それでも朝日は昇る 9章16節

 そうだとしたら、カイルワーンには辛いことはなかったのだろうか。アイラシェールは、いつだって眩しく見上げ続けていた彼のことを、初めてそう思った。
 もう時間は戻らない。何もかもが遅い。それが判っていても――悔いるからこそ、深く彼女は彼のことを思う。
 そしてなぜか、ベリンダはカイルワーンのことを聞きたがった。彼がどんな人間だったのかを、彼と過ごした時間のことを、そこでどんな思いを抱いたのかを、つぶさに。
 そうして新たに思い出を掘り起こし、第三者の目というふるいにかければ、判らないことがあることに気づかされる――いや、むしろ、判らないことだらけだと気づく。
「彼は本当に、塔に閉じ込められていたのかな」
 それはベリンダにとって、根本的かつ単純な疑問。
「それはどういう意味?」
「だって、彼はいつだって塔を出ていけたんでしょ? 必要があれば王宮に出向いていたんだし、街へ出かけることも許されていたんでしょ? それなのに、彼は十四年も、必要がなければ外に出ていこうとしなかった」
 ベリンダの話は、まだ要領を得ない。
「彼は五歳までは外で暮らしていて、外がどういうところかを知っている。そして彼は、外と内を往復することができる。それなのに、外に出たいとも言わず、実際出ることもなかった。それって単純に、彼が外に出たくなかったんだと思うよ」
「え……?」
「つまりはね、彼は閉じ込められていたのではなく、自分で閉じこもっていたんじゃないかな」
 ずっと、彼は自分に合わせているのだと思っていた。自分が外に出ることを許されていないから、彼もそうしているのだと、そう思い込んでいた。
 だがその思いを、ベリンダはあっさり否定する。
「気をつかう、アイラに合わせる――そうするには、あまりにも閉じ込められる、ということは重すぎることだよ。多分、普通なら、アイラが出たいと感じたように、彼も出たいと思うはずだし、思っていたのなら実行していたと思うのね。それなのに、彼は外にはでなかった――多分、それは、彼が外に出たくなかったからじゃないのかと思うのよ」
「どうして、そんなことをカイルが思って……」
「本人じゃないから判らないけどね、出たくない、行きたいないという感情が起こるということは、塔の中が彼にとってよほど、居心地のよい場所だったということ――裏返して考えれば、それほど彼にとって外は、居心地の悪い場所だったということ」
 世間のあまりにも冷たい風にさらされて育った女性は、ある共感をもってこの一言を口にする。
「多分、彼には外の世界に、恐れるような何かがあったんだね」
「そんな……」
 何も思い当たることがない――そう、何も知らないのだということに、ようやくアイラシェールは思い当たる。
「多分、塔に来る前の五年間に、何かあったんだろうとあたしは思うよ」
 彼が決して語ろうとしなかった五年間――それまでの彼。そこにはおそらく、真の彼が隠れている。自分が思い描いていたような、完全無欠の秀才ではなく、何かにひどく傷ついた一人の人間だった、彼が。
 そしてそんな彼の目に、自分はどんな風に映っていたのだろうか。
 昔から、彼のことを判っているとは思ってはいなかった。けれども自分でも思っていた以上に、自分は彼のことを何も知らない。
 アイラシェールの心が深く、自分の過去を問いかけ続けるのと対照的に、近辺は加速度を増して慌ただしさを増していった。
 彼女の予測の通り、ラディアンス伯とフレンシャム侯の息子、アラン卿は共に兵を起こし、アルベルティーヌに向けて進軍を始めた。二派に与していた貴族たちは勿論、今まで中立を保っていた他の貴族たちも、それに呼応した。
「四方から進軍する彼らを、各個撃破する時間も、兵力の余裕は、我らにはありません」
 開かれた軍議の席で、冷徹にアイラシェールは語る。心の中の虚無も、痛みも、何もかもを置き去りにして。
 最後の一瞬まで生きるのだと――運命を全うするのだと決めれば、目の前には投げ出せぬ責務がある。
 それが理想を語った者の――その理想で、他者を駆り立ててしまった者の責任。
「彼らは、自分たちの勢力だけでアルベルティーヌを――我らを落とすことができないことを、ティスリンとツェルケニヒで思い知ったはずです。ならば、必ずどこかで合流する」
「……合流したところで、まとまれますかね?」
 当然のエスターの言葉に、フィリスは頷いた。
「我々に勝機があるとすれば、そこだろう。どれほど二派が連合して、大軍を組織したとしても、指揮系統が一本化するはずがない。宮廷で繰り広げたあの混乱を、本陣に持ち込むだけだ」
「正面からの決戦を選択しますか? フィリス」
 敢えてアイラシェールは問いかけた。そこに勝機がないことを知りながらも。
 そんな彼女の内心を知らず、フィリスはその道を決断する。
 定められた運命、そのままに。
 そして彼は、彼の役割を知らぬ間に果たす。
「奴らは、どの地点で陣を構えることになるでしょう?」
 それに対応して自軍の配置をしたいと、暗に問うフィリスに、アイラシェールは諦観を持って告げた。
 そうして彼らは、英雄たちの登場の基盤を、着々と整備していく。
「合流地点はアルベルティーヌの北――イプシラント」
 そこが、カティス王の名を、歴史に最初に刻む地。
 そうしてアルベルティーヌ――アルバ全土が、戦争に向けてまっしぐらに進んでいった。それは自然の成り行きとして人心の動揺を誘う。
 国は混乱を極めた。離散する者、納税を拒む者が後を絶たず、窃盗や強盗が横行した。税を取り立て、犯罪者を捕らえて処罰する。それはもはや力をもってしかなしえない。
 恐怖政治、と後の世で記されるのも、もっともだとアイラシェールは感じた。だがもはや、それ以外に取りえる手段はなかった。
 脱税者を見逃せば、同じく食い詰め、それでも正しく納税した者に顔向けできない。どれほどそこに到った心情を理解できても、罪を見逃せば秩序が崩壊する。どれほどそこに酌量すべき事情があったとしても、罪人は処罰するしかなかった。
 魔女によって、刑場は血に濡れた――それもまた真実だ。犯罪の横行に歯止めをかけるには、刑を重くする以外の手段は、箍の外れたこの国にはもうなかった。それが無慈悲だと知りつつも、手をこまねいてみていれば、苦しくても罪に走らず踏みとどまっている善良な者たちばかりが犠牲になる。それだけは、アイラシェールには認められない。
 もはや歴史を変えられるとは――変えようなどとは思わなかった。けれど、目の前に広がる惨状を思えば、できることがあるのではと、そんな思いに駆られてやまない。
 自己嫌悪がせり上がる。それでも、他に手段が思いつかなかった。
「そもそも、何のために戦うんだろう」
 フィリスたちには決して明かせぬ本音を、アイラシェールはベリンダに打ち明けた。
「私の理想が、潰えることを私自身が知っているのに、どうして彼らを理想のためにと戦いに押し出さなければならないんだろう。どうしてそれに民と、兵を巻き込まなければならないんだろう」
「フィリスたちは、アイラのために戦うんじゃない。自分のため、自分を全うするために戦うんだろう。――それに巻き込まれた兵や民衆は、気の毒かもしれないけれども」
 これまた本人たちには言えない冷徹な意見を、ベリンダは口にする。
「連中の本望は、己の正義と信念を全うすることであって、実現不可能だからとか、己の身が危ういからとか言って曲げるつもりは毛頭ないのだろうよ。己の正義を全うできるのならば、それに殉じることさえ本望なんだろうとあたしは見ている」
「ベリンダ……」
「奴らには、何を説いても無駄なんだと思う。そういう理想に殉じる奴らと、自分の利のために引けない奴らが、戦わずにはすまないように配置されたのもまた、運命。それをどうしてこうなった、というのは意味がないんじゃないかな」
 琥珀の瞳が、何かを――天を憎むように、強くきらめいた。
「見届けるしか、ないんじゃないかな。彼らが破れるのを――そうして、新しい王が立ち上がるのを。そしてそのために、無辜の民が犠牲になっていくのを。それがあたしらの、運命の一つなんじゃないだろうか」
 己にも運命があることを達観した彼女の、それが結論だった。
 そんな四月のある日、アイラシェールは思いがけない人物に謁見に申し入れられる。
 ウェンロック王から離宮の建設を依頼されていたという石工は、人払いを望んだ後、アイラシェールに小さな箱を差し出した。
「侯妃を信じてお預けいたします。この箱を、どうぞご病床の陛下に」
 ウェンロック王の死をいまだ知らない石工は、アイラシェールにそう請うた。それ以上は何も語らず、ウェンロック王に渡しさえすれば判ると、ただそれだけを言い残して。
 訳がわからず、ともかくそれを受け取ったアイラシェールは、石工が退出した後に、そっと開ける。
 中から出てきたのは、一本の鍵だった。
「離宮の建設……そんなこと、していたっけ?」
 アイラシェールの問いかけに、ベリンダは首を横に振る。
「三年くらい前に完成した離宮は、確かに庭園の中に――薔薇園の方にあるよ。閉鎖されてて、誰も使ってないようだけど。もしかしたら、付随工事が何かされていたのかもしれないね。大がかりなものじゃなかったから、誰も気がつかなかったのかも」
「さっきの人の態度から考えると、内密の工事だったような気配もあるし」
「行ってみる?」
 ベリンダの申し出に、アイラシェールは頷くと立ち上がる。厚い布をかぶって、彼女は外に出た。
 初春の光がアイラシェールの目を射た。その眩む世界に映ったものに、彼女は己の目を疑った。
 薔薇園を中心に整えられた庭園、その再奥には小さな離宮があった。こじんまりと品よくまとめられたその中心にそびえるのは――。
 懐かしさと切なさで、胸がいっぱいになる。
「あ……ああっ!」
 目に涙がにじんだ。昼の光に目眩がするのさえ構わず、駆け寄っていた。夜の闇の中でしかその外観を見ることはなかったが、見間違えることなど――忘れることなどない。
 赤の塔だった。
「コーネリア! カイルワーン!」
 答えてくれるものなど――迎えてくれる者などない。判っていても、それでも叫ばずにはいられなかった。くらくらする体にも構わず、扉を叩き開けていた。床にへたり込んで、息を整え――そして、顔を上げた。
 そこは見慣れない部屋だった。
 玄関扉を開けると、そこは小ホール。それは二百年前も変わりはしないが、調度が違い、おそらく改修もされたためか、がらりと印象が違う。
 それでも、痕跡はそこかしこに残っていた。上階に続く階段とその手すりの装飾。窓の形。扉の配置。根本的な作りは何も変わらない――二百年後のまま、ここにある。
 どれほど時が巻き戻っても。どれほど同じ時間ではないと判っていても。それでも紛れもなく、ここは彼女の家。
 彼女が、十七年間暮らした、家だ。
「ただいま……」
 震える声で呟くと、堪えきれなかった涙がこぼれ落ちた。
「ただいま……コーネリア……カイルワーン……博士」
 それはとても長い旅だった。運命を変えたいと願い、愛しい人を解き放ちたいと願った。ただひたすらに抗い、抗うことすらも定めの中だと知った。そんな苦しい旅だった。
 そして、その旅ももうすぐ終わる。
 もう、終わるのだ。
 ふらり、と立ち上がると、階段を上る。二階には、小部屋が二つ。コーネリアとカイルワーンが使っていた部屋の扉を開け、そしてそこが無人なのを確かめると、彼女はさらに階段を上る。
 最上階。自分が使っていた部屋の扉を開け、彼女は立ち尽くす。
 北向きの、日のあまり入らない部屋――日光に弱い彼女のことを考えて与えられた部屋は、元々化粧部屋だったのだ。その設いに――置かれていたものに、アイラシェールは立ち尽くす。
 青色の縁取りのある大きな鏡が、静かに彼女を見ていた。
「時の、鏡……」
 見間違えることなどない。忘れることなどできやしない。
 それは、全ての始まり。
 一体何度、あの一瞬を夢に見ただろう。一体何度、あの一瞬に戻ることができたならばと思っただろう。
 来なければよかったと思った。差し出されたカイルワーンの手を、素直に受ければよかったと思った。たとえ二人で殺されることになったとしても、それでも幸せだったのだと何度も思った。
 あんな鏡さえなければ、と、何度狂おしく思っただろう――それが詮のない思いだと、判っていても。
 だから、駆け寄って、叫んでいた。
「帰して! 私を帰して! 私の時代に――カイルのところに帰してよっ!」
 鏡面を叩き、泣き叫んで請うても、鏡は答えない。
 ただ彼女の姿を全身に映しとるだけ。
「帰りたい! 帰りたいのっ! 帰してよ。帰して、帰してよっっっ!」
 どれほど涙を流しただろう。どれほど鏡面を叩きつづけただろう。だが、あの時のように鏡は揺らいで時を映すことはなく、ただそこにあるだけだ。
 ずるずると床にへたり込み、鏡に身を預けるアイラシェールの肩に、優しく置かれた手。
「ベリンダ……」
「アイラ……帰りたいよね」
 床に同じように座り込んで、ベリンダはアイラシェールと視線を合わせる。透き通った琥珀の瞳は、痛ましさと寂しさに揺れた。
 伸ばされた手が、冷たい鏡面に触れる。
「これが時の鏡なんだ……これが」
 感慨深げな、不思議な表情で、ベリンダは鏡を見上げる。
「どうしてアイラは、時間を越えるなんてことができたんだろう。この鏡は、どうしてそんな力を持っていたんだろう。アイラから話を聞いた時からずっと思ってきたけど……今実物を見て、何となく判ったような気がする」
「ベリンダ?」
「それはきっと、愚問なんだわ」
 どうしてそうなったのかと、問いかけること自体が無意味だと、そうベリンダは諦めたように呟いた。その言葉は、アイラシェールの理性よりも感覚が先に納得した。
 そうなのかもしれない、と。
 とても苦しい吐息をアイラシェールがもらした時、不意に彼女は抱きすくめられた。柔らかなベリンダの胸に捕らわれたアイラシェールは、その体が震えていることに気づいた。
「運命って……運命って……。どうして私たちはそんなことを知らなければならなかったのよ。変えられないのなら、苦しむことしかできないのに! どうして、どうして私たちでなければならなかったのよ! 他の誰でもなく、私たちでなければ!」
 判っている。ベリンダにも判っている。その問いが、詮のないことであることを。遠い場所で同じようにカイルワーンとカティスが苦しんだように、ベリンダもまた痛いほどそのことは判っている。
 だが二人と同じように、判ったところで痛みは、苦しみは、かけらも減りはしない。
 そんな彼女の様子に、アイラシェールは胸が詰まった。
 ベリンダもまた、とても苦しんでいる。全てを語ってしまったがために、自分と同じ、変えられない苦しみに引きずり込んでしまった。それが、アイラシェールには痛い。
 痛いけれども、でも、事実この胸は温かかった。
 独りで生きていくことは、あとたとえわずかな時間しかなくても、あまりにも辛すぎた。
「どうして……何も変えられないんだろう。諦めて、受け入れることしかできないんだろう……」
 そんな彼女に、アイラシェールはただかぶりを振る。
「それは違う……違うの、ベリンダ。何もできてなくなんてない」
 ただここにいてくれるだけで。そばにいてくれるだけで、救われるものがある。
 助けられない、と泣いてもらえるだけで、救われる気持ちがある。
 もしかしたら、カイル――あなたにもやっぱり、辛いことはあったの? アイラシェールは、もう答えてはくれない人の代わりに、己に問いかける。
 あなたにも辛いことがあって、私はそんなあなたに何もしてあげられなかったけれども、それでも、もしかしたら、私がいることが、何かあなたを安らかにできていた?
 そうだとしたら、私――。
 カイルワーンに会いたい。
 そう切実に、アイラシェールは感じた。
 帰れなくてもいい。共に生きていけなくてもいい。この運命の、何を変えることができなくてもいい。
 ただもう一目だけでいい、彼と会い、この気持ちを伝えることができたら。
 思い込みだけで振り払ってしまった手を――傷つけてしまったであろう心を、もう一度取って、心の底から詫びたい。
そして、告げたい。正直な、本当に正直な、自分の気持ちを。
 会いたい――強く願いながらも、叶うことなどあり得ないと諦めきった願い。そのかけらを運ぶために、誰一人――本人ですらそのことを知らない人物が、ある街を訪れた。
 ごく簡素な身なりの、三十代の男性。しかしその口調の、所作の端々から、彼の育ちのよさが押し隠しきれず、にじみ出る。
 供さえ連れず、男性は独りで街の者に声をかける。
「昔なじみの女性を探しているんだが、知らないだろうか」
「昔の女かい?」
「まあ、そんなところだろうか」
 おばさん連中のからかいを軽くいなし、男性はその核心の名を口にする。
「アンナ・リヴィア・ロクサーヌという、四十過ぎくらいの女性だ。聞いたことはないだろうか」
「ああ、あのアンナ・リヴィアかい。それで、あんたの名は?」
 問いかけに、男性は答えた。
「エルフルト・ライリックと言えば、判ってもらえるはずだ」
 こうして、大陸統一暦1000年四月三十日。カティスとカイルワーンは、運命の一瞬を迎える――。

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