彼方から届く一筋の光 14

 赤薔薇の花弁に、深緑の葉に、朝露がきらめく。しっとりと冷たい朝の空気を、私は胸に小さく吸い込んだ。
 早朝の薔薇園、私はそこで一人佇んでいた。小さな庭は静寂に包まれて、わずかに遠く鳥の鳴き声だけが響く。
「ジュリア」
 やがてそれを裂いた声の主は判っている。なぜなら私が、彼を呼び出したのだから。
 彼には、朝起きてまず執務室に足を運ぶ習慣がある。だから机の上にカードを置いてきた。机の上に目を留めれば、それに気づかぬことはないだろう。
 二人きりで話がしたい――こんな方法でわざわざ呼び出したことの重さに、気づかぬ男ではないだろう。
「レイン、鍵を閉めてもらえる? 誰にも邪魔されたくないの」
 レインは無言で頷くと、扉の鍵を閉めた。そうして碑の前に立つ私の元に、歩み寄ってくる。
 そうして私たちは、真正面で向かい合う。緊張をたたえ、挑むようにお互いを見返す。
 話とは何だ、とレインは促しはしない。ただ無言で、真っ直ぐ私を見ている。
 多分彼にも判っているのだ、ここが決戦の場なのだと。
 そして勝負をもちかけたのは私だ。だから私が、先に口火を切りしかける義務を負っている。
「あなたは以前、アルバ王家の動静は都市の防衛責任者として把握している、と言っていた。私がこの家に拾われた時、王女はゴルトクベレにいると、だから私はオフェリアではあり得ないと」
「言ったな」
「今、王女はどちらにおられる?」
「避暑も終わって、城に戻っている。それこそ昨日、アルベルティーヌ城でも大規模な夜会があって、王女も出席していた。レーゲンスベルグ施政人会議の面子は誰一人出席できなかったから、謹んで代理を立てさせてもらった。そいつが王女と面会し、こちらの築港記念日に対する祝いの言葉を賜っている。これは間違いのない事実だ」
 レインの返答に、私は内心舌を巻いた。そこまで『オフェリア』の行動を把握しているとは、さすがに思っていなかった。だがこれで、私の確信はいや増す。
「オフェリア王女は今、確実に城におられる。それでもなお、あなたは私のことを、オフェリアだと思ってはいない?」
「思うかどうか、と聞かれたら、思うとは答えない」
 レインは私を真っ直ぐに捕らえて、そう答えた。
「じゃあ――」
「思っているんじゃない、確信しているんだよ。お前がオフェリアだってな」
 私の言葉をさえぎってぶつけられた言葉は、私すらも一瞬絶句させるものだった。
 この流れで、どうしてその返答が出てくる。
「……どうして、そんな」
「どうしてもこうしてもないんだ。それ以外ありえないという物証が幾つもあるんだから、その結論を出すより仕方がない」
「物証?」
 おうむ返しに問いかけるしかない私に、レインは冷静にそれを取り出して見せる。
「簡単なことだ。お前とオフェリア王女は、全く同じ声をしている。これだけそっくりで、声まで同じだなんてそんな偶然があり得るものか」
 それはあまりにも予想外の答えで、私は己の迂闊さにぐっと息が詰まった。
 声――その相似について、私は全く注意が及んでいなかった。だがそれにレインが気づいたということは、つまり。
「あなたは、オフェリア王女の声を聞いたことが……王女に会ったことが、あるの?」
「さっき言っただろう。レーゲンスベルグ施政人会議の面子は、誰一人昨日の夜会に参加できなかったってな。ひっくり返せば、アルベルティーヌ城の夜会の招待なんて、俺の立場ならいくらでも得られるってことだ。だから俺はこの夏、何度か城での夜会に出席してみた――オフェリア王女の詳細な特徴を観察するためにな」
 レインの返答は、深い納得とさらなる衝撃を私に与えた。どうして私がレインに見覚えがあるのか――特に正装姿に既視感があったのかが、やっと判った。
 私は四年前、レインをアルベルティーヌ城で見かけていたのだ。おそらく彼も、正面切って私に面会し、名乗るところまではしなかったに違いない。だが遠巻きに見るにしても、同じホールにいたのならば、何となく印象には残る。だから私は、レインにうっすらとした見覚えを持っていたのだ。
 だがレインの言葉を紐解けば、彼は意図的に夜会に参加し、私を観察していたことになる。そしてそれがいつかと考えれば、私がこの館に来る前しかない。レーゲンスベルグからアルベルティーヌ城での夜会に参加するには、どう考えても一昼夜の時間が必要だ。それほどの間彼がこの館を不在だったことはなく、私が意識不明だった四日間は、オフェリアはゴルトクベレにいて、夜会などなかったのだから。
 だとすれば、レインはあの足抜け事件の以前――アルベルティーヌ城下にいた頃から、とうに私の存在を知っていて、オフェリアかどうかを探る行動を取っていたことになる。
「それに昨日、もう一つ確証を見せてもらった。――お前、左の鎖骨の下に、大きなほくろがあるだろう? 昨日胸元が明いたドレスを着たから、よく見えた。あれは王女にもあった。顔もそっくり、声も同じ、ほくろまで同じところにあって、これでお前がオフェリア以外の誰だというんだ?」
 まさかそれを確認するために、昨日私は夜会に引っ張りだされたのか――愕然とする私に、レインは静かに問いかけてくる。
 静かに、だが恐ろしいほどの圧力と迫力をもって。
「だがそれも、推論でしかない。物証をどれほど積み重ねても、まだ確定には到らない。それを確定にできるものは、お前の肯定でしかないからだ。だから問う――ジュリア、お前はオフェリア・ジュリアーヌ・ロクサーヌだろう。違うか?」
 そうだ、と言うことは簡単だった。けれども、それでは謎はまだ何一つ解けない。何より真っ先に解かねばならない謎のために、私は答えの代わりに問いを重ねる。
「でもレイン、私がオフェリアだとしたら、城の王女は何者? まさかあちらが、すり替えられた偽物だとでも言うの?」
「さっき言っただろう、城の王女とお前とを見比べて判断したんだと。だからどちらかが偽物で、どちらかが本物だという話ではないんだ。どちらも本物で、どちらもオフェリアで……そして、確実に別人なんだ」
 最後の一言の意味を掴みかね、怪訝な顔をした私に、レインはさらに言葉を継ぐ。
「お前は、王女と同一人物だと判断するしかないほどの一致を持っている。けれども、別人だと判断せざるを得ないだけの差異もまた持っているんだ。――お前、昨日の夜会で自分で散々言っただろう、王女の方が若いって。それは気を悪くするかもしれないが、事実だ。お前は自分を二十四だと言っていたが、確かにお前は王女より四歳年食って見えるぞ、いい意味でも悪い意味でもな」
 私は色々な意味で、この言葉に返答できなかった。
「それに体型だって微妙に違う。印象だって、かなり違う。それ以上に、お前たちは決定的な差異があるんだが……それは今は話さないでおく。ともかくも、お前とオフェリア王女が一人の人間で、城と市井を行ったり来たりして二人の人間を演じているわけではないということは、俺にははっきりと判った。お前と城の王女は、決して一人の人間ではない。だがどう考えてもお前もオフェリアだ。だとしたら、答えはもう一つしかない」
 レインはためらうことなく、答えを口にする。こんなところで出し惜しみしても仕方ないとばかりに。
「オフェリア王女は、二人いる」
 それは正解だ。誰にも信じてもらえないとさえ思った正解を、レインはあっさりと突きつけてくる。
 だが私は、それでもまだ肯定できない。まだここまできても、彼の言葉は核心に届かない。
「どうしたらそんなことがあり得るの? 一人の人間が、どうして二人存在することが可能なの?」
「普通に考えれば、あり得ないな。だが俺は、この世に魔法が存在することを知っている。どういう仕組みか判らない――いや、どういう仕組みか論ずることすら無意味な不条理が、この世に存在することを。その不条理が多くの人間に様々な運命と奇縁をもたらし続けてきたことを」
 しゃりん、と音をたてて、ガラスが砕ける。そんな幻聴を伴って、私とレインの間の、見えない壁が壊れていく。
 その声が、その拳が、無造作に見えない壁を叩き割る。
「時の鏡に請い願えば、時が越えられる。お前は過去か未来から――おそらくは、今の四年後からやってきたオフェリアだ。だからこの時代のオフェリアとそっくり同じ、だが微妙に差異のあるオフェリアがもう一人存在しうる。これが俺の立てた仮説であり、確信だ。……どこか間違っているか?」
 ふと血の気がひいて、私はその場にへたり込んだ。その瞬間、緊張の糸がふっつりと、切れた。
「……なんて」
「ん?」
「……なんてひどい人なの! あなたは全部知ってて、私のことを全部知ってて、その上で隠し続けてきたの? 私が悩んで混乱してばたばたするのを、ずっと見て愉しんでいたの?」
 これほどまでに、これほどまでに彼は見抜いていたのか。最初から――否、出会う以前から、彼はこんなにも何もかもを知っていたのだ。知っていて、ずっと素知らぬ顔をし続けていたのだ。
 なんて、なんて意地が悪いのだろう。なんてひどい人だろう。こんなに私が悩んで、迷っていたのに。そんな私を見て、この人はずっと笑っていたのだろうか。
 そう思うと、悔しくて仕方がない。
 だがそんな私の視線に降り、申し訳なさそうにレインは言う。
「あのな、あくまで言っておくが、俺だって相当悩んだし迷ったんだぞ。俺だってまさか最初から、お前が未来から来たオフェリア当人だなんて考えていたわけじゃない。どう考えてもオフェリアが二人、という結論に達した時は混乱したし、原因が時の鏡じゃないかと気づいた時には、どう確かめていいものか死ぬほど迷った。『お前は未来から来たのか』なんて、素面で聞けるもんじゃないだろう。外れてたら、俺の正気が疑われるぞ」
 確かにそうかもしれない。けれども、そうだとしたら、私たちはこの二ヶ月間、必死になってお互いの探り合いをしていたということだ。
 どちらかが先に心を開き、自分の答えを明かすか相手の答えを求めれば、事は簡単にすんだのだ。
 緊張がほどけたら、どっと背中に疲労を感じた。深い深いため息をついて、やがて。
 顔を上げて、私は残る謎に向かい合う。正直な胸の中の疑問を、思う存分ぶつける。
「だったらレイン、教えて。どうしてあなたは、時の鏡の存在を知っているの。どうしてあなたは、1217年に起こることを知っているの? どうしてあなたは、私の家族しか知らない私の二つ名を知っているの? その疑問の答えが、全て禁書に行く着くというのなら……答えて」
 震える手を握りしめて、私はレインに問う。
「禁書とは、一体何? あなたたち一族の初代とは、一体何者なの?」
 レインはこの時、ただ頷いた。そして不意に私の手を取ると、優雅な仕草でその甲に口づけた。
 まるで騎士が、自分の姫に親愛を捧げるかのように。
「最後の禁書の守り手として、初代との約束をここに果たす」
「……レイン」
「初代との約束とは、お前に――1217年以降のオフェリア王女に、初代からの預かり物を手渡すこと。まさか全てが始まる前である1215年に、1219年のオフェリアがやって来るなんて想像もしなかったが、これもきっと一つの運命なのだろう」
「あなたたちの初代から、私に……?」
 二百年も前の人物が、なぜ私に。その疑問に答えるより先に、レインは私に手を差し伸べ促す。その手を取り立ち上がった私を、彼は招く。
「その答えは、自分の目で確かめればいい。お前の今の疑問の全ては、禁書が答えてくれる」
 そうしてレインが私を連れてきたのは、いつもの執務室。だがレインは壁面一つを覆っている作り付け書棚の真ん中に立つと、それを無造作に押した。すると三列ある書棚の一列だけが奥に引っ込み、隣の書棚の奥に収納されてしまった。
 そしてその奥に現れた隠し扉に、私は息を呑んだ。毎日この部屋で仕事をしていたのに、全く気づかなかった。
「ここが禁書の間。ここに立ち入ることが許されるのは、歴代の総領――禁書の守り手たちと、オフェリア・ロクサーヌ――お前だけだ」
 そこは小さな部屋だった。明かり取りの窓があり、空気の入れ替えも頻繁にされているようで、隠し部屋の割に息苦しくはない。あるのは小さな机と椅子。そして小さな棚だけだった。
 レインは私に椅子を勧めると、その棚から木の箱を取り出してきた。中身は二冊の本。黒革で装丁されたものは薄く、もう一方の赤革の装丁のものはどっしりと分厚い。
「もしかしてこれが……」
「そうだ、これが禁書だ。薄い方が黒の禁書、厚い方が赤の禁書と呼ばれている。初代により一族にもたらされたものだが、実質一族の勝機を与えてきたのは黒の禁書の方だ。――読んでみろ、こっちはすぐ終わる」
 手渡された黒の禁書を、私は恐る恐る開く。そしてすぐ終わる、の意味を理解した。
 焦る手つきでページを繰り、最後のページに辿り着いたところで、私は困惑と共に顔を上げた。
「レイン、これって……」
「今となっては、あまり大きな力はない――あと二年分しか書いてないからな。だが二百年前にはとんでもない代物だったろう。そしてその信憑性が一番確かめられるのも、今だ。なぜならここに書かれていることが、一つも間違ってないってことが判るからな。そしてお前に聞きたい――残り二年分も、当たりなんだろう?」
 レインの問いかけに、私は頷いた。今のこの手の中にあるもの、それは信じがたいものであり、あり得ないものだった。
 黒の禁書の正体、それは預言書だった。年表形式で書かれたそれには、かなり正確に国内外での出来事が記されている。それは大陸統一暦1000年のロクサーヌ朝の樹立から始まり、1217年の滅亡で結ばれている。1215年の現在、存在しているはずもないものだ。
 それが二百年前から存在していることなど、あるはずがない――普通に考えれば。
 だが、その普通を覆すものがこの世にあることを、私は知っている。
 時の鏡、だ。
「代々の総領は、この黒の禁書に示される預言に従って、一族の舵取りをしてきた。無論代々の総領や当主、一族の者たち自身、身を粉にして働いてもきた。だが決定的な勝機をもたらしてきたのは、間違いなくこの預言だ。代々の総領は、黒の禁書に記された大きな事件や天災、動乱に乗じて一族を強く、大きくしてきた。……だからうちの一族は、負けなしなんだ。負ける相手と契約したこともなければ、勝てない相手と戦ったこともない。危険な場所や商売からは、とっとと逃げてきたからな」
 私は言葉もなくただ頷く。だが、問題は。
「問題は、なぜそれが1217年で終わっているか、ということなのか、よね」
「お前ももう、その答えに気づいているだろう。この黒の禁書を作った人間が、1217年までの歴史しか知らなかったからだ」
 レインの示唆するところは、もう明らか。
 そう。黒の禁書は、1217年から二百年以上前に戻った人間が、作ったのだ。
 だが、それは……誰?
「だがこの黒の禁書も、本当はおまけでしかない」
「おまけ?」
「禁書の本質は、黒ではなく赤にある。そしてこの赤の禁書は、俺たち一族のものではない。これはオフェリア・ロクサーヌ――お前に手渡されるためだけに存在し、そのために二百年間俺たち一族によって守られてきた。黒の禁書は、赤の禁書をお前に渡すという約束を履行するために与えられた、単なるエサだ。子孫が約束を守るかどうか、それまで一族が永らえられるか、初代には自信がなかったらしい」
 そうして私の手には、さらなる一冊が手渡される。ずっしりと厚い赤い本。
 私に渡されるために、二百年もの歳月を越えてきたという本を。
「これを読み終わらなければ、俺はお前の疑問の全てに答えることはできない――というか、これに記されている真実を踏まえないと、俺はお前に理解させられるような説明ができない。だから、これを読み終わったら、俺はお前の疑問の全てに答えよう。そしてその上で、お前の力になると約束する」
 逃げもごまかしもなく、ただ誠実にレインは私に告げる。一かけらも私が予想していなかった真実を。
「一族と初代との約束とは、黒の禁書という魔法の道具を初代から授けてもらう代わりに、1217年時の総領が初代の使命を果たすこと。その使命とは、この赤の禁書をお前に手渡し、そしてお前の力となって戦え、ということなんだからな」
 約束の履行が、こんな形になるとは思っても見なかったがな。そう言ってレインは小さく苦笑し、私を促す。
「焦らなくていい。ゆっくりでいい。だからそこに書いてあることを、読みとばさず一字一句漏らさず受け止めてほしい。それがこれを守ってきた歴代の惣領たちに報いることだと、どうか心に留めておいてほしい」
 そうして私は、革の厚い表紙をめくる。そこには流麗な手跡で、こう記されていた。
 親愛なる、オフェリア・ジュリアーヌ・ロクサーヌ王女殿下へ――。
 レインはこれで、私の二つ名を知ったのだ。だが一体どうして、この名がここに――その疑問は、この本を読み進めていくうちに、判った。
 痛いほどに、判った。
 それは黒の禁書とは、対局をなす作りをしていた。質実に、事実のみを列記した黒の禁書とは違い、そこには巧みな文章で物語が綴られていたのだ。
 長い、長い物語が。
 それは信じがたい物語だった。信じられない、信じたくない、と言ってしまえば簡単だった。
 けれども、信じぬわけにはいかなかった。なぜなら、その物語の中心を貫く不条理を、誰よりも私が、身をもって知っているのだから。
 赤の禁書は、詳細に綴っていたのだ。
 大陸統一暦1200年に生まれ、すぐさま幽閉された白子の王女と、彼女の元に送られた黒髪黒目の侍従の少年の物語を。
 彼らがどのようにして育ち、どのようにして国を失い、そしてどのようにして時を越えたのかを。
 そしてその結果として二人がどこに辿り着き、何と呼ばれる存在になったのかを――。
 二人がどんな人々と出会ったのか。彼らとどんな歳月を分かち合ったのか。そしてどんなに傷つき、悩み、苦しみ、涙しながらも、己の運命に対し立ち向かったのか。
 二人が、最後に何を選んだのか。
 二人が去った後に残された人たちが、どのように生きていったのか。
 それはアルバ王国の、抹消された歴史の真実だった。英雄譚として語られ、おとぎ話として親から子どもへと語られる物語の、悲しい真実だった。
「アイラ……カイル……」
 何度声がこぼれただろう。何度本に対して呼びかけてしまっただろう。けれども書物は何も答えてはくれない。二百年前これを綴ってくれた人も、私には答えてはくれない。だが活版ではなく、誰かの直筆である文章は、書き手の哀切や慟哭を映しているのか、時折乱れ、時折にじんでいた。
 その長い物語は、カティス王がその生涯を閉じたところで終わった。私がそれを読み終えるまで、どれくらいの時間が経過したのかさえ判らない。ただ呆然と、あまりのことに虚脱しきった私に、不意にかけられた声。
「ジュリア、まずは飲め」
 のろのろと顔を上げると、レインがカップを差し出している。緩慢にそれを受け取ると、口に運んだ。それはただの水だったが、口に運んでみて初めて、私は自分が喉がからからに渇いていることを悟った。立て続けに二杯水を飲み干すと、私は深いため息をついた。そこで初めて私は、息をすることを思い出したような気がした。
 椅子の背もたれに身を預け、荒く肩で息をしてしばし。
「……少しは落ち着いたか?」
 その問いかけに、私はレインの顔を見た。
 落ち着く? これを読んで――こんなものを見せられて、どうして私が落ち着いていられるというのだろう。刹那怒りをぶちまけたい気持ちに駆られて、刹那で気づいた。
 それは、やつあたりだ。
「お前が今、どれくらい衝撃を受けてるかは判る。だがそれでも、敢えて言わせてもらう。これを馬鹿馬鹿しい作り話だ、信じないといって放り投げることを選んでもいい。それはお前の自由だ。だがこれをもしお前が信じるのならば、俺はお前が感じているだろう疑問に答えてやることができる」
 それは彼の言う通りだった。
 信じたくなかった。信じたくなかった。ひとかけらだって、信じたくはなかったのだ。
 そして、こんなこと、あるわけがない。信じられるわけがないと、かつての私だったら言っていただろう。
 けれども今の私に、その言葉は言えない、なぜなら私は、身をもって知っているのだから。
 時の鏡の力を。時を越えることができるという不条理が、この世に存在することを。そして二人が城から脱出して最初に辿り着いた場所に、それがあることを。私が誰よりもよく知っている。
 これはどういう偶然だったのだろう。私が時の鏡で時間を越えるという経験をしてから、この真実に辿り着くとは。……いや、偶然ではないのか。そうか、これもまたねじれだったのか、と気づく。
 卵が先か鶏が先か。統一暦1000年代でアイラとカイルも、この言葉を何度繰り返したことだろう。そして私も、気づく。気づいてしまう。
 これもまた必然の理由が存在しない必然だったのだ。
「レイン……」
「なんだ?」
「この本に書かれていることは、正直信じたくない。嘘だったらどれほどいいだろうって、思う。でも私は、時の鏡の力でここに来た人間で、そして黒の禁書もここに存在している。だから信じるしかない」
「ああ」
 痛ましさをたたえて私を見るレインに、問いを重ねた。
「だから、あなたに答えてほしい――黒の禁書は、カイルワーンが作ったものなのね」
 カイルワーンは計算力や閃きでは博士には及ばなかったものの、並外れた記憶力の持ち主だった。それは王立図書館の司書たちから『記憶お化け』『生きて歩くアルベルティーヌ王立図書館』という仇名をつけられてしまうほどのものだった。
 そんな彼ならば、自らの記憶だけで、これほど正確な預言書を作り上げることも可能だろう。
「そうだ。初代が賢者カイルワーンに請い願って、作ってもらったものだと言われている。最初に言ったように、俺たち一族に対する餌として、初代の計画を履行するための代償として」
「ということは、初代はカイルじゃないのね。カイルが城を去った後、レーゲンスベルグに帰ってきて、誰か別の女性と一緒になってこの一族を築いた、ということではないのね」
 問い募る私に、レインは寂しげに、どこか申し訳なさ気に顔を歪めると、逆に問い返した。
「お前ももう気づいているだろう。賢者カイルワーンが、どうしてカティス王の元を去ったのか。どうしてカティス王は、賢者の失踪理由を闇に葬ったのか」
「……うん」
「初代は、賢者の側近くにいた人間だ。お前の二つ名を、賢者から教えてもらえるくらい、側近くにな。その赤の禁書にも出てきている。初代を始めとした、この『計画』に関わった人間たち――これにはヴァルトの先祖も入ってるんだが、彼らは賢者カイルワーンやアイラシェール王女に対し、恩義と負い目を感じていた。沢山のことをしてもらったのに、何も報いてやれなかった。その過酷な人生と運命に対し、何の力にもなってやれなかった。そう思ったらしい。だから、この『計画』を立てた。アイラシェール王女と賢者カイルワーンが、おそらく唯一残していたであろう心残りを張らすために」
 二人が残していた心残り。それが判らず戸惑う私に、きっぱりとレインは告げた。
「お前だ、オフェリア・ジュリアーヌ・ロクサーヌ。特に賢者は、お前の安否をずっと気にかけていたと、初代は書き残している。そしてそこには、こうも記されている。1217年の政変の背後に外国がいるのは間違いなく、だとしたらその目的はアルバへの侵攻。その最も簡単な方法は、王族を身内に擁して傀儡国家を樹立することだと。それが目的だとしたら、第一王女であるオフェリア姫は、処刑されず他国に拉致されている可能性が高い、とな。そしてその筆頭は、当時この政変に対し最も早く臨戦態勢を取っていたガルテンツァウバー、と。無論これは初代ではなく、賢者の予想だが……当たりか?」
「その通りよ……凄い。あの子はそこまで……」
 愕然として、私は呟く。あの子は私よりも少ない情報で、そこに辿り着いたのか。その推理力の明晰さにはただ驚く。
「その推論を抱いたからこそ、賢者は悔やんでいたらしい。アイラシェール王女を追って、この時代に来たことに対しては、一かけらの後悔もない。だがあれほど自分たちに目をかけ、優しさを与えてくれたオフェリア王女に対して、自分もアイラシェール王女も、一かけらの恩も返すことができなかった。もし他国の策謀のため拉致され、後宮や王族の室に入れられているのならば、どれほど辛い思いをしていることだろうかと思うのに、今の自分にも何もできない、未来にはもう手が届かない、と。だから初代は、二百年にも渡る長大な計画――むしろ無謀な賭に出た。自分の二百年後の子孫に、オフェリア王女救出を委ねる、という無茶苦茶な計画だ」
 そうして、全てがつながった。レインの謎の言葉の意味、その全てが。
「初代は賢者にこの計画を打ち明け、黒の禁書を作ってもらい、自分が後に赤の禁書を作った。そして二百年後の子孫にオフェリア王女を救い出し、赤の禁書を手渡すことで、全ての真実を伝えさせると約束した。それから二百年、歴代の総領は黒の禁書の力を借りながら一族を盛り立て、大きくし、真実を守り伝えながら、遂にこの時を迎えた」
「レイン……」
「だからお前は、最後の禁書の守り手である俺に、望むことができる。お前は選ぶことができる。全ての真実を、賢者カイルワーンやアイラシェール王女、カティス王やマリーシア王妃、その他大勢の人たちの思いの全てを踏まえた上でだ。お前はお前の選択を下すことができる」
 私の選択。戸惑う私に、レインは恐ろしいほど真剣に問いかけてきた。
 おそらく彼の、全身全霊を込めて。
「お前は今、どうしたい。俺は俺に叶えられる最大限で、お前の力になってやる。だから言え。今お前が、どうしたいかを」
 私の望み。そう問われて、私は動揺した。
 決して変えられない運命。際限なく、無限に繰り返される物語。その中でお互いの責務を果たし、恋を全うし、そして散っていったアイラシェールとカイルワーン。そして二人を見送ったカティス王とマリーシア王妃。
 知ってしまえば、それはあまりにも重い。卑小な私が飲み下すには、あまりにも重たい真実だ。
 私は、そこに、割り込めるのか。私が、そこに、割り込む資格があるのか。
 そう自分の中の一部分がささやく、そうそれは、理性だ。私の理性は冷静を求めて、そうささやく。
 けれども私の感情は、激しく泣き叫んでいる。今でも張り裂けてあふれだしそうなほど、泣き叫んでいる。
 それが私のエゴだと、たとえ判っていても。
 ただそれだけを願い、時を越えたのだ。ただそれだけを願って、この二ヶ月を過ごしてきたのだ。
 ただそれだけを心の支えにして、これまでを生きてきたのだ。
「それでも……それでも、レイン、私……」
 それでも、私。
「アイラとカイルに、会いたい……」
 たとえそれが世界を壊しても。たとえそれが、誰の願いを踏みにじっても。
「それでも、もう一度、二人に会いたい……」
 震える声で、願いを口にした私に、レインはつと手を差し伸べた。
 まるでなだめるように、両手のひらで頬を包み込んで、しばし。
 覚悟を決めたような眼差しで、言った。
「準備がある。一日時間を寄越せ。お前も昨日の晩、ろくに寝てないだろう。シェイラに何か軽いものでも作らせる。俺が身動き取れるよう準備が整うまで、何か腹にちゃんと入れて、できれば寝てて待っていてほしい。下手すれば世界を変え、歴史を変え、壊しかねない行いだ。その選択を、徹夜明けの思考力皆無の状態で下してくれるな」
 彼の言葉の示唆するところ――それは彼が、二人のところに連れていってくれるということ。だがどうやって、城の最深部にある赤の塔まで辿り着こうというのか。
 疑問符を浮かべる私に、レインは意外そうに答えた。
「なんだ、お前なら気づいていると思ったのに。赤の禁書に書いてあっただろう? 998年に賢者がやろうとして失敗した方法が、今なら実行可能だってことに」
 あっ、と小さく声をあげた私に、レインは立ち上がって宣した。
「明日の夜前には着くように、出発するぞ。行き先は、そう」
 行き先は、ただ一つ。
「シャンビランだ」

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