彼方から届く一筋の光 04

 じりじりと焼けつくような日差しに、私は目を細めた。そういえば1215年の8月は猛暑だった、と自分の記憶を辿ってうんざりとする。
 だからこそ私は、父王の避暑に同行する気になったのだった。
 時を遡ってから、私は一月をアルベルティーヌで過ごした。
 8月に入れば「この時代の私」は、父王と共にゴルトクベレに避暑に出かけ、二週間不在となる。私が「この時代の私」と入れ替わろうとするならば、機会はこの時をおいて他にない。
 この一月の間、色々考えた。もしかしたら私は、正面を切って城に向かってもいいのかもしれない。門番に「開けてくれ」と言えば、扉は開くのかもしれない。そうも思った。
 なにせ私は四年の歳月を経ているとはいえ、オフェリア・ロクサーヌ本人なのだ。門番を惑わせることくらい、できないことではないのかもしれない。
 ただ問題は、城の中にも「私」がいることなのだ。何も知らない、この時間の正しい存在である「私」が。
 「私」が紛れもなく城にいる時に、オフェリアとして門を開けさせようとしても、門番は応じないだろう。その人物がどれほどオフェリアそっくりであったとしても、それは不審すぎる。
 だがオフェリアが確実に外出していると、城の誰もが判っている時ならば、オフェリアが戻ってきたと偽って門を開けさせることは、叶うかもしれない。
 そう考えて、自分の思考に私は苦笑を禁じ得ない。オフェリアのふりをするって、私はそもそも間違いなくオフェリア・ロクサーヌじゃないか――時々そう癇癪を起こしたくなるのだ。
 一つの時間に、同じ人間が二人いる。この不快感と違和感を、どう表現したらよいだろう。しかも自分の方が異分子で、あるべき存在ではないと判っているからこそ、なおのことそれはいやます。
 「この時代の私」は誰にも依存せず独立しているのに、私は「この時代の私」に依存した存在だ。過去の自分の身に何かあれば、その未来として存在している私にも影響が及ぶのではないだろうか。だが未来の私に何があっても、過去の自分は何の影響も受けない。それが何とも苛立たしい。
 私は「この時代の私」に、一切の手出しができない。たとえば今城に入り込み、私が正統のオフェリアを名乗って「この時代の私」を追い出すということも、やればできるのかもしれない。けれどもそれは実行には移せない。それで「この時代の私」が路頭に迷い、死んだら、私も消える。その可能性が大だ。
 私は何にしても、この「時代の私」を守らなければならない。だがこの現実は、何とも居心地が悪く不快だ。
 だがそれも、もうじき終わる。
 アルベルティーヌ城から馬車の列が出立していくのを、私は大門から少し離れた場所から見送った。馬車も雇った。この頃のオフェリアらしい夏物の衣服も、用意した。あとは「何らかの事情で、ゴルトクベレの道中から一人城に戻ってきたオフェリア」を装って、入場すればいい――そう算段をつけて、私は宿への道を辿る。
 全てはあともう少しだ。もう少しで城に入れる。もう少しでアイラとカイルに会える。そうすれば二人を逃がすことが、助けることができる。
 そして――それからは?
 その問いかけは、この一ヶ月、常に私の中に明滅している。二人を城から、そして国から逃がす。それはそれでいい。だがそこから先、私はどうするのだろう。どうすればいいのだろう。
 私は「この時代の私」と入れ替わることはできない。城の中に入ったとして、そのままオフェリアであり続けることはできない。「この時代の私」の私が戻ってくる前に、城から出て……そしてそれから先は、どうするというのだろう。
 私は、独りで、生きられるのだろうか。この一月で、それがひしひしと身に迫ってくる。
 女が独りで生きていくことは、大変なことだ。女を一人で泊めてくれる宿さえ、容易には見つからなかった。私の身につけていたものがどれほど高価であったとしても、それを売り払って食いつなぐのではいずれ行き詰まる。だが私は、何をしたら己の身を養うことができるだろう?
 一月の間、色々なことを考えた。二人を助けること、動乱に対処すること、そして過去を変えること。
 アイラとカイルを助けたい。これは決して譲れない。だがそれで動乱は止まるだろうか、歴史は――否、私の人生は変わるだろうか。
 もし私が動乱を回避することに成功したら、「この時代のオフェリア」は女王として即位するだろうか。そうなったら私は、どうなるのだろうか。ガルテンツァウバーによる策謀で、人生を歪められた結果として、過去に来ることになったこの私は。
 「あり得ない未来」から来た私は、その瞬間消えるのだろうか。それとも時間のまれびととして、「この時代のオフェリア」と共存しながら、新しい未来を生きていくことになるのだろうか。
 それとも一時の時間旅行として、何も変わっていない、あの1219年のシャンビランに引き戻されてしまうのだろうか。
 一月考え、考えに考え、そして出た結論は「判らない」でしかなかった。考えても、何も判らないし確かめる術がない。だとしたら、どれほど不安でも行動するしかないのだ。ただ目の前にある、刹那の課題。それがやり遂げるだけだ。
 たとえそこに、自分が消える可能性が含まれているのだとしても。
 そのはずだったのに、私は間もなく、その決意を一枚の手紙により根底から覆されることになる。
 それはこの一月の間逗留している宿に届いていた。宿の主人が差し出したそれに、私は思わず目を瞬かせた。
 私はこの時代のどんな人たちとも、深い関わりを持っていない。無論宿の人や、近所に住む人たちと言葉を交わしたりはするけれども、そんな私に、一体どこの誰が手紙をよこすというのだろう?
 封蝋には印が押されておらず、差出人は外からは伺えない。
「一体誰から……」
「名乗られませんでしたが、身なりのよい若い男性でした。ただ渡せばお判りになると」
 主人の語る言葉に、不審はいや増す。だからこそ無視することもできず、私は自室でその手紙の封を、もどかしく切って。
 そして、驚愕をもってその文面と向かい合うこととなる。

『このような手紙を匿名で差し上げる無礼を、まずはお許しください。そしてその上で、私の言葉をお聞き入れくださるよう、お願い申し上げます。
 貴女が、第一王女であらせられるオフェリア・ロクサーヌ殿下に非常によく似ておられること、むしろ瓜二つといってよいほどの容貌であることは、アルベルティーヌ城下でひそかに噂となっております。
 そしてそれは王家に悪心を抱く者にとって、またとない陰謀の材料と捉えられていることをお知らせいたしたく、こうして筆を取った次第です。
 現在城下では、貴女を利用した陰謀が進行しています。貴女を誘拐し、オフェリア王女と偽って王家に身代金を要求するという稚拙なものから、貴女を傀儡とした後オフェリア王女とすり替え、王家乗っ取りを企てるという大がかりなものまで幾つもあり、いずれにしても貴女に危険が迫っていることには違いがありません。
 ついては、早急にアルベルティーヌを離れられることをお勧めいたします。オフェリア王女が避暑のため王宮を離れた今が、王女と貴女の双方が最も危険であることは、貴女にもお判りのことと思います。
 その上で、ぜひ私どもの元においでくださいと申し上げたいところなのですが、残念ながら、先に述べたような貴女を利用しようとする輩と、私どもが違うということを証明する手だてはありません。ですから、このような手紙を差し上げるにとどめました。
 この手紙の内容、そして私どもが貴女が信じるか否かは貴女次第です。しかし我々が、貴女の無事を心から祈るものであることだけは、信じていただければ幸いに存じます』

 私はその手紙を手にしたまま、凍りついてしまった。
 この手紙を送ってきた者たち――文面の中で、複数形で自らのことを語る『彼ら』の正体は、予想がつかない。だがその内容は、悪戯や冗談として無視するにはあまりにも重すぎた。
 一般市民は、私の姿を肖像でしか知らない。だから他人の空似でこの一月、押し通せた。だが私の顔を直接見たことがある者には通じないだろうし、それは決してごく一部の人間ではないのだ。国の行事や、それに付随する夜会や歓迎会などに多く出席していた私と面識のある者は、アルバ社交界には数多くいるのだ。
 1215年において、オフェリア王女を手に入れるということは、アルバ王国を手に入れることに等しい。私を巡り、有力貴族が水面下でどれほど熾烈な争いを繰り広げていたのかは、私とて知っていた。だからこそ私は誰と噂になることも避け、身を慎んで生きてきたのだが。
 そのことを思い出せば、心の底にある暗い湖に自分が沈んでいきそうになる。だが今は、そんな物思いなどに耽溺している場合ではない。上質な紙に美しい手跡で記された手紙をもう一度読み返して、私は内心で呻いた。
 私とこの時代のオフェリアをすり替えようと画策する者がいる。それは入城したい私にとっては好機かもしれないが、それでこの時代のオフェリアを害されたら、元も子もないではないか。
 あと少しだったのだ、城に忍び込むまで――アイラとカイルに会うまで。
 今アルベルティーヌを離れたら、全てが無駄になってしまう。そしてこの機会を逃したら、何の手だても後ろ楯も持たない私が入城することなどまず不可能になってしまう。
 だからといって、この警告を無視できようか。この手紙の差出人の目的は、私をアルベルティーヌから出ていかせることで間違いない。だが、私にここにいてほしくない、邪魔だというのなら、他にやりようがいくらでもある。助ける者など誰もない私一人など、拉致するも害するもたやすいのだから。手紙を持ってきたという男一人で、十分果たせるだろうことだ。
 それなのに、こんなまどろっこしい方法で、相手は警告してきた。それは私を害する意図からではないのだろう。だとしたら――多分。
 本当に、私は、危険なのだ。
 手紙に書かれている陰謀が、本当に存在しているのかは判らない。けれども、私にアルベルティーヌにいてほしくない「誰か」は、確実に存在している。その「誰か」は今はこんな穏健な圧力しかかけてきてはいないが、それを無視した時、次の手がどうくるかは判らない。手のひらを返さない保証など、どこにもないのだ。
 なぜだ。私の正体を知る者など、誰一人この世には存在しないはずだ。それなのに「無事を祈る」と記す者がいる。その意味するところは、一体何なのだ。「彼ら」は一体何者だ。
 混乱した。頭の中がおかしくなりそうだった。だがいつまでも頭を抱え、立ち尽くしているわけには行かないことも、同時に判っていた。私にすべきことは、悩むことでも迷うことでもなく、決断することだった。
 アルベルティーヌを去るか、否か。
 そして答えは、一つしかなかった。
 わずかな荷物を、震える手で鞄に詰めた。宿代は毎朝支払っているから、このまま出て行っても構わないだろう。これからどうするかはともかくとして、少なくともこの宿からは離れなくてはならない。主人に簡単に出立を告げて宿を出て、すぐ。
 視線を感じた。
 私は雑踏の中で立ち止まる。背筋にじんわりと冷や汗がにじむのを感じながら、思い切って振り返ってみても、その主は判らない。鞄を抱きしめて足早に小路に入った。喧騒は遠ざかり、石畳に私の靴音だけが響いている。
 一歩、二歩、三歩。そこで立ち止まる。そして判る。
 感じる視線は、伝わる気配は、消えない。
 誰かに、つけられている。
 その瞬間私に襲いかかってきたのは、他人ではなく混乱した自分自身だった。恐慌に駆られた己を止めることもできず、私は遮二無二走り出す。背中にまといつく視線を引き離そうと、走って走って、ついに見えてきたのは城門の一つ、西門。一月前くぐったのとは別の門を、私はあの時とは違う速度でくぐり抜け、そして。
 後ろから来た荷馬車にひかれかけた。
「危ねえぞ、姉ちゃん!」
 慌てて手綱を引いた御者の男性に、私は上がる息を懸命に吐きながら叫んだ。
「すみません! どこまででもいいので乗せてください!」
 この時の私は、おそらく傍目に鬼気せまる勢いであったのだろう。一瞬たじろいだものの、何事かを察して男性は私を荷台に招き入れてくれる。私が木箱や樽の隙間に体を滑り込ませると、馬車はがたがたと揺れながら走り出した。
 私が自分を落ち着かせるのに、どれくらいの時間が必要だったのかは判らない。だがやがて張り裂けそうだった心臓も上がっていた呼吸も落ち着くにつけて、ゆっくりと思考も回りだす。
 誰かいた。誰かが、私についてきていた。あれは誰だったのだろう。あの手紙を持ってきたという男だろうか、それともその手紙が示していた陰謀を巡らせていた誰かか。そのどちらにしても、私は逃げきることができたのだろうか。
 そっと木箱の隙間から後方を伺うと、馬車が広い街道を進んでいるのが判った。徒歩で街道を行く旅人も、荷や客を載せて往来する馬車を多くあったが、そのどれもが私を追いかけてきているようには見えなかった。
 脱力して、私は大きなため息をついた。そして己の無様さに、肩を落とした。
 本当に私は誰かに尾行されていたのだろうか。姿を見たわけではない。確証なんてどこにもない。それに本当に尾行者がいたのならば、もっと冷静に対処すべきだったろう。それなのに、あんなに取り乱して――そこまで考えて、私ははっとした。はっと気づいた。
 私、鞄、どうした?
 その瞬間、血の気が引いていくのを感じた。慌てて乗っている荷台の周辺を探るも、どこにもなかった。
 残り少なくなっていたとはいえ、あれには全財産が入っていた。それを失くしたということは。
 洋服の隠しに入れていた財布には、百サレット銅貨が五枚入っているのみ。これでは宿どころではない。あと一体何日食べていける?
「どうしよう……」
 いずれこの日が来るのは判っていた。しかしそれは、今ではなかった。まだ何もできていない、アイラとカイルに何もしてあげられていない、今では。
 探しに戻らなくてはと焦る心と、無理だ危険だと諌める心がせめぎ合う。答えが出せぬまま馬車は進んでいき、そして。
 それからどれくらいたっていたのだろう。丘を登りきったところで、馬車は不意に止まった。
「ここの分岐で俺はモリス村の方に行くけど、あんたはどうする?」
 御者の男性に問われて、私は戸惑った。ここがどこかも判らない、これからどうしていいかも判らない。どうしようもない私は、取りあえず馬車を降りて、そして息を呑んだ。
 丘の下に、街があった。今まで進んできた街道が、アルベルティーヌとこの街を繋ぐためにあったのだと確信できるほどの、巨大な街。
 その街は、城壁が三重に張りめぐらされている。おそらくは街が城壁の外に膨張し、そこに新たな城壁を築くことをくり返した結果に違いない。城壁と城壁の間に、ぎっしりと建物が立ち並んでいるのが伺えた。
 そして城壁の最奥には、街の規模に見合う立派な港があり、多くの船が停泊していた。夏の光をいっぱいに浴びて海はきらめき、街全体が輝いているようにさえ見えた。
 そこがどこであるかはもう、考えなくとも判った。
 アルベルティーヌからさほど離れていない場所で、これほどの都市といったら、一つしかありえない。
 そしてそこは、私にとっても縁浅からぬ土地だ。
「これが……レーゲンスベルグ」
 ロクサーヌ朝の開祖、英雄王カティスの故郷。
 その威容に、私はただ息を呑んだ。

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