女同士の下世話な話

※『彼方へと送る一筋の光』14直後の小話。内容のネタバレを含みます※



 あの馬鹿はね、まるで水に溺れるように苦しみながら、女を抱く男だったのよ。

 その女性を目にした時、私が真っ先に思ったことは『なるほど』の一言だった。
 なるほど、カティスが好きそうだと。
 あいつはそもそも清楚で華奢な女より、艶麗で肉付きのいい女の方を好んでいた。ロスマリンが一度「私は陛下の好みじゃなかっただろう」と素で言ってブレイリーを閉口させたことがある――当たり前だ、心底惚れている女にそんなことを言われたら、男は何と返答すればいいのだ――のだが、その分析は間違っていない。
 そんなあいつが、どうして細身の私をたびたび買っていたのかは謎ではあるが、今目の前にいる女性は、いかにも奴の好みそのままだ。
 無論あいつが外見だけに惚れて、彼女を妻にしたのではないことは聞いている。けれどもその心根に惹かれた運命の相手がこうも好みだったというのは、なんて幸運。そう私は思わずにはいられない。
 アルバ王国王妃、マリーシア・ロクサーヌ。決してお目もじなど叶うわけないと思っていた相手に、私は直面していた。
 『葡萄紅』の楽屋に、今は私と彼女だけ。一座の団員たちは旅の支度に取りかかり、先に対面した夫は外させた。女同士で話したいことがある、という私の言に、一瞬戸惑う様子を見せたが、黙って部屋を出ていった。
「まずは貴女にお礼を。結婚祝いにカティスに贈ってもらった食器の揃い、店でとても重宝しています。特にあの大皿、華やかなのに丈夫で、使いやすいことこの上ないです。そして貴女からの耳飾り……本当に嬉しかった。身につけられるような晴れの場はなかなか巡ってこないけれど、アリスティード――娘が嫁入りする時には、私の形見として持たせてやろうと思っています」
「どうかアデライデさん、そんなにかしこまらないで。ここにいるのは、貴女の旦那様に呆れるほど面倒を見てもらった、レーゲンスベルグのカティスの女房です。そして私が元々、そんなに敬われるような身の上でないことは、あなたもご存知かと」
「なら、少し砕けてお話しさせてもらってよいかしら。実は私、貴女にもし会うことができたら、確かめておきたいことがあったの――それは一国の王妃でも他人の奥さんでも、とても失礼で下品なことなんだけど、貴女がこれを知ることはこの先に意味を持つんじゃないかと思って」
「……なんでしょう?」
 微かに訝しんで私を見るマリーシアに、髪をかき上げながら問うた。
「ロスマリンは貴女やカティスに話したのよね。私がエルマラだって」
「ええ」
「貴女も仮名があった人だと聞いている。とすれば、私とカティスがどういう関係であったのかは察してると思うし、そこに変な邪推をする人ではないと信じる。その上で、聞きます」
 私はいくらかの恐れと勇気を持って、かつての客の妻に問いかけた。
「カティスは貴女を抱く時、苦しそうではない? 貴女相手に何の抵抗もなく、気持ちよくなれてる?」
「え?」
 私の問いかけに、マリーシアは明らかに戸惑った。それが何より雄弁な答えで、私はほっとして笑う。
「そういう反応をするなら、大丈夫なんだ。それはよかった。あの馬鹿が、何の苦痛も感じず抱ける相手に巡り会えたなら――その相手を奥さんにできたなら、これ以上のことはないのよ。この街で、あいつの相手をしたことのある娼婦はみんな、きっとそう思ってる」
「それは、つまり……」
「あいつはね、本当に苦しそうに女を抱く男だったのよ」
 当時の本人に、その自覚はなかったようだけどね。そう私は呟いて、記憶の底に手を伸ばした。
 今でも耳の奥に残っている。その喘ぎは、まるで溺れる子どもが懸命にあがくようで。それでなお悦楽で酔うようで。矛盾する心と体をそのまま表した声は、相手をした女たちを切なく、虚しくさせた。
「その当時から、私は思ってた。あいつはもしかしたら、私たちみたいな娼婦を抱くことが、本当は怖くて苦しくてたまらなかったんじゃないかって」
 私はカイルワーンが現れる以前の――欠けた魂の半分を得て、心落ち着く以前のカティスを思い出す。
 華やかで明るく人懐っこく、軽薄で多情。
 奴に黄色い歓声を上げていた、街の女の子たちはそう思っていただろう。でも夜の女たちだけが、ひっそりとこう呼んでいた――嘘つきカティス、と。
 自分で作り上げた鎧の中で、小さな子どもが膝を抱えて泣いていたことを、私たちは知っている。
 怖いと、他人が怖いと。
「うちの旦那あたり、ロスマリンに話したかなあ。そこから伝わっているかもしれないけれども、小さい頃のカティスは本当に臆病で弱虫で、苛められて泣かされてきては、旦那とブレイリーに慰められてたって」
「実はそれ、本人から聞いてます。何度泣いて帰ってきて二人を付き合わせたことかって。お義母様にはそんな姿を絶対見せたくなかったのに、一人では抱えきれないくらい弱っちかったと」
「といっても、ブレイリーがレーゲンスベルグに流れ着いたのは十歳の時だから、二人がかりだったのはそんなに長い間じゃないんだけど、カティスは多分それ以前のことを覚えてないでしょうね。まあそれはともかく、あいつは多分、大人になっても他人が怖かったんだと思うわ。他人と触れあうことも、他人と関わることも、本質的には怖くてたまらない」
「私もそれは、今でも変わっていないと思います」
 あいつが唯一心と体を許したのだろう女性は、私の言葉に首肯した。
「そんな男が心を通わせてもいない行きずりの女と繋がるのは、体は悦んでいたとしても、精神的には苦痛だったんだろうなって思うのよ」
 マリーシアは指を唇に当て、考え込む仕草を見せた。そうしてしばらく黙ると、複雑な表情をして問いかけてくる。
「あの人が虚勢ほどに強い人ではないことは、身にしみて判っています。あの人の本質が、とても臆病だってことも。だから今アデライデさんが言うことは、実感としては判るんです。ああそうだろうなって」
「ええ」
「でも、そのわりに頻繁に花街に通ってますよね?」
「それ、貴女に誰が教えられたの? さすがにそれは誰もロスマリンに話してないと思うけど」
「本人に白状させました」
 しれっと答えるマリーシアに、私は声を上げて笑った。
 ああ、奴の奥さんはこれくらいのほうがいい。
「うん、だからね、セプタードはやめさせたがってた。本人が楽しいのならまだしも、何を好き好んで大枚はたいて、苦しい思いしに行かなきゃならないんだって。でもそれを、自分やブレイリーでは止められなかった。それが自暴自棄なんだと、自傷なんだと判っていても」
「ああ……そうか、なるほど」
 腑に落ちた、とばかりに呟いたマリーシアに、私は小さく頷く。
「多分カティスが女を抱きに来る時は、精神的に苦しい時だったんだろうと。別の苦しさを味わえば、前の苦しさは紛れもなく薄らぐ。あいつがしてたことは、そういうことだったんだと思う。……でもね、それに付き合わされた方は、たまったもんじゃないと思わない?」
「まったくです」
 全力の同意が来た。マリーシアは力強く、大きく頷く。
「そりゃあ私たちは、それが仕事だった。自分が求められて、相応の代金を払われたのなら、拒む理由はないわよ。でも仕事とはいえ、少なからずしんどい思いをして抱かれるのだから、その男には気持ちよくなってもらったほうがいい。その方が仕事としての甲斐があるというものでしょ。何が悲しくて、そんなに辛い顔を見せられなきゃ、辛い声を聞かされなきゃなんないんだって。自傷なら、自分一人でやってくれって話よ」
「正直……いい客じゃないですね」
「あいつを自分のものにしようとした娼婦がいなかったの、あいつを自分の馴染みとして囲い込もうと争いが起こらなかったの、判るでしょう? あいつに抱かれること自体が、空しかったのよ。けれども誰一人、突き放すことも、見捨てることもできなかった。だって、女を抱いている時のあいつの姿は、あまりにも痛々しかったのだもの」
 苦しみながらも伸ばされる手が、救いを求めていることは誰にも判っていた。心を許せぬ女を抱くことがそも苦痛なのに、そんな女たちにしかすがりつけなかった矛盾。体も心も慰めを求めているのに、それがさらなる苦痛をもたらす矛盾。
 喉を塞ぐ水の息苦しさに喘ぎながら、それでも人の肌を求めずにはおれなかった男が、本当は口にしたかった言葉はただ一つ。
 誰か、助けて。
 でもその誰かに、夜の女たちは、誰一人なれはしなかった。
 私たちは判っていた。この男を愛してはいけない、と。この男を愛せば、泥沼に引きずり込まれるだけだと。
 しかもそうして引きずり込まれるところが同じ沼なら――抱き合いながら共に沈んでいけるなら本望だろう。けれども別の沼に一人で沈められるだけなら、あまりにも空しいではないか。
 けれどもそんなあいつに突然降ってきた救いを、私は思い出す。
 あいつと同じくらい傷ついて、同じように助けを求めていた青年のことを。
 夫が、弟を自分から奪っていく運命として警戒し、憎み、それでもなお心底感謝し愛さずにはいられなかった小さなリス。
「そんなあいつが、花街から離れた理由は、勿論ご存知よね」
「ええ」
「判んないものよね。あの嘘つきカティスを救うのが、まさか女じゃなくて男だとは思ってもみなかった。そしてあのカティスが、あんなにも変わるとも思わなかった――当時、しみじみしたわよ。素のあんたの方が、嘘ついてた頃より、よっぽどいい男だって。それが判らないくらい、あの男は馬鹿だったのよ」
 だけど、と私は思わず本音を漏らしてしまう。
「とはいえ、その後あんなに長い間自慰ですむんだったら、私らの苦労は一体何だったんだろうなー、とは思いはする」
 私の呟きに、マリーシアはひとしきり笑った。
「ごめんなさい、即位してから私が城に上がるまでの七年、女性が身辺に全く侍ってなかったことは知ってるんですが、その前も?」
「998年の収穫祭の頃だったかしら。二度と花街なんかに来るな、って言ったのは確かに私なんだけど……まさか本当に二度と来ないとは」
 それは正直、私とセプタードにしてみれば結構想定外だったのだ。そしてその禁欲生活がよもや、その後九年も続いてしまうとは。
 でも今となってみれば、それで正しかったと思う。目の前にいる、この女性を奴が得た今となっては。
「アデライデさんはさっき、カティスに自覚がなかったと言いましたけど、多分後になって気づいたんだと思います。愛情のない行為に、自分の心がついていけないんだってこと。体がどんなに求めても、心の苦しさから逃れられないならもう自慰でいい、くらい思ったと思いますよ」
 ふと愁いを含んだ視線が、床に落とされた。
「国王だから、あの人が望めば喜んで抱かれる女は周囲にいくらでもいた。だからこそ、そんな女性に身を任せても、昔と同じように苦しむだけだと悟っていたんでしょうね。私はそう思います」
 その言葉を聞いて、私は小さくため息を漏らした。
 ああ、あの馬鹿は、カイルワーンが宮廷を去った後、この人を見いだすまでの二年間、どれほど苦しい時間を送ったのだろうと。
「だからね、マリーシアさん。カティスが一向に王妃を迎えようとしなかった七年間は正直不安だったし、貴女と結婚した時、王子様が無事にお生まれになった時は本当にほっとした。今貴女にお会いできて、とても幸せで健全な家庭を築いたのだと知れて、重ねて安心した」
「ありがとうございます」
「だからカティスに、伝えてほしいの。かつてあんたの相手をした娼婦のエルマラが、そしてあんたを生まれた時から見てきたセプタード・アイルの女房アデライデが、こう言っていたって」
 私はただこれを伝えるために、ここに来た。
「あんたはたとえどんな事情があっても、他の女を妃や妾に迎えてはいけない。あんたは、義務や責任で、他の女を抱こうとしてはいけない」
 これは私の確信。
「それをしたら、あんたは壊れる、と」
 そして深い危惧。
「あんたが難しい立場だってことは、私にだって判る。国のためには、他国の王女や有力貴族の令嬢を側妃に迎えた方が有益なんでしょうし、それを勧めてくる輩も沢山いると思う。でも、私はあんたに言う――あんたには、他の女は抱けない。痛む心に蓋をして、自分を騙して無理矢理抱いたとしても、それは相手を不快にしかしない。その結婚が政略であればあるほど、それは宮廷にもアルバという国にも、不幸な結果しかもたらさない」
 私は手を伸ばし、マリーシアの右手を握った。両手で包み込んで、願い告げる。
「私がそう言っていたと、カティスに伝えてほしい――もう二度とあんたは、自分を騙してはいけない、と」
 嘘つきカティスが、誰よりも騙したかったのは、きっと自分自身だ。
 そうすることでしか、あいつは自らの痛む心をなだめることができなかったのだ。
 けれども私は思う。国王となったあんたが再び苦しめば、それは国を傾ける。
 それは決してあってはならない。
 マリーシアはわずかに瞑目すると、小さく頷いて儚く笑った。
「ありがとうございます、必ず伝えます。でも」
 くすり、と笑って彼女は私の掌に、愛おしむようにもう片方の掌を重ねた。
「正直、少しばかり、嫉妬してしまうんですけど」
「そりゃあ、うちのと相方が、自分の人生費やして守ろうとした可愛い弟だもの」
 カティス本人が、何にどこまで気づいているのかは判らない。けれどもその因縁は、セプタード・アイルとブレイリー・ザクセングルスの人生に今なお絡みついているのだ。
 それにカティスを今さら関わらせるつもりはない。けれども私は思う。
 カティスが幸福にならなければ、セプタードもブレイリーも、過去を清算することはできないだろうと。
「さっきの話だと、カティスがここにいた頃からセプタードと通じてたように思えるんですが、その頃からお付き合いされてたんですか?」
「知り合いだったのは、そう。でもその頃は、男女の関係ではなかったし、まさか結婚するなんて思わなかった――というより、そもそも娼婦の私に誰かと結婚する未来があるとも思ってなかった」
「それがどうして結婚することに?」
 いささか意趣返しの気配を帯びて、興味津々に問うマリーシアに、私は苦々しくため息をついた。
「完全に成り行き」
「その一言ですか」
「私とあの男は、どうにも巡り合わせが悪いのよ。そんなに頻繁に訪ねてたわけじゃないのに、どうしてあいつが打ちのめされてる、ちょうどその場に居合わせるのかしら。しかもそれ、一度じゃないのよ。何でなの!」
 セプタード・アイルという男の精神は、今まで出会った人間の中で、最も頑丈だ、と私は思っている。
 とにかく自分というものに対して、あれほどまでに絶対の確信がある奴を私は知らない。
 自分を疑うことは決してない。自分について迷うことも決してない。自分という存在を自らで揺るぎなく肯定し、存在に絶対の自信を持つその有り様は、ある意味傲慢だと言っていい。
 ただ、あの男のいいところであり面倒くさいところは、そんな自分が、他人に対しては無力であるということを、悲しいかな、わきまえているということだ。
 あの男は、自分自身のことで迷い苦しむことは決してないだろう。けれども大切な人の苦しみに、自分が何の力も持たないこと、何の救いの手も差し伸べられないこと――いつだって、ただ見ていることしかできないことを自覚して、それに打ちのめされるのだ。
 そしてそんな様を、他人に見せるつもりなどなかったはずだ。それなのに、私はなぜかその場に居合わせる。
 放っておくには、その姿はあまりに痛々しすぎた。
「ほだされたと言ったらそれまでなんだけど、ああいう姿ですがりつかれたら、どうしようもなかったというか……。でも、私も判っているのよ。こんなにも長く娼婦をしていた女を娶るということが、周囲にどんな目で見られ何を言われることなのか。それを全部判った上で、それでも私を望んでくれたことが、ありがたくないわけなんてないのよ」
 私と夫の間にあった感情を、恋愛と呼ぶのは正直微妙だと思うけれど。
 それでも二人で、子どもたちを育てながら店を切り盛りしていく毎日は、私にとっては掛け値なしに幸せだ。
 ただ、そもそも私たちが一緒になったきっかけ――あの鋼鉄の心臓の持ち主が、泣き崩れた原因。その問題は今まさに、ぎりぎりの瀬戸際にある。
 今あの男を喪えば、夫はきっと生きていけない。
 だから私は、危険を顧みず、アルベルティーヌからここまで走ってきてくれたこの目の前の女性に、心から感謝する。
 あの男はもう、あの子にしか救えない。そして私たちは、あの男をどんな悪意にも運命にも、奪われるわけにはいかない。
 あいつはレーゲンスベルグに、傭兵団に、そして私たちを含めたこの街に住まう多くの人たちに、必要な男だ。たとえ本人が絶望に目を塞がれ、そのことが自覚できなくなっているとしても。
 だから。
「もしカティスがセプタードのことを気にかけているのならば――特に私とのことで何か気に病んでいるのならば、全ては杞憂だと伝えて。私たちがあなたに気にかけてほしいのは――国王であるあなたに助力をお願いしたいのは、私たちのことではないと。……まあそれは、言わずもがなのこととは思うけどね」
 小さく笑って告げた私に、マリーシアも笑って頷いた。

「待たせてごめんなさい」
 セプタードは楽屋の廊下に、一人所在なさげに佇んでいた。私がそう声をかけると、どこか不安げな複雑な表情をみせた。
 この人が、こんな顔をするなんて珍しい。
「何の話をしてきたんだ?」
「女同士の下世話な話」
 私の返答に、納得できなさそうな不愉快なような、けれども怒り出しもできない消化不良な顔をした。
 私だって、夫が何を考えているのかは判る。その『下世話』がカティスに関わることだろうくらい、夫にだって察しはついてるだろう。
 けれどもそれに対して、あなたはそういう顔をするの? あまりに意外で、思わず笑って問いかけてしまう。
「あら、あなたでも妬くの?」
「そりゃあもう」
「私以外の誰かに、魂の大部分を持っていかれている男が、何を言うかなあ」
 瞬間、夫は凄い顔をした。驚きと罪悪感とその他諸々がない交ぜになった、あまりにもばつの悪い顔。
 何かを言いかけ、けれども言葉にできずに動く頼りない唇に、私は微笑んで告げる。
「反論、ある?」
「ない。できないことくらい、判ってる」
「それを責めるつもりはないわよ。あなたがそういう人だってことが、そもそもの事の起こりなんだから。私があなたを初めて抱きしめたのは、あなたが誰かさんのことを思って泣いてた時でしょ」
 平然と言ってのけた私に、セプタードは弱り切った吐息をこぼした。
「……多分俺、お前に一生頭が上がらない」
「申し訳ないと思うのなら、一つ約束しなさい」
「なんでしょう、奥さん」
 かしこまって問うてくる夫に私は手を伸ばすと、頬に触れた。
「戦場に出ている間は、私たちのことは思い出さなくてもいい。あなたはきっと、何も負わない方が強い。忘れてていいから、それでも最後には必ず、私たちのところに帰ってくること」
「いいや、忘れない。お前たちを足枷に感じるほど、俺は弱くない」
 夫は不敵に笑ってみせる。凛と、爛と青灰の目に強さに満ちる。
 ああ、この男の駄目なところはこういうところだ。
 剣に関しては傲慢に過ぎるほどの自信にあふれ、なのにその自信がかけらも過剰ではない強さを持つ。
 剣を持つと人が変わる。それがセプタード・アイルだ。
 その苛烈さに、容赦なさに打ち砕かれながらも、それをこそ愛さずにはいられなかったのが奴の兄弟弟子たちであることを、私は知っている。
 その絆は愛とは違う。しかし愛と、重さや深さを比べるものではない。そして愛を盾に侵していいものでも割り込んでいいものでもない。
 それでも。
「守りたいものがある、帰りたい場所があると思えることは幸せだ。だから全部取り戻して、全部守り通して、勝ってお前たちのもとに帰ってくる」
「ええ」
 それでも私も、あなたたとともにありたい。
「アデライデ、俺はみんなで幸せになりたい。俺もお前も子どもたちも、ウィミィとクレアも、カティスとマリーシアも、他の団員たちも。そして勿論、ロスマリンとブレイリーも、だ」
 みんな一緒に。それぞれの愛する人たちと一緒に。
 その願いはとてもありふれていて陳腐で。けれどもとても困難で――この人が再び、剣を握らねばならないほど。
 答えは唇に唇で返した。柔らかく浅く触れた後、私は笑って告げた。
「あ、でも、あなた誤解してない? 今回は私も一緒に行くからね。私以外の誰が、助け出したロスマリンの世話ができるの?」
 再び唇が触れられるほどの至近距離で、夫の顔が驚愕に歪むのを、私は楽しく見た。
「だから私のことは気にするな、忘れてろって言ったのよ」
「そんな無茶言うな、気にするなっていう方が無理だ……」
 一転して頼りなげにこぼしたセプタードに、私は決意を込めて告げる。
「私のことは大丈夫。それよりあの子の気持ちを慮って。あの子には女の手が――同性の支えが必要よ」
「……ああ」
「旦那様、みんなで幸せになりましょう?」
 少しばかり茶化した、けれども決意を込めた私の言葉に。
 夫は、観念したように小さく笑って頷いた。
「ああ、一人も残さず、みんなで、な」
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