天を渡る風 (10)

 一月、二月と冬は厳しさを増し、村の状況もより深刻になっていった。食料不足と寒さで、乳幼児と老人が幾人か犠牲になった。神職として、ささやかではあるが葬儀を営み続けた緋凌は、結果どんどん食が細くなっていった。
「心情的に、とても食えない」
 緋凌は自分の状況を、そう表した。それすら、春螺にしか言わないことであったが。
 手持ちの食料が心もとないのは事実だが、それにもまして食卓にのぼった量は少なかった。
 それが彼の繊細さ所以なのか、単なる意地なのかは区別のつかないところだが、体は納得はしない。軽い栄養失調になり、体調を崩して床につくことが多くなった。
 そんな彼に、春螺は何もしなかった。食べ物を持ってきたところで彼が食べないことは目に見えていたし、仙力による治療も緋凌が頑として受け入れなかったからだ。
 無論、万一のことがあれば実力行使も辞さないつもりであるが、そのぎりぎりまでは黙って見ていることに決めたのだ。
 その日も緋凌は、起きることができずに、昼すぎても寝床でうとうとしていた。春螺が手持ち無沙汰に外を眺めていると、寒風の中丘を上ってくる人影が見えた。
 緋凌と同じくらいの青年。濃い紺色の髪と、薄桃色の目の青年は村で何度か見かけたことがあった。
 確か彼に緋凌は、冬李という真名を与えていたはずだ。
「こんな厳しい日和に、遠路はるばる何用だ?」
 家の外に出て迎えた春螺に、冬李はにこやかに笑って、手にしていた包みを差し出した。
「これを緋凌に。祝いの餅だから、遠慮なく食えと言って渡してください」
 包みの中身は、粟餅だと知れた。人懐っこい笑顔を浮かべ、物おじせず春螺に向かう冬李に、春螺は少し困惑して問いかけた。
「この食料のない時に餅をつくのだから、よほどのことだな。大変だったろう? 何があったのだ?」
「俺の娘が生まれたんです」
「それはめでたい」
 掛け値なしに寿ぐ春螺に、冬李は苦笑いを浮かべて言った。
「だから緋凌に、ちゃんと食べろと伝えてください」
「……知っているのか」
「だいたい予想がつきますよ、あいつの考えそうなことくらい」
 そう言って冬李は、春螺を見つめた。その視線は、多少の畏敬はこもっていたが、他の村人たちよりは遥かに親しみにこもっていた。
「やっぱり全然食べていないんだ」
「全く、ではないが。あれは見かけと違って、存外繊細だから」
「そうなんですよね。あいつはすぐにかっこつける。無理して、意地張って、弱音や泣き言を言わないから、見ている方がはらはらするんです」
 ため息と共にそんな言葉を吐き出した冬李は、春螺は見上げた。
「でも、仕方ないとも思います。あいつはそういう風に育てられてきたんだから……ずっと」
「よく判るな。……そなたは、緋凌の親友なのか?」
「なりたくてなり損なった、というのが一番正しいでしょうか」
 冬李は、どこか寂しそうに笑った。
「緋凌は俺たちと、完全に隔てて育てられましたから。物心ついた時からずっと、緋凌は親父さんに付きっ切りで気読みの術を叩き込まれていたから、俺たちと馬鹿やることは許されなかった」
 彼はいつだって独りだった。それは決して彼が望んだことではなかったのに。
「幼い頃から修行を重ねなければ、天気読みにはなれない。それは頭では判ります。けれども、遊んでいる俺たちをどこか羨ましそうに見ているあいつの顔を、俺は今でも思い出せますよ。見かねて、何度もあいつの家の扉を叩いたし、連れ出そうともしたんですが、親父さんは手ごわくて手ごわくて」
 春螺の目に、見たわけではないのに情景が浮かんだ。それはひょっとしたら冬李の記憶が、流れ込んできたのかもしれなかった。
 遊んでいる子供たちの一団を、離れたところ盗み見ている赤い髪の子供。父親が空を指さし、何事か話をしているが、それは耳に入ってはいない。子供たちも、そんな彼に声をかけるが、横にいる父親に一喝されて、すごすごと立ち去るしかない。
 『お前には役目があるのだから』――先回りしたその一言は、子供のささやかで当然な我が儘を、たやすく封じる。
 言えなかった言葉。言えなかった願い。子供時代さえ共にいることも、言葉も交わすこともできなかった村人たちと、大人になってからいきなり親密になれ、腹を割れと言われたところで、どうすればいいというのだろう?
 緋凌と村人との間にある『壁』が何であるのか――その構成要素の一つが、何となく判ったような気がした。
「あいつは、要するに、人との接し方が判っていないのだな」
 判らず惑い、疲れ、自分自身から距離を置くようになったのだろう。その春螺の考えに、冬李は同意する。
「そうやって誰一人、深く関わろうとしなかったあいつが、貴女と共に暮らすようになった……驚きました」
 冬李の喜色のうかがえる言葉に、春螺は表情を曇らせた。
 それは本当に、そんなに喜んでもらってよいことなのか。
 迷っている。己の身勝手を悔いてもいる――あの大嵐以来。
 本当に己が緋凌のそばにいることは、肯定されてよいのか。
「神である貴女が、どんなおつもりで緋凌のそばにいるのかは、我々には及びのつかないことです。ですが、もし奴に愛情に類するものを感じておられるのならば……どうか、奴の命が尽きるまでは、奴のそばにいてやってくださいませんか」
 静かに、真摯に訴えかけられる言葉に、春螺はしばし沈黙した後に、ぽつりと答えた。
「私は、緋凌に何もしてやれない。神がそばにいる――その妬み嫉み、施しの無意味さ、違う生き物故の傲慢……緋凌は私がそばにいることで、様々な苦痛を感じているはずだ。それでも、私は緋凌のそばにいるべきなのか?」
「それでも」
 きっぱりと、ためらうことなく冬李は言いきる。
「そばにいる。ただそのこと以上に価値のあることはなく、そのこと以外にできることなどないのではないですか?」
 小さな吐息がこぼれた。
「自分の心は――自分の一生は、どんなに愛し合っていたとしても、所詮他の人間にどうこうできるものではないでしょう。自分のことは、結局自分で全て解決するより他ない。けれども、そのためにあがいている時に、そばに愛しいと思っている人がいたら、どれほど心が助けられるか。どれほど心強く感じられるか。――たとえ何もしてもらえなくても。それ以上に価値のあることなど、ないのではないですか。そしてそれ以外に、一体何ができるのでしょう」
 今までろくに話したこともない人間の青年は、たやすく春螺を肯定して、笑ってみせる。
 人間は――春螺は思う。緋凌にしても、この冬李にしても、時折神仙にすら放てぬような光を放つ時がある。
 それは刹那だけれども、それ故か、とてつもなくまばゆい。
 自分などでは到底、及びもつかなぬほど激しく、強く。
「……なあ、冬李といったか。判るということは、難しいな」
「はい?」
「緋凌がよく言うんだ。鍬も持ったことのない俺じゃ、村の連中の苦労は判らないと。だから、本当に村人がほしいものが――村にとって良いことが、正直判らないと」
「奴らしい物言いですね」
「緋凌は思っているのだな。隔てられて育てられて、共に時間を分かつこともできなかったのに、どうして痛みを、苦労を分かつことができるだろうかと。どうして、分かり合うことができるのかと」
「……今から間に合わないのか、と思うと、かなり悔しい気がしますけれども」
 冬李がそんな言葉で自分の意見を肯定したので、春螺は告げた。
 まだ緋凌にすら、話していなかった話を。
「そなたに娘が生まれたと言っていたな。年も近い。そなたの娘をはじめとした村の子供たちと、緋凌の子供は、共に育てばお互い分かり合い、苦労を分かつことができるだろうか?」
「春螺様……それは」
「私の中には、緋凌の子がいる。神仙が人の子を産んだことはないのでな、どれくらいの見籠もりか、どんな形で生まれてくるのか、実は判らないのだが、遠からず生まれてくるだろう。その時、そなたは私たちの子を、受け入れてくれるか?」
「喜んで」
 混じり気なしの喜色を浮かべて、冬李は春螺に答えた。
「親たちが叶えられなかったことを子が叶えれば、それでいいということにはならないでしょうが、それでも……俺は、文句なしに嬉しい」
 過去に叶えられなかったもの。これから始まること。全てを包含して、春螺は思った。
 すべからくこの世は、悪くない。
 そう喜ぶ冬李の顔を見て、思った。
「そうか、生まれたか。それじゃあ精一杯頭をひねって、いい名前を考えてやらないとな」
 午睡から目覚め、春螺から冬李の訪問を伝え聞いた緋凌は、珍しい掛け値なしの笑顔を浮かべた。
「私たちの子供の、友達になってくれるそうだ」
 さらりと明かされた告白に、緋凌は一瞬面食らった表情を見せ……やがて。
 泣きだしそうな、笑みを浮かべた。
 その一瞬、おそらく緋凌は実に様々なことを考えたのだろうと春螺は思う。複雑な思いもあっただろう。それでも、緋凌はそれも含めて、笑ってくれたのだ。
 それがどれほど己の救いになったか、と後の春螺は思った。

「厳しく辛い冬が過ぎ、穏やかな春が来て、やがて夏が来た。緋凌と出会ったのと同じような暑い日に、私は彼の子を産んだ。私と同じ、黒髪と黒目の、男の子だった」
 春螺はひどく遠くを見つめるように、懐かしむように、彩妃に告げた。

 春螺と緋凌の子は、赤子の姿で生まれてきた。それは人間である緋凌に引きずられたようだ。
 春螺は生まれた我が子を抱き、不思議な存在だと感じた。
 神仙と呼ぶには、力は足りなすぎた。肉体という布地を捨て、糸をほどいて己を編めるほどの力はない。
 だが、緋凌が与えた人の体という布地には、春螺が与えた力という糸が隙間なく刺され、美しい文様の刺繍をなしていた。
 人でもなく、神仙でもない。全く新しい存在。
「名をつけてくれ、緋凌」
「俺がつけるのか?」
「人としての名は、お前がつけろ。神仙は通り名の他に、己の本質を表す別の名を隠し持つものだから、それは私がつける。この子がどの道でも、選ぶことのできるように」
 おくるみにくるまれた我が子を渡すと、危なっかしげに抱き抱えた。いとおしさに満ちた、穏やかな眼差しで緋凌は息子を見つめ続け……やがて、言った。
「決めた。この子の名は、偕良だ」
 良いって、何だろうな――いつかの緋凌の言葉が、春螺の脳裏に甦った。そして、切なくなった。
 すべてのものに、良きものであるよう――それは悩み、苦しみ続けた緋凌の、真に切なる願いだった。

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