彼方へと送る一筋の光 13

 運命は、突然動く。運命は、俺たちの予想を遥かに超える姿をして現れる。
 それはカイルワーンがレーゲンスベルグに現れた時、俺とセプタードが実感したことだった。
 カティスが先王の落胤かもしれないこと。王位継承争いに奴を利用しようとする輩が現れるかもしれないこと。そこまでは予測の範囲内だった。
 だがその運命が、よもやあんな、心に傷を負っているのがあからさまなガキの姿をして現れるとは。あんな形で、カティスとその道のりを共にすることになろうとは。俺とセプタードはあまりの意外さに、まったくなすすべがなかった。
 それから十六年。再びレーゲンスベルグを訪れた運命は、またしても予想外の姿をしていた。
「ブレイリー、お前どういうことだよ」
 ギルドホールでの諸用を終え、傭兵館に戻ってきた俺に、何人もの団員たちに詰め寄ってきた。
 その顔に半分のからかいと、半分の憤慨を浮かべて。
「藪から棒に何だ」
「お前に会わせろと、女がやってきてるぞ」
「女? どんな奴だ」
 心当たりがなかった。俺はカップに水を注ぎながら問いを重ねる。
「旅の楽士だと言っていた。お前は不在だと言ったら、ここで待たせろと。ブレイリーは私のことが判るはずだ、追い返したら後でひどく叱責をされることになるけどいいのかって脅された」
「ちょっと年増だけど、すげえいい女だったぞ」
「お前、一体いつあんな女を引っかけてきたんだ。ロスマリンを袖にし続けた挙げ句それじゃ、この館の女どもにどんな目に遭わされることか判ったもんじゃないぞ」
 そう言われても、やはりまったく見当がつかない。そして責められる謂われもない。眉根をひそめて、俺は問い続けるしかない。
「その女、名前はなんて?」
「ベリンダ」
 刹那、俺は口に含んでいた水をものくそ吹き出した。
 これ以上信じがたい、狼狽する名前がこの世に存在するものか。そう思った。
「やっぱりお前、どこの女に手を出して――」
「やかましい」
 ぐちゃぐちゃ騒ぐ同輩たちは、俺の一喝で黙った。この瞬間、俺はどれほど切迫していただろう。それを感じ取れない馬鹿など、戦場に出たら死ぬだけだ。
「そいつ、どこに通してある」
「二階の談話室に。だけどブレイリー」
 説明をしている暇などない。そして真実を聞かせられるわけもない。執務室を飛び出し、階段の踊り場でそれは俺の耳にも届いた。
 弦の音色が響いていた。田舎の祭りで奏でられるような、素朴で陽気な旋律が風に乗る。
 ああ、と俺は呻いた。その美しい音は、俺に確信としか言えない感慨を抱かせる。
 叩き壊す勢いで開けられた扉。部屋の真ん中に陣取りリュートを奏でていた女は、俺という闖入者に指を止めると、艶やかに笑った。
「あなたがブレイリー・ザクセングルスね。噂は夫から耳が痛くなるほど聞いています」
 その瞬間、俺は思った。思ってしまった。
 納得した、と。
 カティスがなんでこの女を選んだのか。
 それは同じ傷を持つ故に、共感できる相手だから。それも勿論間違いではないだろう。
 だが一番の理由はそれじゃない。
 ごく、ごく単純に、外見がお前の好みどんぴしゃりだったからじゃねえか! と。
 出会ったその日に結婚を決めた、とロスマリンに聞いた時には何とも言えない気分になったのだが。
 ただの一目惚れかよ! と俺は激しく納得し、かつ呆れた。
 しかし、そんなことを考えたのは、ほんのわずかな間だけ。今ここにベリンダ――マリーシア・ロクサーヌがいる。その事の重大さが判らないような阿呆じゃない。
「お帰りを待つ間、皆さんのご要望があったので、一曲披露させていただいてました」
 粗末な旅装をしていた。手にしていたリュートも、街で売っているような二級品。完全に旅の楽士に身をやつしたアルバ王国王妃に、俺は目眩を感じた。
 信じられねえ、と思うと同時に、心がひどく冷えるのを感じる。
 これはきっと酔狂ではない。こいつにこれだけのことをさせる――そしてそれをカティスが許すほどの何かが、起こった。
 人払いをした部屋で俺は、緊迫した面持ちでマリーシアに向かい合う。
「こんな訪ね方をしてきたということは、『ベリンダ』として扱えということだと解釈するが、いいか」
「ええ勿論。あなたの弟分の女房として扱ってちょうだい」
 礼儀も敬意も必要なし。王妃は普段纏っているだろう品格の衣を脱ぎ捨て、砕けた口調で答えた。
「まさかとは思うが、一人でアルベルティーヌから来たのか?」
「供なんかつけたら、人目についてしまう。私が城を抜け出したことを、誰にも勘づかれるわけにはいかない。知っているのはカティスと、離宮で子どもたちを預かってくださっているお義母様、そして後宮で私の不在を偽装してくれている一部の侍女たちだけ」
 重い流行り風邪をひいたことになっている、とこぼしたマリーシアに、俺は低く唸った。
 ここまで何事もなくて、本当によかった。そう安堵すると同時に、考えてしまう。
 城からたった一人で抜け出したとすれば、使ったのはロスマリンに聞いたことがある、シャンビランの抜け道だろう。だがそこからレーゲンスベルグまでの道のりを、女がたった一人で。しかもそんな危ないことを、あのカティスやアンナ・リヴィアまでもが認めている。
 どう考えても尋常ではない事態だ。そしてそこまでして訪ねる相手が、俺。
 それが意味するところは。
「何が起こった」
「さすが話が早いわ。単刀直入に話します――グリマルディ伯爵が、ロスマリンとの婚約を宣言しました」
 一瞬俺は、言葉の意味を掴みかねた。だが一拍の沈黙の後、口から出てきたのは。
「それをカティスとお前は、どう捉えてるんだ」
「意外と冷静ね」
「惚れた女に袖にされた、と俺が嘆くのを見るために、わざわざやってきたわけじゃないだろ。それが判らないほど俺は馬鹿じゃない」
「惚れてることは素直に認めるんだ――なんて戯れ言を言っている場合ではありません。ロスマリンはグリマルディ伯爵に拘束されていると考えています」
「あいつが伯爵と一目で恋に落ちた、という可能性は」
「あり得ません」
 マリーシアは全く顔色を変えずに言い放った。諭すでも呆れるでも揶揄するでもない、絶対の事実だとばかりの淡々とした口調に、俺は宮廷内で自分がどう認識されているのかを思い知る。
 カティスも、セプタードやアデライデと同じことを考えていたのか、と思うと暗澹たる気分になるが、今問題とすべきはそれではなく。
 だから漏れる言葉は。
「あんの馬鹿! だから言わんことじゃない!」
「激しく同感だけど、事が起こってしまった以上それをぐだくだ言っていても始まらない。とにかく私たちは急がなくては――ロスマリンの身に危害が及ぶ前に」
 ひやり、と冷たいものが胸にねじ込まれる。そんな錯覚を覚えた。
「結婚する、式を挙げると宣言した以上は、命の危険はないものと考えます。しかしそれ以外は保証の限りではない。もしかしたら、時すでに遅し、かもしれない」
 この言葉をマリーシアは、努めて冷静に発しようとしているのだと感じた。けれどもそこににじむ苦渋に、俺は唇を噛む。
 あの馬鹿は、どうして自分が主君を苦しめていたのだということに気づかない。
「私があなたたちを雇います。レーゲンスベルグ傭兵団は、ただちにロスマリン救出のために行動を開始してください。――残念ながら、バルカロールと国軍は動けません。今動けるのは、あなたたちだけです」
「なぜだ」
 俺たちにその依頼が持ち込まれること自体は、不思議ではない。だがなぜバルカロールが何もできないのか。
 言葉足らずの問いかけを、マリーシアは的確に読み取った。小さく頷いて答える。
「ロスマリンと伯爵の婚約の報と、マリコーンを脱出したバルカロールの家令とがアルベルティーヌに到着したのは、ほぼ同時でした。つまりは双方とも、全速力でアルベルティーヌに向かったということです。それはすなわち、敵もこの報を最速でアルベルティーヌに知らしめる準備を、あらかじめ整えていた。その上でロスマリンを捕らえた」
「ああ」
「私たちはこの報を、アルベルティーヌにいる何者かたちへの合図だと考えました。つまり伯爵がロスマリンを手中に収めた、と仲間たちに伝え、行動を開始せよという号令だと」
「つまり伯爵の計画ははなから、ロスマリンを捕らえるところから始まっている、と」
 偶然でも行き当たりばったりでもなく。ロスマリンは最初から狙われていたのだ。
「奴らがロスマリンをどう使おうとしているのか、何をさせようとしているのかは判りません。ただそうである以上、私たちは警戒しなくてはならない。周到な計画であったのなら、王家とバルカロールには、すでに敵の間諜が潜り込んでいる可能性があります。私たちの行動は、最悪敵に筒抜けかもしれない。少なくともバルカロールの動きは、敵に監視されていると考えるべきでしょう」
「敵の狙いはバルカロール家と侯爵領、とお前たちは見るか?」
「それが一番可能性が高くはあります。そうであろうとなかろうと、ロスマリンが現状人質に取られていることには変わりません。バルカロールが軍を動かすには、ある程度の準備時間が必要ですし、行軍速度はどう考えたって早馬より遅い。救出の軍勢がマリコーンに着く前に、ロスマリンに害が及びます」
 俺はマリーシアの分析に、無言で頷く。
「それと同時に私たちは、今一番暗殺の危険があるのは侯爵と子息であると考えています。ですから二人には、身の安全確保を最優先にするよう命じています。無論侯爵は伯爵に対し、ロスマリンの意思を確認させろ、本意だとしても結婚となれば準備も手続きも必要だ、まずは娘を自領に帰せ、という書状を送ってはいます。この返答いかんでバルカロールの対応を変えることになるかもしれませんが、正直それを待っていることはできません」
「そうだな」
「同様に、現状ではカティスは国軍を動かすことはできません。謀反の証拠が、ない」
 そもそも現時点では、グリマルディ伯爵の標的がバルカロールのみなのか、それとも王国への謀反なのかも判別できない。
「表向きに起こっていることは、グリマルディ伯爵とバルカロール侯爵令嬢が婚約した、というただそれだけです。それに対し国軍がいきなり軍を差し向けるというのは」
「諸侯の連携を警戒した国王が、いきなり武力に訴えた――そういう捉え方をされるな」
「たとえそうでなく、ロスマリンの身に危険が及んでいるのだと判ったとて、臣下の娘一人のために国軍を動かすことは王権の濫用です。国軍は、カティスの私物ではないのですから」
 冷徹に言い放った後、マリーシアはふとため息をこぼした。
「でも本当、国王なんてつまんないわよね。自分と親友の妹分が危機に直面しているのに、自分では何にもできないのよ。本心を言えば自分で剣を握って、マリコーンに駆けつけたいくらいでしょうに」
「まったくだ」
 俺もしみじみと弟分の女房に同意した。
 今カティスは王宮で、どんな思いをしていることだろうか。おそらく国王として、この一件に対し冷静冷徹に対処せねばなるまい。だが今奴が一番したいことは、そんなことじゃないはずだ。
 昔から判っていたつもりだったが、改めて実感する。
 どうしてこんなにもあいつの人生には、自由がない。
 その感慨は、いつものように俺の胸の中に苦いものを広げるが、この時は同時に思った。
 そんなあいつが『国王なんてつまんない』と平然と言い放つ女を妻に迎えられたことは、なんて幸福なことだろうか、と。
 ああ、あいつは本当にいい嫁をもらった。俺はこの時、心底安堵した。
「カティスは立場上、ロスマリンのためでは動けない。でもあの子は私の女官だから、私の一存、私の資産で救出することはぎりぎり強弁できる。だから私がここに来ました」
 そう言ってマリーシアは、隠しから袋を取り出してテーブルに置いた。ことり、という硬質の音に、俺は中身は宝石だと見当をつける。
「バルカロールと国軍は動けないし、逆に動かないことで敵の監視の目を引きつけておく必要があります。その隙に、隠密に、敵が予想しない方向から救出の手を差し向けたい。それができるのは、あなたたちだけです」
「ああ」
「具体的な方法、作戦は一任しますが、現在マリコーンで傭兵徴募の旗が上がっているので利用できるでしょう。とにかくロスマリンを救出できれば、それでいい。それが叶えば、あの子が証人になる。伯爵があの子を拘束し、婚姻を強要したのだという証言が取れれば、バルカロールも軍勢を動かせる。そして」
 怜悧な為政者の眼差しが、俺を見た。
「もしあの子かあなたたちが、謀反の証拠を掴んでくれたら、あとはカティスと私が何とかします」
 ここに至り、俺はなぜマリーシアが自らここに来たのか、そんな危険を冒すことをあのカティスが許したのか。それを理解した。
 この話を俺にすることを、第三者には託せない。二人はそう判断したのだろう。
 この依頼にはロスマリンの身の保全だけではない。国の命運までもがかかっている。
 内乱に発展する前に、謀反の芽を摘むことができるか否か。それはひとえに、ロスマリンを無事に確保できるかどうかにかかっているのだ。
 どこに密偵が潜んでいるのか、誰が裏切り者なのか判らない。だからカティスは最も信頼し、己の意を酌んでいる存在を使者に立てた。そしてそこまで最大限の礼を尽くして国の命運を託した相手が。
 俺たち、だった。
 ああ、と俺は嘆息して髪をかき上げた。ただただ胸の奥を熱くする感慨に、俺は自嘲するしかない。
 もとよりこの依頼を断る理由などどこにもない。だがそれ以上に思い、願う。
 自らの望みとして、願う。
 やる。それ以外の回答など、ない。
 だから俺は、テーブルの上の革袋を取り上げると、マリーシアの手に握らせた。
「これは受け取れない」
「でも」
「この状況ならば、この一件はお前からの依頼ですらない方がいい。お前がここを訪れていることを誰も勘づいていないというのなら、この先何があってもしらを切り通せ。俺たちと、王家は無関係だ」
「だけど、それではあなたたちの稼ぎは」
「判らないか? 報酬は――対価は、しかるべきところから、しかるべき形でもらう」
 俺の言外の含みを、聡い王妃は的確に読み取った。なかば吹き出すように笑って、確かめる。
「ようやく覚悟が固まった?」
「今回の一件が、俺の身から出た錆だという自覚はある。今回の謀反がロスマリンのマリコーン行きに端を発しているのなら、その捨て鉢に奴を追い込んだのは俺だろ」
 だから俺は言わざるを得ない。
「正直、お前とカティスには、余計な騒乱の種を蒔いてすまないと言うよりない」
「……まあ、否定はしないけど、謝られる筋合いでもない気もするわ。ロスマリンを止めきれなかった責任は、私たちにもあるのだし。でもそう思うなら、これを言わせてもらってもいいかしら」
「なんだ」
 マリーシアは、複雑な顔をして言った。
「カティスはロスマリン以上に、あなたのことを案じている。今だけじゃない、この七年間、ずっと」
「……すまない」
「私はこれ以上、カティスが泣く様を見たくない」
 俺はこの瞬間、完全に観念した。観念せざるを得なかった。
 思うことは多々ある。ためらいが拭いきれるかと言えばそれも嘘になる。
 けれども、それでも。
 俺ももう逃げられない。俺も選ばなければならない。
「帰ったら、カティスに伝えてほしい」
 大きく一つ息をついて、俺は。
 顔を上げて、告げた。
「ロスマリンのことは俺に任せろ」
 南国に咲く大輪の蘭。マリーシアはこの時、まさに花のように艶やかな笑みを浮かべて大きく頷いた。

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