天を渡る風 (12)

 慧の苦労を、春螺とて知らなかったわけではない。だが幼い偕良は悪戯盛り。その上かなりの仙力まで持ち合わせているのだから、緋凌一人で何とかなるものではない。
 理由と言い訳をこしらえて、春螺はずるずると人界に居ついている。
 それでも偕良が十歳になる頃、いい加減慧がくたびれて助けを求めてきた。
『一時でいいので、一度お帰りくださいませんでしょうか』
 涙ながらの慧の便りに、春螺より先に緋凌が口火を切った。
「行ってこい。お前でなければもう、何ともならないのだろう?」
「でも、偕良は」
「連れていけ」
 意外な言葉に、春螺は目を見張った。
「自分のもう一つの道を、母親の属する世界を、そろそろ見せてやってもいいだろう?」
 冷静に告げた緋凌の顔に、それでも寂寥を感じて、春螺は胸が詰まる。だがそんな彼女には構わず、緋凌は偕良に言った。
「母上と、しばらく出かけてこい」
「どこに行くの?」
「母上の故郷だ。とっても綺麗なところだぞ」
「わーい、お出かけお出かけ」
 しばしはしゃいだ後に、ふと偕良は問いかける。
「父上は?」
 無邪気な問いかけに、緋凌はしばし沈黙した。
「俺は……行けない」
 たぶんその言葉は、沈黙は、緋凌が下してしまった苦い選択を表していたのだろう。
 そしてそれを緋凌が、最期まで貫いてしまうことも、また。
 かくして春螺は偕良を連れて、十年ぶりに神仙界に戻った。
 久しぶりに降り立った己が封土は、予想以上に荒れていた。
「春螺様、よくぞお帰りくださいました」
 出迎えた慧は、母の裾にしがみついている偕良に、崩れ落ちそうな笑みを浮かべた。
「まあまあ、なんて愛らしい! お母上様によく似ていらして!」
 きゃあきゃあ喜ぶ慧に、偕良は訳が判らず怪訝そうな顔をする。
「お姉さんは、誰ですか?」
「初めまして、偕良様。やっとお会いすることが叶いました。私は慧と申します。春螺様の侍女にございます」
「慧。偕良を父上のところに連れていってくれないか。私はこっちを片づけてから行くから」
「判りました」
 慧にその場を離れるよう促されても、偕良は納得できないような顔をした。
「母上は行かないの?」
「私はここに、片づけなければならない仕事があるのだ。緋凌が毎日欠かさずにお務めしているようにな。その父の子ならば、お務めというものがどんなに大切なことか、判るだろう?」
「……うん」
 渋々といった感じで行った偕良を見送り、春螺はため息を一つ。差し伸べた手に不意に現れたのは、一本の黒塗りの刀。
 鞘から抜き放つと、刃が冴々とした光を放つ。
 神刀『黒風』――本質的に武神である春螺の半身。
「それじゃあ、さくっと片づけようかね」
 遠くに霞む地平線。その彼方に、幾つもの綻びが見えた。そこから入り込む、異形の群れも。
「片づけないと、帰れないしな……」
 呟いて、気がついた。
 ここが己が封土。自らの帰るべき場所。
 それなのに、そこから『帰る』場所とは、一体どこだ、と。
 緋凌から移った苦笑いを浮かべ、春螺は刀を構えた。
 答えなど、考えるまでもなく明らかで単純だ。
 一方慧に連れられて、神仙界の中央の方に来た偕良は、幾人もの神仙たちに取り囲まれることとなった。
「おお、これが春螺の子か」
「豆のように愛らしいの」
「こちらへ来い。甘いお菓子をやろうか? それとも果実が良いか? お茶もあるぞ」
 偕良は突然のことに、面食らって大人たちを見上げた。
 今まで自分の母以上に綺麗な人たちはいないと思っていた。が、ここにいる人たちは皆、母と勝るとも劣らない美男美女ばかり。
 広がる景色も穏やかで、立ち並ぶ建物も皆、目も眩むほど華やかでまばゆいものばかり。見ているだけで、くらくらしてくる。
 貧しく質素でその分質実な郷里とは、あまりにも違う世界だった。
「皆様、どうぞご容赦くださいませ。春螺様に、申王様のところにお連れするよう言いつかっておりますので」
 やんわりと請う慧に、神仙たちはあっさりと引いた。
「祖父さんより先では、確かに悪い」
「慧、奴も孫の来訪を、首を長くして待っておろうよ」
「勿論でございます」
 ようやく解放されて、偕良の手を引きながら歩きながら、内心慧はほっとしていた。
 偕良は春螺の子であると同時に、力もない人間の子でもある。春螺が人の子を産んだという話題は、この数年神仙たちの耳目を集め続けた話題でもあった。
 暇を持て余し、退屈な神仙たちには、偕良は興味をそそられる存在だろう。そして、偕良の尋常ではない生まれは、悪しざまに言われたり、奇異の眼差しで見られても不思議はない。
 慧は春螺の侍女として、それだけは許せることではなかった。しかし、たかが侍女の身分で、神仙たちに何が言えるだろう?
 神仙たちは内心はどうあれ、少なくとも偕良の前ではそういう態度を見せぬことに決めたらしい。それが慧にはありがたい。
 そしてその計らいは、春螺の父である申王の尽力に負うところが大きいのだろう。
「お主が偕良か。大きくなったの」
「あなたが母上の父上なんですか? 僕のお祖父さま?」
 豪華な椅子に座って偕良を出迎えた申王は、どう見たって自分の親たちと変わらない年に見える。郷里の友達の祖父母は、みんなしわくちゃだったというのに。
 訳が判らず目を白黒させる偕良に、申王は事情を察して笑った。
「神仙は、老いぬのだ。お主の母上もずっとあのままの姿だし、おそらくお前もある程度の年になったら、ずっとそのままなのではないかな」
「僕も?」
「多分な」
 申王の言葉に、偕良は考え込んだ。幼い顔を小難しく歪めて考え込む偕良に、申王は目を細める。
「父上がよく言うんです。お前は村の友達とは違うんだって。それはそういうことなんですね」
「違うことの一つだろうが、お主の父が、そう言うのか?」
「父上は、何が違うのか、それがどういうことかをよく考えなさいって言うんです。違うことを変えることはできないから、それが周りの皆にどんな風に思われるかを、皆と違うことで何がどう変わるのかを、どうしたらいいのかを自分でよく考えなさいって。僕には難しくて、よく判らないけど……」
 偕良の言葉に、申王はいまだ見ぬ娘の夫のことを思った。
 人にはない力を持つこの子を、人の中で育てることに、彼はどれほど腐心しているのだろう。
 神仙を娶ったことを、人には過ぎたことと言う者もある。だが申王は、そのことによって緋凌が人には過ぎた負担もまた負ったことを、改めて実感した。
 それは、春螺の父として案ずるに足るもので。
 そして、人にも神仙にもなれぬ、この子供の未来もまた。
「偕良、お主の父は、本当に強い男だの」
「はい」
 自分の父親を誉められて、喜ぶ偕良に、申王は静かに言った。
 その顔は慈愛に満ちていたが、どこかやるせなかった。
「父のところに帰ったら、春螺の親父がこう言っていたと伝えてくれないか? 我々とて、独りでは生きられない、と」
「……え、ええ?」
「忘れずに伝えてくれ。緋凌殿は、おそらく言えば判るだろう」
 言いたいことは伝わるだろう。だが、伝わったところでどうだろう――と申王は暗い気持ちで思った。
 会ったことはない。だが申王は、緋凌がどんな人間であるか、よく知っている。
 身に過ぎた幸運に浮かれることも、耽溺して身を持ち崩すこともなく、ただ依怙地なまでに人間としての『分』を守ろうとする男。頑固で、曲がることを知らず、己に対してあまりにも厳しく、時には己で己の身を削る真似さえする。
 その気は清冽で、峻厳で、ひたすらなまでに、危うい。
 彼の在り方は見る者の目を引きつけると同時に、危惧も抱かせる。
 そんな祖父の内心を知らず、幼い偕良はただ目を白黒させた。

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