たとえそれが夢だとしても


 鐘の音が聞こえる。
 レーゲンスベルグ大聖堂が鳴らす時報の鐘。その懐かしく馴染み深い音に、僕はああ、と小さく嘆息した。
 カティスと共にアルベルティーヌ城に入城し、そこで暮らすようになって数ヶ月。戦後処理や戴冠の準備、そして重傷を負ったブレイリーの救命、そんな目の前に積まれた危急の物事が一段落ついた頃。僕は不意に気がついた。
 ああ、この鐘の音だ、と。
 僕が幼い頃から聞き馴染んだ鐘の音はこれだ。アルベルティーヌの大聖堂が朝昼夕と鳴らす時報の鐘。生まれてからの十九年、下町の家や『赤の塔』で毎日聞いてきた鐘の音色は、二百年の時を巻き戻しても何の変わりもなく、僕の胸に苦くて甘い郷愁を落とした。
 僕と共にこの鐘の音を当たり前のものとして、日々の暮らしの標とした人たちは、もう、いない。
 父も、母同然だった人も、そして何よりも。
 アイラ。僕はただ胸の中でその名を呼ぶ。一日の終わり、暮れていく空を見上げ、遠くまで響いていく鐘の音を聞きながら。
 そうして僕は五年の歳月を過ごした。
 だけど今聞こえている鐘の音は、それとは違う。王都のものと似て非なるその音色は、僕の胸にやはり似て非なる郷愁をもたらした。
 ああ、レーゲンスベルグだ。僕は安堵がない交ぜになった切なさをもって、その音に耳を澄ませる。
 カティスと、セプタードとブレイリーとウィミィと、傭兵団のみんなや街の人たちみんなで聞き続けた、明るく軽やかな音色。
 これは何時の鐘だろう。起き上がることもできなくなった僕は、それを確かめる術がない。声を出して問えば、誰かが答えてくれることは判っている――彼らは決して僕を一人にすることはない。けれども敢えてそれをせず、ぬくいまどろみの中でゆったりと音に身を任せた。
 そうしてがくり、と落ちるような錯覚を覚えた。
 驚いて目を開けると、やはり鐘の音が鳴り響いている。清められた広場は沢山の人でごった返している。
 温かな陽光が降りそそぎ、涼やかな風が僕の頬をくすぐっていった。
「あ、れ……?」
 僕はその瞬間、猛烈な違和感に襲われた。
 それは見慣れた景色だった。知っている場所のはずだった。
 目の前の建物は、僕の記憶と何も変わらない。頂点に鐘を抱いた尖塔も、正面入口の上にはめ込まれた精緻なステンドグラスも。
 毎日のようにその前を通り、慣れ親しんだ。紛うことない、この建物はレーゲンスベルグ大聖堂。ここは紛れもなく大聖堂前広場だ。
 それなのに、どうしてだろう。何かが違う。紛れもなく、何かが。
「ねえ、そんなところに立ってると邪魔よ。避けて」
 沿道に座り込んでいた少女たちから声が上がった。ああすまない、彼女たちの後ろ側に回り込むも、疑問は解けない。だからそれを機に問いかける。
「……凄い人だね。みんなここで、何を待っているの?」
 彼女たちがしていることが、見物の場所取りであることは明白だった。何かここで見世物があることは間違いない。そんな僕の問いかけに、少女たちは「えー、知らないの!」と甲高い悲鳴を上げた。
「もうすぐ大聖堂で結婚式が始まるのよ!」
「この街を防衛している武門の総領が、とうとう奥様と式を挙げられるの!」
「革命からずっと落ち着かない毎日だったでしょ? こんなに掛け値なしに嬉しい楽しいと思えるのって、久しぶり」
 へえ、と僕がこぼした時に、僕は不意に肩を叩かれた。
「カイルワーン」
 忘れられるはずがない、僕の名を呼ぶその声。僕は弾かれるように振り返る。
 そうして僕はそこに、信じがたい人の姿を見いだした。もう二度と会うことなど叶わないはずの人を。
「父……さん」
「よく戻った。よくここまで辿り着いた」
 父は僕に、心から安堵したとばかりの掛け値なしの笑顔を見せた。それは僕には見慣れないもので、ただ当惑するしかない。
 父がこの時代に――そしてレーゲンスベルグにいるはずがない。どうして、と思うのに、その言葉が出てこない。
 父さんは公衆の場であることも厭わず、手を伸ばすと無言で僕を抱きしめた。幼い頃――赤の塔に行く前、恐慌を起こすたびにそうしていたように。
 僕は何も言えない。何も言葉が出てこない。
「みんながお前を待ちかねている。行こう」
 やがて僕を解放すると、父はそう促す。
 みんな? どこへ? 動揺のあまり幼児のように単語でしか話せなくなっている僕に淡く微笑むと、父は僕の手を優しく握った。導かれるまま街路を進むと、さらに既視感と違和感が折り重なっていく。
 見慣れているのに、間違いなく違うとしか思えぬ景色。
 ここは本当に、レーゲンスベルグなのか?
「ここだ」
 父が僕を誘ったのは、表通りに面した一軒の酒場。大きく上等な店構えには見覚えがないが、軒先に吊された年代物の看板に僕は声を上げずにはいられなかった。
 白粉とパフの意匠。それを僕は誰よりもよく知っている。
 それがなぜこの見知らぬ店に掲げられているのか。
「ああ、やっと来たんだね。間に合ってよかった」
 椅子を上げられている大きなホールの中で、青年が一人佇んでいた。おそらく結婚式に参列するのだろう黒の正装が、灰白色の髪色にとてもよく映える。
「博士、忙しいのに迎えに行ってくれてありがとう」
「礼には及ばない。私の息子だ。私が探しに行くのは、当然のことだ」
 青年は父の言葉に笑むと、僕に歩み寄ってくる。がっしりとした体躯は、大切な友達たちが皆そうであったように、剣を振るうために努力して得るものだ。今の僕にはそれが判る。
 間違いなく初めて会う人だ。見覚えなんてない。けれどもその長身を見上げた瞬間、胸の奥がなぜか痛んだ。
 切ない、そう感じた。
「君がカイルワーンなんだね。話はよく聞いていた。こうして会えて嬉しい」
 穏やかな笑みと言葉が、動揺する僕の心にふわりと染みた。
「おいで。ここで君が来るのを、ずっと待っていた人がいる」
 青年は僕を最上階の一室に招く。ドアを叩くと返ってきたのは女性の声。許しを得て扉を開いて、僕はただ息を呑んだ。
 全身が驚愕に震えた。
 花嫁の支度部屋。純白の見事なドレスを身に纏い、出立の時を待っていたのは――。
 僕の一番の親友から受け継いだ、美しい金の髪と緑の目。
 忘れるはずなどない。見間違えることなどあるはずがない。
「お帰りなさい、カイル。ずっと待ってた」
「オフェリア、様……」
 ただ呆然と僕は、その名を紡いだ。
 僕の心の半分である理性はこの事態を理解し、半分である感情は大混乱をきたしていた。
 判った。ここは大陸統一暦一二〇〇年代の――あの時代から二百年あとのレーゲンスベルグだ。主要な建物や街路を残しつつ、街は新陳代謝をしてきたのだろう。だから見覚えがありつつも、違和感を感じてしまう。
 だけどだ。だけど、そもそも。
 どうして今僕は、ここにいる。
 本当に、僕は、帰ってきたのか。
 自分の時代に。自分が生まれた、この時代に。
「ご結婚、されるんですか」
 聞きたいことは山ほどあった。なぜあなたや父がレーゲンスベルグにいるのか、とか。なぜこの立派な店に粉粧楼の看板がかかっているのか、とか。あまりにも色々ありすぎて、頭がぐるぐるする。けれども最初に口から滑り出たのは、その一言だった。彼女の幸せを確かめる、その一言。
 そんな僕に、オフェリア様は掛け値なしの晴れやかな笑顔を見せた。
「ええ。今日を迎えるには、私も旦那になる人も、本当に、ほんっっとうに大変だったけれどもね」
 その笑顔と返答に、僕は安堵した。
 彼女が自らの結婚を心から望んでいるのだと。政略でもなければ、誰かに強いられたものでもないのだと、それだけで確かめられた。
「おめでとうございます」
 だから僕は何をさておき、全力でそう寿ぐ。そのことより優先されることなど、何もないと思えた。そんな僕に、オフェリア様もまた微笑み返してくれる。
「お姉様、失礼します。こちらも用意が整いました」
 そんな僕たちに割り込んできたのは、軽やかで楽しそうな声。緑色のドレスで正装した金髪の女性にオフェリア様は頷き、僕は訝しんで問う。
「……お姉様?」
「旦那の妹なの。さっき会ったのが、この店の主人。旦那の親友で、この子は彼のところに嫁いでいるの」
 端的な返答に、ああと僕は納得する。そんな僕に女性は詰め寄ってくると、悪戯っぽく笑った。
「ついに来たわねカイルワーン・リメンブランス」
「あの」
「この私の、渾身の見立てを喰らいなさい」
 何のことだか、意味が判らない。だが次の瞬間、現れた人の姿に僕は。
 息が、止まった。
 桃色に赤をあしらった愛らしい型のドレス。白い髪は編んでまとめ、帽子と一体になった美しい被り布の中に納められている。色が白すぎる彼女が健康に見えるよう施された化粧は、品良く彼女の美しさを際立たせていた。
 結婚式に列席する親族として、文句なしの正装。それを身に纏って、僕の目の前にいるのは――。
「アイラ……」
 ただ呆然と、呆然と呟き、そして僕は不意にすべてを理解した。
 これは、夢だ。
 現実じゃない。僕が見ている夢だ。
 不条理も疑問も何もかもが、日に当てた氷のように溶けていくのを感じて、僕は小さく嘆息をする。
 夢ならば夢でいい。それならそれで。
 アイラに会えた。アイラにもう一度。それは僕にとっては、僥倖。
 ならばこの夢を、心の底から楽しもう。醒めてしまう、その時まで。
「ねえカイル、似合ってる? おかしくない?」
 恥ずかしがるように、不安そうに僕に問いかけてくるアイラに、僕は。
 自分が浮かべ得る限りの笑顔で、頷く。
「可愛い。似合うよ、アイラ」
 僕の言葉に、目の前のアイラがほっとしたような顔をするのを見て、僕は泣きたくなる。
 ああなんて、穏やかで素敵な夢だろう。
 オフェリア様がご自身の望む相手と結婚をされて。
 こんなに屈託なく笑える人たちに囲まれているのを確かめられて。
 それを父さんやアイラと一緒に見届けられるなんて。
 なんて素晴らしい夢だろう。
「そろそろ出発しないとならない時間だ。馬車も来てる――行こう」
 件の青年が僕とアイラにそう声をかける。戸惑う僕たちに、オフェリア様が告げた。
「博士には、私の父親代理を頼んでいるの。だから私と一緒に会場に入ることになる」
「そして私は花嫁の介添人ですから、お姉様たちに同行しないとなんです。お二人は先に夫と大聖堂に行って、兄に会ってやってください」
 オフェリア様の義妹になる女性は、僕に礼装の上着を差し出しながら告げた。
「お二人の義兄になろうという男です。存分に見定めてやってください」
 アイラだけではなく、僕の兄。そう彼女が言い切ったこと――示唆するところは明白で、アイラは顔を赤らめて俯いてしまう。僕はそれに首肯すべきか否定すべきか判らず、迷った挙げ句とりあえず上着を受け取って着替えた。とりあえずそれで一応僕の格好もついた。
「ちょっと待って、カイル」
 促され、部屋を出かけた僕をオフェリア様が呼び止める。窓際には、とりどりの色の薔薇が活けられている。その中から一輪を抜き出すと、手近な鋏で茎を切り詰めた。
 絹手袋をはめた美しい手が、僕の襟に薔薇を差す。
 中心に深紅を抱く、見事な黒薔薇を。
「旦那の家で育種したの。これが現状作り得る、最も黒い薔薇」
 オフェリア様は全て知っているのだろうか。僕は夢の不条理の中で思う。
 僕が黒い賢者であることを。赤い魔女を滅ぼしたものであることを。
 判らない。判らないけれども僕はある予感を抱く。
 これが夢だとして。
 オフェリア様、レーゲンスベルグ、粉粧楼とその主、そして父さん。それを一本の線で繋ぐ答えを、僕は自分の中に持っている。
 そう、確かに僕は自らの手で種を蒔いた。その行く末に思いを馳せるからこそ、こんな夢を見るのだろうか。
 だとしたら、もしかしたらこれから出会うのは。
 僕が心の底から見たいと願っていることの結末。
 それはやはり、人の形をして僕の目の前に現れた。
 大聖堂、招き入れられた控え室。僕はそこで彼と巡り会う。
 黒に赤を配した見事な礼装。剣帯には一重の白薔薇紋の刻まれた短剣。僕と同じ黒髪と黒目が目を惹く武人は、僕とアイラの姿を認めると笑った。
 懐かしい。脈絡もなく――いや、その理由にほぼ気づきながら、僕は思った。
 僕はこの人に、会ったことがある。
 やっぱりあれは偶然ではなかった。この人は、僕の存在を――僕の運命を知った上で、城まで会いにきた人だったんだ。
「ありがとう、来てくれて」
 青年は僕とアイラを見下ろし、そう告げた。そんな彼に僕は首を振る。
「感謝しなければならないのは僕たちの方です。あなたが――あなたたちが僕の願いを叶えてくれた。そうして今日、僕たちをここに導いてくれた。そうでしょう?」
 きっと僕たちは、彼らによってここに喚ばれてきたのだ。沢山の――数え切れないほど沢山の人たちの人生を積み重ねて叶った、今日という日を寿ぐために。
 僕の言葉に青年は、恭しさをたたえて頷いた。
「あなたたちがいなければ、何も始まらなかった。今日という日はなかった。そして俺たちは皆、自分の人生を誇りに思っている。そのことを伝えたかった」
 僕とあの子で蒔いた種は、きっと見事な花を咲かせたのだろう。そして今日という良き日がある。そのことに僕は目頭が熱くなった。
「お姉様のこと、よろしくお願いします」
 アイラの言葉に青年が力強く頷くと、高らかに鐘が鳴った。
 時報ではない。結婚式の始まりを街中に告げる、喜びの鐘の音。
「じゃあ行こうか」
 一二〇〇年代の粉粧楼の主は、僕の大事な人にそっくりの笑顔で僕たちを促す。
 そうして迎え入れられた大聖堂。花嫁を待つために、祭壇に向かう花婿に歓声が飛ぶ。
 ステンドグラスから差し込む七色の光が、その道を美しく照らしていた。


 鐘の音が聞こえる。おそらくは夕刻を告げる鐘だろう。午後の日の温もりは去り、部屋の中には初冬の夕闇が忍び込んできていた。
「カイル、起きたか?」
 僕の身じろぎに気づいて、声とともに視界に入ってくれた人を見た瞬間。
 涙があふれた。
「どうした? 悲しい夢でも見たか?」
「違うよ、セプタード。そうじゃない……物凄く、嬉しくて楽しい夢だった」
 だからこそ涙が止まらない。あまりに嬉しくて。そして今そばにいてくれる君の姿に、安堵してしまって。
 僕の中の、堰が切れた。
 あふれ出る涙を、セプタードが手拭いで拭ってくれる。ごく当たり前のように。優しい仕草に、僕はただなすがままにして甘える。
 傭兵館に辿り着いて間もなく床についた僕を、傭兵団のみんなは決して独りにすることはなかった。介護と呼んでいいそれは交替で行われてはいたが、実質ほとんどの時間を請け負っていたのはセプタードだった。
『親父の時も俺が看たからな、慣れてる』
 そう彼は何でもないことのように言った――セプタードのお父さんも病気で亡くなったのだと、僕はその時聞いた――が、だがこれほどの時間を僕に付き添っているということは、おそらく彼は今店を閉めている。
『店は大丈夫なの?』
 気になって問いかけた僕に、セプタードは曖昧に笑った。
『うちの建物、俺の持ちものなんだ。親父が店を開く時に買って、俺に遺してくれた』
『ということは』
『家賃がかからないから、店を閉めてても損失はない。借金返済もないから、俺一人がその間食えてれば大丈夫なんだよ。今俺はこの館で寝起きして、幹部たち向けの賄いを一緒に食わせてもらってるから、生活に全然金がかかっていない』
 何も心配することはない、とばかりに手を伸ばし、セプタードは僕の髪を撫でる。その心地よい感触に、僕はただ甘えるしかない。
 病む、ということがどういうことなのか。レーゲンスベルグで医者として沢山の患者を診察しておきながら、僕は何も判っていなかった。我が事となってみて初めて思う。
 人の手を借りなければ何もできない。自分の身を、全て人の手に委ねなければならない。そんな状況におかれて初めて気づいたことは沢山あるし、やっぱりあの日下した決断は間違っていなかったと思ってしまう。
 やっぱり、こんな自分を城の誰にも見せたくないし委ねたくもない。それが偽りのない本音だ。
 じゃあセプタードやブレイリーやウィミィたちならいいのか。そう問われれば。
 申し訳ない、とは思う。彼らの貴重の時間を、自分に費やさせて。そうは思う。
 けれども恥ずかしい、辛いと思うかと言えば。
 ――僕は幸せ者だ。レーゲンスベルグは僕に、本当に幸せな出会いをくれたのだ。ただそう思う。
 起きるか? その問いかけに、僕は頷く。彼に支えてもらって身を起こし、クッションにもたれかかってしばし。
 夢の残滓を胸の中にまとわせながら、僕は口を開く。
「セプタード、聞いていいかい?」
「なんだ?」
 突然の問いかけをセプタードは訝しむ。そんな彼に、僕は藪から棒な問いかけを投げた。
「粉粧楼って、移転した?」
 当然のことながら、セプタードは沈黙した。顔いっぱいに疑問符を浮かべた彼に、僕は夢の中で見た光景を打ち明ける。
「大通りに面した立派な大店に、君の店の看板が下がっていたんだ。そんな夢を見た」
 僕の言葉に、へえ、と面白そうな顔を見せた。
「俺は今のところ、そのつもりはないな。親父が遺してくれた持ち家だし、カティスやお前との思い出も沢山残ってるあの店から移りたくはない。でももし、俺に子どもや孫なんかができて、もっと店を立派にしたいと思うのだったら、それはそれでいいな」
 セプタードがエルマラさんと結婚の約束をしていること、彼女の年季明けを待っていることは、すでに聞いていた。彼女の年齢を考えると子どもは望めないかもしれない、それならそれで仕方ないと割り切っていることも。
 さっきの夢に出てきた、セプタードにそっくりな髪色の青年。あれはそのことを知っている僕の願望だろうか。彼とエルマラさんとの間に子どもができて、彼らの血を受け継いだ一二〇〇年代の粉粧楼の主は、オフェリア様を助けてくれている。それは一二〇〇年代に願いを残した、僕の夢想なのだろうか。
「カイル、起きていたか」
 物思いに沈みかけた僕の耳に、柔らかな声音が届いた。耳に触らぬよう、彼はいつだって静かにここを訪れる。
 忙しかろうに、日に何度も顔を見に来てくれる、この館の主。伸ばされた左の手のひらは、体温を確かめるように僕の頬に、額に触れる。
「今日は大分顔色もいいな。よかった」
 安堵にけぶる笑みが、夢の記憶に重なる。僕の心の中にきたしている、一つの疑問へと結びつく。
 僕は胸の中で、名を呼ぶ。
 ロスマリン。僕の妹。僕の望んだ未来を叶えるために遺した種、それを預かってくれている僕の大事な妹。
 僕は君の未来に、ある予感を抱いている。確証がない、確信を持ちきれない、ある一つの予感を。
 だからあんな夢を見たのだろうか。あまりにも強く君たちの幸せを願うから、こんなにも都合のいい夢を見てしまったのだろうか。以前会ったことのある、数少ない人の面影を、その役に当てはめて。
 だけど。だけど、だ。
 全てが願望であるのならば、なぜコーネリアはいなかった。何より強く願っていること、その一つだけが叶っていない。その不自然。
 もしかして。もしかしたら。
 僕は本当に、元の時代に帰ったのだろうか。大陸統一暦一二〇〇年代、生まれ育ったあの時代へ。
 そうして見てきたのだろうか。僕が蒔いた種を、二百年に渡って沢山の人たちが育ててくれたことを。そうして辿り着いたあの良き日を。

 魂は、自由だろうか。

 ぽつりと思った。
 肉体は時間と場所に繋ぎとめられるものだろうが、魂はその枷から自由になれるだろうか。
 魂は、どこへでも行けるだろうか。どこにでも、存ることができるだろうか。
 時間も、場所も、肉体の生死も、己を縛る何ものからも、ついには解き放たれるのだろうか。
 だからアイラもいたのだろうか。僕より先にあの時へと辿り着いて、僕が来るのを待っていてくれたのだろうか。
 答えは分からない。今の僕にはまだ何一つ。けれども思う。
 そうだとしたら、どれほどいいだろう。
 ああ、と僕は嘆きとも喜びとも取れる嘆息を上げる。手を伸ばし、傍らにあってくれる人にしがみつく。
「カイル?」
「ごめん、ブレイリー。少しだけ、こうさせてて」
 答えはなかった。ただ無言で、一本だけの腕を僕の背中に回してくれる。
 以前より薄くなってしまった胸の中に抱き込まれて、僕はその温もりの心地よさに目を閉じた。
 僕は彼から奪ってばかりだ。彼の一番大切な人も、それまでの暮らしも、頑健だった身体も、そして何より右手も。僕が現れなければ、僕と関わらなければ、彼はその何もかもを失わずにすんだのだ。
 それなのに、こんなにも彼は僕のことを慈しんでくれる。僕のことを気遣い、案じ、思い――そう、愛してくれる。
 どうしてなのか、とはもう問わない。その答えはもう分かっている。僕の小さな妹が、それを僕に教えてくれたから。
 だからこそ、強く願う。
 僕に残された時間が、彼らにとって意味のあるものになることを。ただ苦しいばかりではない、やりきれないだけではない、振り返った時に自分を誇れるような――僕に対してできる限りのことはしたのだと、そう自負できるような、そんな時間であるようにと。
 どうか自分のことを責めないで。ただそう願う。
「ブレイリー、セプタード。どうか覚えていて」
「うん?」
 どうかずっと覚えていて。
「僕はずっと、君たちのそばにいる。カティスのそばにもいる。勿論アイラのそばにもいる――何も心配は、いらない」
 僕を抱きしめる腕に力をこもるのを感じて、僕は告げた。
 大丈夫。僕は大丈夫。
「僕はもう、どこにでも行ける」
 僕の魂は、君たちとずっと一緒にいる。
「ああ、ずっと一緒だ」
 耳元でささやかれる震えた声に、僕は小さく頷いた。

 大丈夫。
 僕はもう、自由だ。
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