彼方から届く一筋の光 10

「うわあ、すっげえ美人」
「やっぱり若は面食いだったか」
「その上、なんか楚々としてて賢そうで、いかにも高嶺の花って感じじゃん」
「いかにもよいお育ちじゃねえか。あんなんであの総領を乗りこなせんのか?」
「……お前ら、聞こえてる」
 シェイラの険のある言葉に、幾つもの影が飛んで逃げていくのが見えた。大仰にため息をついた後、彼女は私に侘びる。
 床払いのすんだ私は、シェイラに館の中を案内してもらっていた。だが私にあてがわれていた部屋を一歩出るともうそこには、多くの人たちの視線があった。
「すみません、不躾な奴らばかりで」
「シェイラは気にしないで。誤解ならすぐに解けるでしょう?」
「その台詞、お兄様が聞いたら泣くと思いますが」
「……シェイラも誤解している? レインが私を自分の女にするために助けたと、あなたもそう思う?」
「あの程度のはした金でお姉様を自分のものにできると思うほど、兄は思い上がってはいないと思います」
 シェイラの発言は、時折解釈に困る。この言葉も、どう受け取っていいのかが判らない。
「私思うんですけどね、お姉様は堅苦しいというか、くそ真面目というか……お姉様ほどの器量の方だったら、うちの兄をはじめ、男どもに貢がせていいと思うんですよね。お姉様は再三再四、兄に使わせたお金のこと気にしますし、恩だなんだといいますけど、にっこり笑って『助けてくれてありがとう』で終わっちゃってもいいような気がするんですけど。だって、群がってくる男どもにいいように貢がせてる女は、このレーゲンスベルグにも腐るほどいますよ。お姉様ほどお綺麗なら、求婚者なんて門前に市をなしたんじゃないですか? 贈り物なんて目の前にうずたかく積まれたクチだと思うんだけどな」
 その言葉に、私は沈黙した。正直、困惑したのだ。だがそんな私の顔色を見て、シェイラは目を細めた。
「もしここで、お姉様が『私なんか綺麗じゃない』とか言ったら、女全体を代表して殴らせていただきますよ」
「いや、その、私も自分が不細工だとは思わない。沢山の人が綺麗だと言ってくれた。でもね」
 だけど。
「私に面と向かって、求婚した人なんて、いないのよ。好きだと言ってくれた人も、いないし」
「うそっ」
 信じられない、とばかりに目を見はるシェイラに、私は胸の奥が痛むのを感じた。
 それは嘘ではなかった。無論舞踏会や夜会で、私に声をかけてくる男性はいた。彼らは一様に私を美しいと褒めたたえたが、自らの愛を語ることも私の愛を乞うこともなかった。なぜならば、そうして私に愛をささやくという行為ですら、アルバ貴族や他国の王族にとっては政治的な意味を持っていたからだ。
「私の家はね、没落してもうなくなっちゃったけど、凄く財産もあって権力もあった。跡継ぎの男の子がいなかったから、長女の私の婿になれば私の家の全てが手に入った。だから私を手に入れるために、沢山の人たちが水面下で暗闘していたようなの。そして私も、私自身の感情で結婚相手を選ぶことはできなかった。だから私に愛をささやく人なんて、いなかったのよ。そんなことをしても意味がなかったから」
 ぽつりと落ちる、本音。
「私が持つ家も財産もいらない、私自身だけが――私の愛がほしいと思った人は、誰もいなかったんでしょうね。だから私も、好きにならなかった」
 もし私が不細工に生まれついたとしても、彼らは何も変わらなかったのではないか。そう思う。彼らがほしかったのはアルバの王位、そしてロクサーヌ家。もし私に何かあれば、私に贈った賛辞や言葉をそのままエリーナに振り替えただろう。
「私、自分の容姿に価値があると思えたことが、一度もないの。男の人たちにとって私の容姿なんて、私の家を手に入れるために迎えた女が美しくて幸運、ぐらいのものだったろうし、何と言うかその……私の周囲にとっても、私の美醜は――いいえ、私自身は、どうでもよかったんじゃないかしら」
 ずっと昔から判っていたことは、こうして口に出してみると、まだ辛い。
 アルバにおいても、ガルテンツァウバーにおいても、一人の女、一人の人間としての私を必要とした者はいなかった――ただ二人、アイラとカイルを除いて。ガルテンツァウバー皇帝にとっては、アルバ王位を持つ自分の子を産む道具。グラウスにとっては、皇帝や皇太子の跡を継がせることの可能な傀儡。私自身の心や気持ちなど、誰にとってもどうでもよかった。考慮する必要もなく、あるとすら思ってもらえていなかったのではないかとすら思う。
「そうか、お姉様は堅苦しいのでも、真面目なのでもないんだ」
 そんな私の言葉に、納得したようなシェイラの応えが響く。
「ご自身に価値がないと思ってるから、行動やお金で返さないといけないと思うんだ。自分が他人に好意を寄せられると思ってないから、その好意をただ笑って受け取ればいいって判らないんだ。違いますか?」
「なっ……」
「お姉様はもうちょっと、自分に自信持たれてもいいと思うんだけどなー。憧れの眼差しで見てる若いのがあそこにあんだけいるんだから、そこのところは少し信用しません?」
 シェイラが指さした先には、こっそりと私たちのやりとりをのぞいている一団。びくうっ、と身をすくませる彼らに、シェイラは快活に言い放つ。
「というわけで、お姉様に面と向かって自己紹介をし、どれだけお姉様が自分たちにとって気になる存在かを述べられた者には、私たちの午後のお茶に同席する栄誉を与える。お姉様の淹れてくださるお茶は、とってもおいしいぞ」
「おおぅっ!」
「本当ですか、嬢!」
 どよめきが上がった。私は先ほどのシェイラの言葉の動揺から、抜け出せていなかった。ちょっと待って、という間もなく、その場に響いた声。
「じゃ、俺立候補するわ。ちょうどよくお茶菓子あることだし」
 私は背後からかけられた声に、驚いて振り返る。その声には確かに聞き覚えがあり、彼はあの時と同じ穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「レインの噂の相手は、君じゃないかと思っていた。怪我の具合はどう? そろそろ起きられる頃かと思って、来てみたんだ」
 大きな包みを手にして立っていたのは、私にかぼちゃのパイをご馳走してくれた、あの青年。
 『粉粧楼』という名の食堂の主人だ。
「あの時の……」
 驚く私に、青年はにっこりと笑った。
「俺はヴァルトラウト・アイル。ここの一族の者じゃないけど、レインやシェイラとは、小さい頃からの付き合いでね。この館には頻繁に出入りさせてもらっている」
 青年ははい、と私に手にしていた包みを渡す。それはどっしりと重く、ほんのりと温かい。
「かぼちゃパイとさつまいもパイ焼いてきた。それでこれからお茶というのは?」
「やった! ヴァルトのパイ大好き!」
 ぴょんと一つ飛び跳ねて、シェイラは私にしがみつく。
「お茶淹れてください。今日はとっときのヘルモーサの奴! ――ヴァルト、ジュリア姉様はとってもお茶淹れるの上手なの。同じ茶葉でも、私がやるのとは雲泥の差。……なんでなんだろう?」
「それなら、ちゃんと見てやり方盗むんだな。いい師匠から見て盗めは、料理人の基本」
 というわけで、とヴァルトは居並ぶ若者たちに、意地悪げに笑って告げた。
「今日のところ、姫様たちは俺がもらった」
 えー、そんなー、ヴァルトさんじゃ敵わないじゃないかー、せっかくのチャンスだったのにー。
 様々に上がる不平にも動ぜず、勝手知ったるなんとやらという勢いで、ヴァルトは私たちを厨房に導いていく。その足どりは迷いなく、この館に精通しているのが窺い知れた。
 厨房で私はお茶を淹れ、ヴァルトがパイを鮮やかな手つきで切り分ける。シェイラは中庭の木陰にテーブルを持ち出し、あっという間に気持ちのよい茶席をしつらえた。
 八月の太陽は傾き始め、木陰には気持ちよい風が吹き抜けていた。モス家の厨房には裕福な家庭らしく、ふんだんに氷が用意されているので、私は思い切りよく紅茶を冷たくする。
「あー、幸せ」
 口いっぱいパイを頬張り、満面の笑顔でシェイラは呟く。私もさつまいものパイを口に運んだ。それはかぼちゃと同じく懐かしい味がする。カイルは林檎やさくらんぼのパイよりも、かぼちゃやさつまいものパイを得意にしていた。そのことを懐かしく切なく思い出す。
「口に合う?」
 問うてきたヴァルトに、私は心から笑って答えた。おいしい、と。そう心から言えた。
 それくらい、自分に余裕ができたのだと実感した。その余裕が衣食住満たされるこの生活に所以することを、私はもう判っている。それくらい、ヴァルトと出会ったあの時の自分には余裕がなかった。追いつめられていたのだ。
「こんな時に来客なんて、兄様もついてないこと」
 シェイラは自分の執務室で仕事をしているというレインも誘いに行ったのだが、どうやら不首尾に終わったらしい。哀れみ半分優越感半分で漏らす彼女に、ヴァルトがグラスの氷を鳴らしながら答えた。
「あいつは自分で望んで総領になったんだ。忙しいのも、陸につなぎ止められんのも、レーゲンスベルグの化け狸ども相手に腹芸繰り広げなきゃならんのも、自業自得というか、自分の望んだ結果だろうよ」
 さらりと言うヴァルトに、私はためらいがちに問う。
「あの、その化け狸って……もしかして、施政人会議の」
「そう、お歴々ですわ。皆様なかなか強者でいらっしゃいます」
 施政人会議に名を連ねるのは、この大商工業都市の各ギルドの長たちのはずだ。この街だけでなく、大陸全体の経済にさえ影響力を持つ彼らは、さぞや老練でしたたかなことだろう。
「失礼な物言いとは判っているけれど、そんな方たちと対等に渡り合うには、あまりにもレインは年若いと思うのだけれども。どうしてもっと年配の当主を、総領に立てないの?」
「当然の疑問だな。確かに他の議員とレインは、親子ほども年が離れている。でも、総領の条件は『一族で一番強い男』だから。自ら剣を握り、最前線で戦い指揮を取るには、ある程度は体力のある年代でないとならない。だから歴代総領は、五十前には引退している――おやっさんは、ちょっと亡くなるの早すぎたけどさ」
「いや、父様はもうあの頃から、兄様の世代に譲るつもりだったよ? まあもう二年生きててくれたら、兄様もあんなに苦労しなかったと思うけど。今だったら、もう少し総領選挙楽だったんじゃない?」
「まあ、よく勝ったよなあ。子どもの頃からの夢だったとはいえ、あれは執念としか言いようがないな」
 しみじみと言うヴァルトに、私は当惑する。
「その総領選挙って、そんなに大変なの?」
「様々な課題が各家の当主から出されるんですけど、その全てで他の候補者たちより優れていることを示さないといけませんからね。生半可では勝てません。最後の頃にはもう体力的にも精神的にも逼迫して、それはもう死に物狂いでした」
 小さなため息とともにこぼしたシェイラに、私も嘆息を返すより他なかった。
 総領に与えられる強大な権力と、負わされる重大な責任を思えば、それは当然のことかもしれない。だがそれでも――だからこそ、思ってしまうことはある。
「そこまでしてもやっぱりなりたいのが、総領と――長というものなのかしら」
 それはかつて、女王――国の長になろうとしていた私の、率直な気持ちだ。
 私は国民が反乱という形で、王政に否を突きつけてきた時、その道をあっさりと投げ捨てた――その反乱が、魔女に対する恐怖を利用して煽動したものであると、判っていてもなお。
 正直、馬鹿らしいと思ったのだ。自分をすり減らしてまで、国の一番高いところに座して、それで何になると。それで何が得られるのだと。
 栄誉が、権力が、一体何になると。それで身を飾って、他人にへつらわれたところで、心の中の何が埋まるというのかと。
 だがレインは、自ら望んで一族の頂点に立ったという。その気持ちが、私には判らない。
 それは男と女の違いだろうか。やはり人は、栄誉や権力がほしいものなのだろうか。
「それはレイン本人に聞いてみたら? 俺やシェイラが言っていい話ではないと思うし」
 ヴァルトはそう言って笑った。その笑みは苦笑のようであり、忍び笑いのようでもあって、私は何か引っかかりを覚える。そう、おそらく、レインが総領を目指した理由は、ヴァルトをそんな風に笑わせるようなものなのだろうし、それは私には全く見当がつかない。
 そう、ヴァルトからもレインやシェイラと同じ、底の見えなさを感じる。私に対して優しく穏やかなのに、底が見えない。その優しさの底を、疑わずにおれない。
 シェイラは、その好意を信じろという。私が純然として好意を向けられるに値すると。だが私は、どうしてもその好意に底が、意図があるように思えてならない。白く濁った見えない底に、隠された何かがある気が。
「それにレインは、天才とかいうほどのものではないよ。確かにあいつは若いけど、上には上がいる。なんといっても施政人会議の総代表は、二十一歳という不落の記録があるからね」
「に、二十一!」
 驚いて叫んでしまった私に、ヴァルトは悠然と笑う。
「賢者カイルワーンだよ。正史には記されていないけれども、レーゲンスベルグで歴史のある家の者たちは皆知っている。施政人会議は、賢者カイルワーンが作ったものだって」
 私はあまりにも予想外の話に、呆然を通り越して愕然としてしまった。
 賢者が施政人会議の代表を務めていた。それはいつの話だろう。それは『六月の革命』の前か、それとも失踪後か。宮廷を去った後の彼が、出身地であるレーゲンスベルグに戻り、自らの正体を隠して施政に加わっていたというのは、大いにあり得る話だ――彼がカティス王と対立し、追放されたというのならば尚更。
 けれどもそれなら、革命時賢者カイルワーンは十六歳になってしまう。それはいくらなんでもあり得ないだろう。天才すぎるにもほどがある。
 だが、そうでないとしても、若い。定説よりも、遥かに若い。
 『英雄王の親友』と記される彼だから、革命時二十六歳だったカティス王とさほど変わらない年齢だろうとは言われていた。おそらく革命時、二十代後半から三十代前半であろうと。
 もしレーゲンスベルグに自治権が与えられた時、ひそかに賢者が施政人会議に名を連ねていたとして、その時二十一だったとしても、それは驚愕するほど若い。
 賢者カイルワーン、現在のアルバの基礎をたった五年で築いた大宰相。あなたは一体何者だったのだ。
 なるほど天使と呼ばれるのも頷ける。これではあまりにも現実離れしている。
 だが、しかし。
「……どうして、こんな歴史の真実を、あなたが」
「一介の料理屋の主人が知っているのは、不思議?」
 気分を害する風でもなく、むしろ笑ってヴァルトは私に返した。自分の言葉の底に潜む無礼に、私自身が動揺するのさえ見越して、彼は告げる。
「最初にうちの店に来た時に、言ったじゃないか。このパイのレシピは、賢者に教えてもらったものだって」
 テーブルの上のパイを、ヴァルトは示す。あの時は余裕がなくて思い至らなかった史実の線が、頭の中でようやくつながった。
 二百年前、賢者は新大陸の作物の導入を積極的に進めた。それはアルベルティーヌではなく、レーゲンスベルグから始めたのだ。その時導入されたのが、かぼちゃとさつまいも。
 だから賢者は、かぼちゃとさつまいものパイのレシピを残したのだろう。そして、それを最初に『粉粧楼』に伝えた、ということは。
「あなたのご先祖と賢者は、相当懇意にしていた……ということ?」
「二百年って、長いかな。どうかな」
 どこか遠くを見るように、ヴァルトは夏の空を見上げた。
「誰もが何もかもを忘れ、何もかもが風化して崩れてしまうほど昔じゃないよな。現にうちには、賢者の手書きのレシピ、いっぱい残ってるし」
「うそっ」
「門外不出の家宝。いいだろう?」
「凄い……」
「天使だなんだと偶像で語られる人だけど、それ見てると思うよ。この人は紛れもなくここで生きていた、一人の人間だったんだって。そのことを誰が忘れても、俺と俺の血につながる者たちは忘れない。賢者の親友だったっていう俺の先祖は、その思いをレシピとともに残そうとしたんだと、俺は思う」
 先ほどの思いの反証を、期せずヴァルトは提示してきた。
 賢者は、人だった。どれほど天才であっても、どれほど現実離れしていても、彼もまた泣き笑いする一人の人間だったと。
 二百年前、彼は確かにこの街で生きていたと。
 賢者は、決して自分とは無関係な存在ではない。不思議な縁だ、と思った瞬間、それに勝る爆弾をシェイラが落とした。
「そういう話をすれば、この館も二百年もってますものね。あちこち大分手を入れてますけど、基本は英雄王がいらした時のまま」
「……えいゆう、おう?」
 今シェイラは、何と言った? 思わずおうむ返しに問いかけた私に、彼女は紅茶で口を湿してから答えた。
「この館は今は総領一家の住居であり、一族の家業を統括する公邸ですが、そもそもはレーゲンスベルグ傭兵団の拠点だったんです。それを英雄王から初代が預かって、今日に到っているというわけです。――お姉様はご存知ないかもしれませんが、レーゲンスベルグ傭兵団の初代団長は、英雄王カティス陛下です」
 私はあまりの驚きに、芯まで凍りついてしまった。真夏だというのに、薄ら寒ささえ感じた。
 英雄王は革命以前、レーゲンスベルグで傭兵をしていた。だからレーゲンスベルグで最も著名な傭兵団に属していても、何ら不思議はない。
 だが、だが。
 私は思わず、シェイラの顔をまじまじと見てしまう。
 不思議な縁、どころじゃない。
 無関係、じゃない。
 だからなの――震える内心で、私は独りごちた。
 だからレインは、私を助けた? 自分の祖先の知己である英雄王カティス、その子孫であるオフェリア・ロクサーヌに瓜二つな私を。
 いや、でも、それは理由としてはあまりにも薄い。私はカティス王の九代目の子孫だし、レインだって英雄王の知己だという初代からそれぐらいは代を重ねているだろう。それほど離れた先祖同士がたとえ友人であったとして、それは子孫を動かす理由となるだろうか。
 第一レインは、私がオフェリアではないと、本物のオフェリアはゴルトクベレにいると、自ら明言しているではないか。
「私たちだって、忘れてはいません。二百年前、初代がこの館を守り伝えよと言い残したこと。その証」
 不意にシェイラは立ち上がり、私を中庭の一角へと誘う。そこはさらに高い塀で区切られていて、入口には丈夫な鉄の扉がつけられている。
 シェイラは腰につけていた鍵で扉を開けると、おもむろに押し開いた。
「これが私たち一族の誇り。隠され曲げられた歴史に、迷信に、恐怖に、我々だけは惑わされはしないという信念の証です」
 私はその入口に立ち尽くした。目の前に広がっている光景が、信じられなかった。
 心の半分は美しい、と思っていた。あまりにも見事で、素晴らしくて、圧倒された。
 だが心の半分が動揺していた。なぜ、と。なぜこんな光景が、アルバに存在しているのだと。
 それはまさに秘密の花園だった。壁面を、アーチを、花壇を、こぼれんばかりに薔薇が埋めつくしている。花の形も一重からロゼット、高芯までとりどり。品種数も数多く、その配置も絶妙で、葉の緑と残っている花の鮮やかさがまぶしい。
 今は八月、花の盛りはすぎてしまっているが、これが五月や六月であれば、どれほどこの庭は大小様々な花に彩られたことだろう。その奔流は、どれほど圧倒的なものだろう。
 だが、そのおびただしいほどの薔薇が、全て、赤。
 アルバ国内からは、恐れを持って駆逐されてしまった、禁断の赤薔薇。
 ふらり、と足がさまよい出た。これほど数多くの品種は、もはやアルベルティーヌ城にすらない。王宮薔薇園で栽培されていたのは、魔女忌に切り花として供えられていた、一輪咲きのものだけ。一重の赤薔薇や、房咲きのつる薔薇などは、もはや外国に行かなければお目にかかれないもののはずだ。
 迷信や恐怖に惑わされない。そのシェイラの言葉は、すんなりと胸に落ちる。赤薔薇への――魔女への恐怖があれば、こんな庭を受け入れられるはずがない。こんな庭を、こんなにも美しく維持し続けられるはずがない。
 凄い、と率直に思う。そして同時に思う。
 なぜ、と。
「この庭を守ること。それが総領に与えられた使命の一つだ。歴代総領は、一族の繁栄の基を築いた初代に誓ってきた。その繁栄の基礎となったもの、我らに絶えず勝機を与え続けてくれたもの。それに対しての感謝の証として、この庭を守り続けると」
 突然の言葉に、私は振り返る。そこには入口を背にして、彼が立っている。
「レイン……」
「お前は怖くないのか? 普通なら、絶叫してへたりこむか、すぐさまここから逃げ出しているぞ」
 確かに、それが普通の反応だろう。そして私は、それを装うべきだったのかもしれない――普通のアルバ女性を演じようとするのならば。
 だが、それはできない。そこには私の矜恃がかかっている。
 それをすれば、私は魔女の呪いを――私の最愛の妹を無残に殺したものを、認めることになる。
「怖くない。だって私は、魔女の呪いなんて認めない」
 たとえ国が滅んでも、それは呪いなんかじゃない。決して呪いのためなんかじゃない。
 ロクサーヌ朝が滅んだのは。両親が死んだのは。そして私があんな目に遭ったのは。
 そのすべては、アイラのせいなんかじゃない。
「あなたはどうなの? あなたは怖くはないの?」
 挑むように問いかけた私に、レインは歩み寄りながら答えた。
「別に。子どもの頃から、俺はこの庭の中で育ったからな。薔薇は薔薇だろ、何色だろうが、何の罪もなければ穢れもありはしない。ましてや」
 彼もまた挑むように、私の目をひたと見つめる。
「この薔薇のために国が滅ぶなんてことが、あるわけがない。そうだろう、ジュリア」
 彼の黒い目は、ひやりと冷たい。私はまた、心の奥底を冷やされる錯覚を、その目に覚えた。
 声は出ない。言葉にはできない。だが私は、問わずにはいられない。
 レイン。レインあなたは。
 何を、知っている。
 あなたは、何を、知っている。
「お前が怖くないというのなら、ちょうどいい。シェイラに教わって、手入れを手伝え。今の時期は作業も多くないが、なにせこの薔薇だ。園丁の手が、絶対的に足りない」
「うわ、そうしてくれると助かります」
 ひょこりとシェイラが割って入って、空気が変わる。張りつめていたものが、なし崩しに解けていく。
 それが偶然なのか、意図的だったのかも判らない。だがシェイラはレインを見て、当然のように問いかける。
「ところでお兄様、お客様は?」
「終わった。俺の分のパイ、残してあるだろうな」
「しまった、こんなことなら先に食べておくんだった」
「あれ全部食べたら太るよ、シェイラ」
 三人の会話に、私は割って入る言葉を持たない。これ以上何も追求はできない。
「というわけでお姉様、兄様の分もお茶淹れてくださいません?」
 私は頷いて、薔薇園を後にする。シェイラが扉の鍵を締めるのを見やり、その高い壁をもう一度見上げた。
 それはもはや確信。手の中で私は断片を転がし、目に見えぬそれをぎゅっと握りしめる。
 英雄王。賢者。この一族の初代。
 そして魔女の薔薇。
 それらを一つに握りしめれば、出てくる答えはただ一つ。
 それらと私たちは、それぞれの子孫である私たちは、おそらく無関係ではない。
 私たちはきっと、無関係ではないのだ。

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