それでも朝日は昇る 8章5節

「……すっかり静かになってしまいましたね」
 図書室の司書は、訪れたアイラシェールに少し寂しげな笑顔を見せてそう言った。
「貴方はどうして残られたの? 城がもはや安全な場所ではないことは判っているでしょうに」
「だからこそ、ですよ。この図書室には、アルバで――もしかしたら、この世界でたった一冊しか残っていないのではないかという貴重な書物が幾らもあります。それが危険にさらされるかもしれないというのに、見捨ててなどいけるわけがないではないですか」
「……心強い言葉だわ」
 以前からアルベルティーヌ城一の愛書家だった女性は、微笑んだ。
 近衛騎士団のクーデター以来、アルベルティーヌ城に仕えていた者たちの数は激減した。これから起こるであろう動乱を予期し暇を申し出た者、何も言わずに逃げ出した者と様々だが、アイラシェールは国事の運営にどうしても必要な最低限の人員以外はこれを追わなかった。逆に女官や後宮付の下官、下女などはかなりの人数を自ら解雇した。そうして城での支出を最低限に切り詰めずにはいられないほど、王家の財政は逼迫していた。
 もはや城に残るのは、彼女と共に城を――国を預かる者たちと、その生活を支えるためのわずかな使用人、ただそれだけだった。そしてアイラシェール自身の生活は、騎士団の面々までもが驚くほど、慎ましやかなものとなった。
 着るものは女官たちが着ていたような簡素な仕立のドレスで、髪は結い上げることもなく、流すか一つに結わえるか。宝石を始め飾り物も一切身につけなくなった――身につけようにも、もはや彼女の身の回りにはそれらがない。彼女は城内に残った宝石類を、家宝や国宝として重要なもの以外、ことごとく売り払ってしまった。それでもまだ足りないと言って、銀器も皿の一枚に至るまで、全て潰して金に換えた。
『どんな施策も実現に必要なのは、お金でしょう? 違って?』
 あんぐりと口を開けるフィリスたちに、ごく当然とばかりにアイラシェールは言ってのけた。
 食事も簡略、質素なものとなった。それは勿論庶民と比べればまだまだ豪勢で、品数も多かったが、それでも一国の権力者としては考えられない献立の毎日だった。そんな自分たちの主の清貧ぶりに、彼女に惹かれて城に残った者たちは自然に頭が下がった。
「ところで、とても珍しいものが入手できましてございます。これは是非侯妃殿下にお目にかけなくてはと思いまして、お越しをお待ちしておりました」
 そう言って司書が持ってきたものは、革で装丁された厚い本。その外見は、この図書室にある他の本と何ら変わりはない。
「これは?」
「先日、活版印刷という技術が発明されたそうで、それを用いれば書物がとても安価に、大量に作ることができるという話です。何でもレーゲンスベルグの高名な発明家が考案したとか」
 司書の言葉に、アイラシェールは息を呑んだ。
 レーゲンスベルグの賢者カイルワーン。その人の最大の発明といわれているものが、活版印刷機だ。これにより彼は革命以前にすでに莫大な財を築いていたとされている。
「これは、実験として作られた最初の刷りの中の一冊なのだそうです。レーゲンスベルグの商人が持ち込んできたところを、私がたまたま見つけることができまして」
 手渡された本を、アイラシェールはなかなか開くことができなかった。
 賢者カイルワーンが作った最初の活版印刷本、それが自分の手の中にある。自分たちの時代、最高の稀覯本とされ、王立学院図書館の宝とされていたもの。それが自分の手の中にあるということが恐れ多く、またその作り手たる賢者のことを思えば、またそれも恐ろしい。
 賢者が、だんだん近づいてくる。その距離が狭まっていく。
 そしてその本が、聖書であるということもまた、一つの皮肉を感じてならない。
 そこに意図はあるのだろうか。勿論いつの時代でも、最も需要のある書物は聖書だ。だから賢者は最初に製作する本にそれを選んだのか。それとも他意があるのだろうか。
 細い指が、恐る恐る頁をめくる。そして、思わず声を上げた。
「あっ……」
 それは無味乾燥な活字の羅列を想像していたアイラシェールの目に鮮やかに飛び込んできて、その存在を訴えかける。
 神の教えを、天地の成り立ちをつづる文言は、確かにアイラシェールも見慣れた活字だ。その一言一句まで、見慣れた形、見慣れた文章。それは想像を越えていない。
 だが、欄外に――両脇に踊る、この鮮やかな挿画は一体何だというのだろう。
 草の緑。鳥の青。蝶の赤。あるいは夜空を望む窓。あるいは花。一頁、一頁ごとに全く違う装画が描かれ、白い紙の上に極彩色の世界を織り上げている。
「綺麗……とっても綺麗」
 ただ呆然と呟くも、当然疑問は尽きない。
 賢者が作り上げた初めての活版印刷本は、二百年後の書物を見慣れたアイラシェールさえも息を呑むほど美しい。だが、どうして賢者はこんなに手間暇かけて、経費をかけてまで、ここまで聖書を飾りたてなければならなかったのだろうか?
「お気に召されましたか?」
 司書の声に、アイラシェールは複雑な笑みを浮かべて、ただ頷いた。
 問うたところで答えてくれる者もいない疑問。その答えをアイラシェールは知ることはない。想像が及ぶこともない。だが、そこには、この世で誰一人気づくことのない賢者の意図と妥協が潜んでいた。
 彼女は決して気づくことはない。
 己の過酷な運命を呪い、神を疑う賢者が、本当は聖書など作りたくはなかったのだということ。それでも取引上、最初の刊行物を聖書にせざるを得なかったのだということ。
 しかしそれでも彼は、最初の活版印刷本を、ただ一人の女性――彼女のために作ったのだということ。
 その手にまで届かないかもしれない、気づいてくれるわけなどないと知っていても、彼女の喜びとなるものを世に送り出すことに、微かな希望を託したのだということ。
 疑問に首をかしげながらも、アイラシェールは図書室を出て執務室に向かう。時は十月――王が倒れてから二月が経ち、定めた物事がようやく動き出そうとしていた頃。
 アイラシェールはその日、因縁というものを深く考えることになる。
 執務室の扉を開けた瞬間、居合わせた者たちが皆緊迫した表情をしているのを見て取り、アイラシェールは有事を察した。
「何か起こったのですか」
 厳しい口調で問いかけた彼女に、控えめにリワードが告げた。
「レーゲンスベルグが――」
 最後まで聞いた時、アイラシェールは天を仰いだ。
 微かなうわ言が漏れる。
 陛下、賢者様――やはり貴方たちは、この事態に際して、ただ黙っておられる方たちではないのですね。
 アイラシェールはこの時、曖昧にぼかされていた歴史の真実を確信した。
 おそらくはその中枢に、後の王となるカティスがいたからこそ、記録する者の見方がずれてしまった、歴史の真相。
「レーゲンスベルグが、市民によって占拠されました……」
 反乱の当事者が王となるのならば、それは反乱とは記されはしないだろう――。

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