彼方から届く一筋の光 05

 自由都市レーゲンスベルグ。その名はアルバだけでなく、大陸中に鳴り響いている。
 大陸統一暦1000年、英雄王カティスと賢者カイルワーンを輩出したこの街は、彼らの起こした『六月の革命』に貢献した功績を認められ、正式に自治権を与えられた。以来二百年、大貿易港・商工業都市として発展を続けてきた。
 レーゲンスベルグとロクサーヌ朝の関係は、なかなか複雑だ。レーゲンスベルグは自治領にしておくには、あまりにも魅力的すぎる都市だ。その資金力や武器や兵器の生産力は王家に絶対不可欠のものであり、王領に組み入れようと画策した王も、二百年の間には幾人かいた。
 だがレーゲンスベルグの施政人会議は、「自由を侵すならばいかなるものとも全面戦争も辞さず」の姿勢を貫いている。自治都市として独自の軍勢を有している彼らと事を構えれば、国軍とて無傷ではすまない。結果いずれの王も併合を断念し、都市と国家は「最も友好的で親密な取引相手」という関係のまま今日を迎えている。
 あの1217年時、レーゲンスベルグはどうしたのだっけ。私は当時の記憶を辿る。明確な叛意は見せなかったが、積極的に王家の支援にも乗り出してはこなかった。裏でイントリーグ党に資金や武器が流していたか確かめる術はないが、表立って支援も加担もしてはいないようだった。
 ロクサーヌ朝滅亡後も自由都市であり続け、イントリーグ党の暫定政府に恭順もしなければ反抗もしていない。つまりはただ、そのままであり続けていたはずだ。
 ただひたすらに独立不羈を貫く街。アルバにあってアルバでない街。
 そう、ここは小さな国家なのだ。最初の門をくぐり、その町並みを見上げながら、私はその感慨を強くした。
 だがそんな物思いよりも、私には先に考えるべきことがあった。これから自分が、どうすればいいのか。
 もはや金は尽きた。これから独りで生きていくのならば、己が身を養う手立てを考えないといけない。
 だが正直、どうしていいのか判らなかった。どうやって仕事を探していいのかも、自分には何ができるのかも、皆目見当がつかない。
 こうしてみると、ほとほと自分の無能さが身に沁みる。自分自身では、王女の身分に安閑としていたつもりではなかった。アルバを背負いアイラシェールを守るには、愚鈍ではいられない。勉学に励み、見識と教養を深め、社会の実情を体験し――それなりに、自分では努力してきたつもりだった。
 だがこうして『王女』や『皇太子妃』という衣をはぎ取り、独りで何かできるかやってみろと放り出されれば、何もできやしない。過去を知りながら、それに介入する有効な手だて一つ講じられない。それどころか、与えてもらった財産を食いつぶして、こうして路頭に迷う始末。
 このままでは、アイラとカイルは――その思いに、ぎゅっと私は胸を握り込む。
 大丈夫、まだ二年もあるのだから。そう自分を鼓舞するものの、泥沼に沈み込む心と体を浮揚させることはできない。背中や肩にまとわりつく重いものの正体は、私にも判っている。
 街は薄暮に包まれている。私はこの一晩を、何とかして越えなければならない。
 背を壁に預けて、地面に座り込んだ。小路を少し入った、大きな店の裏。座り込んでしまえば、死角になって表通りからは見えない。
 自分の膝を抱え、顔をうずめて。私はただ自分を襲う虚脱に身を任せた。
 ごめんアイラ、お姉ちゃんちょっと疲れた……。
 その一夜は、ひどく辛いものになった。雨が降らなかったことも、夏だったことも、幸いなことだったろう。だがそれでも抱きしめた体が小刻みに震えた。疲れて、頭はまともに働かないのに、眠ることもできない。体は眠りたいと叫び、頭は眠っては駄目だと警告する。そんなちぐはぐな己をどうすることもできず、ただ早く朝が来ることだけを考えた。
 それでもやはり疲労が勝ったのか、ごく浅い眠りと目覚めを何度も繰り返していた時。
 かすかな声を近くで聞いた。
 ねーう、ねーうという小さな声。顔を上げると、小さな前足が、私の爪先をひっかいていた。
 子猫というほど小さくはなく、だが成猫というのは頼りない。そんな猫が足元で啼いている。
 迷い猫だろうか。人馴れしたその猫は、私にすり寄ってくる。
 知らず顔が綻んだ。
「お前も……独りなの?」
 返事はない。だがその喉を撫でてやりながら、私は微笑んだ。
 笑うのは、一体何年ぶりだろう。そう改めて気づくような日々を送っていたのだと、不意に気づいた。
 抱き上げると、その体は温かかった。その温もりに、かえって胸が痛んだ。
 盛んに猫は啼いている。それの意味するところを察し、私は困り果てた。
「お前、お腹空いてるの?」
 自分が食べるものすら事欠いているのだ。この猫にあげられるようなものは、何も持っていない。
 どうしようか。そう私が迷った刹那、唐突に扉が開いた。
 私のいた場所のすぐ横に、扉があったことにさえ、私は気づいていなかった。
「おはよう、今日はずいぶん早いお出ましだね――って?」
 その言葉が、猫に向けられたものであることに気づくのに、私は一瞬の時間が要った。店の中から出てきた青年は、猫と私の姿に一瞬絶句し、そして。
 やがて笑った。
「こんな可愛いお姫様を連れてくるなんて、お前やるじゃん」
 その言葉に、顔に血が上った。
 こんな早朝に、こんな物陰に私がいたことの意味を、この青年が悟らぬはずがない。後ろめたさと恥ずかしさで、いてもたってもいられなかった。
「ごめんなさいっ」
 叫んで逃げ出そうとして、だがその腕をたやすく掴まれた。
「待って」
 びくりと身を震わせた私に、青年は優しい口調で告げた。
「上がって休んで。ひどい顔色をしている」
 その思いがけない言葉に、私は動揺した。ためらう私を、青年は腕をつかんだまま店の中に招き入れた。
 扉の向こうは店の厨房だった。こんな早朝なのに、もう店の仕込みが始まっているらしい。竈にはスープを取る大きな鍋がかかっており、石窯ではパンか何かをもう焼いていた。
 バター生地が焦げていく、たとえようもないよい匂いがいっぱいに立ち込めていた。
「店の方はまだ開けてないんだ。ごめんね。今こいつにご飯あげちゃうから」
 扉の向こうでは、あの猫が盛んに声をあげている。この青年が、普段から餌をあげていたのかと納得して、私は安堵と落胆の小さなため息をついた。
 片隅に置かれた休憩用の小椅子を勧められて座ると、不思議なくらい落ち着いた。外に猫の餌を入れた皿を置くと、青年は石窯を開けて天板を取り出した。
 次々と取り出される天板の上には、様々なペストリーが並んでいる。おそらく朝一番で売りに出すのだろうそれらの香ばしい匂いに、胃が痛んだ。その光景から目をそらした時、青年が不意に私に手を伸ばす。
「はいこれ。まだ熱いから、気をつけてね」
 唐突に差し出された皿に、私はさらに戸惑う。まだ湯気を上げているのは、大きく切り分けられたかぼちゃのパイ。だが差し出されたそれをどうしていいのかが、私には判らない。
 いやそれが、食べろ、という意味だということは判っている。だが今の私には、それをためらいもなく受け入れることなどできない。
「あの、私」
 持ち合わせが。そう恥を忍んで言うより先に空っぽの胃が鳴った。思えば昨日の朝、アルベルティーヌで朝食を摂って以来何も食べていない。赤面するしかない私に、青年は見透かしたように笑んで問いかけてきた。
「かぼちゃは嫌い?」
「……大好き」
「だったら食べて」
 柔らかく逃げ道をふさぎ、青年は私に皿を握らせた。戸惑い、それでも誘惑に抗いきれず私はフォークを取る。
「うちはね、レーゲンスベルグで一番最初にかぼちゃとさつまいものパイを出した店なんだよ。二百年前、賢者から教えてもらった伝統のレシピを、そのまま守ってる」
 青年は自分の仕事に戻りながらも、私にそう言う。私は小さく切った一口を、恐る恐る口に運んで。
 涙が、こぼれ落ちた。
 脳裏に、懐かしい声が甦った。
『ちょうどいい時にいらしてくださった。今度のパイは、自信作なんですよ。今お茶も淹れますから、アイラと召し上がって行ってくださいね、オフェリア様』
 そう言って階下の厨房で、まだ熱いパイを切り分けてくれた人。
 偶然だとは判っている。それなのにどうして、この青年のパイはカイルワーンのそれとこんなにもよく似ているのだろう。
 懐かしさと切なさに、胸がかき回される。
 どうして、という思いが胸に落ちた。
 すぐそこにいた。あの門を越えて、城の中に入ることさえできれば、そこに彼はいたのだ。
 まだこの先の悲しみを知らぬまま、十五歳と十七歳で、そこに彼らはいたのだ。
 それなのに、どうして手が届かない。どうしてこの温かさに、手が届かないのだろう。
 涙が止まらない。泣きたくなんてないのに、こんな無様な姿をさらしたくなんてないのに、涙が止まらなかった。
 青年はそんな私の様子を、見ないふりをしてくれた。何も言わず、ただ仕込みの作業を黙々と続け、けれども私が落ち着くのを待っていてくれた。
 皿が空になり、私のぐちゃぐちゃになった顔が何とか多少なりともに戻るまでは、結構な時間が必要だった。それでも立ち上がり、青年に空になった皿を差し出す。
「ありがとうございます。とっても……とってもおいしかった」
「そう。よかった」
「それでお代を――」
 手持ちは残りわずかだ。だがその全てをはたいてもいいと思った。だが。
「いらない」
 青年は皿を受け取り、さらりと答えた。水場にそれを下げていきながら、何でもないことのように言う。
「自分の作った料理で泣くほど喜んでもらえた相手から、金なんて取れない」
「だけどそれは……」
「そしてこれは俺にとって、一日に何枚も焼いて、さらに何個にも切り分けて沢山売るパイの、ほんの一切れなんだよね。それを今困っている君に差し出せないほど、俺は不甲斐ないつもりはないんだ」
 やはりこの青年は、見透かしていたのだ。だがその上で余裕を語る青年に、私は続ける言葉を持たなかった。
「行くあては、ある?」
「ありません。でも」
 胸元をぎゅっと握りしめた。体は変わらず重い。だが体の中心は温かかった。それはおいしいものを食べ、空腹を満たされたせいなのか、久しぶりに他人の優しさや気遣いというものに触れたせいなのかは判らない。
 大丈夫。これならまだ頑張れる。
「やらなければならないことはあります。だから大丈夫」
 顔を上げて自分に言い聞かせるように言った私に、青年は小さく頷いた。
「君自身がそう言うなら、そうなんだろうね。でも、もし君が俺に対して恩義を感じているなら、覚えておいて。もし君がまた俺のパイを恋しくなったら、ここを訪ねてくればいい。この広いレーゲンスベルグで、君が他ならぬ俺のところに来たのは、何かの導き――そう、縁があったんだと思うから」
「縁」
「そう。君みたいに綺麗なお嬢さんとは誼を通じておきたい――とか言うと下心を疑われるだろうけどさ、それはそれで嘘じゃない。パイ一切れで買える誼と恩なら安いもんだ」
 男ってそういうもんでしょう? と青年は笑った。私には重たいものを、軽く感じられるように渡してくれる青年の気遣いに、私は頷いた。
「いつか必ず恩は返します」
「期待してる」
 私は深く頭を下げると、店の外に出た。レーゲンスベルグは広い街だ。もう一度ここに辿り着けるかどうかは判らない。だから決してここを忘れないよう、道を忘れても辿り着けるよう、店の表に回って店名を確かめる。
 表通りは仕事に向かう人でごった返していた。その活気と、しっかり昇った朝の光に目を細めながら、私は店の看板を見つめた。
 建物は新しく立派だが、掲げられた看板は年代物だった。先ほど青年が賢者の時代と言っていたから、相当の老舗なのだろう。粉白粉とパフが刻まれたそれは、おそらくその時代から使い続けているに違いない。
 粉粧楼。その不思議な名前の店の名を胸に刻み込んで、私はそこを離れた。

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