それでも朝日は昇る 9章5節


 カティスがカザンリクの村に辿り着いたのは、三月十二日の夕刻だった。村の入口で荒い息を上げる馬を降りると、その姿を認めた宿の主人が声を上げて走り寄ってきた。
「よかった、あんたが戻ってきてくれて!」
 顔いっぱいに安堵をたたえ、勢い込んで言う主人に、心臓が跳ね上がった。
 この四日の間、胸を支配してやまなかった不安が持ち上がってきた。
「まさか……いや、何かあったのか」
「あんたの連れのお医者さまがさ、今朝からいなくなっちまったんだよ!」
 それはカティスの想定していた最悪の事態ではなかったが、限りなくそれに近い。
「なんだって!」
「今朝、うちのが加減を聞こうと部屋に入ったら、もぬけの殻でさ、机の上に――おい、あれ持ってこい!」
 叫びに応えて、村人の一人が持ってきたものは、カイルワーンの財布と一枚の紙片。財布の中身はカティスが中身を分けた時から減ってはおらず、その書き置きにはただの一文。
『迷惑をかけたお詫びに受け取ってほしい。色々迷惑をかけてすまなかった。ありがとう』
 村人に宛てただけの手紙を、カティスは怒りのあまり握りつぶしてしまった。
「それで、朝から村の中を探しても見つからなくて、どうしようかと……。四日も何も食べてないんだ。まともに動けるはずもないこと、あの人だって判ってるだろうから、遠くに行こうとしたんじゃない――村から出てないと思うんだが」
「何も……食ってない?」
 信じられない、とばかりに問いかけるカティスに、主人はおろおろと弁明した。
「だって本人が、安静にするには必要なんだと言って、いらないと言ったから――牛の乳だけは飲んでたみたいだけれども、それ以外は」
 血の気が引く思いを、カティスは味わった。衝撃にがんがんと鳴る頭を押さえ、懸命に考える。
 可能性は一つしかない。
「……サンブレストだ」
 低く呻いて、カティスは走り出す。今来た方と反対側にあるもう一つの出口――サンブレストに向かう街道へ。
 この四日間の強行軍で、体は疲れきっていた。一刻も早く寝台に倒れこんで眠りたい。そう願わずにいられないほどだったが、もはやそんなことには構っていられない。
 残っているわずかな体力と気力を振り絞り、街道を走る。
 有り金を全部置いていった――それが意味するところ。鼓動が、運動のためではなく、不安のためにはね上がっていく。
 死ぬ気だ。
 奴は死ぬ気だ。
 間に合わないかもしれない。この四日間、ずっと心を占めていた――そして必死に打ち消し続けた不安が、現実の形となってカティスに襲いかかる。
 間に合わなかったら――不安はもはや恐怖の形をとる。
 街道の途中で力尽き、地に横たわる姿。抱き上げて、どんなに揺さぶっても応えない体。どんなに名を呼んでも、開かれない目。腕の中で冷えて固まっていく、小さな骸。
 嫌だ。そんなのは嫌だ。
 恐れに駆り立てられ、走り続けた彼が、求め続けていた姿を見いだしたのは、それから間もなくだった。半身を起こし、暗がりを凝視している姿に、安堵に全身が弛緩しかけた。
 間に合った。
 生きてる。
 四日間苛まれ続けてきた不安と恐怖から解放されて、カティスは泣き出したいほどの気持ちで駆け寄る。
「カイルワーン! カイル!」
 叫び、名を呼んでも、カイルワーンは答えない。どさり、と己の身も投げ出し、しばし呼吸を整え――やがて、身を起こしたカティスは、思わず息を呑んだ。
 様子が、変だった。
 すぐ横にいる、自分に全く気がつかない。力なく佇む体は小刻みに震え、そして。
 病み衰えた顔には、恍惚の色があった。とろりととろけるような、満ち足りた――危うい狂気の色が。
 背筋を、寒気が走った。
 立ち上がったカイルワーンは、ふらり、とおぼつかない足どりで暗い森に一歩足を踏み入れると、熱に浮かされたような口調で、虚空に語りかける。
「会いたかった……本当に、会いたかったんだ……母さん」
 涙が黒い瞳いっぱいに盛り上がり、こぼれ落ちた。
「迎えに来てくれたんだろ? もうそっちに行ってもいいだろ? 休みたいんだ……もう何も考えずに眠りたいんだ。そのために、来てくれたんだろう? 母さん!」
「カイルワーン、お前何を言ってるんだ!」
 カティスは事態を直感した。
 カイルワーンは、完全に錯乱している。
「お前、誰に話しかけてるつもりだ! そこには誰もいやしないだろう!」
 一歩、また一歩と森に踏み込んでいくカイルワーンを追い、その腕を掴んで引き止めると叫ぶ。だがそんなカティスに、カイルワーンは血走った目で手を振り上げ。
 頬を打つ、鋭い音が響いた。
「うるさい! 邪魔をするな!」
 力のないカイルワーンの平手など、カティスには軽い痛みを与えるだけだ。だがその突然の行動に虚を衝かれた彼は思わず手をゆるめ、その隙にカイルワーンはするりと逃げ出してしまう。
 森の奥に駆けだしながら、カイルワーンは有らん限りの声を尽くして叫ぶ。
「二度と逆らったりしないから! 二度と浮かんできたりしないから――だから連れていってよ! もう一度殺して……僕を殺してよ、母さん!」
 ぱりん、と頭の奥深いところで、何かが割れる音を聞いたような、そんな錯覚にカティスは捕らわれた。それが自分がカイルワーンの言葉に受けた衝撃なのだと、カティスは一拍おいて気がついた。
 甦るのは、カイルワーンの叫びと水音。一年以上も前になる、セミプレナ運河の川べり。今の叫びが、全ての疑問を一本の線で結ぶ。
 彼は幼い日に、実の母親に殺されかけたのだ。おそらくは、川に突き落とされて。
 母親のその手で、水の中に沈められて。
 彼の肌に残る古い火傷や笞傷の痕。虐待を、カティスは薄々察していた。カイルワーンの心の中にある傷は、おそらくそれに起因するのだろうと。
 だが今明らかにされた真実は、想像よりも遥かにむごい。
 かっ、と胸の奥が熱くなる。それは純粋な怒り。
 駆けだしていた。駆けだしてカイルワーンに飛びつくと、体勢を崩した二人は勢い余って、地面を転がる。仰向けに倒れたカイルワーンの両手首を掴んで地面に押し倒すと、カティスはカイルワーンの視線の向いている先――その虚空を睨み、怒りに震える声で叫んだ。
「消えろ! 連れてなんていかせない。お前なんかに……お前なんかにこいつを渡すものか! グレンドーラ!」
「放せ!」
 抗うカイルワーンを、なおもカティスは渾身の力で押さえ込み続ける。
「実の母親のくせに……母親のくせに、こいつを苦しめることしかしないで! その挙句に殺すだと……ふざけるな!」
「お前なんかに――お前なんかに何が判ると言うんだ!」
 この時初めて、カイルワーンはカティスに向いた。憎しみと怒りをいっぱいにたたえた目で睨み、押さえつけられた姿勢のままで叫ぶ。
「生きていても、苦しいばかりだった。生き続けても、誰かを傷つけるばかりだった。あの時死んでいれば、こんな思いをすることなんてなかったのに! こんな風に誰を不幸にすることもなかったのに! こんなグズでのろまな役立たずの一生に、何の意味があったんだ。誰も幸福にしないこの人生に、何の価値があったんだ! とっとと死んじまった方が、どれだけ人のためになるかしれない!」
「違う!」
「もういい! もう沢山だ、こんな人生!」
 渾身の叫びは、槍のようにカティスを貫く。体が震えて、止まらない。
 次の瞬間、振り上げた手がしたたかにカイルワーンの頬を打っていた。
「ふざけるな! それが全力でレーゲンスベルグから駆け戻ってきた人間に対して言う言葉か!」
 あまりの怒りに、息をするのもままならない。荒い呼吸で、詰まる息で、なおもカティスは叫ぶ。
「この四日間、俺がどんな思いでいたのか、お前には判るのか? お前が死んでいたらどうしよう、間に合わなかったらどうしようと、ただそれだけを考えながら走り続けていた俺の気持ちが、お前には判るか? 悪化して手遅れになっていたらどうしよう、お前が冷たくなっていたらどうしよう、遺体が腐るからもう埋葬してしまったと言われたらどうしようと、ずっとそればかりを考えながら駆けてきていた俺の気持ちは、どうなるんだ!」
 この四日間、どれほど自分が怖かったのか。どれほどセプタードの叱責が痛かったのか、カイルワーンは知りもしないだろう。
「どうして俺が四日で戻ってこれたか判るか? 俺はアルベルティーヌまで行ってないんだよ。加勢を頼もうとして寄ったレーゲンスベルグで事情を話したら、どうなったと思う? 袋叩きだぞ! どうしてそんなお前を置いてきたと――そんなことのためにお前を置いてきたのかと、セプタードやらブレイリーやらに寄ってたかって袋叩きだ!」
 二日前のことを、カティスは思い出す。慣れない馬を何とか繰りながら、全速力で戻ったレーゲンスベルグ。とにかく手を借りようと事情を話したその時、自分に近づいてきたのはセプタードだった。
 その目に、今まで見たこともないほどの怒りをたたえ、そして。
 いきなり、渾身の力で頬を殴られていた。
『馬鹿野郎! 何考えてるんだ、お前は!』
 長いつきあいだが、こんなにも怒り狂っているセプタードを見たのは、カティスも初めてだった。痛みより、その突然のことに呆然とするカティスの胸ぐらを掴み、セプタードは叫ぶ。
『血を吐いただと? そんな状態のカイルワーンを、しかも近くに伝染病が出てるところに置いてきただと? お前がそれほどの馬鹿だとは、思わなかった!』
 一緒に話を聞いていたブレイリーは、口を出しはしなかったが止めもしなかった。むしろカティスを見る目は剣呑で、今にもセプタードに加勢しそうだった。
『だが、誰かが伝えなければ、何百万の人間の生死に関わる! 俺だって、放っておきたかったわけじゃ――』
『何万人だろうが何千万人だろうが関係ない。お前は見ず知らずの人間の方が、カイルワーンより大事なのか!』
 その叱責は、痛みを伴ってカティスに響いた。顔をしかめてそれを堪えるカティスに、セプタードは手を放すと、深い吐息をもらした。
『カティス、俺はお前に――お前とカイルワーンに、ずっと言いたいことがあった。この二年……特に、この数ヶ月、ずっと言いたくて仕方がなかった』
 青灰の瞳が、憐れみと悲しみをたたえて、彼を見た。
『カティス、どうしてお前たちでなければならないんだ。どうしてお前たちが、何もかもを背負わなければならないんだ。一介の平民の――ただの一人の人間の、お前たちが!』
 セプタードの語ることが、未来さえ含んでいることにカティスは気づいた。
 兄弟のように育ってきた。だから彼は知っている――自分が今、国の動乱に巻き込まれようとしていることを。その要素を持って生まれてきてしまったことを。
『見も知らぬ他人のことなんて、放っておけよ! まず先に、自分と自分の大事な人間のことを考えろよ! 利己的でもいい。自分勝手でもいい。何でお前たちが自分と自分の幸せまで投げ打って、何もかも背負わなければならない。他人のために自分を犠牲にしなければならない。知ったことじゃないじゃないか、他人なんて! このままじゃお前たちは喰われる。お前たちの苦しみなんて与り知らない、構いやしない無数の連中に、利用されて――骨の髄までしゃぶり尽くされるぞ!』
『セプタード……』
『カイルがどうしてあんなにも偉そうなのか、それなのにどうしてあんなにも奇跡を起こし続けたのか――人のために尽くし続けたのか、お前は考えたことがあるか? 俺には――俺らには判る。あいつは必死だったんだ! 他人が恐くて、他人に傷つけられるのが恐くて、だから人に崇められる超越者を演じてなければ一時もいられなかったんだ。虚勢張って、だけど人に誉められ、感謝されるようなことをしないと、その相手に傷つけられるんじゃないかと――嫌われるんじゃないかと思って……だからその背中に背負いきれないものまで背負って、必死に頑張っていただけだ! 奴は街の連中が崇めるような聖人じゃない。ただ救いを、優しい言葉を欲してあがいているだけの、ただの小さな子どもだ! この街の連中はそれをいいことに寄ってたかって奴を食い物にしている――たった二年で、あいつがあんなにもやせ細っちまったのを、お前が見ていなかったとは言わせない!』
『どこか身に覚えのある話じゃないか? あ?』
 揶揄するように言うブレイリーを睨むも、カティスは反論できなかった。
『それを置いてきただと? 血を吐くほど病を悪化させたあいつを? 馬鹿野郎、お前は今すぐ帰れ! やらなければならないことなら、俺らが幾らでもやってきてやる!』
 ぐっと握り拳を固め、セプタードは全身全霊を賭けて叫んだ。
『これでカイルワーンが死んでいたら――そんなところでカイルをたった独りで死なせたら、俺はお前のことを一生許さない!』
 あの時の二人の怒りが、今は少しは判る、とカティスは思った。
 セプタードとブレイリーの名が――心から彼が慕う人の名が痛かったのか、カイルワーンは顔を歪めた。
「僕は……繰り人形だ」
 新たな涙が沸き上がり、頭の中を伝って落ちていく。
「そうやって僕を思ってくれる人たちを……その人たちをみんな、天に操られるままに自分が不幸にすると判っていて、それでもまだ生き続けろと言うのか? そう定められているのに、それでも生きろと? 僕はそんなの……御免だ」
 お互いの激情が冷めていくのが判った。そして後には、ただただ冷たい虚無が広がる。
 苦しむことにさえ疲れきり、全てを投げ出してしまった空虚な絶望が、そこにはある。
 そしてカイルワーンは、カティスに静かに告げる。
「苦しいんだ……カティス。苦しくてたまらないんだ」
「カイル……」
「もういい……もう疲れた……。これ以上何もしたくない……何も考えたくない……」
 激情の去った、疲れ果てた声が、カティスの耳を打つ。
「僕を……死なせてくれないか」
 カティスはカイルワーンの懇願を真っ正面から受け止めた。そして思う。
 もう疲れた。終わりにしたい。だから死にたい。そう言う相手に――人生に疲れ果て、ただ休息を乞い願う者に、他人は一体どんな言葉が言えるというのだろう。
 死んでほしくない。死なないで。そう言うのは簡単だ。だがそれは、当事者じゃない人間の勝手であって、その言葉は何の解決にもならない。本人の痛みを、苦しみを、本質から救いはしない。
 それがたとえ、残される者のどれほど切実な願いであったとしても。その結果、残された者がどれほどの悲痛の中に置かれるのだと、本人が判っていたのだとしても。
 ならば一体、今、何をカイルワーンに言える?
「君の剣を、貸してくれないか。長剣は扱えないけれども、短剣なら――」
「嫌だ」
 それでも、そう言う他にどんな道がある?
「嫌だ……」
 もうそれ以上、二人は何も言えなかった。それぞれの理由で消耗しきっていた二人には、そこまでが限界だった。カティスはカイルワーンを解放してその横に転がり、襲ってくる目眩を懸命にこらえた。カイルワーンは彼より早く、とうに意識を手放している。
 早くカザンリクに戻って、こいつを寝かせてやらなければ――そして俺もゆっくり寝たい。そう思ってだるい体を起こして辺りを見回し、カティスはようやく自分が置かれている状況に気づいた。
 ――ここはどこだ。街道は、どっちだ。
 冷や汗がにじむのを、カティスは感じた。
 錯乱したカイルワーンを追いかけて入り込んでしまった森。そう深くはないはずだが、どっちから自分たちが来たのか判らない。
 そして空を見上げれば、星がまたたき始めていた。それは彼に、さらなる戦慄を感じさせた。
 夜の森は、間違いなく迷う。もうここから自分たちは動けない。
 しかも今日は空気が澄んで晴れ渡っていた。わずかに見える星も、とてもはっきり見える。初春のこんな日の夜は――底無しに、冷える。
 もっと悪いことに、雪が積もるこの地方の森には、渇いた木や落ち葉がない。さっきから転がって、服がかなり湿ってしまったくらいだ。火種はあるが、燃やすものがない。
 つと、冷や汗が伝った。
 今の今まで、死にたいの許さないのと二人でやった。だがその言い争いは不毛だったのではないだろうか。
 凍死するかもしれない――その可能性に、カティスは身を震わせた。
 暗い森には、夜気が忍び込んできていた。

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