彼方へと送る一筋の光 20

 サフラノ王女メルル・ブランの降伏によって、マリコーンおよび領主館での戦闘は終了したが、長い夜はまだ終わらない。
 敵兵の武装解除、制圧した城と市内の統制、城内外の負傷者の救護等々、休息を取る前に為すべきことは、山のようにあった。
「ロスマリンさん、よければこちらを」
 団員の一人がためらいがちに差し出してきたのは、女物の外套。切り裂かれた胸元を両手でずっとかき合わせているのを見かねて、どこからか探し出してきたのだろう。
 その気遣いが俺は素直に嬉しかったし、そう思える自分に少しだけ驚いた。
「ありがとう、助かります」
 片手の俺に代わってセプタードが着せかけてやると、ロスマリンは明らかにほっとした顔をした。頬に少し赤みが戻ってきたのを見て取って、俺は安堵とともに問いかける。
「体、痛いんだろう? 怪我はしていないか」
「あなたの傷の方が心配です。血が出てる」
 ロスマリンは先刻鞭打たれた俺の頬に手を伸ばしてきた。確かにそこは腫れて熱をもっていたが、大した傷じゃない。むしろあいつの冷えた指が触れるのが心地いい。
 だが。
「何をいちゃついているのよ」
 苛立ちを込めて投げつけられた言葉に、俺たちは視線を落とす。
 そこには手首を縛められ、床に座らされているメルル・ブラン王女がいる。
「こんなことをして、ただですむと思っているのお前たちは」
 意気地を回復したのか、凄まじく剣呑な目をして王女は俺を睨む。
「これは領主に対する反乱以外の、何物だというのですか。武力を持って街を占拠し、花嫁を強奪し、領主だけではなく、結婚を祝うために訪れた他国の王族までも拘束した。この暴虐を、アルバが許すはずがありません」
 ああやっぱりそう来たか。その理屈が持ち出されるのは、俺たちにとっては想定内。だがそれを知らないロスマリンは、王女を同じくらい剣呑な眼差しで睨んで言い放つ。
「冗談ではありません。私の婚約は、捕らわれ強いられたもの。私と彼の間柄については、両親はもとより両陛下もご存知です。その上グリマルディ伯爵が謀反を企んでいたことも、すでに陛下にはお見通し。私が証言をすれば、彼と傭兵団の行動の正当性はただちに認められることです」
「悠長なお話ですわね。ここからアルベルティーヌまで、一体何日かかるのです? あなたがこれから全力でアルベルティーヌに走っていき、陛下の勅を持って帰ってくるまで、この街の統制は保ちますか? この街の者たちが、反逆者たちの支配を大人しく受け入れるとでも?」
 二人の言い合いに、俺は小さくため息をついた。これ以上不毛なやり取りを続けさせるのは、時間の無駄だ。だから俺は頭上を振り仰ぎ、声高に呼ばわる。
「いい加減に高みの見物は終えないか? そこにいるのは判っているんだ、ルイスリール。あなたの出番だ」
 見上げたのは、セプタードが潜んでいたのとは逆側の張出露台。そこに姿を現した男は、ぱちぱちと暢気な拍手の音を響かせる。
「いやあ、実に素晴らしい見物だった」
 平然と言い放つルイスリールに、思わず内心で「この野郎」と毒づいていた。そしてその傍らで、王女と侯爵令嬢が共に凍りつく。
「き、貴公はまさか……」
「貴方がどうしてこんなところに……」
 二人はただ呆然と呻いた。
 やはり二人とも、この男の正体を知っている。ならば話が早い。俺は真正面からルイスリールを見据えると、場に響き渡るよう宣した。
「ロスマリン・バルカロール侯爵令嬢を救出するという、我々の目的は完遂した。ここからは、貴公との契約の履行だ。レーゲンスベルグ傭兵団総員は要請に応え、これより貴公の指揮下に入る。グリマルディ伯爵を始めとするアルバ貴族による謀反と他国の介入、その鎮圧と真相究明のため、我らを自らの手勢として自由に使え」
 敢えて跪きはしない。しかし剣帯から解き放った短剣を鞘ごと捧げ、俺はその名を呼ばわる。
「これよりは我らがアルバ国軍だ。――そうだろう? アルバ国軍総司令官、ジェルカノディール公爵フィデリオ」
 ルイスリール――否、ジェルカノディール公爵は、俺の問いかけに微かに苦笑した。
 そして次の瞬間、場の空気が一変した。
 ルイスリールはもとより異彩を放っていた。誰の目にも、只者ではないことは明らかだった。
 けれどもそれですら、気配を自ら押し殺していたのだと悟った。
 ただいるだけで場を圧する気配。それは本気を出した時のセプタードも持つものだが、それによく似て非なるものを、公爵は放っていた。
 己の胆力を総動員して向かわなければ気圧される、その威圧感。
 威厳、と呼ばれるものを俺は肌で実感した。
 それをこの男は自らの意志で容易に出し入れし、化けることができるのだ。その変わり身、その恐ろしさに俺は身震いをする。
 これがアルバにおける、貴族の中の貴族。俺は感嘆するしかなかった。
「やっぱり判っていたか」
「隠す気なかっただろう。判らんはずがない」
 口調は変えず答えた俺に、公爵は笑う。俺の態度を無礼だとも言わず、捧げた剣を受け取り、そして契約は成った。
 そのやり取りを呆然と見つめていたロスマリンは、やがて動揺冷めやらぬ声音で問いかける。
「ジェルカノディール公爵――いいえ、フィデリオおじ様。私を助けてくれた密偵は、貴方の手の者だったんですね」
「そうだよ。彼女はよく働いてくれたようだ。――ロスマリン、君に何事もなくて何よりだった。すでに配下を一人、アルベルティーヌへ走らせてある。エルフルトも陛下も、君が無事だと聞いたらほっとするだろう」
「けれどもまさか、貴方ご自身が来ているだなんて、想像もしませんでした。その格好……まさか御自ら傭兵として潜り込んでいたということなんですか? どうしてそんな危ないことを」
「いやあ、髪を切ったら大分印象が変わっただろう? 少なくともお前たち以外にはバレていなかったぞ」
 襟足に手をやりながら、事も無げに言う公爵に、ロスマリンは「そういう問題ではありません!」と叫ぶ。
「どうしておじ様とブレイリーたちが手を組んだのか、そのあたりの事情はおおよそ察しました。それで私も彼らもとても助けられた、それは間違いありませんし感謝しています。だけど」
「だけど、なんだね?」
 まるで試すように問いかける公爵に、ロスマリンは厳しい顔つきで問いかけた。
「何が目的でいらっしゃるのです。貴方が私を助けるため、謀反を鎮圧するためだけに、こんな危険を冒すはずがありません」
「結構な言いようだね。君のことを心配していたことは事実だよ」
 ことさら傷ついたような顔を作って、公爵はうそぶいた。
「あんな小物に君ほどの女が手折られるのは惜しいと思うし、一の女官である君を奪われるのも廷臣として面白くない。エルフルトに貸しを作っておくのも悪くない。全部嘘はないよ。ただザクセングルスたちにも言ったが、私は今回の成り行きをすべて自分の目で見たかったんだよ。これは命を賭けるに足る見物だ、この祭りに加わらない手はない、そう直感した」
「今回の一件は、私の状況認識の甘さが招いた失態以外の、何物でもないと思うのですが」
「君がそう考えているのならば、まさに状況認識が甘い。君が未熟だという証拠だよ、ロスマリン――そして貴女もね、メルル・ブラン王女」
 公爵は矛先を眼下の王女へと向けた。そうして意地悪く笑って告げる。
「正直貴女には失望したよ。確かに大公閣下は、類い稀なる漆黒の鳥だ。あの方をいつまでも追い求めたくなる気持ちは判らんでもない。けれども貴女は、黒鳥の幻影を追いかけるあまり、黄金の魚が目の前を泳いでいることにまるで気づかなかった」
「ジェルカノディール公、貴公は何を……」
「私はその魚を見にきたのだよ。そう言っても、まだ判らないかね?」
 メルル・ブラン王女は困惑と動揺に満ちた顔をした。公爵の言葉と笑みはどこまでも不可解で、俺もまた戸惑うしかない。
 フィデリオ・ヴェスヴィアス・ジェルカノディールともあろう男が、命を賭してまで見ようとした黄金の魚。サフラノにとっても、カイルワーンの消息を求めることよりも価値がある、と暗に示されるもの。話の成り行きから察すれば、それはロスマリン本人ではない。
 だがそれが、俺にも判らない。見当がつかない。
 一体この戦いに、この騒乱の顛末に、公爵は何の価値を見いだしているんだ。
「無事に国に帰ることができたら、兄上に聞いてごらん。王太子殿下なら、黄金の魚と巡り会うことがどれほど稀なことか理解されるだろう。それを目前で釣り逃したこと、一度は掴みかけたのに指からすり抜けていったことに、落胆されることだろう」
 何にしても、とルイスリールはすげなく言い放つ。
「沢山の国を巻き込んで謀を巡らすには、君では力不足だったのだ。――この程度の輩で、我らアルバの深淵に触れられると思うな」
「貴公は何を――」
 愚弄に反駁の声を上げかけて、王女は言葉を飲んだ。ただでさえ色を失った相貌から、さらに血の気がひく。
 公爵はその瞬間、これ以上はないというほど、冷たい目をした。怒りと侮蔑がない交ぜとなった、この上なく冷酷な目を。
「判らないのか? この者たちが言っただろう。貴様は陛下の聖域に土足で踏み入った挙げ句、逆鱗を二重三重に逆撫でしたのだ。――我らの国王を侮るのも大概にしていただこうか。あの方は、恐ろしい方だぞ? なにせこのフィデリオ・ヴェスヴィアスを飼い慣らしているのだからな」
 ぞくりと背筋を寒気が走った。傍で聞いている、味方であるはずの俺ですら恐怖を感じた。
 ああ、そうだろう。この男を臣下として仕えさせること――跪かせるということは、どれほどの胆力を要求されることか。それをカティスは、十四年もやってのけているのだ。そのことに俺は畏れを感じずにはいられない。
 この男を従えるには、その心を魅了するだけの気概と才を示さなければならないのだろう。
 それでもこの男はきっと、気を抜いたらすぐさまに喉元に食らいついてくるのだろう。己を惹きつけるものがなくなれば、あっさり切り捨てる。そういう男だ。
 だがその非情さも、ここまで振り切れれば俺の嫌悪を超越している。それはきっとこの男が、己にも同じくらい非情だろうことが察せられるからだ。
 己を己で魅了できなくなったら、自分すら切り捨てる。その潔さはあまりにも人間離れしすぎていて、共感できないが憎めはしない。
「君が黒幕として多くの国を煽動したこと、標的が閣下であったこと、それもまた城へと伝えてある。――楽しみにしているといい。私は君の処遇などどうでもいいが、うちの外交の長は容赦ないぞ。女だからと手心などあり得ない。覚悟しておくといい」
 宣告に王女は意気地を砕かれ、がくりとうなだれた。ルイスリールの配下なのだろう女性たちに連行される背中を見送った後、俺は問いかける。
「とは言うが、実際のところ、サフラノに対してはどの辺りが落としどころになる?」
 メルル・ブラン王女のしでかしたことは、アルバにとっても許しがたい。けれども彼女を単純に罪人として、アルバの法で裁くことはできないだろう。
 公爵が言ったとおり、これは司法ではなく外交の問題だ。
 今回の一件に、アルバ側に非はかけらもない。だからこそ、サフラノに対しどこまで強く出るべきか。何をどこまで要求するか。その匙加減はなかなか難しいだろう。
「主導権はアルバが握っているが、王女を害することはさすがにできない。人質にするにしても何をどこまで要求するか、どこら辺を妥協の限度とするかは、悩みどころじゃないか」
「なかなかの状況判断だな。さすがだ」
 薄く笑んで、公爵は俺を見た。
「君が察するとおり、ロスマリンを無傷で取り戻せた今となれば、この状況はなかなかおいしい。サフラノだけではなく、エグランテリアやガルテンツァウバー、フェディタやオフィシナリスにまで弱みを握ったのだからな」
「他国介入の証拠、もう掴んでいるのか」
 それほどの数の国が、と驚く俺に、「あー」と呆れたような声を公爵は上げる。
「いやあ、城内制圧の過程で、閣下の消息を得ようとしていた他国の密偵たちに山ほど絡まれてねえ。全部君の相棒が片付けちゃったんだよ。詳細な尋問はこれからとしても、私の配下たちがとりあえず所属を吐かせた結果がこれだ」
 思わず俺もあぁ、と呻くと、セプタードはそっぽを向いた。
 いや、悪いことでも責めることでもない。むしろ感謝もしてる。
 だが軍議での宣言通り、本当にこいつ何もかも全部一人で片付けちまったのかよ。そう思うと、さすがに呆れる。
 ただ、と公爵は思案を巡らせる。
「私は外交の責任者ではない。アストリアと陛下がどういう結論を下されるのか確証は得ないが、一つだけ確かなことがある。――他国の標的が大公閣下だったことを、アルバは表沙汰にはしたくない」
 俺は無言で頷いた。それは説いてもらわなくても判る。
 政治家としての大公のことを思い出さないでほしい。現実の存在として、再び人々の意識に上らせることを避けたい。
 それは政治を預かる王としても、カイルの親友であるカティス個人の気持ちとしても、そうだろう。それは俺にはよく判る。
 であると同時に、やはり賢者カイルワーンの存在は、国民にとっても心の聖域だ。それを他国が虜にしようとしたと、そのために妹分であるバルカロール侯爵令嬢を謀反人の餌食にしようとしたなどと知られれば、アルバ国民は黙ってなどいない。
 サフラノ許すまじに世論が傾けば、カティスは目に見える形で行動せざるを得なくなる。
 カティスがサフラノや他の四カ国に報復したいと思うか。その領土や賠償金、権益を狙いたいか。そう己に問えば、俺の出す答えは否。
 今のアルバを鑑みるに、国王としても一個人としても、カティスは再びの戦争を望みはしまい。
「となれば、今回の一件をグリマルディ伯爵の暴挙と、奴が煽動したアルバ貴族の謀反だけで処理するのが妥当だろうな。他国の介入があったことを伏せ、なかったことにする代わりに、何らかの見返りを要求する――ロスマリン、これではお前の溜飲が下がらないかもしれないが」
 俺の問いかけに、ロスマリンは静かにかぶりを振った。
「こんな私のために、国に報復してほしい、戦争をしてほしいだなんて思いません。そして兄様をこれ以上、政治に利用されたくもありません」
 ロスマリンの目が潤んでいるのを見て取って、俺の胸も詰まった。
 ああそうだ。俺たちはもう誰にも、カイルに触れてほしくない。
「兄様をもう自由にしてあげて。もうアルバから――国から、解放してあげて」
 俺はたまらず、ロスマリンの肩を抱いていた。もはや外聞は構ってはいられなかった。
 それは愛しさからではない。そうしなければ、膝から崩れ落ちそうなほど危うく見えたからだ。
 俺の胸元にすがりついたロスマリンの体が小刻みに震えているのを感じて、俺は悟った。
 こいつはもう限界だ。このままでは神経が保たない。
 救いの神が現れたのは、その時だった。
「お取り込み中失礼するわ。その子はもう休ませた方がいいのではなくって?」
 広間に響いたのは、俺たちの聞き馴染んだ声。護衛の衆に守られ入ってきた女の姿を見とめて、ロスマリンは驚きと喜色がない交ぜになった表情をした。
「アデライデさん! どうしてここに」
「あなたには女性の手助けが必要だと思ってね。ブレイリーや旦那に我が儘言って、同行させてもらった」
 アデライデは穏やかな笑顔を向けた。ロスマリンは俺から離れて歩み寄ると、動揺と困惑にあふれた声音で問いかける。
「でも、子どもたちは……ヒースやアリス、エリーはどうしているの?」
「子どもたちなら、傭兵館でみんなに面倒みてもらってるわ。心配いらない」
 その言葉に、俺は眉をひそめた。確かにアデライデは子どもたちを預けると言っていたが、傭兵館にいるというのは初耳だった。
 そんな俺の内心を量ったのだろう。アデライデは「ウィミィとクレアの差配よ」と微笑んで告げた。
「今回の出征にあたって、沢山の団員の妻と子どもが街に残されることになった。傭兵団がこれほどの規模になってから、ほぼ初の全軍出征だもの、都市防衛団がいるとはいえ、不安を感じてる子も沢山いたの。だったら希望者は傭兵館に集まれってことになったのよ。お父さんたちが戻ってくるまで、みんなで一緒に暮らそうって」
「なるほど」
 モントアーレ一座のマチルダは結婚後も一座に籍を置いているが、傭兵団部隊長の妻の責務をこなす時は、真の名のクレアを名乗る。
 二人の間に子どもはいないが、その代わり団員たちの子どもや年少の見習いたちに細やかに愛情を注いでいる。その働きと心遣いには、俺はいつも頭を下げるほかない。
 この件に関してもそうだ。今ウィミィとクレアが傭兵館を守ってくれているのなら、大丈夫。セプタードとアデライデの子たちの心配もする必要はない。そうためらいなく信じられる。
「傭兵見習いの年長組も、子どもたちの面倒をみてくれてるはずよ。ウィミィとクレアもレーゲンスベルグに戻ってきてると思うし、うちの子たちも他の子たちと一緒に、騒がしくやってると思うわ――勿論寂しいだろうけど、今回のことは一世一代の大事とあの子たちも判ってる。きっと今頃、踏ん張っていると信じてるわ」
 穏やかな笑みを絶やさず、アデライデはロスマリンに手を差し伸べる。頬に触れると、この上なく優しく告げた。
「怖かったでしょう。辛かったでしょう。でも、もう大丈夫よ」
 俺はロスマリンの体が、はっきりと判るほど震えるのを見た。
「よく頑張ったわね」
 その一言に、ロスマリンの中で線が一本切れたのだろう。傍で見ていた俺たちにも、はっきりとそれが見て取れた。
「アデライデさん……アデライデさぁぁぁんっっ!!」
 ぐらりと体が揺れ、アデライデの胸の中に倒れ込む。身分も礼儀も外聞も体面も何もかもかなぐり捨て、姉同然に慕う相手にすがりつく。
 声を上げて泣きじゃくるロスマリンに、俺たち男はただ呆然とするよりない。
「怖かった……怖かったよぅ……何度も、もう、駄目だと、もう拒みきれないと思った……」
「大丈夫。もう大丈夫だから」
「気持ち悪かった……あんな、あんな男に……」
「忘れればいい。忘れられるから。あなたには忘れさせてくれる人がいるから。そうでしょう?」
 嗚咽混じりのあいつの言葉が突き刺さるようで、俺は本当になすすべがなかった。
 頭では判っていたつもりだった――ロスマリンもまだ年若い、未婚の女なのだということを。どれほど強く見えたとしても、か弱く傷つきやすい一面も持っているのだということを。
 だが、つもりだけだったことを、俺は実感する。
 俺は今、どうしたらいいのだろう。
 男の俺が支えてやるべきなのか、それとも同性に預けていた方がいいのか。
 困惑しきり、思わず救いを求める眼差しを向けてしまっていたのだろう。アデライデは俺に向かって小さく頷いた。そうしてロスマリンを抱きしめたまま、無言で手を振り、俺を追い払う仕草する。
 ああ、やっぱり俺でない方がいいのか。
 アデライデが幼子をあやすように抱きしめ、背中をさすり続けると、少しだけ落ち着いたのか泣き声が治まった。それを見計らって二人に近づいたのは、メイドのお仕着せを着た女だった。
「姫様、お部屋のご用意ができています。どうぞこちらへ」
「あなたはどなたですか」
 応えたのはアデライデだった。その声音がどこか挑むようであったことを、俺は不思議に思った。
「そこにおられるジェルカノディール公爵の命を受け、この城に潜入しておりました者です。姫様の脱出と軍勢の突入に際し、いささかのお手伝いをさせていただきました。メイドとしてここに上がっていたので、この館の勝手も判ります。姫様のお支度諸々、お役に立てると思いますが」
 公爵の配下は、これまた挑むような口調で「ところであなたは?」と問い返した。どこか火花が散るような様相に、アデライデは薄く微笑んで宣する。
「アデライデ・アイルと申します。――公爵、ご挨拶もいたしませんで失礼しました。そこにいるレーゲンスベルグ傭兵団相談役、セプタード・アイルの家内です」
 おいいつからセプタードがそんなものになった、と問いただしたくはあったが、確かに今こいつに傭兵団の肩書きがないのは面倒ではある。
 おそらくこの十四年、ウィミィやイルゼたちが、俺にはできない相談事をセプタードに持ち込んでいたことは、もう想像に難くない。
 出陣前も言ったが、やはりこいつが俺たちの精神的な長兄なのだ。だから俺も本当は、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 こいつが公に、俺たちを支える立場にいてくれたら、どれだけ心強いだろうかと。
 相談役とは、言い得て妙だ。そこら辺をアデライデは見抜いていたんだろう。
「もし私のような下賤の者が、侯爵令嬢の寝所に侍るべきではない、と仰るならば、私は失礼いたしますが」
 この言葉に、ロスマリンの顔色が変わった。必死の形相でアデライデにしがみつく。
「いや、行っちゃ嫌! 独りにしないでっ!」
 ロスマリンのこの反応に、さすがの公爵も呆気にとられていた。驚き半分興味半分の顔つきでアデライデを見ると、やがてこう言ってのける。
「貴女が彼の細君か。いや……揃って私の予測を遥かに振り切る事態を巻き起こす夫妻だな」
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
「大貴族として育てられたロスマリンが、ここまで取り乱すほど気心が知れるというのは、並大抵のことではなかろう。――ついててあげてくれ」
「承りました」
 公爵の配下の案内で、女性たちは大広間を出ていく。その背中が見えなくなると、俺は脱力し思わずセプタードの肩にもたれかかってしまう。
 こぼれ落ちるのは、正直な本音。
「……まさかロスマリンがあそこまでなるとは思ってもみなかった」
「俺もだよ」
「アデライデには感謝してもしたりない。子どもたちにまで負担をかけたことを含めて、礼がしたい。どうしたらいいだろう」
 俺の問いかけに、セプタードはすぐには答えなかった。沈黙に顔を上げると、奴は複雑な表情をしていた。
「……どうした」
「いや、アデライデからじゃなくて、アリスティードから頼まれていたことがある。ロスマリンちゃんを助けられたら、その後に聞いてほしいお願いがあるって。でもこれを俺は、お前に切り出していいものなのかと」
 父親のみならず、母親までも戦場にかり出してしまったのだ。三人の子どもたちはどれだけ不安で寂しい思いをしていることだろう。そんなあいつらから「お願いがある」などと言われれば、俺に否と言うことなどできないし、言う気もない。
 それなのに、セプタードは何をためらっているのか。
 言ってみろ、と他意なく迫った後、告げられた言葉。それに俺は心底困惑することとなる。
「結婚、式……」
 アリスティードのお願い。それは俺とロスマリンの結婚式で、花嫁のベール持ちの役を務めたい、というものだった。
 それは五才の少女が抱くには、とても可愛らしく真っ当な願いだ。そしてアリスは、俺も生まれた時から可愛がってきた。ベール持ち役の正装をするとなれば、どれほど愛らしかろう、俺だって見たいと思う。
 だがロスマリンとの結婚式、と言われれば、当の俺は動揺するしかない。
 確かに覚悟は決めた。もう自分の気持ちに嘘をつけないことも、判っている。
 ロスマリンを他の男に渡す気は、もはやかけらもない。
 けれども、あいつと式を挙げるような、正式な結婚など叶うのだろうか。
 あいつと一緒になるとして、それはどんな形にすればいいのか。どんな未来を、どうやって構築すればいいのか。
 正直、難問だと思ってしまう。
 それなのに。
「口を挟ませてもらうが、時間はないぞ、ザクセングルス」
 内心を見透かしたように、公爵が俺を煽る。
「もし君がそれを願うのなら、実現させられるのは今しかない。非常時かつ時流の勢いが自分に味方している今しか、押し通すのは無理だぞ」
「貴方はロスマリンを、自家に望んでいるんじゃないのか」
 思わず煽り返した俺に、公爵はなぜか苦笑いを浮かべた。
「いや、さすがの私も呆れたよ。本当にお前はあの子を妻にするのに、ためらいはないのか? 自分の恋人の前で兄様兄様と、他の男に心を捕らわれていることを隠しもしない女だぞ」
 はなから政略結婚上等のうちの息子でも、さすがに無理だ。
 そうこぼした公爵の意見は、的を射ている。もしかしたら、ロスマリンが俺を望むのは、結局はそのせいかもしれない。
 無論ロスマリンがカイルワーンに寄せる感情が、男女の思慕ではないことは公爵にも判っているだろう。けれども、だからこそ、その感情はとても厄介だ。
 政略結婚の間柄とて、割り切るのはたやすいことではないだろう。
 結局、カイルワーンやアイラシェールのことを思慕し、魂の中心に抱き続けて放さないロスマリンを、そのまま許容できる男は、俺しかいないのかもしれない。
 だからこそ、俺はこの七年間、ずっと思い続けてきた。
「だからロスマリンの伴侶は、俺じゃ駄目だと思ったんだ」
 こぼれ落ちたのは本心。
「俺が夫では、あいつはカイルワーンのことを忘れられない。俺が目の前にいれば、あいつはカイルやアレックス侯妃とのことを思い出し、痛みを反芻することになる。同じ痛みを抱えてる俺では、その傷は癒やせない。一緒になれば、ただその傷を舐め合うことになるだろう。それが正しいとは、俺にはとても思えなかったんだよ」
 そうして意地を張り続け七年、それだけの歳月が過ぎ、ここに至れば思う。
「確かに俺は覚悟を決めたが、それでも俺と一緒になることが最善だとは思っていない。ただ、ここまで来れば思う。――多分、それは次善だ」
 俺がロスマリンのそばにあることは――あいつの傷に口づけながら共に生きていくことは、多分あいつが生涯を独りで生きていくよりは、まし。
 ただ独りで傷を抱えながら生きるよりは、その傷ごと誰かに抱きしめられた方が、多分まし。
 それができるのが俺しかいないのなら、俺と一緒になるのが、多分一番ましだ。
「たとえ次善でも、あいつが最善を決して掴めないのなら、ないよりはましだ。そう思うことにしたんだ」
 それが俺がこの二週間で――そして七年の月日をかけて、出した結論。決めた覚悟。
 俺としては己の誠意を尽くした答えのつもりだった。
 のだが、それを聞いた公爵とセプタードは、曰く形容しがたい表情をした。
 強いて言うのなら「うんざり」と「呆れた」を足したような、そんな顔つきだった。
「アイル、私はこの男が一向にロスマリンとの話を進めないのは、怖じ気づいてたり度胸がなかったり女々しかったりと、そんな理由かと思い込んでいたのだが違うようだ。……頑固、だったのだな」
「……ああ」
「苦労したろう」
「死ぬほど」
 心底くたびれたとばかりに顔を押さえてうなだれ、セプタードはこぼした。
「カイルワーンもそうだったが、こいつも自分が他人にどう思われてるのかと、自分が他人にどんな影響を与えているのか――自分が今まで他人に何をしてきたのかが、全く判っていないんだ」
「そうだろうな」
「おい」
 俺だって、自分が頑なだという自覚はある。けれどもこの言われようは意味が判らない。
「……もううんざりするほど判った。ロスマリンはお前以外の男のところに嫁には行けん。一刻も早くアルベルティーヌへ行って、エルフルトから結婚の許しをもらうことだな」
 呆れかえったような口調だったが、公爵の言葉には示唆が含まれていた。それの意味するところを俺と同じく読んで、セプタードが続ける。
「ここの事後処理は、俺とルイスリールに任せろ。お前はロスマリンと一緒に、アルベルティーヌへ向かえ」
 敢えて偽名のまま呼んだことを、公爵は咎めなかった。
「ロスマリンは一刻も早くカティスの下に赴き、謀反についての証言を行わなくてはならない。叶うなら明日にでも、ここを発った方がいいだろう。そしてその道行きには当然、護衛が必要だ」
 それは判っている。その手はずは、ロスマリンの心身が回復したら整えるつもりだった。
 だが。
「ブレイリー、お前が護衛部隊を率いろ。そしてアルベルティーヌで、侯爵夫妻に直面してこい」
「ロスマリンを自分の手で救い出したという功績と勢いをもって、結婚の許可を勝ち取ることだな」
「ここで事後処理につきあっていたら、月単位で時間が過ぎてしまう。その間に城や侯爵家でロスマリンの情勢が動いてしまったら、取り返しがつかなくなる。手出しもできなくなる」
 たたみかけるように二人で言い伏せた後、ふとセプタードは表情を引き締め危惧を告げた。
「最悪、ロスマリンは二度と侯爵家を出してもらえなくなる。そうなってしまってからでは遅い」
 それは確かに、あり得る話だった。今回の一件は、ロスマリンにとっても侯爵家にとっても、紛れもなく醜聞であり不祥事なのだから。
 伯爵との婚約は、一庶民にまで広められてしまっている。グリマルディ伯爵に傷物にされた、と嘲り嗤う者は現れるだろう。その事態を収拾するため、バルカロール家がどんな選択を下すのか。それは確かに未知数なのだ。
 ロスマリンを守るために、俺はどうしたらいいのか。その答えは即答できない。
 ただ確かなことは、二人が言うとおり。
 ここでロスマリンを独りで侯爵家に帰してはならない。
 今ロスマリンを守れるとしたら、それは確かに俺だけだ。
 ウィミィはここまで見越していたのだろうか。だとしたらその慧眼に恐れ入るしかない。
 俺がここを預けていけるのは、確かにあいつ以外はセプタードだけだ。
「判った、全権を預ける。ここのことは頼む、セプタード」
 ただ。ただこれだけは譲れない。
 俺はまだ、ロスマリンの意志を確かめていない。
 ロスマリンが本当はどうしたいのか。これから先、どう生きたいのか。どんな未来を築いていきたいのか。
 あいつが、本当に、本当に俺でいいのか。
 その答えを、俺はあいつに求めなければいけない――アルベルティーヌに、着く前に。
 翌日、出立の準備は慌ただしく進められた。
 護衛部隊は百、馬に覚えのある者たちを選りすぐった。俺たちは基本的には歩兵だが、才や興味を示した者には、幼い頃から馬術を叩き込んである。厩で伯爵が所有している馬や馬車の数を改め、部隊を編成していた俺に、アデライデが告げた。
「頼みがあるのだけれども、もし馬車を用意するのなら、それに私も同乗してアルベルティーヌへ行っていいかしら」
「それはロスマリンについていたい、ということなのか?」
「それも勿論あるのだけれども、ロスマリンを無事に送り届けたら、一足先にレーゲンスベルグに戻りたいの。セプタードがここで戦後処理に当たるのなら、しばらく帰れないわけでしょう? せめて私だけでも、早く子どもたちのところに帰ってあげなきゃ」
 アデライデの望みは至極当然だ。そしてアルベルティーヌとレーゲンスベルグは馬で一日もかからない。護衛を配してこいつだけ別個に帰らせるより、俺たちと一緒にアルベルティーヌへ向かった方が手間はない。
 何より昨夜のロスマリンの様子を思えば、王都までの道行きにこいつがいてくれるのは本当に心強い。
「そうしてくれるとこっちも助かる。アルベルティーヌに着いたら、すぐに誰かにレーゲンスベルグへ送らせる。それでいいな」
 アデライデは快く頷くと、今度はロスマリンに問いかける。
「もし私が一緒の馬車に乗って失礼ではないというのなら、侍女代わりの多少のことはできるわよ。少なくとも話し相手には困らない。――まあ私は荷馬車でもいいんだけど。野営道具とか運んだりするでしょ」
「やめてくれ。お前をそんなぞんざいに扱えるわけないだろ。たとえセプタードがいいと言っても、俺が許さない」
「全然失礼なんかじゃない。とてもありがたいのだけれども、でも私も自分で馬を駆った方がよくない? 馬車は軽い方が早いわけだし」
「それも駄目だ。お前が疲労で体調を崩したら、元も子もない。それに何かあった時、馬車一台の方が守りやすい」
 ぴしゃりと言われてロスマリンは黙る。だがそんな俺に、アデライデがかなり意図的に大真面目な顔をして、問いかけてくる。
「あんたはどうする? 護衛がてら一緒に乗る?」
「馬鹿言え、指揮官が状況を伺えないところに閉じこもっていてどうするんだ。俺は自分で馬に乗る」
 俺は当たり前の返答をしたが、ロスマリンは不安そうな目で俺を見ていた。
 ロスマリンが気にしていること――何に不安を感じているのかは、すぐ判った。俺が答えようとした時「大丈夫ですよ」という柔らかな声が厩に響く。
 馬の手入れをしながら俺たちの会話に割り込んできたのは、ジリアン。
「団長は傭兵団一の馬術の名手ですから、何も心配いりません。なにせ俺たちに世話の仕方も含めて、馬の全てを叩き込んでくれたのは、団長なんですから」
「そう、なんだ」
「こいつらの稽古に付き合ってかなりの時間乗ったからな。片腕で手綱を繰るのも慣れた」
「何言ってるんですか。馬上で俺たちと剣を交えても、一度も体勢を崩したこともないくせに」
 謙遜も大概にしてください、という言葉に俺は苦笑いをする。こればかりは素直に認めるべきかもしれない。
 剣に関しては、年下のカティスにもウィミィにも抜かされた。門下の高弟の中では、間違いなく俺が一番弱い。
 けれども馬術はあいつらとは年季が違う。これだけは俺は誇ってもいいかもしれない。
「今日中に出られそうか」
「明朝出立にできませんか。街に一切立ち寄らず、野営のみの早駆けとなるのなら、それなりの準備が必要です。体力のない女性たちを護衛していくのなら、なおのこと」
 ジリアンの返答に、ロスマリンも声を上げる。
「ブレイリー、それなら私も書状を記す時間がほしい。おじ様が私の無事の知らせをすでに城に送っていると言ったけれども、この城で私が知り得たこと――誰が謀反に関わっていたのかを、事前に陛下と父の耳に入れておきたい。早馬なら、私たちより一日二日は早く着けるでしょう?」
 確かに、と俺は応える。それと同時に、紛れもなく軍勢である俺たちが突然アルベルティーヌに現れれば、いらぬ混乱を呼ぶ。侯爵家には、俺たちを円滑に市内へ迎え入れる根回しと準備をしていてほしい。
 ロスマリンと俺たちがこれからアルベルティーヌへ向かうこと、それもまた早馬を飛ばして伝えなければならないことだ。
「だったら、カティスに俺からと伝えてほしい」
「……なんて?」
「俺が責任を持ってロスマリンをお前の下へ送り届けるから、心配するなと」
 ロスマリンは淡く微笑んで頷いた。
 かくして翌早朝、騎馬の一群がマリコーンを出立する。中心は一台の客車と、補給物資を積んだ荷馬車。その前後左右を騎兵が護衛する。
 人目につかぬよう、俺たちは街道と街から距離を置き、平原を疾走する。
 俺たちの存在自体は後ろ暗くはないが、今回の陰謀に他国が介入している以上、まだ隠蔽を諦め切れていない輩がいる可能性はある。襲われる可能性は皆無ではない。
 それを考慮しての護衛の人数だが、これだけいると街に入れば注目も集めてしまうし、身動きも取りづらくなる。小さな村で水と休息を求め、偵察を放っては適地を定めて野営し、俺たちは王国をひたすら南下していく。
 そうして四日目の夜。夕食後、斥候の部下たちの情報と地図を照合し、俺は結論を出す。
 あと半日。おそらく明日の午後には、アルベルティーヌへと辿り着ける。
 今夜が最後の夜になる。
 もう、時間がない。
 意を決して、俺は野営地の中心に張った天幕を訪れる。そこはロスマリンとアデライデに宛がったもの。
「二人きりで話がしたいんだ、いいか」
 俺の問いかけに、先に反応したのはアデライデだった。何も言わずに立ち上がると、軽く俺の肩を叩いて天幕を出ていく。
 オイルランプの仄かな明かりが、天幕の中を照らしていた
「明日にはアルベルティーヌに着く。そうしたらもう、物事は怒濤の速さで進んでいくだろう。立ち止まることも、後戻りもできなくなる。その前に、お前に確かめておきたい」
 うん、と小さくロスマリンは頷いた。その面差しの神妙さに、俺は胸がざわめく。
「ロスマリン、率直に聞く。お前は本当に、俺でいいのか」
 七年堪え、七年逃げ続けてきた問いを、俺はついに口にする。
「俺と一緒になるということは、お前が今持っている全てをなくすかもしれないということだ。貴族の身分も宮廷女官の地位も、王立学院の仕事も。侯爵家を勘当されれば、家族や親しい人とも二度と会えなくなるかもしれない。お前は本当にそれでいいのか。そうまでして一緒になる相手が、本当に俺でいいのか」
 十七も年が離れていて。身分も釣り合わなくて。生業だって、社会の底辺ともいうべき傭兵で。
 そして何より、五体満足ですらない。欠損を抱えている。
 お前ほどの女が、そんな男に嫁いで、本当にいいのか。
 そう問うた俺に、ロスマリンはわずかに瞑目した。だが覚悟を決めたように目を開くと、俺を真っ直ぐに見つめた。
 まるで挑むように。
「やっぱりあなたは、何も判っていない。あなたがどれほど、レーゲンスベルグの人たちに結婚という幸せを願われているのか。だからあなたの妻になる人が、あの街にとってどれほど大きな意味を持っているのか」
「なっ……」
「問わなければならないのは私の方――ブレイリー、あなたこそ、本当に私でいいの? 私を伴侶に迎えることで、あなたは本当に幸せになれるの?」
 鋭く刺さる問い。
「今あなたは私に、自分と結婚していいのかと問うた。でも当のあなたは、本当に私と一緒になりたいと思っているの? それは本当にあなたの本心なの?」
 真っ直ぐに問いかけてくる、ロスマリンの眼差しに気圧される。
「私はあなたほど、人の心に聡く優しい人を知らない。あなたは人の心をたやすく読んで、何のてらいもためらいもなく救いの手を差し伸べる。必要なものを与え、力になってくれる。しかもあなたはそれを、他人のためであると意識することすらなくやってのける。――あなた自身は、何も自覚していないでしょうけど」
 それはあまりにも意外すぎる言葉だった。
 俺は聖人じゃない。そんなできた人間じゃない。そう言いたかった。けれどもその言葉が出てこない。
「この七年間、私は沢山の人からあなたの話を聞いた。あなたはこの十四年で、一体どれほどの人を救ったの。傭兵団のため、自分たちの利益のためとうそぶいて、どれほど沢山の人たちを貧窮から掬い上げたの」
「それは……」
 誰かを助けようと思ったことじゃない。人手が必要だった。必要に迫られただけ。そう答えたかった俺の言葉を、ロスマリンは封じる。
「そもそも傭兵団が、街を守らなければならない義理は、どこにあったの。施政人会議の要請に応え続ける必要は、どこにあったの。――あなたたちはどこにだって行けた。もっと高額で楽な契約を持ちかけてくる相手だっていたはず。それなのにこの十四年、あなたが街を守り続けたのはなぜ? 傭兵団をここまで大きくしようと奔走したのはなぜ? それはあなたが見捨てれば、野心を抱く誰かに街がたやすく蹂躙されてしまうことを、判っていたからでしょう」
 俺は言葉に詰まった。
 確かにあの時、俺たちには選択肢はあった。レーゲンスベルグを見捨てる、という選択肢が、確かに。
 けれどもそれができたか、と問われれば、ロスマリンの言うとおり、やはり答えは一つしかない。
 それは、できなかった。
 成り行きだと思っていた。乗りかかった、降りられない船だと思っていた。けれどもあの時もし、誰かに「降りていい」と言われたとしても、「降りるか?」と問われたとしても、きっと俺はこうした。
 それでも俺は、降りられなかった。
 降りなかった。
「あなたは優しい。心底優しい。だからみんな、不安になる。あなたは沢山の優しさを、他人に与えてくれる。だけどあなたは自分を顧みない。誰からも何も受け取ろうとしない。あなたの差し伸べてくれた手で、自分たちは救われた。けれどもそれはあなた自身の救いになっているのか。あなたにただ己を犠牲にさせているだけではないかと」
 俺のしていることは、いつだって一方通行だ。そう突きつけられる。
 だけどロスマリン、それは違う。俺はそう言いたい。
 それは無私だからじゃない。
 俺が他人の気持ちを受け止めることから、逃げ続けていただけだ。自分の気持ちを満たすため、したいようにしていただけで、その結果生じるだろう相手の気持ちには、一切お構いなしだっただけだ。
 それは領主館への突入前、ジリアンとセプタードに告げられたこと。それを改めて、俺は痛みに瞑目する。
 ああ、やっぱり俺は歪んでいるし、馬鹿だった。
「だから私は、あなたに問わなければならない――あなたは本当に、私を愛しているのですか?」
 懸命な眼差しが、痛みを堪えるような眼差しが、俺を射貫く。
「今あなたが私を望むのは、あなたの本心ですか? 私があなたに恋しているから、街の人たちが私との縁談を望んでいるから、あなたはそれに応えようとしているだけではないのですか?」
 信じがたい言葉だった。俺はただ愕然として、ロスマリンを見つめる。
「判っています。結婚がすべて、愛のみで為されるものではないということは。私はバルカロールの妃がねの姫だもの、家のために嫁ぐのものとして育てられた。だから何度も言おうと思った。私のことを愛していなくてもいい、あなたの利益のために、私を妻にしてと」
 それは何度となく俺も考えたこと。けれども踏み切れなかったこと。だがそれをロスマリンの口から聞くことが、どうしてこんなに痛いのだろう。
「私を妻にすれば、あなたと傭兵団は多額の資金を手に入れられる。私は自分の計画の基盤を得ることができる。だからお互いの利益のために、割り切って結婚しないかと。そう何度も、言おうかと思った。そうすれば少なくとも、あなたの正妻にはなれる。たとえ愛がなくとも――心が伴わなくとも、少なくともあなたに妻として抱いてもらえる。そう何度も、思った」
 訴えかける言葉が涙声になっている。そして俺は気づいた――思い知らされた。
 この七年、ロスマリンはロスマリンで、苦しんでいたのだということに。
「だけど駄目だった。そうなればきっと私は、生涯あなたを疑い続けることになる。あなたは本当は、他の女性を愛しているのではないか。その腕に抱きたいのは、本当は別の誰かではないのか。私はあなたの、人としての幸せを妨げているのではないか。そうやって私はあなたを疑い続けることになる。そんなの耐えられない」
 ほの暗い天幕の中でも、その目から涙がこぼれ落ちるのが見て取れた。膝の上で握り止められた拳の上に、一粒、また一粒と落ちて散る。
「その疑心と、あなたを縛り続ける罪悪感を抱えながら生きていけるほど、私は強くない。愛などなくてもいい、他の女がいてもいい、ただ妻でいられればいい、そう割り切れるほど、私は強くない」
 だから、としゃくり上げる言葉を、俺は絶望的な思いで聞いた。
 俺はこいつに、何を言わせているんだ。
 俺は、惚れた女にこんな思いをさせていたのか。
「もしあなたが、私や街のために結婚しようと思っているのなら、どうかやめてください。今ならまだ止められる。まだ間に合う。父や陛下には、私から言うから。あなたが責を負うことがないようにするから。もしあなたが私の持つものを必要としているのなら、それは協力者として叶えてみせるから。だからあなたは、私との結婚に捕らわれる必要なんてないから。だから、どうか」
「もういい、もうやめてくれ」
 泣きながら言い募るあいつの言葉を、俺は阻んだ。
 これが懸命に己の気持ちを呑み込んだ、この七年の顛末。あいつの幸せを願うというお題目で、己の歪みを糊塗した結果。その現実に、俺はただ打ちのめされた。
 もうそれ以上、聞きたくなかった。
 涙に濡れた頬に手を伸ばし、唇を奪った。浅く柔らかくついばんで言葉を封じ、やがて涙がたまる目にも口づける。
 そうしてしばし。俺は震える声で、ただ詫びた。
「ごめんな……本当にごめんな。俺が悪かった。こんなにお前を傷つけていたなんて、ちっとも気づかなかった」
「ブレイリー、私は……」
「何もいらない。お前の心と体とこれからの人生、それを俺のものにできるのなら、他には何も持ってこなくていい。誰かのためではなく、俺自身のために欲しいものは、ただそれだけだ」
 もう「俺でいいのか」なんて問わない。そう問うこと自体が馬鹿だった。愚かだった。
 俺が言わなければならないことは、ただ一つ。
「結婚してくれ、ロスマリン」
 すぐ近くにある喉が、しゃくり上げるように動いた。再び泣き崩れそうに顔を歪めて、ロスマリンは問うてくる。
「本当に……私で、いいんですか」
「お前を望むのは、誰かのためじゃない。この十四年――いいや違う、この三十二年、俺は何も欲しいと思えなかった。そんな俺が、たった一つだけ欲しいと思った。狂おしいほどに、欲しいと思った。それがお前だ」
 セプタードは『俺の心が動かなくなったこの十四年』と言った。
 けれどもそれは違う。本当は違う。
 故郷を追われたあの日から、俺は何も欲しいと思えなくなっていた。
 自分の存在を、価値を、そして未来を信じられない。その呪いの諸元があるのは、三十二年前。それが吹き出したのが、カティスとカイルワーンと、そして右腕を失った十四年前だっただけだ。
 いらないと言われた。この世に存在している意味などないと言われた。その呪いを覆す力を、手立てを持たなかった。
 自分で自分のことをいらないと思っているのに、どうして何かを欲しいと思えるのだろう。
 それでも届きたいと願った高みがあった。守りたいと願ったものがあった。そのためにあがきもがきながら戦って、その結果、自分が何も守れず、何も叶えられないちっぽけで甲斐のない存在だと改めて思い知らされた。
 もう、自分自身など、どうでもよくなった。
 俺は欠落から目覚めたあの日、自分の人生が、心底どうでもよくなったのだ。
 だから、親友たちの求めに――俺たちのためにもう少し頑張ってほしいという願いに、ただ従った。
 目の前に積まれている責務をこなしていけば、それもいつかは終わる。街や国も落ち着き、傭兵団は軌道に乗り、後を任せられる人材も育ち、親友たちも伴侶を得てそれぞれの人生を築いていくだろう。何もかも、いずれは決着がつく。
 そうなれば俺はいらなくなる。いなくてよくなる。
 それを見届けられれば、俺は生きることを終えていいだろう。逝ってもいいだろう。
 それくらい頑張れば、この甲斐のない人生を終えても、許してもらえるだろう。
 心の底で俺はそう思っていたのだ。
 そしてそれは、もう少しで叶おうとしていた。
 それなのに、お前が突然現れた。そうして俺は思った。
 欲しい、と。
 お前が欲しい、と。
 それは欲求という感情を故郷に落としてきた俺が、久しぶりに味わうものだった。
 だけどそれに従うことは、その思いのまま、お前に手を伸ばすことは、俺にはどうしてもできなかった。
「何を言っても言い訳にしかならない。この七年のことは、謝っても謝りきれることじゃない。だけど一つだけ、お前にちゃんと話しておかないとならないことがある。――どうして俺があんなにも頑なに、お前の気持ちを受け入れることを拒んでいたのか。お前との身分が違うことにこだわっていたのか」
 それは今まで一度も、誰にも打ち明けたことのない、俺の身勝手な本心。
「俺はお前が、落ちぶれたと蔑まれる様を見るのが、嫌だったんだ」
「それは……」
「お前も薄々気づいているだろう。俺は元々、レーゲンスベルグの生まれじゃない。お前の家とは比べようもないが、そこそこ裕福な家の跡取りだった」
 こくりと小さくロスマリンが頷くのを見て、俺は続ける。
「俺の両親はお互いの家のため、親が決めた縁談で一緒になったが、その結婚生活はうまくいかなかった。父は愛人を家に引き入れ、そいつとの間に子どもができると、俺と母を追い出した。その頃には実家が傾いていた母は、誰も頼れなかった。何の役にも立たないガキだった俺を抱えて、路頭に迷った」
 できる限り感情を抑え、淡々と俺は打ち明ける。けれども内容が内容だ。動揺するのは無理はない。
 食い入るように俺を見つめるロスマリンに、俺は小さく頷いて続ける。
「愛人との争いに敗れ、放逐された母に、世間は容赦なかった。名家の令嬢がこのざまだと、落ちぶれて見る影もないと蔑み、嘲笑い、嬲った。母は俺を守るために、口にしたくないような目に沢山遇った。アルバ中を俺を連れてさすらい、その先々で心ない人たちに傷つけられ、弄ばれた。最後に辿り着いたレーゲンスベルグで、やっと手を差し伸べてくれる人に出会った。それがアンナ・リヴィアと先生――カティスの母親と、セプタードの父親だ」
 今でもあの瞬間のことは、まざまざと思い出せる。俺をあの地獄から掬い上げてくれた、がっしりとした手。
 『もう大丈夫。よく頑張った』と、俺の頭を撫でてくれた人の笑顔。
 実の父親以上の愛情を、俺を始めとする弟子たちに注いでくれた人。
 ランスロット・アイル――生涯慕い続けるだろう、俺の恩人。
「先生とアンナ・リヴィアの助けで、俺たちはやっと落ち着く場所を得た。それから母は身を粉にして働いて、俺を育ててくれた。貧民としか言いようがない暮らしだったが、辛いとは思わなかった。屋根があるところで眠れる、腹一杯とまでいかなくても食べられる、恥を感じずにすむほどの衣服がある。それがどれほどありがたいことなのかは、身にしみてる」
 俺の告白に、ロスマリンの顔から血の気が失せているのが、わずかな灯火の中でも判る。その頬を温めようと手を伸ばすと、あいつは俺の手に自分の手を重ねてきた。
 俺の方がむしろ温められる気がした。
「それで、今お母様は……? 私、一度もお目にかかったことがない」
「俺が十八の時に亡くなった。流行り病で、あっという間だったそうだ。アンナ・リヴィアと先生と、セプタードが見取ってくれた。俺は従軍していて、帰ってきたのは葬られた後だった」
 ああ、という微かな嘆きを俺は聞いた。俺の左手を包み込んで放さない両手が、微かに震えている。
 しばしの沈黙の後、俺は静かに告げた。言い訳でしかないと判っている、けれども俺を捕らえて放さなかった逡巡を。
「俺は今の自分の境遇を、恥ずかしいとは思っていないつもりだった。失ったものを取り戻したいとも、元の身分に戻りたいとも思っていない。だがお前と一緒になる、そのことに思い至った時、耳に甦ってきたのは、母に向けられた心ない言葉だった。俺と一緒になれば、お前はこれを投げつけられるのかと」
 沢山の人が、母を嘲り嗤った。なんて醜いと。みっともないと。浅ましいと。ここまで落ちぶれるのかと。
 母は一言も反論しなかった。ただ歯を食いしばって耐えた。その小さな背中に、俺はかける言葉がなかった。
「全ての人がそうだとは言わない。けれども人を嘲笑うことが楽しくて仕方ない輩は、人を見下すことで己の優越感を満たそうとする輩は、少なからずいるんだ。自分より高い身分の者が、最下層にまで落ちてくる。それは元から賤しい者を嗤うより、遥かに気分のいいことだろう。お前は俺と一緒になれば、必ず言われる。――侯爵令嬢ともあろう者が、一国の王妃ともなろう姫君が、貧民出のこんな腕もない傭兵と一緒になるのかと。恋と色に狂った愚かな女だと。そうお前を見下し、嗤う者が必ず現れるだろう。俺はそれが嫌だった。お前を傷つけられるのが嫌なんじゃない。俺のためにお前が嘲られる、それを俺が聞きたくなかったんだ」
 他人の心を変えることはできない。他人の口を塞ぐことはできない。何をどう言おうが、どうしようが、故ない侮蔑を止める手立てなんてない。
 判っている。これはただの言い訳だ。俺が弱いだけだ。恥ずかしいと思っていないのなら、胸を張ればいいだけだ。何を言われても、意に介さなければいい。己をただ、強く持っていればいいだけのことだ。
 気に病むのは、落ちた己を俺が恥じている証拠だ。
 だけど俺は強くあれなかった。お前を傷つけるものから俺が守ると、そう言い放つ気概を持ち得なかった。そのために、沢山の言い訳をこしらえてごまかし続けた。
 それが結局のところ、俺がお前から逃げ続けた真意だ。
 ごく単純に、俺に意気地がなかっただけだ。
「馬鹿。やっぱりあなたは、何も判っていない」
 それなのに。そう告げた俺に、ロスマリンは俺の手を握ったまま、柔らかく微笑んで言う。
「確かにあなたの言うとおり、私を見下して嗤う者はいるでしょう。特に宮廷雀あたりが、ぴーちくぱーちく騒ぎ立てるのでしょうね。でも、私は一向に構わない。だって私は、知っている。セプタードが言ったでしょう? あなたを貶めること、辱めることを決して許さないと。それがレーゲンスベルグの多くの人たちから託されてきたことだと」
「お前……」
「レーゲンスベルグにも、色々な人がいるとは思う。みんなが同じ考えだなんて思わない。でもね、ブレイリー。あの街には、あなたと妻である私を、誇りに思ってくれている人たちがあふれている。そのことを私は知っている」
 晴れやかな笑みが、目の前で花開いた。
「どうか気づいて。どうか受け入れて。あなたがどれほどの人なのか。レーゲンスベルグの街中に、あなたに恩義を感じる人がどれほどあふれているのか。あなたを守りたいと、そのために命を賭けてもいいと思っている人がどれほどいるのか。その人たちが、私を守り支えてくれる」
 脳裏をよぎるのは親友たちやその家族。傭兵団の部下や、巣立っていった子どもたち。この十四年、俺を取り巻いていた――否、俺を支えていてくれた人たち。
 この三十二年間、俺は自分も他人も信じなかった。それなのに俺はその間、一度たりとも独りだと、孤独だと感じたことはない。
 それは友たちが、俺を決して独りにしようとはしなかったから。決して俺を見放そうとはしなかったから。
 ああ、そうだ。俺はあいつらを信じなければ。
 これ以上俺は、人の気持ちを蔑ろにしてはならない。
「だから私は、何も怖くない。あなたが私を望んでくれるのならば、私を愛してくれるのならば」
 包み込んでいた俺の手。その甲に口づけ、ロスマリンは宣する。
「どうかあなたの生涯の傍らに私を、我が君」
 それは求婚に対する答え。古式ゆかしい言葉に俺は。
 胸の中にあふれかえってくる激情のままに、ロスマリンを抱きしめた。その温かさを抱いた瞬間、思った。
 初めて、思った。
 右腕が、ほしい。こいつを抱きしめるための、もう一本の腕が。
 右腕を失って十四年。初めて俺は喪失感を感じた。心底感じた。
「お前を両腕で抱きしめられれば、どんなによかっただろう」
 ごめんな、と思わずこぼした俺に、返ってきたのは凛とした言葉だった。
「ブレイリー、私はあなたの右腕を見たことがない。右腕のあるあなたに、私は一度も会ったことがない。私が出会い、恋したのは、左腕一本で私を支えてくれた隻腕のあなただ」
「ロスマリン……」
「あなたが右腕を失ったことで、できなくなったこと、叶えられなくなったことは、きっと沢山あるのでしょう。その辛さは、悔しさは、きっと私には判らない。だからこそ、思う。――ブレイリー、私が望むのは、あなたの両腕に抱きしめてもらうことじゃない」
 強く潔く、俺の前で振りかざされる決意。
「私の望みは、あなたの右腕になることだ。あなたが右腕をなくしたことで、できなくなったこと、叶わなくなったことを、私の働きで叶えさせることだ」
 女としてだけではなく、妻として、母としてだけではなく。俺の行く道の、叶えたい理想を共に行く伴侶として。
 対等の者として、その道をどこまでも一緒に。
 ああ、と俺は呻く。この胸の中にあふれかえる感情を、何と表現したらいいのだろう。
 感嘆と、愛しさと、頼もしさと、いささかの呆れと。
 ああ、そうだ。この女は、ロスマリン・バルカロールだ。あのアイラシェール・ロクサーヌに触発され、カイルワーン・リーク大公に育てられ、カティス王とマリーシア王妃の片腕として宮廷で戦った稀代の女傑。
 俺の妻にだけ留まっていられる――否、留めていていい存在じゃない。
 俺はこの過分な妻を、これからどうすればいいのだろう。
 これほどまでにできた女を妻に迎える俺は、これからの人生を、どうすればいい。
 答えはすぐには見つからないだろう。だが一つだけ判っている。
 こいつがそばにいてくれれば、共に戦ってくれるのならば、きっと何だってできる。
 何だって叶う。
「それがお前の望みなら、俺がお前に望むこともただ一つだ」
 答えはただ一つ。
「どうか決して離れることなく、生涯俺の片腕であってくれ」
 ロスマリンは顔を上げ、俺を見つめると、綻ぶような笑顔を浮かべて頷いた。
 それに俺は笑み返すと、誠意と親愛を込めて深い口づけを贈った。
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