それでも朝日は昇る 8章9節

 みんなを集めてほしい――会議が終わり、ギルドホールをあとにしながら、カイルワーンはカティスにそう頼んだ。
「夕刻に、粉粧楼で」
 約束の時刻にカイルワーンが店の扉を押すと、相変わらずの喧騒が押し寄せてきた。
 飢饉と、連鎖で起こっている不況で客足は落ちてはいるようだが、それでもそこそこ混み合っている店内に入ると、入口近くの幾つかのテーブルに陣取っていた一団が、一斉に彼を見た。
「忙しいところを、呼びつけて悪いね」
「ま、俺らはただ酒が飲めるっていうのなら、呼ばれなくても集まるけどな」
 ブレイリーの返答に、カイルワーンは苦笑した。奢ると言った覚えはないのだが、自分が彼らを呼びつけた手前、否とは言えない。
「セプタード、上いいかい?」
 厨房から出てきたセプタードに、カイルワーンは問いかける。
 粉粧楼の二階はセプタードの住居であるが、特に請われた時に使う空き部屋が一つあり、大きめのテーブルが置いてある。いわば個室席だ。
 そこに移りたい、というカイルワーンの意図は、誰にもたやすく知れた。だからこそ、一様に表情が曇る。
 それは明らかに、密談を意味する。
「構わないよ。あとでつまみを持っていってやるから」
「ありがとう」
 セプタードの了承に、カイルワーンより先に皆が動き出す。それぞれのカップと酒の入ったデキャンタや皿を手に狭い階段を上る。
 最後に部屋に入ったカイルワーンが扉を閉めると、ブレイリーが口火を切った。
「さて、それで話って何だ?」
 言葉は少なかった。だがそこには、自分のこの振る舞いに対する真剣さと懸念が含まれているのが感じられて、カイルワーンは小さく緊張の息をもらした。
 胸が拍動するのを感じた。しかし、だからといって、後戻りすることはできない。
 身につけている長衣の隠しから取り出したのは、一枚の紙。リボンで結ばれ、封蝋に紋章が押された正式の文書は、歴戦の傭兵である彼らには見慣れたもの。
 契約書だった。
「君たちを雇いたい。僕と、レーゲンスベルグギルド連合とで」
 しん、と室内が静まり返った。
「内容や、細かい日当や報酬については、これに詳しく記されているけれども、平均して一日三百サレット――悪い条件じゃないはずだ」
 部屋は、音をたてるものもない。
「この仕事、引き受けてもらえるだろうか」
 君なら読めるだろう、とカイルワーンはカティスに契約書を渡す。だが、その封を切ろうとした彼の手を、一瞬早くブレイリーが止めた。
 その目は、ひどく剣呑だった。
「待て、カティス」
「ブレイリー?」
 怪訝な顔をしたカティスに無言で首を振ると、ブレイリーは立ち上がってカイルワーンに歩み寄った。
 自分より背が低く、ひどく小柄な青年を見下ろし、ブレイリーは怒りさえ感じられる口調で言った。
「カイルワーン、お前は間違っている」
 冷たい口調でぶつけられた言葉に、カイルワーンの顔から微かに血の気が引いた。それを見て取って、ブレイリーはなおも続ける。
「お前は俺たちを何だと思ってるんだ」
「ブレイリー……」
「契約がどうの、仕事がどうの、報酬がどうのと言う前に、お前は俺たちにまず言うべきことがあるだろう。お前は、人へのものの頼み方も知らないのか。何を考えてるんだ」
 冷たく、激しく、ぶつけられる言葉。
 居合わせた者、誰もが口を閉ざしていた。カイルワーンの体の震えの音が聞こえるような、そんな錯覚さえ起こしそうな重苦しい静寂が訪れた。
 そうして、きっちりと時を測って、ブレイリーは告げる。
「お前が一言『頼む』と言えば、どうして俺たちが嫌と言うことが、手を貸さないことがあるだろう。それがどんなに割の合わない仕事だとしても――たとえ無報酬であったとしても。俺らはお前の中で、その程度の存在なのか? 仕事という形でなければ、ものも頼めないのか? 金でしか動かない――金でなら動かせる。そう思っているのなら、認識を改めろ。それは侮辱だ」
 思いもかけず、ぽん、と頭に載せられた手。その重さが、温かさが意外だった。
 そして何より、その言葉が、意外だった。
 カイルワーンの表情は、その瞬間、漂白されていた。唖然として、呆然として、虚ろに自分を見上げる視線に、ブレイリーは小さく笑ってみせる。
「なあ、もうちょっとでいいから、俺らのこと信用してみないか? 俺らと、俺らがお前を思っているってこと、もうちょっとでいいから信じてみろよ」
 そうだ、そうだ、という声が上がった。陽気に自分を責めるその声に、カイルワーンはただ立ち尽くす。
「だって……」
「だって、なんだ?」
「だって、僕は……」
 僕には、そんな価値はありはしない。こんな僕のどこにも、そんな価値なんてない。
 言葉は出かかった。胸の奥からせり上がり、喉元まで浮かんできた。
 彼の心に幼い頃打ち込まれた楔は、決して彼を許しはしない。
 けれども、頭を優しく撫でるその手が、小さな子どもをなだめ、諭すようなブレイリーの笑みが、その言葉を――カイルワーンの心に刺さっている楔を封じる。
 救いの手を、差し伸べる。
 カイルワーンは泣き出しそうな顔をしていた。こぼれ落ちそうな涙を堪え、うつむいた彼を、誰も笑いはしなかったし、冷やかしもしなかった。何かを急かすこともなく、ゆっくりと穏やかな沈黙が部屋を支配し、そして。
 震える涙声が響いた。
「……頼む。手を貸してほしい。君たちの力が必要なんだ」
「それでよろしい」
 ブレイリーは満足そうに笑みを浮かべると、勢いよくカイルワーンの背中を叩いた。華奢なカイルワーンは、その痛みに一瞬呼吸ができず、うずくまってごほごほと咳き込むことになる。
「よっしゃ、仕事だ仕事」
「久しぶりに稼ぐぞ」
 部屋の隅。テーブルに頬づえをついて、一部始終を見守っていたカティスは、うずくまっているカイルワーンを見た。苦しそうに咳き込むその目に涙が浮かび、伝うのを見た。
 声を上げる仲間たちの中で、彼だけが沈痛な表情をしていた。ひどく心が痛んでいる時のような、痛ましい記憶が甦った時のような、そんな表情。
 泣くカイルワーンが、いたたまれない――まるで人ごとではない、とばかりに。

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