それでも朝日は昇る 8章3節

 後宮の廊下はさして広くない。それでも扉にもたれて座り込むマリーと、向かいの壁に同じくもたれているリワードの間には、わずかばかりの距離があった。
 それはお互いを見つめて言葉を交わすには足り、触れるには足りない。手を延ばしても届かず、触れるには一度立ち上がらなければ叶わぬ、その程度の距離。
「マリー、お前は俺が本気で斬ると思ったか」
「思ったわよ。だから正直怖かったし、エスターの姿を見た時、ほっとしたわ。だってあの時の貴方を止められるのは、バイド団長かエスター、後は侯妃様だけだもの」
 内容の割にはあっけらかんと話すマリーに、当のリワードは唖然とする。
「貴方だって、本気だったでしょ?」
 そう問われて返答ができるわけがない。
「私が貴方に愛されていない、とは思っていないわ。でも、貴方の中には恋人よりも優先順位が高いものがある。それとの二者択一となったら、どんなに愛していようが思っていようが、恋人を切り捨てるでしょう。心が痛むこと、苦しむこと、悔やむことは、その場は置いておいてね」
 沈黙するしかないリワードに、マリーはふと視線を落とした。
「でももしかしたら、あそこで斬られていた方が、楽だったのかなとも思う」
「それは……」
「あの時に貴方に告げたこと、私の取った行動、それに嘘はないし悔いるつもりもないの。けれども、あれで私と騎士団との間に確執が生まれたことも事実。もう誰も、私を貴方の恋人として、全面的な味方と判じてはくれないでしょうね」
「……ああ」
「私はこの立場にある限り、全力を持って侯妃様のために尽くすつもりでいるけれども、当の侯妃様が私を必要としてはいないのね――特に私人としての侯妃様は」
 気が強いことこの上ない、と評される自分の恋人が、それほど単純ではないことをリワードだけは知っている。それでもその言葉はとても意外で、彼女を見る目は疑問に満ちる。
「貴方たち――特にバイド団長には判らないかもしれない。けれども、私とベリンダにはよく判っていることが一つある。侯妃様には、二つの顔がある。公人としての顔と、一人の女性としての顔が。そしてその二つの面は、実は乖離している」
 マリーの言葉に、リワードは息を呑んだ。
「貴方たちが常日頃目にしているのは、アレックス侯妃という名の女性。それは極めて冷徹で、博識で、進歩的――いっそ革命的とさえ言えるほどの女性よ。政治を語り、未来を読み、理想を語る侯妃に、貴方たちも私も惹きつけられるけれども、それが侯妃様の全てではない。『アレックス』が侯妃の真実の名ではないことを、知っているわね? あの方には、真実の名で呼ぶのがふさわしい人格がある。その人格は一人の人間として、女として、己の安らぎと幸福、平穏を求めている。侯妃様にこういう面が存在するのを、私は当たり前だと思う。幸せが、安寧がほしくない人なんて、望んで苦境に立とうとする人なんて、そうはいない。そのどちらも嘘でも建前でもなく、真実だとは思う。でも、侯妃の思想があまりにも突出しているが故に、その実現は平凡な幸せと両立せず、二つの望みは乖離する。だからここには、私とベリンダがいる」
 性格も方向性も全く違う、侯妃の二人の侍女。どちらが上ということも、偉いということなく二人が仕えているのは、彼女が二つの方向性を必要としているからだ。
「今侯妃は、どちらかの自分を選択しなければならない。貴方たちは政治の、信仰の中枢として、指導者として侯妃を必要としている。けれども、そこに座ればもはや只人としての安寧はない。そして侯妃にとって為政者としての自分は、かけらも迷う余地もないほどに己の中で重きを占めるものではない。それが判っているから、私は貴方たちに侯妃を渡すわけにはいかなかった――その選択を、ご自身で下されるまでは。そして己の幸せを選んで、貴方たちと訣別することを選んだ時――侯妃のお側に、私のいる場所はない」
 それを選択した時、この膠着した状態の中でどんな手を打ちうるのか。それをマリーは踏まえてもいるが、問題は今はそこにはない。
「侯妃がそれを選択した場合、バルカロール侯爵領に下がられるでしょう――現実の脱出手段として、それが可能かどうかはこの際置いておいてね。その時、ベリンダは連れていっても、私は連れていかない。そのことだけは、はっきりしている。私の果たしてきた役割がもう必要ないこともあるし、侯妃は私を貴方から引き離そうとはお思いになられないでしょう」
「……そうだろうな」
「でも、もう私は貴方の横にも居場所はない。侯妃が里に下がられたら、私はその後どこに行けばいいのかしら? そう考えれば、あそこで貴方に斬られた方が、むしろ楽だったんじゃないかって、そう思ってしまうの」
 諦めがうかがえる笑みを浮かべて平淡に語るマリーに、リワードはかける言葉に迷った。
「そこまで判っていて、どうして責務に――誇りに殉じる道を選んだ? その忠義が、報われないと判っていても」
 騎士団と侯妃が道を別った瞬間、マリーは恋人も主君もなくす。
 保身に走るのならば、情に従うのならば、リワードに迎合して騎士団の味方をする方が得策だった。それでも彼女は、命を賭けて主君を守った。
 その気持ちは、一体何だというのだろう。
「それは貴方が好きだからよ。貴方以外の人の妻になる自分が考えられないから、私は誇りを選ばずにはいられなかった。だからこそ、私は貴方を己の全てにして生きることを、己に許すことができなかった」
「マリー……」
「いい加減、気づいていないの? 私は貴方の妾にしかなれない女よ。私はもうフランチェスカ子爵令嬢ではない。平民の、しかも謀反人の娘をブライアクレフ男爵夫人にできると、本気で思っていたわけ?」
 それは、無意識のうちに考えないようにしていたのかもしれない、とリワードは気づいた。それはマリーが告げる通り、自明の理だ。
「ごめんね、リワード。私、ずいぶん考えたの。侯妃様に出会う前からも、その後もずっと。でも、駄目だって判った。私はフランチェスカ家の無実を叫ぶ以上、子爵令嬢の誇りを失うわけにはいかないの。だから貴方と、身分違いだということを受け入れるわけにはいかない。でも同時に、貴方がどれほどブライアクレフ家を――ブライアクレフのお父様を大切に思っているかも知っている。そして私が現実として、他人の目に傷物として映ることを――意味を持つのが他人の評価でしかないことも知っている。私は貴方に、ブライアクレフ家に汚点をつけさせるような真似を、断じてさせるわけにはいかない。だから私は貴方の正妻にも、妾にもなれない。ましてや他の誰のにもね。となれば、私は己の生きる意味を、己の価値を、どこに見いだすしかない? ……ごめんね、私は、だから貴方を最優先にできない」
 己の誇り以外に、依って立つところがない――それはあの時マリーが口にしたこと。
 だがそれが、彼女が現実的な幸せをとうに諦めていたからなのだということに、リワードはここで初めて気づいた。
 その矜持。高潔。そして、強さ。
 女にしておくのが惜しい――彼女に再三贈られた賛辞が、今は痛い。
 抱きしめたい。不意に衝動がこみ上げた。それが叶わないのならば、せめて触れたい。しかし、そのためには立ち上がらなければならなかった。立ち上がり、一歩を踏み出す。それはひどく勇気がいる所作だった。
 こうして言葉を交わし、本音で語り合ってなお、自分とマリーが敵として対峙していることには変わりはない。今自分が立ち上がり、近づくことはどれほど相手に緊張を与え、警戒させることか。
 そのほんのわずかな、しかし遠い距離が、今の自分たちの関係を表しているのだと、そうリワードは痛感した。
 叶わない。手が届かない。どんなに欲しいと願っても、愛しいと感じても、どれほど当の本人に好きだと、愛していると告げられても、それでも彼女は自分のものにはならない。お互いが、己である限り。己の信を貫こうとする限り。
 それを曲げようと思えば、彼女を檻に閉じこめる以外にはないだろう。力ずくでこの扉から引き剥がして、意識を奪って、主君たちの対立にも関われないよう、敵だと非難する誰の目にも触れぬよう、自分にしか入れぬ暗い檻に閉じ込める以外に。
 誘惑に駆られなかったといえば嘘になる。だが、ちらり、とマリーを見やってリワードは小さく嘆息した。
 そうして彼女の誇りも何もかも踏みにじって、彼女から全てを奪い取って、自分の我が儘を押し通したところで、それで何になる?
 空を舞う優美な蝶を、箱に閉じ込めて、飛べないように羽をちぎって。
 その触覚を、足を、一本ずつもいで。
 それが楽しいか?
 それが本当に、己の望みか?
「お前は……強いよ。俺はお前ほど、強くなれない」
 罪悪感が、胸の奥から這い上がってくる。
 己は彼女ほど、己に厳しくあれなかった。
「実はさっきのお前の言葉は、物凄く痛かった。不正は身内だという甘えから始まるのだと……本当にその通りだ」
「ブライアクレフのお父様を、逃がしたのね」
 緊迫した口調で問いかけたマリーに、リワードは無言で頷いた。そんな彼に、マリーはわずかのためらいの後に、問いかけた。
 それは他の誰もいないこの場だからこそ、問えること。
「それでは貴方は、この政変がうまくいかないだろうと思っているのね? だから身内として――味方として、是が非でも取り込まなければならないお父様を、逃がした」
「うまくいかないと思っているというより、どちらに転ぶか判らない状況で安全策を取りたかった、というのが本音だ。俺の方が成功すれば、俺がこっちの体制の君主に――それが誰になるのかはまだ確定していないが、取りなすこともできるだろう。そして俺たちが滅びれば」
「所詮は養子と切り捨てて、保身をはかってくれと言ったのね。そのために、反体制に行ってもらった」
 それがフィリスへの裏切り行為であることを、リワードは誰よりも知っている。それでもそうせずにはいられなかった。
「仕方ないわね。貴方が一番幸せに暮らしてほしいと願っている人は、ブライアクレフのお父様だもの。それがバイド団長の道と分かたれたら……そうするよりほかない。己は団長と共に滅ぶことを望んでも、それにお父様を巻き込むことはできない――それが貴方よ。でも、それは、貴方が自分たちの行動に勝算を確信していないということにならない? だから安全策を取らずにはいられなかった」
 あっさりと逃げ道を塞ぐマリーに、リワードは小さく唸った。
 自分がマリーに頭と口で敵わないことは、彼も重々承知している。
「ルナ・シェーナ王妃を傀儡にしたところで、先はない。そのことを、貴方たちだって判っているはず。それなのに、こんな方法で権を収奪してまで、貴方たちは何をしようとしているの? それはバイド団長が、王として立つため?」
「団長は、自分が王になりたいんじゃない。侯妃を至高の座につけたい――女王にしたいのだろう。だがそれは現状では――この王制では、不可能だ。だから団長は、この国の枠組み自体を壊そうとしている」
 血統のみが皇位継承の根拠となる、現在の王制を。
 資質も適性も人格も問われず、ただ血統のみが王を決める。その有り様にフィリスが早くから疑問を抱いていたことを、リワードたちはよく知っている。そしてそれは、侯妃に出会ったことで、形を結んだのだ、と彼らは思う。
「それはつまり、このアルバを王制から、侯妃が仰っておられた共和制に移行させようということ?」
「そうして民選の君主として、侯妃を据えたいと考えておられる。そのためにも、一時でいい、王権が必要だった。王制廃止を宣言することができるのは、王だけだ」
 そう言うリワードの表情は、晴れない。
「勿論侯妃が、統治者としてふさわしくないとは思わない。だが」
「当然諸侯が黙ってはいないわね」
「これでアルバが、王が全土を完全に掌握した単一の国家ならば、もっと話は簡単だった。だが現実にはそうじゃない。諸侯は必ず反旗を翻す。アルバは三すくみの内戦状態に陥るだろう。それが判っていてもなお、俺たちにはそれ以外の道がなかった」
 船は沈む。それはウェンロック王が後継を定めないまま、政務を放擲した時点に確定した。けれども自分たちは――否、フィリスは、そのままその船と運命を共にすることを拒んだ。たとえ、忠誠を誓った王を裏切ってさえも。
 しかし、今自分たちがしていることは、沈むゆく船の上で新しい船を建造するようなものだ。果たしてそれは、間に合うのだろうか?
 リワードには、フィリスが表面上、成功を信じて疑っていないように見える。だが彼には、それがたやすいことだとは思えなかった。
「俺たちが理想の国家を樹立しようと思えば、反旗を翻した諸侯を破り、その領地を没収して王領――いや、共和国領にしていくより他にない」
「リワードは、諸侯たちに勝つ自信がない? 国軍師団長の貴方の目から見て、どう?」
 責めでも、鼓舞でもなく、単純に分析を欲してマリーは問いかける。
「判らない、というのが本音だ。ラディアンス派、フレンシャム派共にどれくらいの軍勢を用意できるのか、その中で著名な傭兵団がどう動き、どの陣営に与するのか、予測がつかない」
「貴方たちは――国軍は、アルバ唯一の常設軍じゃないの。訓練され、装備も整った軍隊が、寄せ集めの軍勢に敵わないの?」
「マリーはセンティフォリアの黒曜騎士団を知っているか? 王直属の騎士団で、王子が団長を務めていた精鋭だ。その騎士団が、今回の飢饉の困窮から起こった農民の反乱を鎮圧に出て……惨敗した」
 渋面で告げるリワードの言葉に、マリーは一瞬絶句した。
「どうして……?」
「これはお前だから言える――俺がこんなことを言ったなんて、他の誰にも言うなよ」
 辺りをうかがい、人目のないのを確かめて、リワードは声をひそめて言った。
「誰も認めたがらない――特に、団長は。でも俺には判っている。もう騎士の時代は、終わっているのだということが」
 隠れもない騎士である彼の言葉に、マリーは返す言葉がない。だが、それでも彼女にはリワードの内心は読み取れる。
 リワードは生家が謀叛の咎で没落し、ブライアクレフ男爵家に養子に入るまでの一時、傭兵――歩兵として、戦場に出ていた。だから彼にはきっと、他の騎士たちには見えていないことが見えているのだ。
「もう騎士だけで――重装騎兵だけで、戦争はできない。今の戦場において、重装騎兵は勝敗を左右するだけの力を持たない。騎士はそもそも戦士、戦場に出て、働いてこそ意味のあるものだ。それが戦場で何の役も果たさないとなれば、その存在に何の意味があるだろう? 徒に金を食うばかりだ」
 苦々しく、リワードは続ける。
「ここ十数年の間に、戦術は著しく変化した。長弓と銃が先陣を切る戦いの中で、騎兵は役に立たない。馬は恐慌を起こし、乗り手の制御を受け付けなくなる。騎馬隊の隊列が崩れ、騎兵が地面に投げ出されれば、討ち取るのはたやすい。結果、重装騎兵は大抵下馬して、後方に下げることになる。そして白兵戦において、重装騎兵はもはや絶対的な力を持たない。そのいい例が、黒曜騎士団の敗北だ。弓や銃弾の飛び交い、乱戦となった戦場では、重いということがそれほどまでに致命傷になる。訓練された騎士が軽装歩兵――農民に倒されてしまうほど」
 無論、とリワードは言った。
「国軍が、重装騎兵だけで構成されているわけじゃない。長弓兵も、砲兵もいる。隊の大部分は、歩兵だ。けれども問題なのは、自分たちが騎士であるだけに、騎兵に対するこだわりを捨てきれるかどうか、ということだ。もう今の野戦には、一騎討ちの伝統は通用しない。飛び道具で撃ち、複数の人間で構わずとどめを刺す。だから訓練された騎士が、農民に倒される――戦場は、騎士の精神からどんどん乖離している。兵力としても、その有り様――精神としても、騎士はすでに時代後れの存在になりつつある」
 そもそも、戦場での勲功によって与えられていた騎士権が世襲のものとなり、貴族の衣に成り果てた時から、騎士はその意味を失いつつあった。かつては実戦のためだった嗜みは、全て儀礼的な存在に変質していた。そして戦場の支配者は、すでに騎士から傭兵に移り変わっていた。
「自分たちが指揮官として無能だと言うつもりはない。だが勝敗を左右するものは、おそらく兵士の質ではないんだ。どれほどの数か、どれほど装備を充実させられるか、そして各種の兵からなるその軍勢をどれほど有効に運用できるのか――最後は指揮官の力量だが、前二つを支えるものは経済力だ。……この飢饉で金がない、税収が上がらないのは、どこだって同じ。それを踏まえて、各陣営がどう動くのか――全ては霧の向こうだ。短期決戦となるか、事態が長引くのかさえ予測がつかない。ましてや、勝てるかなんてそんなこと」
 小さく頷いて、マリーは問いかける。
「それでは貴方は、自分たちが絶対成功する、勝てるとは思っていないのね」
「勝てない。まともに考えたら、勝てない。本当はそう思っている」
 リワードは、ついに誰にも明かさなかった本音を洩らした。
「それでも俺はわずかでも勝機がある限り、投げることはできない。いや、たとえ勝機がなくとも、団長がその道を行くのならば、共に行き、共に滅ぶことが望みだから。それが罪に対する罰ならば、甘んじて受けなければならない――結局俺たちの行動は、神に罪の是非を問うことなのかもしれない。俺たちのしたことが罪ならば、神は俺たちを許しはしないだろう。だが、道を誤った君主を除くことが、国や民のための正義として神の意思に適うのならば、勝ち続けることもできるのかもしれない。だが――」
「だが、なに?」
「何の罪もない侯妃を巻き込むことは、申し訳なく思う。それでも、俺たちにはあの方が必要なんだ」
「それはなぜ? そう、最初から思っていたわ。権を握り、己の理想の国を作ろうとするのならば、どうしてエスカペードを持つ団長が立たなかったの? エスカペードの下賜を理由に、王に後継指名されたと強弁し、新王として立った方が、よっぽど話は簡単だったのに」
 マリーの詰問に、リワードは視線を落とした。暗い、重苦しい声が、こぼれ落ちて散る。
「団長にそれはできない」
「どうして」
「団長が、何の罪の意識も感じていないと思うのか? 何も感じず、王位の簒奪ができると?――それができれば楽だったのに。だから侯妃が必要なんだ。己の信仰を捧げた、絶対的な正義が」
 ひやり、とした気配が背中を這った。同じ恐れを抱き、リワードとマリーは届かぬ距離でその相貌を見交わす。
「侯妃なしでは、団長は壊れてしまう」
 本当は誰にも判っていたことなのかもしれなかった。
 自分たちが、坂を転がり落ちていることを。


 血が滴り落ちていた。赤い流れは刀身から金の柄を伝い、柄頭の聖なる紅玉を濡らす。
 それを握る者の手も、同じ色に染め上げる。
「他に方法があったのならば、教えてください……父上」
 絨毯の敷かれた床にへたりこみ、フィリスはただ問いかける。
 手放すこともできず、握りしめた聖剣に、落ちる透明の雫。
 赤い海に浸る骸は、何も答えてはくれない。
「教えてください、父上。私はどうすればよかったというのですか!」
 滂沱の涙が、手に落ちて血を流す。
 どれほど泣けば、この血は洗い流すことができるのだろうか。涙が涸れるほど泣き続ければ、この血まみれの手を清めることはできるのだろうか。
 そんなことを考える己の身勝手に、反吐が出そうだった。
 それでも悔いることなどできなかった。
 これしか選ぶ道はなかったのだから。
 これ以外に、自分の正義を全うする道は――。

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