それでも朝日は昇る 8章13節

 夜半過ぎ、眠っていたカイルワーンの耳を、ノックの音が叩いた。
「先生、すみません」
 聞こえてくるのは、切迫した声。
「病人がいるんです。往診に来てもらえませんか」
 どんどん、と繰り返し叩かれる扉とその言葉に、カイルワーンは寝台から起き上がる。
 こんな時間に出歩くことが、安全なはずがない。しかし、切迫した病人がいるのならば――と扉を開けた瞬間、そこに立っていた男と目が合った。
 自分を見下ろす薄ら笑いが――その下卑た視線が、全てを語る。
 しまったと、思うことすら遅かった。身をよじり、逃れようとするカイルワーンの腕をたやすく男は掴み、引き寄せ。
 鳩尾に走った痛みに、足の力が抜けた。
 意識を失うところまでいかなかったことは、幸いではなく不幸だった。焦点の合わない視界の中で、何人もの男たちが自分を見下ろして嗤っていた。
「何が賢者だ、ざまあねえ」
 力が入らない体はたやすく縛り上げられ、冷たい土間に転がされる。猿ぐつわをかませられ、声を上げるどころか満足に呼吸をすることすらままならない。
「聖人君子面しやがって。いい気になるんじゃねえ」
「ギルドの爺どもをたらし込んで、たんまりためこんでるそうじゃないか。可愛い顔して、よくやるもんだぜ」
 僕がそんなことを――声を上げたかった。だが、息は猿ぐつわでくぐもって声にはならず、空しい音をたてるばかりだ。
 獸脂の灯火を一つだけ灯し、暗がりの中で男たちが家捜しを始める。音をたてぬよう忍びやかではあったが、それでも部屋は荒らされていった。
 身じろぎをすると、腕に縄が食い込んだ。それでも逃れようと、必死に抗おうともがくカイルワーンの頬を、見張りの男が打つ。
「動くんじゃねえ。大人しくしてろ。それとも、殺されたいのか?」
 その瞬間、自分の中で何かが切れるのをカイルワーンは感じた。
 皿が割れる音が聞こえた。
 笞がしなり、風を切る音が聞こえた。
 全て幻聴だと判っている。それなのに、震えが、寒気が走るのが止められない。
『こののろま! お前の顔を見ているだけで、もううんざりする』
『折角育ててやってるっていうのに、なんて可愛げのないガキだろう』
『養ってやってるんだ。恩を感じてるんなら、逆らうんじゃねえよ』
 忘れていたかった。思い出したくなんてなかった。けれども心の底に封じたはずの幾人もの声は、鮮明に耳に甦り、彼を奈落の底に突き落とす。
 自分は、あの頃と何も変わっていない。
 息があがる。全力で、全身で息がしたいのに、猿ぐつわのせいで満足に息を吸うこともできない。酸欠で目が回り、冷や汗が滝のように伝い落ちる。
 悲鳴さえ、出ない。空気を求めてくぐもる喘ぎが精一杯。
「こいつがこれっぽっちしか持ってないはずがない。締め上げて、隠し場所を吐かせろ」
 やがて財布を見つけた男が、その中をのぞいて言った。見張りの男は猿ぐつわを外すと、荒々しくカイルワーンの胸元を掴み、問い詰める。
「なんか他にねえのかよ? え?」
 カイルワーンも盗難の危険性を感じていなかったわけではない。だから持ち歩く現金は当座の生活費だけ、後は金融業者に預けてある。最も高価な品だった白い袋は金融ギルドの長、クラリッジに預けた。唯一残った灰色の袋の中身の価値――真価など、この強盗たちには判りっこないだろう。
 空き巣の心配はしていた。だがいきなり押し込み強盗など、考えもしなかった。
 もう何も、出せるものはない。
「死にたくなければ、早く言いな」
 何もない、と言う声さえ出ない。喉元にナイフが突きつけられ、切っ先が傷を作っても、ただ怯えて身を震わせることしかできない。
 耳にはただひたすら、彼を嘲り、罵る声ばかりがこだまする。
 闇は濃く、わずかに灯された炎が暴漢たちの姿を浮き上がらせる。
「駄目だ。完全に怯えちまってるぜ、こいつ」
「金を全部預けちまってるのかもしれねえ。どうする?」
「誘拐していけば、ギルドの連中からかなりの身代金が取れるんじゃねえか」
「金の在り処を吐かせるにしても何にしても、ここに長居はできねえ」
 連れていかれる――それが判っても、何の抵抗できない。
 男たちに脇に手を差し入れられ、無理矢理立たせられ、カイルワーンが引きずり出されようとしたその時。
 闇が動いた。
 ひゅん、と何かが風を切る音に続いて、入口近くにいた男がどう、と音をたてて崩れる。
 カイルワーンは眩む視界の中で、彼を見た。
 何もかもが信じられなかった。
「カイルワーン!」
 悲鳴に近い怒声を、カティスは上げた。長剣は家に置いてきていたのだろう。短剣だけで、暴漢に向かってくる。
 斬りつけてくる敵の腕を身を沈めてかいくぐり、その足を蹴りで払う。立ち上がると、体勢を崩した男をしたたか殴りつけた。
「この野郎!」
 カティスは怒声にも一向に怯まず、カイルワーンを取り押さえている二人の男に向かう。カイルワーンを放し、反撃に転ずるよりもカティスの方が早かった。正拳がもろに顔面に入った男はあまりの痛みにうずくまり、もう一人の男は胸に入った肘打ちによろめく。
 実力差はあまりにも明白で、男たちの意気地はたやすく砕けた。
 我先にと出口へ殺到し、逃げていく男たちに、カティスは舌打ちをする。
「逃がすか!」
 胸元に手を入れると、首にかけた紐を手繰る。結んである呼び子を取り出すと、思い切り吹いた。
 空気をつんざく甲高い音が、隣家の人々を叩き起こす。そして何事かと駆けつけてきた警邏の面子に、厳しい表情で言い放った。
「全部で六人逃げた。召集をかけろ。絶対逃がすな!」
 今日の警邏の責任者であるイルゼは、カティスの切迫した表情と、開け放たれた戸の中からのぞく荒らされた家の様子に、事態を悟った。
 家主の安否を尋ねたかった。だが一刻も争う事態に、全員を指揮して走り出していく。
 恐る恐る家を出てきたヤジ馬たちも、事態を知る。ざわめきが広がっていく。
「夜の街は危ない。後は俺らに任せて、家に入っていろ。戸締りは厳重にな」
 カティスは言ってはみたものの、聞きそうにない人々を残して、カイルワーンの家に戻った。のぞき込みたそうな群衆の目を避け、扉を閉め、厳重に鍵をかける。
 火を灯し加えると、そこには両手足を戒められたカイルワーンの姿が浮かび上がる。
 カティスの胸の奥に、また新たな怒りがこみあげてくる。
 細い体を抱き起こすと、短剣で戒めを切る。そして、その顔をのぞき込むと言った。
「ごめんな。もっと早く来てやれなくて」
 カイルワーンは呆然としていた。何か信じられないものを見るような顔でカティスの顔を見上げ……そして血の気を失った、震える唇が言葉を紡いだ。
「誰も……来てくれなかったんだ……」
「……カイル?」
「どんなに助けてって叫んだって、今まで一度も、誰も来てくれなかった。誰も助けてくれなかった。だから僕は……悲鳴を上げることも、助けを求めることも……諦めてきたのに……」
 途切れがちに呟かれた言葉が、カティスに認めたくなかった真実を突きつける。腕の中のカイルワーンは、真っ白な顔をしていた。
 そう、それは、助けを求めつづけることに疲れて、諦めきってしまった――そんな空虚な、生きながら死んでしまった者の顔。
 たまらなかった。
「俺は……間に合わなかったのか?」
 カティスの絞り出すような問いかけに、カイルワーンは目を見開いて、激しく首を横に振った。
「違う、そうじゃない……そうじゃなくて……」
 カイルワーンは身を起こし、カティスの首筋にしがみついた。顔をうずめられた肩が湿っていく。
「助けてもらえるなんて……来てくれるだなんて、思わなかった……」
 自分にしがみついて声もなく泣くカイルワーンを抱きしめると、カティスは唇をかみしめた。
 カイルワーンの心の中にある孤独と絶望が、たまらなかった。たまらなく苦しく、痛かった。
 本当ならば、自分も行って、今頃強盗たちを追っているイルゼたちの指揮を取ってやらなければならないのだろう、と漠然と思った。だがこの場を離れられなかった。
 このカイルワーンを、置き去りにしていくことなんてできない。
 やがてカイルワーンが疲れ果て、自分の体に身を預けて眠り込んでしまうと、カティスは彼をそっと抱き上げて、寝台に横たえる。
 少しだけ迷ったが、替えの夜着を探し出すと、冷や汗で湿ったそれを脱がせ始める。
 本当は知っていた。倒れたカイルワーンの看病をするのは、これが初めてではないのだから。
 だが見たくなかった。認めたくなかったから、気づかないふりをし続けた。
 だがもう、認めないわけにはいかなかった。
 服を脱がせると、その傷はあらわになる。カイルワーンの胸から腹にかけて残る、細長くただれた古い火傷の痕。おそらくそれは、焼けた火掻き棒を押しつけられたもの。
 カイルワーンの過去にあるもの。彼の記憶に棲み、今なお彼を苛み続けるもの。その正体に、カティスは薄々気づいていた。
 間違いない。
 カイルワーンの心と体は、暴力を知っている。

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