蒼天抱くは金色の星
 第1話 大陸統一暦1000年7月もしくは996年、娼婦エルマラと約束のタルト 03

 『千里香』からの使いはほどなくして現れた。店の雑役をしているのだろう若い男は、エルマラから話は聞いた、約束通り一週間後の店開け前の時間に、と楼主の伝言をぶっきらぼうに告げて帰っていった。
 バターをたっぷりと使う贅沢な生地を練りながら、俺は何をしているんだろうな、と独りごちる。
 一度も会ったこともない娼婦のために、こんな手間も金もかかる料理を差し入れるとは、酔狂にもほどがある。
 俺はそこまでお人好しだったか、と考えれば、そんな訳あるわけないだろう馬鹿馬鹿しい、という思いはよぎる。
 けれども都度耳によみがえるのは、子どもの頃ぶつけられたあの苦い言葉。
『お前に俺たちの気持ちは絶対判らねえよ』
 恐れることもはばかることもなく、俺にそう言い放った友の暗い目は、今でも脳裏で薄らぐことはない。
 ああ、そうだ。俺には判らねえよ。
 実の親に売られる気持ちも、借金に縛られ己の身の何一つ自由にならない辛さも。
 苦界から抜け出せぬまま、己の一生が終わってしまう。それを悟ってしまっているだろう虚しさも。
 だけど、だから。俺は無心に山と積まれた材料の皮をむき、薄切りにしていく。鉄鍋で炒め、ただゆっくりと炒め続けて。
「あなたは?」
 その女は突然現れた俺に、怪訝そうに問うた。寝台でけだるげに半身を起こし、俺とエルマラを見上げる。
 娼館『千里香』。通された部屋に男を迎えるための支度は微塵もなく、ただ病を受け止めるだけの倹しさと侘しさが満ちていた。
「『粉粧楼』という酒場をやっている。エルマラの頼みで今日はここに来た」
「姐さんから預かった綴り、カティスからこの人に託せって言われて」
 俺の名乗りとエルマラの補足に、ああ、とアルチーナは弱々しく笑った。
「ああ、あれをカティスに頼んだのね。ならあなたは彼のお知り合い?」
 この女もあいつを知っているのか。あの馬鹿は一体何人の女と寝てるんだ。苦々しい思いを飲み下した俺に、アルチーナは当然の問いを向ける。
「でもどうして彼ではなくあなたが?」
 問いかけに俺は、携えてきた包みをほどく。そこから現れるのは、ほどよい焦げ目がついた一台のタルト。女はそれと俺の顔を等分に見交わす。
「覚えていないだろうか。お前が子どもの頃、母親が祝い事のたびに作ってきた、お前の大好物」
 その顔にあふれている困惑の色を見て取り、俺はことさら淡々と告げた。
「タマネギのタルトだ」
 飴色になるまで炒めたタマネギを卵牛乳クリームでまとめ、バターで練った小麦生地の上で焼き上げた贅沢な料理だ。もしこれが喉を通れば病人にはまたとない滋養になるだろう。
 傍らの小机でタルトを切り分け、皿を差し出す。それを受け取りながらも、いまだ事情を飲み込めないアルチーナに、俺は件の綴りを取り出す。
 その最初のページに綴られた文章を、俺は口の端に乗せた。

『これをあなたが読むことが叶うのか、この先これを読み聞かせてくれる方にあなたが出会えるのかは判りません。
 女の子であるあなたに読み書きを学ばせられるほどの余裕が、これからの旦那様にあるのか。それほどの教養ある方にあなたが嫁げるのか。
 それを考えると、たやすくはないことだとは判っています。
 それでもひとかけらの望みを託してこれを記します。
 私の病がもはや治らぬこと、遠からずあの世へと旅立たなければならないことを知った時、思ったのはただあなたのことでした。
 あなたは私が死んだ後も、私のことを覚えていてくれるでしょうか。
 私との思い出をどれだけ心の中に留めておいてくれるでしょうか。
 そして私はこの残された時間で、あなたに何かを遺せるのでしょうか。
 思案の末、私の実家のこと、私の故郷のこと、そして折にふれて食卓に載せてきた料理のことを書き残すことにしました。それが私がいなくなった後、あなたが私のことを記憶の中から取り出すことのできる手がかりとなると信じるからです。
 これを記しながらも目の裏に浮かんできます。私がタマネギのタルトを作るたびに、あなたが竈の前にちょこんと座り、焼き上がるのを嬉しそうに待っている姿が。
 こんなにも幼いあなたを残していくこと。これからの先の人生で、後ろ盾になってあげられないこと。そのことを考えると、胸が張り裂けそうです。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい。私はこれ以上、あなたを守ってあげられない。
 これを読んでいる今のあなたが、辛い思いをしていたとしても、もはや私にも何もしてあげられない。
 それでもただ祈ります。今の私には、祈ることしかできません。
 あなたの未来に、どうか安息と幸運がありますよう』

 読み聞かせる俺の感情は震えない。けれども目の前の女の顔は、小刻みに揺れていた。
 俺の顔を凝視するアルチーナに、これ以上敢えて何も言わない。ただ目をそらさず見つめている俺が何を促しているのか、彼女はやがて察したようだ。ゆっくりとタルトを口に運び、そして。
 ああ、と小さな嘆きをあげた。
「ああ、そうだ。判る。覚えてる……私、これ、食べたことがある」
 目が、頭が覚えていなくとも、舌はそれを覚えていたのだろう。
 炒めたタマネギと卵や乳の甘さが、タルト生地のほろりと崩れる歯触りとともに口の中に広がる。
 彼女と家族にとって、これはきっとご馳走だった。
 母が死に、生業が傾き、家が壊れてしまうまでは。
 アルチーナは片手で皿をつかんだまま、もう片手で顔を覆った。その手から涙が、喉から嗚咽が漏れるのを、俺とエルマラはただ受け止めた。
「ママ……ママ、ごめんなさい。私、頑張ったのよ。ママが死んだ後も、娼婦として生きるしかなくなった後も、精一杯頑張ったのよ」
 その嘆きを、俺とエルマラは逃げられずただ受け止めるしかない。
 どうすることもできない。
「でも、もうだめ……これ以上は頑張れない。だからもう、行っていい? ママのところに行っても、怒らないよね……」
 ごめん、ごめんと少女のように稚く女は謝り続け、そして。
 己を奮わせるように涙を拭うと、再び俺に向いた。
 その声は何かを振り切ったように凜としていた。
「このタルト、あなたが作ってくださったのね」
「ああ」
「ありがとう。おかげで人生の最後に、確かに私を掛け値なく愛してくれた人がいたのだということを、思い出すことができました」
 毎夜のように男を相手にし、中には愛をささやく男だっていただろう。それでも――だからこその言葉は、俺の胸に苦いのか甘いのか判らない複雑な感慨を落とす。
「もしお時間が許すなら、残りのページも読んでもらえませんか? 母が私に残そうとしてくれたこと、全部聞いておきたいんです」
「ああ、構わない」
 俺の答えにアルチーナはもう一口、タルトを頬張った。ゆっくりと咀嚼するその頬を、もう一筋涙が伝う。
 泣き笑いを浮かべて女は俺に言った。
「おいしい」
 俺は一瞬だけ目を伏せた。
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