繋ぐ糸は黒

「ああ、素敵だ」
 久しぶりに足を踏み入れた部屋の様子に、僕は破顔する。
 レーゲンスベルグ傭兵団の拠点として、今は傭兵館と呼ばれるようになった館。そこに辿り着いた翌日、僕はブレイリーとともに最奥にある一室を訪れていた。
 そこは僕が使っていた頃とは、全く別物になっていた。
 以前は書棚だけが並ぶ殺風景な部屋だったが、柔らかな絨毯を敷き、座りやすそうな長椅子や堅牢な書見台が幾つも設置されている。中庭に面した大窓は今は開け放たれ、新鮮な秋の空気を室内へと存分に取り込んでいた。
 もはやそこは僕が雑に使っていた書庫ではない。本を愛する者たちが静寂に浸りながらくつろげる、居心地のよい図書室へと変貌を遂げていた。
 施政人会議が立ち上がった時、彼らが僕に用意してくれた邸宅。それは僕一人で住むにはあまりにも大きく分不相応だったが、ありがたく頂戴はした。
 それはこれから行動を起こす際の拠点としてうってつけだったということもあるし、僕はあの時、大きくて安全な物置がほしかったのだ。あの家には置ききれない荷物――特に蔵書を収めておける場所が。
 この館をレーゲンスベルグに戻るみんなに譲ることにした時、この蔵書のことは脳裏をかすめた。城に送ってもらって、王立学院図書館に収めるべきかと考えたりもした。けれどもその後、僕も彼らもそんなことに構ってなどいられないほどの激務に忙殺されることになったし、何よりも。
 あの下町の家にあふれていた本。寝込んでいた僕の代わりに書棚に収めようと手に取った後、思わず読み始めてそのまま動かなくなってしまった人の姿が、脳裏をよぎったのだ。
 ブレイリー。年長者の優しさを、惜しみなく僕に注いでくれた人。
 本を手に取ってしまえばそれで最後。否応なく読書に引きずり込まれてしまう人種というのは存在する――僕やアイラがそうだ。彼もまたそうだったのだということに、僕はその時心の半分で驚き、半分で納得した。
 ああ、そうか。彼は元々教養のある人だったのか、と。
 彼が他の傭兵仲間たちとどことなく気配が違うことは――そんな彼を仲間たちが、カティスとは違う方向性で一目置いていることは、僕も察していたのだから。
 その後彼は身体だけではなく、精神にも深い傷を負った。たとえ彼自身がそれを認めなくとも――辛い苦しいと一言も口にしなかったとしても、それは誰の目にも明らかだった。
 そんな彼が街の防衛という新たな使命を背負うため、レーゲンスベルグに戻ることを決めた時、思ったのだ。
 この部屋の本は、彼のためにレーゲンスベルグに残した方がいいのかもしれない。
 僕が集めてきた本が、これから先彼の心を慰め、支えてくれるかもしれない。
 痛みも苦しみも全て忘れられる、没頭という至福の一時を彼にもたらしてくれるかもしれない。そう思ったのだ。
 そうして五年。僕が無造作に本を収め続けた書棚は、今では内容ごとに綺麗に整理されている。その様子に僕はただ微笑んだ。
 大丈夫。確かに彼の心は変わらず痛んでいるのだろう。苦しみを抱え続けているのだろう。彼が完全に快復してはいないことは、一目で見て取れた。
 けれども彼は荒んではいない。この部屋の様子から、それがうかがえる。
「この部屋の本、傭兵団の子たちに解放しているんだね」
「どうしてそう思ったんだ?」
「だって君一人が独り占めにするつもりなら、この部屋はこんな設えにはならないよ。こんなに沢山の机と椅子を据える必要なんてない。そうだろう?」
 僕の指摘に、彼は小さく頷いた。
「今の傭兵団には、俺の下で事務を担っている団員が結構な人数いる。経理や記録や補給の仕事は、俺一人の手にはもう余る」
「そうだろうね」
「主計部と俺たちは呼んでいるが、そいつらがここの本を重宝している。仕事の参考にしている本も多いし、知識欲を満たしに業後に入り浸る奴も少なくない。それぞれの事情で俺たちに雇われる身になったが、どいつも知識階級の出だ。たとえ没落しても、ここで本を自由に手に取れることが、あいつらの支えになっているのは間違いない」
 僕は共感をもって同意した。ブレイリーの部下たちの気持ちは、痛いほど判る気がした。
 飢饉と内乱は、本当に多くのアルバ国民の人生を壊した。家族を亡くし、仕事や家や財産を失い、路頭に迷ったのは貧民だけではない。多くの富裕階級もまた下層へと転落していった。
 レーゲンスベルグ傭兵団は規模を拡大していく過程で、そんな人たちを沢山拾い上げていったのだろう。その成り行きは、僕にもたやすくうかがい知れた。
 昨日迎え入れられたこの館は、僕の想像よりも遥かに沢山の人たちが出入りしていた。戦場に赴いているのだろう屈強な青年、見習いなのだろう幼い少年、そんな彼らの面倒をみたり館を整えている年配女性たちは、寡婦かもしれない。沢山の老若男女が傭兵団と関わることで日々の糧を得ていることが、僕の目にも見て取れた。
 僕とカティスがこの街を去って五年。戦乱の日々は終わり、レーゲンスベルグはこの後、大陸随一の商工業都市としてますます発展していく。その中心に傭兵団があること、彼らの働きがますます必要とされていくことは、もはや疑いようもない。
 彼らの未来。胸の中に落ちたその言葉に、僕はそっと手を伸ばす。
 もう僕は見ることは叶わないだろうもの。結果を知ることは叶わないだろうもの。
 願うことしか許されないもの。
 だからこそ僕は、棚へと歩み寄り一冊の本を取り出す。長椅子へと彼を招き、卓の上に置いてページを繰った。
「ブレイリー、君に聞いてほしい話があるんだ」
「……なんだ?」
 わずかに身構える素振りを見せた彼に、僕はただ淡く微笑む。
 僕のごく個人的な、希望と願望を込めて。
「構えないで大丈夫。この本にまつわる、ささやかな思い出話だよ」
 そうして僕は話し始める。ささやかではあるけれども、今となってはとても大切な思い出話を。

「カイルワーン、よかった来てくれて。あなたの手を借りたかったの」
 借りていた本を返却しようとした僕に、司書の女性は顔を見るなり声を弾ませて言った。その突然の言葉に、僕は面食らう。
 大陸統一暦1215年十二月。国王陛下の誕生日の翌日のことだ。城は盛大な夜会が果てた余韻に包まれているのだろうが、それも図書館までは及ばない。閲覧室は、いつもと変わらぬ静謐に包まれている――はずだった。
 王立学院図書館の司書たちには、毎日のように世話になっている。そんな彼らに手助けを求められるのならば否はない。無論それが僕に叶えられることならば、であるが。
「……何でしょう?」
「あちらの方の探している本に、あなたが心当たりがないかと思って」
 そう言って司書は、窓際に佇んでいた青年に視線を送った。彼はそれに気づくと、僕たちに歩み寄ってくる。
 初めて会う人だった。だが彼の異彩に、僕はどきりとする。
 年の頃は、僕より大分上。おそらくは二十代か三十代だろう。着ているものの型は平服だが、仕立てはすこぶる上品で上等。城やこの図書館に出入りする者は皆、ある程度の富裕階級であるはずだが、彼らの身に着けているものとは質がまるで違うことは、素人の僕からも一目瞭然だった。
 そんな素晴らしい衣服を、嫌味なくさりげなく着こなす。明らかに上流階級なのだろう風格を漂わせているのに、高圧的でも近寄りがたくもない。
 他人のことが得意ではない僕でも感嘆するほど、素晴らしく格好のいい人だった。
 けれども僕の心臓を打ったのはそれではなく、彼が持つ異彩。
 絹紐で結わえられた長い髪も、僕を真っ直ぐに見る瞳も漆黒。
 僕と、同じ色。
「初めまして。君が司書さんが言っていた、ここの蔵書を沢山読みこなしているという学生さんだね」
 青年は軽やかに笑って僕にそう声をかけてきた。けれども僕は咄嗟にどう答えていいか判らず口ごもる。
 彼の異彩が与える動揺から、抜け出ることができない。
 アルバでは黒髪黒目は極めて珍しい。父の沢山の教え子にも、一人もいないという。
 僕が知るのは、ただ一人。その人物のことは、記憶の底に沈めて久しい。
 それが浮かび上がってきそうになって、僕は小さく身震いをする。
「……大丈夫? 気分でも悪いか?」
 思わず顔をしかめた僕に、青年は僕の視線に降りると気遣わしげに問いかけてくる。
 なぜだろう。その声音に悪寒が静まった。
 そうして思った。脈絡なく思った。
 大丈夫。この人はきっと、大丈夫な人、と。
「平気、です。それで探している本とは?」
「昔、母が聞かせてくれた物語が載っている本がないかと、ずっと探しているんだ」
 そうして青年が語ったのは、一人の船乗りの冒険物語だった。
 その男の生涯七度の航海は、奇想天外なものだった。上陸した島が鯨だったり、無人島に置き去りにされた後巨鳥の足に自分を結びつけて脱出したり。
 彼の語る物語の概要は、そんな物語があるのならば僕も読んでみたい、と強く思わされるものだったが。
 でも、心当たりがない。初めて聞いた話だった。
「判らない、ですね。僕は読んだことがない」
 僕の返答に、司書は小さくため息をついた。
「カイルワーンでも判らないか。――すみません、もう少し探してみますので、お時間いただけますか」
 そう言い残して司書は書庫へと向かい、閲覧室には僕と青年だけが残された。
「やっぱりアルバが誇る王立図書館にもないものなのか」
「もう少し手がかりがあれば、司書さんたちも探しやすいかと。母上にもう少し詳しく聞くことはできないんですか」
「お袋、もう亡くなっているんだ。この話についても、これ以上のことを俺が覚えてなくて。ごめんな」
 触れてはいけないことだったのかもしれない。あっ、と思わず声を上げてしまった僕に、青年は笑ってかぶりを振る。
「何も気にしなくていい。親父の再婚相手も凄くいい人だし、それで妹もできたし。だけどもう少し、お袋のことを懐かしみたくもあるんだよな」
 重たさを微塵も感じさせず、けれどもどこか愛惜を漂わせ、青年は言った。そんな彼に、僕はわずかに羨望を抱いた。
 僕もあの人のことを、そんな風に振り返ることができたらどれほどいいだろう。
 けれどもそれは叶わない。きっと、未来永劫。
「……聞いていいですか?」
 知らず問いが漏れていた。その心情を僕自身が不思議に思う。
 見ず知らずの他人ことなんてどうでもいい。普段の僕だったら、そう思うはずなのに。
 それなのに、この時ばかりは聞きたくなったのだ。
 この、目の前の人のことを
「なんだろう?」
「あなたは昨日の誕生祝いに招かれた外国の方ですか」
 問いかけに、青年はああ、と得心したように笑う。そうして束ねた黒髪をつまんでみせた。
「この髪と目の色だろ? よく言われるけど、アルバ人だよ。ただ、東方の血が入っている。母親の生家がそういう家なんだ。そういう貴方は? 貴方も言われるんじゃないか?」
「僕は……実は判らないんです。母親の色だって聞いているけれども、もう……いなくて。どこから来た人なのか、どんな人だったのかも判らない」
 そう、僕はあの人の旧姓すら知らない。父に問えば答えてくれたのかもしれないが、あの日以降僕は父に、あの人のことを一度も問うていない。
 問えない。何一つ。
 だがそんな僕に青年は考え込む仕草を見せると、思いがけないことを口にした。
「もしかしたら、同じ家の出なのかもしれない。俺の母親と、貴方の母親」
 えっ、という驚きの声は、喉でくぐもって漏れた。ただ驚くしかない僕に、青年は告げた。
「母の実家は、一族も多い大きな豪商だ。この色を持つ者も多くいる。家族ほど近しくなくとも、血族であることはあり得る」
 僕は思わず考え込んでしまった。
 あの人は宮廷女官だったと聞いている。だとすれば、領主や貴族の推挙を得られるだけの身分のアルバ人だったということだ。
 彼の推測は、あり得ることかもしれない。
「どんな家なんですか」
 ためらいがちに問いかけた僕に、青年は頷いて答えてくれた。
「母の生家のベルスーズは、アルバの北部にあるランザンの貿易商だ。自前の船を持ち、東方との交易を代々生業にしている。代を重ねた今はアルバ人といって障りはないが、元々は極東のルゴサから渡ってきた東洋人だったと聞いている」
 ルゴサ。その国の名に僕は驚きを隠せない。
 そこはヘルモーサやオドラータよりまだ東の小国だ。物語や地図でしか巡り会うことのない、あまりにも遠い国。そこが自分の起源かもしれないと言われても、実感は持ちようもない。
「それだけではなく、歴代の船乗りたちが渡航先で結婚したり、子どもを作って連れ帰ってきたりしたものだから、ルゴサだけではなく東方や南方の様々な国の血が混じっている家ではある。お袋が生きてるうちはよく連れられていったけれども、知らないもの見たこともないものが沢山ごちゃごちゃ詰め込まれてる、面白い家だった。お袋も三本弦の、あまり見ない小さなリュートみたいな楽器をたしなんでいた」
 アイラと違い音楽には疎い僕には、その楽器が何かは判らない。けれども母の音色を懐かしむように細められた目に、僕は切なさを感じた。
 ああこの人は僕とは違って、本当にお母さんのことが好きだったんだ、と。
 それは羨ましくもある。けれども同時に、なぜか僕の胸に少し安堵をもたらす。
 これが普通だ。
 あれはおかしいことのはずだ。当たり前のことじゃないはずだ。
 その思いがほんの一欠片、雪のように胸の底に落ちてくる。
 それは沈みきる頃には、溶けてなくなってしまうものだけれども、僕の心に確かに冷たい心地よさをもたらしてくれた。
「それで親父も船乗りだ。息子の俺も、いずれ後を継いで船に乗ることになるだろうと思ったからかな、あんな物語を何度も語り聞かせてくれたのは。母の家に昔から伝わっていた東方の物語なのかもしれないし、母の創作なのかもしれない。もし本の形でもう一度読むことができたらと思って、夜会に招かれたついでにここに立ち寄って聞いてみたというわけだ」
「ではあなたも船に」
「最近は陸での仕事が忙しすぎて、なかなか航海に出られないけどな。時々海が無性に恋しくなる」
 小さくため息をもらして、青年は続けた。
「俺の家と母の実家とは家同士の親交があって、ランザンでの寄港には便宜を図ってもらっていた。親父は出入りするうちにお袋を見初めて口説いて口説いて、嫁にもらったが、仕事柄苦労をかけた上に一緒にいられる時間も短くて、すまないことになってしまったと亡くなる直前に言っていた。――まあ今頃はあの世でしばき倒されてるかもしれないが、それでいいだろ」
「お父さんも亡くなってるんですか」
「本当に太く短く、好き放題に生きた人だった。おかげで後を継いだ俺も苦労し通しだ。だけど」
 黒い目がなぜか僕を真っ直ぐに見て、こそばゆそうに笑う。
「俺の人生も、運命も、悪くない。俺は本心からそう思っている」
 その笑みはとても眩かった。快かった。
 どうしてだろう。この人はどうして、こんなにも僕に穏やかに、屈託なく笑いかけてくれるのだろう。その理由は判らない。
 だけど思ってしまった。僕の本能が、直感が僕に告げてしまった。
 あの人のこと、あの人の全てに僕は触ることもできない。乗り越えられる日など来るとは思えない。ただ忘却の一番下に沈め、二度と浮かび上がらせたくない。それが本心。
 けれどもこの人が、もし本当に僕の血族であるのならば。あの人を通じてつながる血縁なのだとしたら。僕はこの人を憎むだろうか。嫌悪するだろうか。
 きっと、違う。
 もし、こんな風に僕に優しく笑いかけてくれる年長者がいてくれたら。
 もし、僕を年上として導いてくれる人が、温かく見守ってくれる人がいたのなら。
 そんな人にこの先出会えて、頼ったり甘えたりすることができたのなら。
 僕の人生は、どれほど楽になるんだろうか、と。
 だけどそれは夢想だ。僕がアイラを思い続ける限り、アルバ人は決して味方などしてくれない。彼女を排斥しようとする全ての人たちが、僕の敵だ。
 それは僕の定めだからではなく、僕の望み、僕が自ら選んだこと。
 だけど、だけど――。
「若。そろそろ出立の時間です」
「もうなのか。せっかく話が進んだところだったのに」
 閲覧室から入ってきた男性が、青年にそう声をかける。供であろう人物からの促しに、青年は名残惜しそうにため息をついた。
「大事な時間を割いてもらって、ありがとう。会えて光栄だった」
 僕よりずっと年上で、立場的にも目上であるはずの青年は、立ち上がるとどこか改まった口調で僕に言った。
「俺の一族が使う別れの挨拶だ。――どうか貴方の未来に、光が届きますよう」
 そうして不可思議な印象を残して青年は去っていった。
 僕が彼に二度と巡り会うことは、なかった。
「どうか、元気で」
 そうして謎だけが残った。

 僕の昔語りを、ブレイリーは最後まで黙って聞いてくれた。やがて考え込むような、怪訝そうな顔をした後、卓の上の本を取り上げてページをめくる
「カイルワーン、その男が話した船乗りの話、これだろ」
「やっぱり君もこの本、読んでくれてたんだね」
「傭兵見習いの小さい奴らに勧めた。毎日少しずつ読んでいくのに、おあつらえ向きだったからな」
 ブレイリーの指と声がなぞる物語に、僕は小さく頷いた。
 それは東方から渡ってきた物語。暴虐の王に王妃が毎夜語り聞かせる形でまとめられた説話集。冒険や恋愛や寓話や伝説を、沢山集めたもの。
 題名は『千一夜』。僕の時代では翻訳本が人気を博し、僕もすでに読んでいたものだ。
 レーゲンスベルグの古書商からこの写本を薦められた時、なぜか心が騒いだ。
 最初に開いたページがあの船乗りの物語だったのは、これは運命か、と思った。
「ああなるほど、と思ったよ。僕が読んだ――アルベルティーヌ王立学院図書館に所蔵されている本の他に、『千一夜』には異本が存在してたんだって」
 レーゲンスベルグで出逢った『千一夜』は、王立学院図書館蔵のそれより収録されている物語の数が多かった。その真贋は――原典に忠実かは判らない。けれどもあの人の母親が彼に語った物語が、これを下敷きにしていることは疑いようもなかった。
「どうしてこの写本が王立学院図書館には収められていないのか――市井にある僕でも手に入ったのに、二百年後に流布に到っていないのか、その理由は判らない。でもブレイリー、僕は願ってしまうんだ。僕は、この本を二百年後まで遺したい」
 それは僕の、切なる願い。
「あの人が何者だったのかは判らない。この本をここに遺したとて、あの人が出会える可能性なんて、皆無だろうとは思うよ。でもそれでも、僕はこの本を後世に遺したいと願ってしまうんだ。それが僕にできる、最後の善いことだと思ってしまうから」
 目の前の顔が悲しげに歪む。それに僕はかぶりを振った。
「そんな顔をしないで――君たちも気にしなくていい。僕にはもう残された時間はほとんどないし、それを変える手立てもないことも、僕自身が一番よく判っている」
「カイル……お前」
「ここに至って、よく考えるんだ。僕は本当に、胸を張って誇れる善いものを、未来へ遺すことができたんだろうかと」
 この五年、宰相として僕は色々なことをした。歴史に残る事業を、歴史に定められたとおりに。
 でもそれは、本当に善いことだったのか。
 誰かを幸せにしたのか。
 アルバ王国ロクサーヌ朝の二百年は、本当に民衆が平和で幸せに暮らせた時代だったのか。
 僕にはその答えが出せない。
 この五年の己に――そしてカティスを置き去りにしていくこの決断に、胸を張ることができない。
「僕は沢山罪を犯した。沢山の人の死の上、流された血の上に、新しい王国を築いた。それが歴史の定めだったと、全て決まっていたことだと言い逃げるつもりなんてない。多くの人を救うためだったなんて、正当化するつもりもない」
 これだけは譲れない。この言葉が僕を思ってくれている人たちを傷つけると、判っていても。
「僕は本当に、沢山の人を殺したんだ。そのことが許されるだなんて、思っていない。だけど」
 だけど、それでも願ってしまう。
「この本は――それだけじゃなく、この図書室に僕が残していった本は、未来につながるだろうか。これから先も誰かの糧になってくれるだろうか。そうであるならば、僕もちょっとはいいことができたって思っていいんじゃないかと」
 僕はそう思うんだよ。
 そう静かに告げた僕に、彼は手を伸ばしてきた。その震える手に抗うことなく身を任せると、同じほどに震える声が耳朶を打った。
「もういい、もう十分だ」
 抱かれる温もりに、僕はただ頷く。
「過去も未来も、どの時間の誰がお前を罵ったとしても、お前を非難したとしても、俺たちは何度だって言ってやる。――お前はよく頑張ったと」
「……うん」
「もう全部下ろしていい。賢者も、宰相も、預言者も、何もかも、全部下ろしてしまえばいい。その全部が俺たちには必要ない。俺たちがほしいの、ただ一つだけ――生意気で背伸びばかりして俺たちを振り回すにいいだけ振り回す、小さな子リスだけだ」
 ああ、と僕は小さな嘆きをあげた。
 あの時。王立学院図書館であの青年を見送った時、思った。
 僕を見守ってくれる年長者を――僕が兄のように慕うことが叶う相手は、この先決して得られないだろうと。
 僕の人生は敵だらけだろうと。
 けれどもそれは違った。
 僕はこんなにも深く愛情を注いでくれる人たちに巡り会った。
 それは幸せなことだった。
 それは本当に、幸せなことだった。
 僕に残された時間はあとわずか。この時間で、僕は彼らに何を遺せるだろうか。
 判らない。できることなんてないかもしれない。ただ彼らに甘えることしかできないかもしれない。
 でも、だからこそ。僕は笑って問いかける。
「……知らなかった。僕、君たちにとってリスだったんだ」
 冗談めかした問いかけに、彼が苦笑してくれる気配を感じて、僕は嬉しい思いで目を閉じた。

「ただいま、ジュリア」
 突然の声に、読書に没頭していた私は驚いて顔を上げる。図書室の入口には、アルベルティーヌに出かけていた私の恋人が立っていた。
 レインズ・モス・ザクセングルス。施政人会議の議員であり、レーゲンスベルグで権勢を誇る武門の棟梁である彼は、アルベルティーヌ城での父の誕生祝いに招かれていたのだ。
 確かに今日帰宅予定だったことは弁えていた。だが一族の長である彼の帰着だ。どうして先触れの一つも私に届けてくれなかったのだろう。
「びっくりした。教えてくれれば、ちゃんと出迎えたのに」
「いいいい、そんな堅苦しいの」
 到着して、真っ先にここに来たのだろう。旅装を解かぬままの姿に、私は小さなため息をつく。襟元に手を伸ばし、外套のボタンを外す私に、レインは弾んだ声で告げる。
「お前に話したいことがあった。図書室にいたのがちょうどよすぎる話だ」
 脱いだ外套を無造作に机に放ると、彼は書庫から二冊の本を手に戻ってきた。とても大事にしまわれていたのだろう気配のする古書を。
 それを卓に並べ、窓際の長椅子に並んで座り、彼は私を心底驚愕させる一言を放った。
「賢者カイルワーンに会ってきた」
 一瞬私は言葉が出なかった。その言葉の意味を捉えかね、しばらく咀嚼すると、ようやく言葉を絞り出す。
「……どうやって?」
 まさか『赤の塔』を訪ねたのか。いやそんな馬鹿な、とぐるぐる自問自答した私に、レインは一通の文書を差し出してくる。長く保たせるためだろう、上等の紙に記されている。
「その疑問には、これが答えてくれる」
 それは手紙だった。少し癖のある字が、大陸統一暦1215年十二月に総領を務めている者へ、と呼びかけている。
「我らの偉大なる初代、ブレイリー・ザクセングルスから俺に対する伝言だ。いやもう、死ぬほどびっくりした」
 そこには、私も驚くような物語が綴られていた。
 大陸暦1005年九月、この館に保護されることになった賢者カイルワーンが、ザクセングルス初代総領ブレイリーに語ったこと。
 大陸統一暦1215年十二月。国王クレメンタインの誕生祝いに列席した黒髪黒目の青年に出逢ったこと。カイルワーンが自分の母方の血縁者かもしれないと語ったこと。彼が幼い頃母親に聞かせられた物語の出典を探していたこと。
 そしてその本が、今このザクセングルスの図書室に所蔵されていること。
 それが当人に届けられるかどうかは判らない。けれどもその人物が存在している1215年以降まで、この本を大事に守り伝えてほしいこと。
 それが大恩ある賢者カイルワーンの望みであり、自分もまた願うことであるから、どうかよろしく頼むと。
 この思い出話を語ったカイルワーン、そしてそれを受け止めてこの伝言を残した初代、二人の思いはよく判った。
 だが、だ。大陸統一暦1215年に生きる私たちは、呆然とするよりない。
 だって。だってだ。
「出会えるか判らないも何も、本人じゃない!」
「そういうことなんだよ」
 初代総領がカイルワーンから聞いて書き残した容貌。その出自。それを重ね合わせて考えれば、答えは一つしかない。
 これはどう考えたって、レイン以外にはありえない。
 ああ、また卵と鶏か! 私は思わず絶叫し、レインはそんな私にただ苦笑する。
「で、これがその『千一夜』だ」
 そうして彼は卓の上の、二冊の本を並べる。
「ザクセングルスの子弟たちは大体どこの家でも、この物語を読み聞かせられて育つ。初代にとってこれが大事な本で、子どもたちを育てる時に自ら読んだと伝えられているからな。俺もお袋に、何度も読んでもらったんだよ。でもその伝統の根底にこんな事情があったなんて、この伝言を見て初めて知った」
 頭痛がするのかこめかみを押さえて、レインは深いため息をこぼした。
「初代は原本を二百年保たせるため、自ら全文を書写し複本を作った。これがそうだ――まあ初代の直筆も末裔の俺たちにとっては宝だ。だからさらに写本を作って、二冊一緒に貴重書庫で保管してきたんだそうだ」
 そうして二百年。二人の願い通り、その本は探している人物の手に渡った。
 のであるが。
 私は天を仰いで詫びるしかない。
 ああカイル。初代様。ごめんなさい。
 全部演技だったんです。この物語の出典が判らないなんて、原典が見つからないなんて、全部この男の嘘だったんです。
 最初からその本は、この男の手元にあったんです。
 でも、だ。どうしてこの男がそんなことをしたかと言えば、そうすることが歴史の定めだったからだ。
 この男がカイルに会い、船乗りの冒険の話をしなければ。
 嘘をつき、探してほしいと持ちかけなければ、この本は今ここに伝わりなどしないのだ。
 だからレインは、この卵と鶏の理をわきまえた上で、歴史の遂行に望んだのだろう。
 カイルワーンの、そして初代ブレイリーの願いを、この世界から抹消しないために。
「この本は代々この図書室を預かってきた司書たちに、宝として守れと言い伝えられてきたそうだ。でも、ずっと俺はそのことが不思議だった。だって、他の貴重書と比べても、あまりにも普通の本じゃないか」
 レインの疑問に、私は頷く。
 私とレインが伴侶と言っていい関係になった後、私はこの図書室で守られている沢山の貴重書の存在を教えられた。
 禁書は勿論別格でここにはないが、初代ロスマリンが書き残した『蕚の書』をはじめとしたザクセングルスの沿革史、彼女が結婚時に持参した賢者の著作の原本など、目眩がするほど貴重で表には出せない書物が、貴重書庫には眠っている。
 その危険性故、この図書室には一族でもえり抜きの文武に秀でた男女が、武装司書として配置されているほどだ。
「この初代の伝言は、親父によって封印されていた。1215年十二月、国王の誕生祝いに招かれた時に総領が開封しろ、という言いつけとともに」
「つまり先代様までは、この伝言は開示されていたのよね。禁書を読んだ者でなければ意味が理解できないから、総領のみに限定されていたでしょうけど」
 だと思う、と頷き、レインは私の推論を引き継ぐ。
「初代ブレイリーにとっては預言のつもりではなかったはずだし、歴代総領たちにとってもそうだった。でも親父はこの伝言を見た瞬間判ってしまったんだろう。賢者カイルワーンが1215年十二月に出逢った、東方の血をひく黒髪黒目の船乗り。国王の誕生祝いにも招かれるほどの地位にある青年。それはもしや自分の息子なのではないかと。計算すれば、俺はその年二十九になる。賢者が出逢った男の推定年齢と、ばっちり合う」
 私には先代の意図がよく判った。次代の総領がレインになるにせよならないにせよ、これはその時節の者に早期に開示できるものではない。
「これを見て、どうして親父が俺に『総領になれ』って、あんなに言ってたのか判った。親父はこの伝言を見て、俺が1215年に総領になっていることを――俺が最後の禁書の守り手になることを、確信したんだと思う」
 私は少しばかり沈んだ面差しに、かける言葉がない。
 それは運命だ。あらかじめすべて決まっていたことだ。それは血のにじむような努力をして、今の地位を勝ち取った彼にはあまりにも酷な言葉。
 彼も理性では全て理解しているだろう。けれども感情が伴うには、時間と力がいる。
「でも、正直言うわ。これを見て俺はアルベルティーヌ城に行ったわけじゃないか。図書館で賢者が現れるのを待つ間、もう口から胃が出るくらい緊張した」
「……そうなの?」
「お前にとっては義理の弟みたいなものだろうが、俺にとっては大恩ある偉人だぞ。ザクセングルスの子どもたちは、賢者への敬愛と感謝を叩き込まれて育つんだからな。あの方の存在なくしては、この家は興ることはなかったのだと」
 強くて快活な彼が、目を輝かせて私の弟へ憧憬を語る。その不思議さに、私も笑む。
「赤の禁書を読んで、色々考えたり悩んだり恨んだりしたけれども、根底にあるその思いは、変わることはないんだよ」
 うん、と私も大きく頷く。
 やはりそうだ。私も感謝している。
 あの子たちがみんなで、この未来を紡いでくれたんだ。その思いは私の中にも同じようにある。
「実際のところ、本当にあなたとカイルワーンには血のつながりがありそうなの?」
「グレンドーラという娘が一族にいなかったのか、折を見てベルスーズの伯父たちに問い合わせてみようと思っている。1217年には、ランザンを根城にしている伯父たちの力を借りることになるだろう。今から根回しもしておきたいし」
 ザクセングルス武装船団とガルテンツァウバー海軍が衝突するのがランザン沖。そこがレインの母方の本拠地であるというのは、どんな偶然なのか、と私は唸らずにはいられない。
 ただ、とレインはどこか達観するように呟いた。
「知ったところでどうなる、という話ではあるんだよな。俺とお前の興味が満たされるだけで、今から彼の力になってやれるわけでもない。運命の何を変えてやれるわけでもない」
 確かにレインの言うとおりだった。それを私たちが知ったところで、カイルの何が変わるわけでもない。
 だがそれでも、血縁かもしれない少年に向けているのだろう彼の目は優しい。
「でも、会ってみて思ったよ。ザクセングルスやアイルの初代が、どうしてあれほどまでに賢者を不憫に思ったのか。己の生涯が変わってしまうほどに、その運命を悲しんだのか。何となく判ったような気がした」
 私は恋人の黒い目が、悲しみをたたえていることに気づいた。
「あれほどの過酷な運命を背負うには、あまりにもか弱くて小さかった。かけらも余裕なく、誰にも甘えられず精一杯一人で胸を張りながら生きているんだろうなって、そう思ったよ。あんな今にもぽっきり折れそうな子どもが、歯を食いしばって生き抜いて、あれほどのことを成したのか。そう思ったら、俺でさえたまらなくなった」
「……うん」
「時々考えることがある。賢者カイルワーンとアイラシェール王女は、この時代に帰ってこれたらよかったのにと」
 レインの言葉を私は驚きをもって聞いた。
 それは私がこの二ヶ月、夢想してしまったこと。決して叶わぬことと知りながら、思わずにはいられなかったこと。
「魔女の呪いだけを残して――魔女が死を選ぶそのすんでで、二人でこの時代に戻ってこれればよかったのに。今のレーゲンスベルグとザクセングルスなら、あの二人を守ってやることが――匿ってやることができるのに。そんなことを考えてしまうんだよ」
 ああ。ああ、と私は嘆きをあげるより他ない。
 判っている。『時の鏡』は片道切符。時を越えた先から、戻ることはきっと叶わない。
 でももし、今ここにあの子たちを呼び戻せたなら。
 私とレインは、そしてヴァルトとシェイラは、全力であの子たちを守るだろう。
 あの子たちの導きによって成ったこのザクセングルスは、一丸となってあの子たちのために尽くすだろう。
 ここならば。この赤い薔薇の咲き乱れる館の中でなら、私の妹は残りの人生を静かに生きていけただろう。
 それが叶ったら、どれほどよかっただろうか。
 そう思ってしまうからこそ、私は。
 だからこそ私は、レインに静かに言う。
「それは……夢想よ」
「そうだな」
「でも、あなたが……他ならぬあなたが、私にそう言ってくれることは……泣きたいくらい、嬉しい」
 自分の肩にもたれかかってきた私を、彼は優しく抱きとめてくれた。
 歴史の前に、時間の不条理の前に、私たちは無力だ。
 けれども、それでも私たちはその中で生きていく。そう決めた。
 変えられない定めの中にある喜びと悲しみを全部大事に拾い上げて、抱きしめて生きていくと決めたのだ。
「大好きです、レイン」
 私の背中を撫でながら、私の運命の相手はうっとりするほど優しく答えた。
「ああ、俺もだ」

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