンダは多くを語らなかった。内心には色々な葛藤や苦悩や不安があっただろう。でもそれをつぶさに語ろうとはせず、ただ笑ってみせる彼女に、アイラシェールは胸がいっぱいになった。
「でもどうして、あたしを呼ぼうと思ったの?」
 だから問いかけてくるベリンダに、アイラシェールは悪戯っぽく笑った。
 助けてほしいの。寂しいの。そう言うことは簡単だった。けれども。
「……だって、リュートの奏法、全部教え終わっていなかったんだもの」
 アイラシェールの言葉に、ベリンダは快く声を上げて笑った。そして赤い目を琥珀の目でしっかりと見つめて、力強く頷いた。
 こうしてアイラシェールは精神上の絶対的な味方を得て、その日が来るまで忙しく準備の日々をすごし、そして十二月一日正午。
 アルベルティーヌ城の高楼の鐘が、高らかに鳴り響いた。
「王の命により、侯妃をお迎えに参上しました」
 迎えの騎兵を率い、養父であるバルカロール侯爵に恭しく口上を述べるのは、王の近衛隊長、フィリス。緋色の髪を降りしきる雨に濡らし、跪きながら彼はアイラシェールを見上げる。
 そして、差し出される手。
 それは定め通りの儀式の手順だ。妃は親から迎えの騎兵に託され、彼らに手を取られ、導かれて王城に上る。
 だが、アイラシェールには、このことがあまりにも象徴的に思えた。
 バルカロール侯爵、自分、フィリス・バイド、そしてウェンロック王。
 この世界に存在する、運命という名の神の作用。
 己の手を差し伸べ、アイラシェールはフィリスの手を取る。
 常に手綱を引き、剣を握ってきた手は大きく固く、そして暖かかった。
 立ち上がったフィリスが、優しくアイラシェールの手を引く。
「参りましょう」
 彼の言葉に、アイラシェールは頷いた。
 多大な決意と、それに勝る不安を込めて。

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