それでも朝日は昇る 8章7節

 ざわり、とどよめきが広間を満たした。声に招かれ、ギルドホール大広間に姿を表した人物の姿は、大都市レーゲンスベルグを牛耳る者たちですら動揺するに足りた。
 その反応もまた見越して、招かれた人物――カイルワーンは極上の笑みを浮かべて一礼する。
「今日はこのような場にお招きいただけたことを、心より光栄に思っております。ここにはすでに僕と面識がおありの方も幾人かいらっしゃいますが、大半の方がお初にお目にかかりますね。いまさら名乗る必要もないのかもしれませんが――僕がカイルワーンです。姓はやむにやまれぬ事情でなくしたもの。その程度の下賤の者とお考えくださって結構です」
「下賤などと、どうして貴方のことを呼ぶことができよう――賢者。我々ですらどうにもできなかったどれほどの数の患者を、貴方がたやすく救ってみせたのか。それを知らぬ者はもはやこの街にはいないだろう」
 医師ギルドの代表がそう言えば、レーゲンスベルグ大学の学長も言う。
「先日の特別講義、私も拝聴させていただいたが、実に斬新だったよ。また時間が空くようならば、講義を持ってくれないのだろうか。講堂に入りきれなかった学生や教授たちの要望書が私の机の上に山積みでね」
 カイルワーンと面識のある者たちの言葉に、他のギルド長たちは疑念を無理矢理飲み下した。
 もはや『レーゲンスベルグの賢者』の名声を知らぬ者はいない。彼が、ひどく若く見える容貌だという噂も。だがこれほどまでに若いとは誰も想像だにしていなかった。彼は誰の目から見ても、十七、八歳にしか見えなかった。
 こんな若僧がまさか――そうは思いはしても、その言葉は口に出せずに消える。
「ご多忙な方々に無理に時間を割いてもらっての会合、時間を無駄にするわけには参りません。話を始めましょう。――皆さんは、現在のアルベルティーヌ城の状態を、どう認識しておられます?」
 カイルワーンの問いかけに、一人が口を開いた。
「陛下が崩御なされた可能性がある――この会合を呼びかけられたフロリック殿からそう伺ったのだが、それは真実なのか」
「……状況から判断するに、それ以外考えられません」
 感情を排した冷たい言葉は、場に凍りつくような静寂をもたらした。
「先月、ウェンロック陛下が気質の病に陥ったということで、枢密会議は王妃を摂政に任じています。ですが王妃の性格から考えても傀儡、背後に何者かがいることは確実です。そしてそれと同時期に、ラディアンス伯、フレンシャム侯それぞれが謀叛を起こし、伯は蟄居、侯は投獄の憂き目にあっています。それに伴い枢密会議は解散、謀叛に関与しなかった多くの貴族も領地に帰還しております――いやこれは、むしろ自領に逃げたと考えた方がいいでしょう。これにより、アルバは三つに割れた」
 小さな吐息をついて、カイルワーンは続ける。
「陛下が崩御されれば、王位継承を巡ってアルバ貴族が二つに割れることは明白でした。その勝者が次のアルバ王になるだろうことも。ですが今王妃を傀儡にして城を占拠し、国政を握っている者は、その二派のどちらでもない、第三の勢力です」
「それが誰なのか、貴君には判っているのか?」
 一人の問いかけに、カイルワーンは微かに瞑目した。せり上がってきた答えに、胸の奥が痛んだ。
 それでも、答える。
「ウェンロック陛下の寵妃、アレックス侯妃と元の近衛騎士団――緋焔騎士団と名を改めた彼らでしょう」
 カイルワーンの断定は、一度は治まった場にざわめきを再び広げる。
 近衛がまさか――フィリス元帥は国軍全軍の指揮権を握っているぞ――まさか彼が王になるつもりではあるまいな――いやいや、彼は王より聖剣エスカペードを賜わっている。彼ならばあるいは――。
 満ちていく言葉を、ただ彼は受け止めた。
「ではカイルワーン、件の増税要求を突きつけてきたのも、そのアレックス侯妃だというのかね?」
「……そういうことでしょう、おそらく」
 フロリックの問いかけに、カイルワーンは首肯した。
 この会合が持たれる三日前、アルバ全土に税制の改革が公布された。関税が引き上げられ、一定額以上の商取引に新たな課税が追加された。
 カイルワーンには、アイラシェールが何を考えているのかが手に取るように判った。この大凶作では、農村部から税収は見込めない。となれば、取れるところから取ろうというのがこの税制の主旨だろう。つまりはここに居合わせているような、都市貴族と呼ばれる者たちから。
 アイラシェールが走った方向は――その気持ちは、判らないではない。彼女は伝説で言われるように、私腹を肥やそうとしているのではないだろう。多分根源にあるのは、慈悲と平等の精神。その精神自体は、決して邪なものではないだろう。
 だがその方法が、現実問題としてうまくいくとはカイルワーンには思えない。だからこうして、この場にこれほどの人間が集う。
 ごめん、アイラ。内心で呟く。
 ごめん、君にレーゲンスベルグはやれない。
 なぜならこの街は、この街に用意されている全ての仕組みは、カティスのためのものなのだから――。
「皆様にお話したいこと――お聞きしたいことは、そこです。皆様はこの増税要求を呑み、アレックス侯妃と緋焔騎士団に、この街を預けてもよいとお考えですか?」
「それは……どういう意味なんだ?」
「このまま何もせず流されていけば、そうなるということです。レーゲンスベルグは王領――首都に近い直轄地だ。大型船を横付けできる港を持ち、多くの武器や甲冑を生産できる工廠があり、多額の資金を運用している金融業者も数多くいる。この重要な拠点を、ラディアンス派やフレンシャム派が黙って素通りしてくれることは、絶対ない」
 それは誰の胸の中にもあった懸念。それをすっぱりと切り出して、カイルワーンは目の前に広げて見せる。
「ならば、ラディアンス伯かフレンシャム侯につけばいいというのか? 君は。だがどちらに着いたとて、残る二方に睨まれることには変わりはなかろう。ついたところが勝てればこの街は生き残れるが、読みを外した時、この街は滅ぶ」
「だから、勝者につきませんか?」
 この時にっこりとカイルワーンは笑った。それが人を唆す悪魔の笑みであることを、フロリックだけは知っている。この笑みに騙され、乗せられ、人は道を踏み外すのだ。
 勿論それが、不幸かどうかは、別にして。
「……それは、どういう意味だ?」
 上がる疑問の声に、彼は不敵なまでに自信に満ちた表情で答えた。
「勝者が確定するまで、中立を貫きましょう。全ての派に味方をし、全ての派に物資を供給する代わりに、誰にも屈しない。誰にも肩入れしない。完全中立・不干渉。それで当座をしのぎきって、勝者が確定した時――新たな王が即位した時、恭順しましょう」
「そんな無茶な!」
 方々から声があがった。机を叩いて立ち上がったのは、甲冑工ギルドを束ねる親方。
「それはつまりは、今反乱を起こして、代官を追い立てて独立しようということではないか。そんなことをしたら、城から討伐の軍が押し寄せてくるぞ」
「果たしてそれをするだけの余裕が、今の国軍にあるでしょうかね。確かに派兵はされるかもしれない。しかしレーゲンスベルグの城壁は堅固だし、僕が見積もったこの街の私兵は結構な数がいます。逆賊の専横と煽り立てれば義勇兵も募れるでしょうし、失業者の数を考えれば、給金さえ出せば相当な頭数を揃えることが可能だと思います。そして兵糧攻めにしようにも、僕たちは背後に港を背負っているから補給線を断てない。海路を封鎖しようにも、アルバ国軍の主力は陸軍。海軍はご存知の通り貧弱です。そしてその船の大半は、レーゲンスベルグに、ある」
 ごくん、と誰かが唾を飲みこむ音が、いやに大きく響いた。
「これが国軍が戦う相手が、僕たちだけだというのならば、確かに勝機は薄いかもしれない。ですが国軍――緋焔騎士団は、ラディアンス派とフレンシャム派という敵を二つも抱えています。我々の討伐に兵を割けば、誰かが必ず間隙を突きにくるでしょう。僕らにばかりかかづらっているわけにはいかなくなる。そうなれば、しめたものです。何も僕たちは、ラディアンス派やフレンシャム派に走ろうとしているわけではない。中立・不干渉なのですから、優先順位はそんなに高くはなくなるでしょう」
 誰もが声もなかった。虚脱したような、けだるい沈黙の後、誰かがぽつりと言った。
「我々は……本当に勝てるのか? 勝って、かつて保有していた大権を取り戻して――自由都市に戻れるのか?」
 レーゲンスベルグは二百年ほど前、市民の代表者である宣誓者が運営する自由都市の特許を得た。だがその自由と自治、免税の権は恒久ではなかった。長い時の間に都市はなし崩しに自治を失い、特免を失い、いつしか国王の派遣する代官が治める代官都市となった。
「都市がどれほど自由でありうるかは、その都市がどれほど王権にとって有益であるか、その一点にのみかかっていると思います。対等の立場で交渉と取引を成立させるためには――一思いにひねり潰し、焼き滅ぼす道を選択させないためには、惜しまれるほどの価値が都市に必要です。そのために、僕はあるものを皆さんに作ってほしい」
 取り出されたのは、長い包み。布をほどいて円卓の上に置かれたものに、一同は驚きの声を上げる。
「これは……」
「フリントロック・マスケット。マッチロック・マスケットに替わるものとして、最近開発が著しい新型です。火種が必要ないので、動作に必要とされる時間は――半分は無理でしょうが、三割は短縮できるかと思います」
「私は同じ新型といわれるホイールロック・マスケットを見たことがあるぞ。でもあれはずいぶんと作りが複雑で、製作も使用も厄介なものだったが、これはどうなのだ?」
「仰られる通り、ホイールロックは機構が複雑で部品も多く、単価も高くなる。ですがフリントロックならば、ホイールロックよりは少ない部品で短期間、安価にくみ上げられるし、作動動作も少なくて済みます。これは僕がくみ上げた試作品ですが、これを早急に大量生産できる体勢を整えてもらいたい。この街ならば、それが可能です」
「確かにまとまった数の新型マスケットが欲しくない王など――陣営など存在はしないな。マッチロックですら、生産地を押さえるのに諸侯が争いを繰り広げ、様々な駆け引きや商取引が繰り広げられているというのだから」
 交易商ギルドの長であるフロリックの言葉に、幾人もの列席者が頷く。
 戦争において重要な要素はいくつもある。兵力、戦術、指揮官の力量、士気、どれ一つ欠けても勝利は揺らぐ。だがそれらに比肩する――それらを支える重要な要素がある。
 それが装備と補給。武器や兵器、防具、馬や荷車。宿営の資材、生活道具。そして食料。それら大量の物資を軍に供給できるのは、都市だけだ。
 そしてそれらを調達するための資金を工面できるのも、また大都市の金融業者たちだけ。
 諸侯は――王は、都市の助けなくして、戦争を行うことはできない。
「ですから重ねて無理なお願いなのですが、これから作るフリントロックのマスケットは、王が確定する時まで誰にも売らないでいただきたい。これは新王恭順の――新王との取引の切り札になります。我々は――」
 こほん、と小さな咳払いがためらいとともに吐き出された。
 たとえ己が天の繰り人形なのだとしても。たとえそれでも、手を打たずにはいられない。
「我々が新王朝と友好な関係を結ぶのに最高の手段は、その即位の後押しを――実質的な手助けをし、功績を残すことです。だからこそ、どの陣営からも独立した姿勢が必要なのだし、目に見える絶大な功績を残すには少しでも多くのマスケットを作り、新王のためにとっておくことが必要です」
「……お言葉だが、カイルワーン殿。話を聞く限りでは、新型を作る――しかもそれを大量生産するとなれば、相当の資金が必要だろう。直截に言えば、確実な代金回収の見通しの立たない製品の生産に、融資は難しい」
 金融業ギルドの長の言葉に、カイルワーンはもっともとばかりに頷く。
「クラリッジさんの仰られる通りです。それに今回皆さんがこの事業に協力してくださるのならば、思い切って新しい生産手法を取り入れたいと思っていますので、初期投資にも大変なお金がかかることでしょう。それを無担保の信用払いで貸してくれ、と言うつもりはありません。――ですから、担保を用意しました」
 懐から取り出されたのは、先刻カティスの寝床の下から出してきた白い革袋。固く結わえた紐をほどき、カイルワーンは真綿に厳重にくるまれた中身を取り出す。
 本当は――カイルワーンは内心で独りごちる。
 クレメンタイン陛下はこれを含めた三つの革袋を、僕への褒賞だと言って下さった。だがこの白の袋だけは、本当はアイラシェールに渡したかったのではないか、という気がしてならない。
 王女の証として――自分の娘である証として。それがクレメンタイン王の親心だったのではないかと。
 それを今自分は、アイラシェールに対抗するために使う。それは心の奥の罪悪感を刺激してやまない。
 お許しください、陛下――。何度となくくり返してきた言葉を、再びカイルワーンは念じる。
 真綿から取り出し、こつんと音をたててカイルワーンがそれを卓の上に置いた時、この日最高のどよめきが広間に満ちた。
「これはまさか……本物か?」
「なんて大きさだ。こんな大きなものがありえるのか?」
「時価に換算したら、一体いくらの値がつくことか……想像がつかん」
 それは窓から差し込む秋の陽光に、透った光を集めて輝く。
「担保としては十分でしょう。返済が滞ったり、回収の見込みが立たなくなったら、このままでもいいし、分割しても結構ですので、処分して代価に当ててください。返済が完了する時まで、クラリッジさんにお預けいたします」
 呆然とする一同に、カイルワーンは全て開示する手は見せたとばかりに、最後通牒を突きつける。
「残っているのは、皆さんの決断です。僕が今語ったことは、レーゲンスベルグの全有力者が――全市民が、一丸となって事に当たり、誤ることなく自治を運営し、資金や人員、技術を提供していただけて、初めて実現が可能になります。国軍と戦争をしながら、都市開発と運営をしなければならないかもしれない――それはとてつもないことかもしれない。それでも、この街が生き残っていくために、何が必要なのか、今どうするべきなのかを考えたら」
 その言葉は、導きなのか、唆しなのか。答えは誰にも判らない。
 しかし、誰もがその言葉を紡ぐ者から、目が離せない。
 賢者と呼ばれる青年は、政治家としての――指導者としての、初めての姿を現す。
「道は、一つしかないはずだ」
 波を打ったような静けさの中、居合わせた者たちの中の幾人かは薄々察した。
 彼の真意は、おそらく裏返したところにある、と。
 レーゲンスベルグを守るために、誰にも与せず勝者を待つのではない。
 新王に無傷で発展したレーゲンスベルグを渡したいから、誰にも与しないのだと。
 レーゲンスベルグの独立も発展も、マスケットの生産も、その資金をも全て自分で賄うのも、それも全て、新たにくる王のためだと。
 それが誰であるのか――もはや彼には判っているのではないかと。
 預言者だとさえ噂される、彼ならば。
 そして、それは――。
「各々方、どうされる?」
 静寂を裂いて、フロリックが口を開いた。
 卓の上で跳ね返った陽光が、壁に光の輪を描いていた。

Page Top