彼方へと送る一筋の光 25

「ロスマリン様ぁっ!!」
「ご婚約おめでとうございます!!」
 大陸統一暦1015年二月末。挨拶を終え、レーゲンスベルグ大学から出てきた私を迎えたのは、女の子たちの黄色い歓声だった。おそらく街に着いた時に、馬車の紋章をめざとく見つけて待ち構えていたのだろう。
 不意を衝かれて目を白黒させた私は、その声を聞きつけた沢山の市民に囲まれる。
 あのグリマルディ伯爵謀反以来初めて、私はレーゲンスベルグを訪れていた。
「伯爵だかなんだかと結婚するって聞いた時には、どうしちゃったんだと思ったよ」
「傭兵団全軍出兵なんて、何が起こったんだと不安だったけどさ、団長自らあんたを助けに行ったんだと聞いた時には、思わず叫んじまったね」
「例の伯爵に無理矢理連れていかれそうになった時、団長が間一髪で駆けつけて助け出したんだろ? かっこいいじゃねえか」
「侯爵家も今回の縁談に乗り気だと聞いて、私たち、それはもう嬉しかったんですよ。さすが宰相を務める方の目は節穴じゃない。あんなにできる男、そうおいそれとは見つかりませんよ」
「宰相家のたったお一人の姫様の輿入れ先に、このレーゲンスベルグを選んでいただけて、我々も鼻が高いです」
 興奮した人たちに矢継ぎ早に話しかけられ、私はどれにどう返答していいか困って黙り込む。だがそんな私に一堂はそれは嬉しそうに、誇らしそうに告げた。
「結婚式、楽しみですよねえ」
「ロスマリン様がどんなドレスを着られるのかを考えるだけで、私たちも楽しくて仕方ないんです」
「ご存知と思いますが、団長は正装すると物凄く格好いいんですよ。絶対お似合いです!」
「当日は町を挙げてお祝いするから、楽しみにしててくれな!」
 そう、私とブレイリーは六月に、この街の大聖堂で式を挙げる。今日ここを訪れたのは、表向きはその最後の打ち合わせのためだ。
 ブレイリーと陛下があの日、どんなやり取りをされたのか――二人がどんな気持ちを交わしあったのか、私は知らない。それは私が立ち入るべきことではない。けれども追いかけるように帰宅してきた父に、ブレイリーは跪き頭を垂れて詫びた。
 この七年間のこと、そして自分の不甲斐なさが私を追いつめ、今回の一件を招いてしまったことを。
 この時成り行きで同席することになった陛下は、ただ黙ってそれを見ていた。二人のやり取りに一切口を挟まなかった。けれどもその存在の大きさを、私は考える。
 父はおそらく理性では、彼との結婚を認めてくれていただろう。けれども一人の父親として、特に今回の一件について呑み込めない感情があっただろう――彼に責はかけらもないはずなのだが、母ですら彼をいきなり引っぱたいたのだから。
 しかし陛下の御前では、父は感情のままに振る舞うことはできない。陛下がブレイリーのことをどれほど案じ心を砕いてきたのか、ある意味一番知っているのは父なのだから。
 父はしばらく沈黙した後、ぽつりとこぼした。二人きりで話がしたい、と。
 陛下を見送った後、父は彼を自室に招き入れ、ずいぶん出てこなかった。やがて父がメイドに酒と酒肴を用意するよう命じた辺りで、母は私に先に休むよう促した。
 翌朝、何を話したか聞いていいか、と問うた私に、彼は微苦笑を浮かべた。
「タランテルのことも含めて真面目な話もしたけれど、ほとんどは思い出話だよ。最後はもうカイルの話に終始した」
 そうなったのは判るような気がした。そしておそらく父は気づいたのだろう。
 気づいてしまえば、父が彼に心惹かれぬわけがない。
 私が抱いた傍観者の寂寥を、父もおそらく抱いている。それに違うことなく共感してくれるのが、このブレイリー・ザクセングルスなのだから。
 やがて呼ばれた父の書斎。緊張する私に、父は寝不足と疲労を伺わせながら告げた。
「話してみて、陛下や閣下が言っていたことがよく判った。なるほど、人の痛みに寄り添うことに恐ろしいほど長けた男だ。閣下があれほど慕われたのも――あの時あれほどまでに取り乱し、形振り構わず命を繋ぎとめようとしたのも判る」
「父上……」
「だがな、ロスマリン。私はお前に問う。あの男はお前の痛みに寄り添ってくれるだろう。だがお前は、あの男の痛みに寄り添うことができるのか?」
 ずきりと胸が痛んだ。父は容赦なく私の胸を刺してくる。
「私は三十二年前のタランテルで何が行われたのかを、詳細に知っている。たった十歳の何の罪もない子どもに、歪んだ大人たちが何をしたのか、その全てをだ。だから彼が生きていたことにも驚いたが、それ以上にこれほどまともな人間に育っていたことに驚いた。あの男が負っているのは、それほどまでに深い傷だ」
 私は息を呑む。彼が昨日、倒れるほど気分の悪い話、と評した過去。それはどれほど痛ましいものなのだろう。どれほどむごたらしいものなのだろう。
 怖い、と正直に思った。
「だから、あの男がお前を拒み続けたこと――お前を受け入れるに足ると己を認められなかったこと、その気持ちは私には判る。今ここに至るまでの道のりが、どれほどたやすくなかったのだろうことも。だからこそ、私はお前に問う。――ロスマリン、お前のような未熟な小娘で、あの男の痛みに向き合えるのか。これからさらに重いものを背負おうとしているあの男を、支えられるつもりでいるのか」
 ああ、と私は内心で嘆息する。父は彼のことを認めていないのではないのだ。認めているからこそ、お前で妻が務まるのかと突きつけてくるのだ。
 覚悟なしで一緒になれるほど、たやすい相手ではない。他でもない父にそう迫られるのは、恐ろしくもあり嬉しくもある。
 だから私は背筋を延ばして、告げた。
「できるかできないか、という問題ではありません。問題は、やるかやらないか――だから、やります」
 両陛下やセプタード、アデライデさん、ウィミィや傭兵団のみんな。沢山の人たちが、私を救い出すために尽力してくれた。それは私のためだけじゃない。
 彼を救ってほしい。彼と共にあり、彼の人生に光をもたらしてほしい。その願いがどれほど切なるものかを、どれほど沢山の人がその願いを託してくれたのかを、私は身をもって知っている。
 私にはできない。怖い。無理だ。そんな風に怖じ気づくことなど、許されはしない。
 あのブレイリー・ザクセングルスの伴侶になるということは、そういうこと。だから私は彼に問うたのだ、本当に私でいいのかと。
 確かに私は彼の過去を知らなかった。けれども彼が何かに苦しんでいること、それを知る沢山の人たちが彼に救いがもたらされることを願っていることは、とうに判っていた。
 覚悟など、はなからできている。
 決意を込めて宣した私に、父は「そうか」と、どこか呆れたように、諦めたように小さく笑った。
「バルカロールの嫁入りにふさわしい支度を調えよう。持参金も恥ずかしくない額を用意する。それを持って、胸を張って彼の下に嫁ぎなさい。この結婚は何ら恥じるところはない、彼は侯爵令嬢である自分と何ら不釣り合いではないのだと、広く世に知らしめなさい」
「……ありがとうございます」
「あの男は――ブレイリーは、お前を決しておろそかにはしないだろう。だがそれに甘えてはいけない。お前を慮った挙げ句、何もかもを再び一人で背負い抱え込んでしまいかねない。優秀で心優しく、自己肯定感の低い人間の悪い癖だ」
「はい」
「彼がこれから大きな仕事を成し遂げられるか否かは、お前次第だ」
 厳しく温かい励ましに、私は大きく頷いた。
 そうして彼と私は正式に婚約を交わすことになった。だが婚約証書の書式を見た彼の顔が曇るのを、私たちは見逃さなかった。
「どうした?」
「いや、この保証人をどうしたらいいだろうかと」
 証書を取り交わすような格式ある婚約の場合、双方が保証人を立てるのがならい。親族の目上の者に頼むのが通例なのだが、なるほど彼には全く係累がいない。
「ザクセングルスもハイデグルースももう誰も残っていませんし……困ったな」
 だがそんな彼に、母は呆れたような顔をした。
「あなたは何を言っているの。あなたの保証人には、これ以上ない方がおられるではないですか」
 母は無造作に証書を取り上げると、軽やかに言い放つ。
「私が御署名をいただいてくるので、その間にあなたたちは別のことを片付けておきなさい」
 私と彼と父は、ぱたりと閉められた扉を思わず呆然と見やる。そして顔を見合わせる。
 この時思ったことは、全員同じだ。
 まさか。
「はい、御署名。あなたの身内の、目上ではないけれども格上の方から」
 数刻後、はらりとテーブルの上に置かれた証書。新郎の保証人の欄に記されていたのは、やはり国王陛下の御名。そして側近くに仕えた私には判る。間違いなく直筆だ。
 そりゃあ陛下ならば格上中の格上だ。バルカロールが立てる保証人と比しても、遜色などありようもない。
 だけどこの母は、何の根回しもせずいきなり突撃して、陛下から署名をもぎ取ってきたのか。その唐突さと過激さに、私たち三人は唖然とする。
「は、母上……これはカティスに、正式に俺の後見となることを書面上で誓約させたということになるのでは……」
「あら、話を持ちかけましたら、陛下はことのほかお喜びでしたわよ。『本当に俺でいいのか』と仰り、大層嬉しそうにご署名くださいました」
 そりゃそうだろう、と私は内心で呟かずにはいられなかった。ブレイリーに自分が必要とされること、彼の力になれることを、陛下が嬉しく思わないはずがないのだから。
 しかし、だ。レーゲンスベルグにしてみれば、これは相当に大きな重石だ。ブレイリー・ザクセングルスは我が身内、と国王が宣したも同然。彼に何かあれば、自分が黙ってはいないと正式に表明したということ。
 陛下自身もそれを念頭に置いて署名されたのだろう。自分の影響力を弁えておられぬはずがないのだから、友の役に立てて嬉しい、という何も考えないその場の勢いだけでは、きっとない。
 しかもこの『黙ってはいない』は、レーゲンスベルグをどうこうするではなく、その時には喜んでお前たちから傭兵団諸共こいつを奪い取る、だ。陛下だって本心を言えば、ブレイリーもセプタードも傭兵団も自らのものにしたいだろう。今陛下が彼らの手を離したのは、本当は断腸の思いのはずだ。だから、なおのことたちが悪い。
 今の段階で、施政人会議が私たちをどう遇するかは未確定だ。しかしレーゲンスベルグがブレイリーと傭兵団を決して手放せぬ以上、彼らが私たちの要求をはねのけることはない。そう私はこの時確信した。
 これが十月頭のこと。それからの目まぐるしい四ヶ月を私は振り返る。
 グリマルディ伯爵の企てた謀反は、当然のことながら宮廷に大きな嵐をもたらした。
 メルル・ブラン王女の口車に乗り、謀反に加担した多くの貴族が、マリコーンとアルベルティーヌで捕縛され処分された。
 革命から十四年、時代の変革に対応できず没落した貴族も少なくない。その者たちの間で、新王朝と陛下への不満は蓄積していたようだ。ジェルカノディール公爵はその気配を察知していたのだろう。グリマルディ伯爵だけではなく、他貴族の下にも早い段階から密偵が放たれていたことが判り、私は複雑な思いに駆られた。
 もしかしたら公爵は陛下とは異なり、私が捕らえられるのを――火が着くのを手ぐすね引いて待っていたのではないか。不穏分子を一網打尽にすべく、むしろ事が起こるのを待ち構えていたのではないか。そう思えてならない。
 餌にされた格好ではあるが、私は何も言えやしない。陛下が止めるのも聞かず自ら罠に飛び込んでいったのだし、私が無事助け出されたのも公爵の助力あってのことだ。けれども公爵が狙っていた『黄金の魚』の正体を知ってしまった今となっては、やはり単純に感謝することなどできやしない。
 やはり公爵は油断のならない人だ。陛下が最大の敬意と警戒心を向けるのも当然だろうと思ってしまう。
 かくして宮廷から相当数の不穏分子が粛正されたのだが、反体制派が一掃されたわけではない。この騒乱を引き起こした責任を問い、私への処分を求める声は当然上がるだろう。だから私は公爵の凱旋報告の席で機先を制し、王立学院教員と女官の職を辞し宮廷を退出することを願って陛下に了承された。
 反体制派にしてみても、まさか宰相の娘で一の女官である私が宮廷を去るなど、予想していなかったことだろう。これ以上ないほど重い処分に、更なる糾弾の声を上げられる者はいなかった。
 しかしその真意が実は降嫁のためで嫁ぎ先がレーゲンスベルグであったこと、しかも結婚相手が街の要人かつ陛下の盟友、しかも今回の反乱を鎮圧した張本人だと明らかになった瞬間の場の動揺と、反主流派の「してやられた」という反応は、今でも小気味よく胸に残っている。
 そうして私は嫁ぐ日まで、アルベルティーヌで結婚準備をしながら過ごすこととなった。女官として気安く王妃陛下の下に伺候することは叶わなくなったが、たびたび後宮にお招きいただき、両陛下や王子様たちとの楽しい時間を過ごさせてもらっている。
 一方レーゲンスベルグ傭兵団とブレイリーもまた、大きな転機を迎えることとなった。
 傭兵団にはバルカロールから私を救出したことへの謝礼が、ジェルカノディールとアルバから反乱鎮圧の報酬とマリコーン駐留の契約金が支払われた。それは勿論、全軍出兵の費用を遥かに上回る額だ。そこに私が私有財産と持参金を携えて嫁ぐことになる。これにより、傭兵団の資金繰りは一気に好転した。
 その事実は、施政人会議と対峙する彼の背中を大きく押した。
 アルベルティーヌでの短い滞在の間に私と婚約を交わすと、ブレイリーは部下たちとともにひとまずレーゲンスベルグへ戻った。そして施政人会議への報告の席で、私との婚約と契約更改を切り出した。
 我らに軍務と都市防衛を司る者として、政に加わる権利を。
 そう切り出した彼に、施政人会議の議長は一言告げたという。
 この日を待ちわびていた、と。
 この契約交渉がどう推移し、彼と施政人会議との間でどんな議論がなされたのか――彼が貴族としての復権や、傭兵団を伴ってのタランテルへの帰還をもカードとして用いたのかまでは、私にも判らない。しかしブレイリーは母に宣言したとおり、傭兵団の独立と現在の雇用形態を維持したまま、施政人会議に席を得ることに成功した。
 そうして六月。結婚と同時に、私たちは正式にレーゲンスベルグ施政人会議に加わる。
 この決定と、春までの駐留が決まった四番隊を除いた全軍帰還の報を携えて、彼はバルカロールへと戻ってきた。以降彼がアルベルティーヌとレーゲンスベルグを往復し、またお互いに沢山の手紙と書状を交わしながら、結婚への準備を進めてきた。
 そうして式まであと三ヶ月。本格的な春の訪れを前にして、私は意を決してレーゲンスベルグを訪れた。
 私が親元を離れ、自由にここを訪れることができるのは、おそらくこれが最後。私はこの短い滞在の間に、どうしても為さなければならないことがある。
 バルカロールでは決してできない、大切な話がある。
「よく来たな。寒かっただろう」
 執務室で仕事をしていた彼は、私をためらいのない笑顔で出迎えてくれた。その表情に、私は思いがけず胸が高鳴るのを感じた。
 彼の雰囲気が明らかに変わっていた。
 無論軽薄になったわけでも、気安くなったわけでもない。けれども翳りと危うさが消え、以前は感じられなかった穏やかさと安定感が加わっていた。それは一言で表すとすれば、度量と呼ぶのがふさわしいだろう。
 以前よりずっと彼が懐深く大きく見えて、私は動悸を抑えられない。
「どうした?」
 そんな私の様子に怪訝そうに問いかけてくる。だけど、まさかあなたを見てときめいていました、などと言えるわけがない。私は動揺をごまかすように問いかける。
「髪の毛、伸ばしているの? 大分印象が違う」
 私の言葉に彼は、「ああ、これか」と髪を一房つまんで苦笑した。
「いやな、結婚式の衣装の下絵を見たアデライデとクレアに、これならもっと髪が長い方が似合うから伸ばせと二人がかりで詰め寄られて」
「はあ……」
「俺は当分あの二人には逆らえん。結婚式が終わるまでは、いいおもちゃだ」
 小さくため息をこぼしたブレイリーに、私はためらいがちに問いを重ねる。
「今さらなんだけど、結婚式、本当にああいう形でよかったの? あなたは本当は、こんな派手で大がかりな式にはしたくはなかったんじゃない?」
「そりゃあ本音を言えば恥ずかしいというか照れくさい。これが俺とお前との一個人の結婚だというのなら、慎ましくすませることを考えただろう。でもそれだけじゃすまなくなった」
 彼の言わんとするところは判る。私と彼は恋し好きあって一緒になるのだが、アルバのバルカロールからレーゲンスベルグ傭兵団に嫁ぐことは、双方の施政に対して大きな意味を持つ。私と彼の結婚は、政略としてちゃんと機能する――私との結婚を叶えるために、彼が自らに政略としての価値を求めた結果が今なのだから。
「伯爵に傷ものにされたから、市井の傭兵ごときに下げ渡されたのだ――そう言ってお前を嘲る輩はいるだろう。けれどもこの結婚がどれほど隠れのないものであるのか。バルカロールがどれほど俺とレーゲンスベルグを高く評価し、胸を張ってお前を送り出してくるのか。それを形として世に知らしめるために行うのがこの結婚式なら、威儀を整えるため体面を取り繕うのも――結婚式が祭りになるのも、その見世物になるのも、まあやむなしだ」
 私に傷をつけたくない。私に恥をかかせたくない。それが私との結婚を拒み続けた理由。私自身はそんなことはどうだってよかったのだが、今となってはその彼の気持ちは尊重しなければならないものだと判る。
 それほどまでに彼とお義母様は、他人に見下され、蔑ろにされ、尊厳を土足で踏みにじられたのだ。それが今の私には判るのだから。
 他人がどれほど私を蔑んだところで、私は傷つきはしない。けれども彼は傷つくのだ。胸の底に封じておきたいものを思い出すのだ。少しでもそうならずにすむ術があるのならば、何でもしよう。その思いは私も変わらない。
 そして何より。彼の盟友とその家族、彼の子ども同然の傭兵団員が、式を喜んでいるというのなら。彼の存在を晴れやかに誇る時を心待ちにしているというのならば。そのことは私にとっても嬉しいことなのだから。
「それで今回、わざわざお前が足を運んだ理由は何だ?」
 手紙では足りない。彼がバルカロールを訪れた時では叶わない。そして結婚する六月まで待てない。そんな特段の用向きがあるのだと、聡い彼は察してくれていた。そんな彼に私は頷いて請う。
「人払いを。そして部屋の鍵をかけて」
 彼以外に決して知られるわけにはいかない秘密を、私は携えてきたのだ。それを託すためだけにここに来たのだ。
 私の険しい顔つきに、彼は無言で頷いた。かしゃりという鍵の音を確かめ、私は鞄からその箱を取り出す。特別にあつらえた、鍵付の頑丈な箱。そこには二冊の革張りの本が収められている。
 一冊は黒。一冊は赤。そしてその上には二通の手紙。手紙に施された封蝋の紋章に、彼の顔が強ばる。
「リーク大公家……まさか」
「赤の本は、私がこの九年をかけて記してきたものです。そして黒の本は、私が兄様に願って作っていただいたものです」
 私は封の切られた方の手紙を取り上げ、ブレイリーに差し出す。
「兄様が最後の日、私に送ってくださったものです。どうか読んでください」
 彼はその瞬間、わずかに瞑目した。そして覚悟を決めるように目を開けると、私への手紙を受け取り広げる。
 彼も何も言わない。私も何も言わない。長い無音の時間が続いた。彼は噛みしめるようにその手紙を読み終えると、やがて顔を覆って深いため息を漏らした。
「お前は……なんてとんでもないものを……」
 彼の声は苦く重く私の胸に迫った。彼が今何を考えているのか、私には手に取るように判る。
 彼は今きっと兄様のことを考えている。兄様の胸の内に思いを馳せ、心の中で泣いている。
 預言者として生きることに苦しみ、苦しみ抜き、ついには陛下の下を去らねばならなかった兄様の苦吟と悲歎を一番よく知っているのは、もしかしたら陛下でもなく私でもなく彼かもしれないのだから。
 カイルワーンが最も素直に辛い苦しいとこぼし、年少者として甘えることのできた相手がブレイリーだ。そう陛下が評したと、私は父から聞いているのだから。
「お前は、これを読んだことはあるのか」
 やがて畏れるような神妙な手つきで彼は黒の本に――預言書の表紙に触れる。当然の問いかけに、静かにかぶりを振った。
「何度となく迷いました。けれどもどうしても怖くて読めなかった――そのたびに思ったんです。自分の人生も、あれほど慕われた陛下の人生も、何もかも知っているというのはどういう気持ちなのか。兄様の背負っていたものの重さ悲しさは、私などでは計れはしないと」
「本当にそうだな。……俺もこれを読めば、カティスの残りの人生の全て――あいつにこれから何が起こって、いつ死ぬのかが判ってしまうんだろうな」
 私は無言で頷いた。一ページたりとも読めていない私には、この本に何がどこまで書いているのか判らない。けれども陛下の消息について、記されていないはずがないだろう。ロクサーヌ朝の初代、アルバの偉大なる英雄王の動静は、歴史の重要事だ。それを省けば、この預言書を力に変えようとしている者たちにとっては罠となる。それを兄様が弁えぬはずがない。
 もしこの本の力を得ようとするならば、私たちはその悲歎を背負わなければならない。その覚悟を固めなければならない。
 だから私は大きく息を吸い、彼へと願う。
「この本を私たちの代で開くべきか否か――私たちが預言者となるべきか否か、その決断は今でなくてもよいでしょう。ですがどうか、この秘密を私と一緒に預かってください。そしてどうか兄様の願いを叶えるため、私と一緒に戦ってください」
 私がこれから生涯をかけて刻む物語を、未来へと遺すために。
 そして悲しい境遇に陥ったであろう、兄様たちの大切な御方を救い出すために。
 彼方へと一筋の光を送るために。
 この街の中に、強き意思を受け継ぐ者たちが集う場所を作り上げたい。
 この願いを、どうか私とともに。我が君。
 そう懇願した私に、彼は幾ばくか預言書の革表紙に触れ続けた。そこに遺されている書き手の思いを読み取ろうとするかのように、ただ黙って。
 やがて、ぽつりとこぼされた言葉。
「これからはこの二つの本を、禁書と呼ぶことにする。俺たちの共同体を束ね率いる者が受け継ぎ、その者だけがこの奇跡に触れることが叶う。そういうものにする」
「はい」
「ロスマリン、俺はこの数ヶ月ずっと考えていた。俺はこれから、どう生きようかと。お前ほどの女を妻とし右腕とするならば、これから何を望み何を叶えることに、全霊を傾ければいいのだろうかと」
 その言葉に私は居住まいをあらためた。背筋を延ばし彼の思いを全身で受け止める。
 予感がした。この一瞬こそが、きっと私の人生の新たな起点。
「そして思ったんだ。この十四年、俺は本当は何をしたかったんだろうと。セプタードもウィミィも、俺を望まぬ責務に縛りつけたと言った。俺もただ目の前に積まれた責務を、無気力にこなしていただけだと思ってきた――でも、本当にそうなのだろうか。思い返してみれば、それなりに必死だったと思う。沢山の困難を、懸命に乗り越えてきたという実感はある」
 そうだろう。三百人の傭兵団を六千人までに増やす。凄まじい勢いで拡大していく都市を防衛し、その治安を維持し続ける。そのことがたやすくこなせたはずなどないのだから。
「俺が本当にただ死にたかったのなら、どうしてこれほどまでに必死になる必要があったんだろう。街を守るために傭兵団を大きくしてきたこと、そのために懸命に働き戦ってきたこと。そこに俺を駆り立てていたのは、一体何だったんだろう。冷静になって考えて判った。――ロスマリン、これはそもそも俺がしたかったことだったんだ」
 切々と彼は語る。思いを込め、意思を込め、強く切なく。
「俺は自分の国を作りたい。このレーゲンスベルグの中に傭兵団を基として、お前と俺と友たちとみんなで、共に生きていける場所を作りたい」
 国とは名乗らぬ、王は抱かぬ。しかし誰もが自らを自らで治める場所。
 レーゲンスベルグの中にあり、街を愛し守りながらも、いかなる権力にも決して膝を折らぬ自分たちだけの共同体。
 それは確かに、国と呼ぶのがふさわしいだろう。
「俺は人が飢える様を見るのが嫌だ。施しを得るために地べたに這いつくばり、心ない者に踏みしだかれる者を見るのが嫌だ。力尽きた親に取りすがって泣く子どもを見るのも、子どもの亡骸を抱いて泣きながら詫びる親を見るのも嫌だ。力ない者がささやかな財産を略奪され、女子供が浚われ犯されるのを見るのも嫌だ。その嫌なものを見て見ぬふりをし続けなければならない世界が嫌だ」
 レーゲンスベルグ傭兵団は、敵地での領民や非戦闘員への略奪や暴行を固く禁じている。そしてそれを愚かと嗤う同業者がいることも、中途半端に綺麗事をと嘲る者がいることも、私は知っている。しかし団長である彼がなぜそう命じるのか、今となれば痛いほど判る。
 彼は本当に、人の痛みを我が事として受け入れてしまう人なのだ。他人事として受け流すことができない人なのだ。
 だから彼は自分の同輩と子どもたちに、自分たちと同じような下層の者たちを踏みにじるものになってほしくない。踏みしだかれる人の痛みに無頓着になってほしくないと願っているのだ。
 傭兵として戦場に出ることは、汚れ仕事だ。矛盾している、今さら何を綺麗事をと言われれば返す言葉はない。なればこそ、子どもたちに少しでも悲しみと汚辱を負わせたくない。それが長としての彼の選択なのだ。
 愚かかもしれない。けれどもそれが、彼だ。
「ロスマリン、俺は自分が生きる世界が、人としての幸せに満ちていてほしい。人として生きていくために必要なもの、そのすべてを誰もが当たり前に得られるようであってほしい」
 人として生きていくために必要なもの。
 それは何かと問わずにはいられなかった私に、彼は静かに告げた。
「飢えず病まずにすむほどの食物。身につけて日々を暮らしても、恥ずかしいと思わずにいられる衣服。雨風をしのげて、凍える恐れも誰かに襲われる不安も感じず眠れる安全な住居。それを得られるだけの収入とそのための生業、それに就くために必要な教養を持ちうるだけの教育。負傷し病となっても、ためらうことなく頼ることのできる医療」
 ああ、と私は小さく嘆きをあげた。
 ああ、私には判らない。それを得られぬ辛さ惨めさが、何一つ判らぬものだ。大貴族として何もかもを与えられて育った私には、決して。
 だからこそ彼の言葉は私の胸をえぐり打つ。魂を鷲づかみにする。
「この世の全ての人に、それを与えることは俺にはできない。だから俺を偽善者だと嘲笑う者はいるだろう。自分の手の届くところだけ、目に映るところだけ施せればそれで満足なのかと。けれども嗤うなら嗤えばいい。何とでも言えばいい。たとえ全ての人を幸せにできなくとも、何人かでもどん底から掬い上げることができるのならば、何もしないことよりはずっとましなはずだ」
 手をのばし、彼は小さく笑う。きっと今彼の目には、失われた右手が見えているはずだ。残された左手となくなった右手で作る環、それが目に見えない何かを抱きしめている。
 彼はその腕で、沢山の人を抱きとめようとしている。それが判った。
「この腕の中に収められるくらいの人しか、俺では豊かにはできないかもしれない。けれども俺とお前で作り始めるものが、後を継ぐ者たちによってより大きくなり、沢山の人たちに人並みの暮らしを送らせられる場所となっていくのならば、その礎を築くために残りの人生を全て捧げたい。そう思ったんだ」
 私はただ頷く。胸の中にこみ上げてくる思いに翻弄されて、言葉が出てこない。
 父は言った。まともな人間に育っていることに驚いた、それほどまでに壮絶な過去だと。それほどまでに彼が負った傷は深いのだと。
 恨んで当然。憎んで当然。世を呪い復讐を願い、人を傷つけ壊したいと思ったとて、何の不思議もありはしない。
 それなのに。それなのにこの人は願う。
 他人の幸せを。他人の安寧を。それを自らの手でもたらしたいと言う。
 信じられない。どうしてこんなにもこの人は強く、優しく、誇り高くあれるのか。
 ただ私は身内からあふれ出そうな衝動を、押さえ込むよりない。
 そして彼は再び預言書――黒の禁書に触れ宣した。
「この力、確かに預かる。俺たちの国を強く大きくするために、一人でも多くの人を豊かな未来へと導くために。力を得るための代償が、俺の一個人としての苦悩や苦痛だというのなら、いくらでも呑んでやる。今の俺には、無力に泣くことの方が――そのために失われる同胞を見ることの方が、よっぽど苦しい」
 ああ。私はただ感嘆と悲歎をあげる。
 私の愛した人は、また預言者の苦悩に捕らわれてしまう。すべてを知るのに何一つ変えることのできない絶望を味わってしまう。
 その種を蒔いたのは――そこに彼を導いてしまったのは、他ならぬ私だ。
 止めることは叶わない。彼はすべてを背負い呑み込む覚悟を固めたのだ。ならば私にできることはただ一つだけだ。
 共に背負おう。その悲しみとどこまでも共にあろう。私一人が怖じ気づいて禁書を遠ざけることは許されない。
「あなたがその覚悟を固めるのならば、どうか私も一緒に」
「それでいいのか?」
「あなた一人に背負わせはしません」
 意気地を振り絞り矜恃を込めて告げた私に、彼はどこか寂しげに目を細めた。そして打って変わって、静かに告げた。
「そう覚悟を固めてくれるのなら、お前に話しておきたいことがある――お前と一緒になるにあたって、俺はもう一つ考えずにはいられなかったことがある。俺とお前の年の差についてだ」
「……はい」
「もう俺は、決して死にたいだなんて言わない。これから先、岩にかじりついてでも生きようとすると約束する。けれども特段のことが起こらない限りは、俺の方が先に逝くことになるだろう。十七歳の差は、どうしたって大きい」
 それは私も、この結婚が決まった時から考えていたことだった。
 私と彼はこの先何年一緒にいられるだろう、と。
 その漠然とした不安は、この四ヶ月ずっと抱いていた。
「話したことはなかったが、右腕切断の後遺症もある。頑健な健康体だとはとても言えない。あとどれくらい生きられるかは判らないが、お前を未亡人にしてしまうことは、おそらく避けられない」
 だから、と彼は寂しげに笑う。
「俺が死んだ後、お前が望む限りはこの道を進んでくれ。だがもしそれに疲れたら――責務から解き放たれたいと感じたなら、いつでも後を継ぐ者に任せて身軽になってくれ。俺はお前を、俺と俺の夢に縛りつけたくない」
 後を託す、と言うのだと思った。よろしく頼む、と言うのだと思った。そんな予想の真逆の言葉に、私は戸惑うしかない。そんな私に彼は困ったように笑んで明かす。
 正直な、胸の内を
「気づいたんだ。もし俺が、父と同じ境遇に置かれたらどうしただろうかと。俺だったらあの袋小路をどうにかすることができただろうかと」
 驚くほど穏やかな口調だった。憎しみも恨みもそこにはない。慈しみすら感じられるほど優しく、彼はささやく。
「エグランテリアに侵攻を断念させる政治的手段はない。財政が破綻していた国に、これ以上の支援も期待できない。かといって敵国に下ることもできなければ、家と領地を守るという責務を投げ出すこともできない。八方塞がりだ」
 私は無言で頷く。
「あの時の父が本当はどんな思いでいたのか。何を考えていたのか。それを確かめる術はもうない。だが愛人に家を乗っ取られたこと、家臣たちが保身から人の道を踏み外し狂っていったこと、それをよしとしていたはずなんてないんだ。自分の人生のすべてを費やし守ろうとしたものが眼前で壊された。それはあの人の人生のすべてを否定されたに等しいだろう。それなのに、もう何もできないんだ。何もなすすべがないんだ。そんなところにもし俺が追い込まれたら――そう考えて、どうしようもなく悲しくなった」
 小さな吐息が落ちる。悲歎と同情と共感と愛惜と込めて。
 ああ、そうか、と私は思った。彼の雰囲気が変わった理由は、これだったのだ。
 離れていた時間に、何があったのかは判らない。だが彼はおそらく、真に吹っ切ったのだ。彼を捕らえていたものを。過去を。因縁を。
「ロスマリン、俺はこれから作る場所を、誰かの人生を縛る檻にはしたくない」
 それは私と彼とで築いていく新しいザクセングルスの、基となる言葉。
「家を守れ、領地を守れ、家督を継げ。そうやって生まれた時から人生を定められて、何も選べない。そこから逃れることもできない。そんな人生は、紛れもなく不幸だ。俺は自分の子も、他の誰の子も、そんな場所に追い込みたくない」
「私もそう思います」
「禁書を背負うことは、あまりにも重い。そして二百年後、オフェリア王女を救出できるほどの組織となれば、今の傭兵団など比べものにならないほどの規模まで大きく強くならなければならないだろう。それを預かり、背負い、導くという難事を、本人の意思なく定められるものにはしたくない」
 彼の言葉は、私の遠い記憶を揺さぶった。
 九年前、禁書の作成を兄様に願った時、同じことを言われた。
 彼らの言うとおりだ。自らの人生を生まれながらに定められ、何も選べないのは悲劇だ。
 だが――だからその時私は兄様に、何と言った?
「力はそれを望んだ者が掴む。九年前、禁書を望んだ時、私は兄様にそう言いました」
「ロスマリン」
「あなたは今、力がほしいと言った。できる限り沢山の人たちに、人並みの暮らしを送らせるために。それを叶えられる場所、その礎を築くために、と。ならばその志を継ぎ、自らの意思ですべてを背負おうとする者が、禁書も組織も何もかもを受け継いでいく。誰もが生まれに縛られることなく、自らの意思で生業を選び、誰もが何らかの形で自らの能力の限り共同体に尽くす。そんな仕組みを、これから私とあなたとで作り上げていけばいいのですよね」
 私の言葉に、彼は頷いた。答えはすでに出ていた。
 ああ、やはりあなたが私の生涯の伴侶。
「オフェリア王女を救出してほしい、そうして兄様や姉様に報いてほしい、という私の願いは、結局は我が儘です。未来に生きる人たちを縛っていい理由になどなりはしない。それは判ってはいるんです。でも、それでも願いと共に力を託したいと思います」
 私の願いは傲慢だ。それは判っている。それでも願わずにはいられない。
 私たちの遺すものを継いでいく人たち。あなたたちにとって、どうかこの力が善きものとなりますよう。
 あなたたちの願いを叶える力となりますよう。多くの人たちが自由かつ安寧に生きていける未来をもたらしますよう。
「たとえ私の願いが叶わなかったとしても、それは仕方ない。そう覚悟しています。けれどもこの力が、もし多くの人が豊かに生きていける場所を生み出すものとなるのなら。多くの人を、未来へと導いていくものとなるのならば、きっと」
 そうなったならきっと。
「兄様と姉様は、喜んでくださると思うんです」
 私の言葉に、彼はそっと寄り添ってくれた。抱き寄せられ閉じ込められた腕の中は温かく、私はその身を委ねる。
「もう私では背負いきれない。そう思ったならば退きます。後に続く者に任せます。でもそれはあなたもですよ? あなたは自分のことを棚に上げて、無理する悪い癖があると思います」
「違いない」
 彼が苦笑する気配が体から伝わってきて、私も笑う。
「すべては私たちだけでは叶いません。すべてを見届けることもできません。でも、私たちは一人ではありません。多くの仲間たちが、そして次代を担ってくれる子どもたちがいます。彼らと共に、前に進みましょう。一歩ずつ、一歩ずつ前へ」
 あと何年、私たちは一緒にいられるだろう。あと何年、同じ道を歩んでいけるだろう。
 その未来は判らない。そんなことはきっと、禁書にも記されていないだろう。
 私たちの願いは叶うのか。二百年後、この街は、そして私たちの大切な傭兵団はどうなっているのか。それも知る術はない。
 けれども、信じよう。
 その信じた未来に、アイラシェール姉様とカイルワーン兄様はいるのだから。
 緩やかで穏やかな沈黙が降りた。彼は私を抱きしめ続けて、やがて。
 噛みしめるように愛おしむように、ささやいた。
「ロスマリン、ありがとう。俺を選んでくれて」
「はい」
「一緒に、生きよう」
 答えは言葉にする必要はなかった。
 私は彼の背中に腕を回し、ただ強く抱きしめた。

「お前に一つ、確かめておきたいことがある」
 粉粧楼での盛大な酒宴もお開きとなり、傭兵館に戻ってきた頃合い。談話室で一息ついていた私に、ブレイリーは神妙な面持ちで切り出した。
「カイルワーンはお前の結婚について、お前や父上に何か話をしていったのか」
 彼の言う『話』が、預言を意味することは判っている。だから私は先日父に聞かされた事実を打ち明ける。
「実は昔、父は私との縁談を兄様に持ちかけたことがあるそうです。その時言われたと。私は自分で、誰よりも自分を愛し幸せにしてくれる男を選ぶだろう。だから余計なことはするな、その時は味方になってやってくれと。父が私にこの年まで結婚を迫らなかったのは、兄様のこの言葉に従ったのかと」
「その真意を、お前はどう考える」
「昼に見せた手紙には、私の結婚相手は知らないと書いていました。だから、政略結婚に向かない私の性格を慮ったのかもしれない、とも思います。けれども兄様が何かを知っていた可能性も否定はできないかと」
 私の言葉に、彼は考え込んだ。眉間に皺を寄せ、しばらく黙り。
 やがて、ためらいがちに口を開いた。
「確信はないんだ。だけど俺には思えてならない」
 そうして投じられる爆弾。
「もしかしたらカイルワーンは薄々、お前の結婚相手が俺だと気づいていたんじゃないだろうかと」
 思いもかけなかった言葉に、私はただ呆然とした。
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