それでも朝日は昇る 9章7節

 鳥が鳴いている。その当たり前の朝の音を、カティスは不思議に感じた。
 ここは、どこだ?
 がばり、と勢いをつけて起き上がると、覚えのある光景が目に映る。
 カザンリクの宿だった。
「気がついた? よかったぁ。このまま目を覚まさないかと思った」
 枕元に付き添っていた宿の娘の言葉に、ぱちくりと一つ瞬きをする。
 状況が、まったく判っていなかった。
「助かったんだ……」
 嬉しいのか、嬉しくないのか、自分でも判らなかった。その何とも形容し難い感慨を味わい、はっとしてカティスは部屋を見回す。
 宿の部屋、もう一つある寝台。その中で丸まって眠っている人の姿を認めて、苦笑が混じった安堵のため息をもらした。
 そうだ。彼は死にはしない。なぜなら、運命は――歴史は、決して変わらないのだから。
 彼はアイラシェールを殺しに城に行かなければならないのだから。そんな彼が、こんなところで死ぬわけがない。
 その思いは、皮肉と苦笑をもって受け入れなければならない現実。
「気がついたか? あんたもう、一日近く寝てたんだよ」
 娘が呼んできたのか、宿の主人が湯気の上がるカップを持って入ってきた。その人のいい顔に安堵が浮かんでいるのを見て、カティスは笑み返す。
「腹減ってるだろう。牛乳だが、飲むかい?」
「ありがとう。嬉しい」
 心から礼を言って、カティスはカップを受け取る。熱い牛乳が、空っぽの胃に染みた。
 生きているのだという実感が、ゆるゆると浮かんでくる。
 心はともかく、体が安堵しているのが判って、カティスは内心の苦笑を消せない。
「あんたたちが森で迷った俺たちを見つけて、ここまで運んできてくれたんだな。面倒かけて、すまなかった」
「何言ってるんだい。そりゃあんたたちを見つけたのは私らだけが、あんた自分で歩いて、ここまで戻ってきたじゃないか。連れも自分で背負って。――覚えてないのかい?」
「……全然覚えてない」
 己に唖然としたようなカティスの言葉に、主人はやれやれと笑った。
「……ま、疲れてたようだしな。さて、大分顔色もよくなったし、何か食うなら下で作って待ってるが」
「ああ、頼む」
 丁重に頭を下げたカティスに、主人は笑うと部屋を出ていく。娘が持ってきてくれた桶の水で顔を洗い、髭を剃り、衣服を改めると、ようやく人心地ついた。
 部屋には朝の光が降りそそぎ、いまだ昏々と眠り続けるカイルワーンを照らす。その白い頬に手を伸ばすと、カティスはため息をついた。
 お互い死を願い、その寸前までも行ったのに、共に死に損なった。こうして助かってみれば、腹は空いて食い物を欲するし、人の目は気にするし、動いて歩いてまた日常にすぽっとはまりこんでしまう。
 生きることも難しいが、死ぬこともまたこんなにも難しい。
 その思いは、カティスにため息をつかせずにいられない。
 沈鬱な思いを部屋に残して、カティスが階下の食堂に降りると、そこには別の客がいた。質素を装っているが、平民よりは明らかに身なりのいい――明らかに村人ではない、三人の旅人。その誰もが腰に剣を帯びている。
 カティスの勘が閃いた。
「あんたたちも旅なのか? いや、こんな季節に大変だな」
 気安げに近づき、彼らのテーブルの椅子に強引に座ると、わざと表情を曇らせて言った。
「俺と連れもここから山越えてセンティフォリアに行くつもりだったんだけど、隣村――サンブレストって言ったっけ? そこに行ったらさ、変なことになっているもんだから、引き返してきちまった。あんたたちもそっちに行くの、やめた方がいいよ」
「変なことになっているとは――貴君、そのことを詳しく教えてくれないか」
 カティスの言葉に、旅人たちは即座に反応した。変わった顔色に、カティスは確信した。
 こいつらは、城の連中だ。
 アイラシェールの命を受けて、サンブレストの様子を調べに来る連中がきっといる――カイルワーンの推論に、カティスもまた辿り着いていた。
「いや、俺の連れが医者なんだけどな、今あそこで流行っている病が、薄気味悪いって言うんだ。質の悪い流行り病かもしれないから、近づかない方がいいって言うんだ。だから移らないように、とっとと逃げてきたというわけさ。遠回りになるけれども、別の街道使ってセンティフォリアに抜けようって、話してたところさ」
「流行り病! それは本当なのか?」
「それはどういう症状なのだ!」
 勢い込んで問いかける男たちに、カティスはサンブレストで見てきた様子を語り、最後に付け加えた。
「俺の連れが言うには、東の国の――コレラだかいう流行り病に似てるって話だ。俺がそんな遠い異国の病がアルバまでやってくるわけないじゃないかって笑い飛ばしても、連れがそうだったら治しようがないから、逃げようって言うんだ。だから迂回することにしたのさ」
 その時奥の厨房から主人が皿を持って現れたので、カティスは立ち上がると席を移った。粥の皿をありがたく受け取ると、彼らに背を向けて食事を始める。
 だがその背中越しに、旅人たちが声をひそめて話し合っているのが判った。
 何を語っているかまでは聞き取れなかったが、それはどうでもよかった。彼らがコレラを恐れてここで引き返すか、それとも真相を確かめるためにサンブレストまで行くかは、カティスには判らない。だが何にしても、アイラシェールの元までサンブレストの真相は伝わるだろう。
 そして、サンブレストは彼女の手によって焼かれる――その惨い未来を、カティスもまた受け入れた。受け入れるしか、なかった。
 泣くな、カイルワーン――粥を一心に口に運びながら、カティスは内心で独りごちた。
 その惨劇を見過ごした罪は――彼女を罪に押し出した罪は、俺もまた負うから、と。
 俺もまた、共犯者だから、と――。
 かくして真実は、城のアイラシェールの元にひた走ることとなる。
 定められた輪を、回すために。

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