それでも朝日は昇る 9章18節

 春の日は長くなったとはいえ、もうわずかな痕跡を残すばかり。門はもう閉じられているだろうに、それに構わず進む青年に面食らいながら、それでも侯爵は彼の後をついて歩いた。
 名さえ名乗らない、あまりにも傲岸不遜な青年は、侯爵に山ほどの疑問と、不思議な印象をもたらした。
 まるで何もかも見通しているようなその口ぶりは、誰かを思い出させ――そう、それはまるで。
「侯爵、君は凄い人だね。僕でさえ話してもらえなかった本音を、ただの一言で引き出してしまったんだから」
 くすくす、と苦みの走った忍び笑いをもらす彼に、侯爵は消化不良の表情で答える。
「その代わり、彼をすっかり怒らせてしまったようだ」
「それは当たり前だろう。誰であろうと、カティスにこの話を持ってくれば怒らせることになる。だけど、それにしても――」
 街路を辿りながらも、青年は不意に不思議な表情をして、彼を見た。
 辛そうな、呆れたような、どこか諦めきったような――そんなものが入り交じった、なんとも形容し難い表情。
「カティスにこのことを告げるのが、他ならぬ君だったとは……やはり、何もかもが無関係ではないんだな」
「君……」
「君と僕が、初めて出会うのが、こんな形だったなんて、想像もしなかった」
 目が、目の前の自分ではなく、遥か遠くを見ている。どこか焦点に合わない、その瞳。覚えがある――そうそれは。
 閉まっていた門を「悪いね、開けて」のただ一言で開けさせてしまった青年は、今か今かと待ち構えていた供に侯爵を引き渡すと、こう問いかけた。
「アイラシェールは、君に優しかったか? 侯爵」
 その突然の名――それは侯爵を、愕然とさせる。
「君は、アイラシェールに優しかったか? 君が彼女を見捨て、袂を分かった時、彼女はどんな顔をしていた? 彼女は泣いたのかな。それとも彼女が君を行かせたのかな……」
 それは問いかけというよりは、どこか独り言染みていた。返答を期待していないとばかりに、淡く微笑んで自分を見ている青年に、侯爵はたまらず叫ぶ。
 そう、彼のその目は――その雰囲気は、驚くほどアイラシェールを思い起こさせる。
「君は何者だ! 君は何者で、アイラシェールとどんな関係で――そして、彼女は、何者だったんだ!」
「僕は彼女と同じ運命に連なる者。同じ運命の糸の、その両端にそれぞれ結ばれた者」
 不敵な笑みを浮かべて、青年は侯爵に告げた。
「侯爵、僕と君はもう一度、別の場所で出会う。その時、君が望むのならば、全ての真相を明らかにしよう。僕と、彼女と、そして君にもある、決して変えられない運命というものを。――その結果、君は僕を恨むことになるかもしれないが、それは僕の知ったことじゃない」
「それは……一体……どういうことだ」
「君はアイラシェールを知っているだろう? 彼女が、一体何であったのかを」
 くすり、と艶麗な笑みが、口許に浮かんだ。
「彼女と同じ預言者の名において、約束しよう。――また会おう、バルカロール侯爵」
 それだけを言い残し、青年は門の向こうに消えて行ってしまう。ただ呆然とその背を見送り、侯爵は惑う自分をどうすることもできずに立ち尽くす。
 一度閉まった門を、あんなにもたやすく開けさせることのできる人物。それは街の有力者を意味する。それがあんなにも若く――むしろ幼く、しかもあんな貧民街に住んでいる。それは常識から考えれば、決してありえないこと。
 そして、そんな彼が、王子と目される人物のかたわらに、ごく当たり前のようにある。
 アイラシェール、カティス、そしてあの青年。この三人の間でおそらく何かが凄まじい勢いで動いており、その流れに自分が巻き込まれようとしているのを、侯爵は悟った。
 脳裏を甦るのは、別れ際のアイラシェールの言葉――その預言。
 この世界には、運命が存在する。
 人の一生は、あらかじめ全て決まっている――。
「そんな、馬鹿な……」
 だが、あの青年は全てを見通していた。彼女と同じく、預言者だと名乗ったあの青年は。
 何かが、自分の周りで、自分の知らないうちに始まっている――その予感に、侯爵は身震いを覚えた。
 また会おう――青年のその預言を、約束を、しっかりと握りしめて。

Page Top