それでも朝日は昇る 9章3節

 歪む視界の中、カイルワーンが意識を取り戻すと、そこには満面に不安の色を浮かべたカティスの顔があった。
 己が寝台に寝かされていることに気づいて、カイルワーンは少し嗄れた声で問うた。
「ここは……?」
「カザンリクだ」
 言われてみると、その天井には見覚えがあった。サンブレストに出発する前日に泊まった同じ部屋。
「それじゃあ、君が僕を背負って、ここまで運んできてくれたのか……重かっただろう。すまない」
「冗談じゃない。軽かったぞ。……大の男が、あんなに軽くていいものか」
 怒りがほのみえる口調で、カティスは言い捨てた。
 カティスは入城式の日のことを思い出す。あの日も意識を失った――奪ったカイルワーンを背負って宿まで運んだが、あの時は今日ほど軽いとは思わなかった。
 この一年強で、それほどまでにカイルワーンは痩せてしまっていたのだ。気づいていなかったわけではないが、背中にかかる重みがそれを改めて実感させた。
「……例の病気が、移ったわけじゃないんだな」
「移ってないかどうかは判らないけれども、少なくともあの吐血はそのせいじゃない」
「じゃあやっぱり、お前、全然治っていなかったのか」
 きつい口調で問い詰められて、カイルワーンは口をつぐんだ。
 この冬寝込んだ原因が、胃痛だったことをカティスは知っている。そして今、血を吐いたこととそれが無関係だと思う者は、あまりいないだろう。
「治ってなかったわけじゃない。間違いなく、よくはなってたんだ。……ただ、一度胃を壊した人間は、簡単には全快しないんだよ。わりとすぐよくなる代わりに、何かがあればすぐ再発する。それが胃病なんだ」
 力なく反論するカイルワーンを、カティスはそれ以上責めはしなかった。枕元に膝をつき、視線を同じ高さまで下ろす。沈んだ、暗い表情のまま、それでも汗で額に張りついたカイルワーンの前髪をかきあげてやりながら言った。
「ともかく、今は寝てろ。原因が胃なら、安静にしてなきゃいけないんだろ? 薬を持ってきているのなら、それを飲んで今は寝てろ。ずっとついててやるから」
「カティス、現状から目を背けるな。今僕たちがしなければならないことが何なのか、判っているだろう?」
 言葉とは裏腹の力ない、弱々しい声で、カイルワーンは言った。それでも眼差しだけはカティスを見据えて放さない。
「僕のことはいい。アルベルティーヌへ行って、何とかこのことを伝えてくれ」
「なんだって……」
「噂を流すでもいい。城から救済活動に出てる下官連中にねじ込むでもいい。誰かがアイラにこのことを伝えなければならない。今この世で、この事態に対処できる人間は、王城のアイラしかいないんだ」
 冷徹な言葉が、狭い寝室に微かに響いた。
「軍勢と権力を用いなければ、村一つ隔離することなんてできやしない。かといって、ここら辺の領主じゃ駄目だ。封じ込めの必要性を、青い恐怖の恐ろしさを、理解することなんてできない。アイラだけなんだ、この事態の意味を理解し、それに対処することのできる存在は!」
「だがそれは……お前、それがどういうことなのか判って言っているのか」
 アイラシェールを――彼の最愛の人を、自ら罪に押し出すこと。
 惑いをあらわに問いかけるカティスを、カイルワーンはひしと睨んだ。その目の中にある覚悟に、カティスは思わずたじろぐ。
「君なら馬にも乗れる。僕よりずっと身軽に行動できるだろう。僕はしばらく動けない。ここで大人しくしてるから、安静にしてるから、心配しなくていい。だから行ってくれ。お願いだ」
 寝床から出された細い手が、己の髪をかきあげるカティスの手首を握った。それは決して強い力ではなかったが、彼を逃しはしなかった。
 カティスは答えなかった。追いつめられた子どもの顔をして、ただカイルワーンの顔を凝視し続けて、やがて、ぽつりと言った。
「……嫌だ」
「どうして」
「こんな状態のお前を置いていけって? 冗談じゃない。俺がアルベルティーヌに行っている間にもし何かあったら――お前に何かあったら、俺は一生悔やんでも悔やみきれない」
「何馬鹿なことを言っているんだ。今君の肩に、何人の人間の命がかかっていると思っているんだ」
 びしり、と告げられた言葉は、カティスに容赦ない選択を迫る。
「ここでコレラが蔓延したら、何万人――下手すれば、何百万人という数の人間が死ぬんだぞ! そんなことになってもいいのか! 何百万もの人間を見殺しにしたなんて、そんな重い十字架を、君は背負うことになるんだぞ。それでもいいのか!」
 興奮して叫び、痛みに顔を歪めたカイルワーンに、カティスは手を伸ばして背中をさすってやる。だがそのために近づいた彼の顔にカイルワーンは自分の顔も寄せ、真っ直ぐに睨んだ。
「行け。こんなところで、たった一人の人間のことにかかずらっているな」
 カイルワーンは、おそらく自分がカティスが最も嫌がる類の言葉を口にしているのだと――嫌がる類の選択を強いているのだと気づいていた。けれども、それをやめることはできない。
「ここで君が行かなかったら……救えたはずの沢山の人間を君が見殺しにしたら、僕は君のことを一生軽蔑する!」
 怒りをためて、自分を睨む黒の双眸を間近に見て、カティスは悲愴な顔つきでしばし悩んでいた。だがやがて空いている左手でカイルワーンを己の胸に抱き込むと、苦渋がほのみえる重い声で告げた。
「必ず帰ってくる。だから絶対、無茶をするなよ。ここで安静にして、体を休めて……絶対今よりよくなってるんだぞ」
カティスの言葉に、カイルワーンは声もなく頷いた。そして掴み続けていた、右手の手首を放す。
 大量の血を吐き、消耗しきっているカイルワーンには、ここまでが限界だった。
 緩やかに遠くなっていく意識の中で、カイルワーンは呟いていた。
 これでいい、と。
 これでカティスを、サンブレストから引き離せると。
 カイルワーンは真実、自分たちがアイラシェールにこのことを伝えなければならない、と思っているわけではない。彼には判っている――たとえ自分たちがそのことを伝えなくても、アイラシェールはいずれサンブレストの真実に気づくだろうことに。
 自分がその真相を知りたいと思ってここに来たのと同様に、アイラシェールが何の手も打たないはずがない。彼女とて、己が破滅に向かうきっかけになる事件の真相を知ろうとしないはずがないだろう。
 だとすれば、そう遠くないうちに、彼女の意を受けた誰かがサンブレストに来る。そして村で流行している奇病のことを、彼女に報告するだろう。いや、もしかしたら、もうそれはなされているかもしれない。そうなれば、自分ほどではないにしても、多少の医学の知識がある彼女のことだ。必ずあの病が、コレラだと気づくはずだ。
 そして噂を流すにしても何にしても、一介の平民たちが王城の支配者である彼女の耳に、真実を伝えるなど容易ではない。それができていたら、今頃自分が賢者であることを、彼女に伝えられているだろう。レーゲンスベルグ施政人の立場を利用したとして、この敵対関係下ではどうしてそれに耳を貸そう?
 間違いなく、今アルベルティーヌへと走っていくカティスの努力は、徒労となるだろう。
 それが判っていて、なお彼を行かせたのは、単純に彼をここから引き離す口実がほしかったからだ。
 人々を恐怖に陥れた伝染病の蔓延する土地に、これ以上カティスをいさせたくなかった。
 勿論カティスに移っていないという保証はどこにもない。これからアルベルティーヌに向かう彼が、病を持っていってしまうかもしれないという恐れはあった。確かに賭だが、歴史が順当に進めばこの後も生き残る彼が、死の病に取りつかれた可能性は高くはないだろう。
 それに、これから自分がしようとしていることを考えれば、カティスにそばにいてほしくなかった。そばにいれば、どう考えても止められるのは目に見えている。
 そしてこれから自分がすることを、彼には――彼にだけは、見られたくなかった。
 だから、嘘をついても彼を自分から遠ざけた。
 往復に十日。少なくともそれだけの時間、カティスは戻ってこない。アルベルティーヌで直訴したり、噂を流したりする時間を考えれば、おそらくはもう二、三日はかかる。
 それだけあれば十分だ。体力を回復させる余裕も、事を成すだけの時間も、十分にある。
 遠くなりつつある意識の中で、カイルワーンがカティスが出ていく音を聞いた。扉を閉まるその音に、小さく小さく呟いた。
 戻ってくるな、と。
 もうここには二度と、戻ってくるな、と。
 それが叶わない願いだとは知っていても。
「さよなら……」
 ようよう声になった言葉が、彼の覚悟を示していた。
 もうカイルワーンには、生きて再びカティスに会うつもりは、なかった。

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