天を渡る風 (14)

 春螺と緋凌が出会って十六年。その間に緋凌は字の習得を終え、日々の天気の記録をつけるかたわら、蓄えていた記憶を字に起こす作業も続けてきた。
 木簡作りは最初、村人が家などを建てる際に切り出した木材の余りなどを使っていたが、なかなかそれも頻繁にあることでなく、緋凌の力だけでは 木を切るにも手に余る。材木の調達は如意にならなかった。
「緋凌様、春螺様、もしよければ、私たちで木の切り出しに行こうと思っているんですけど」
 十六年目のある日、丘を訪れた少年たちは二人にそう言った。
「李青……私たちって、お前もか?」
 偕良は、代表して言った少女に、渋い顔をして問いかける。
 紺色の髪、銀色の目の李青は、偕良より少し先に生まれた冬李の娘である。緋凌が名をつけねばと張り切っていた、あの娘だ。
「なに? 偕良。私だけ除け者にしようって言うの?」
「どうしてお前は、女だてらにそういう危ないことにつきあおうというんだ」
「お説教は沢山。そういうことは、私に剣技で勝ってからおっしゃい」
 玄関先で繰り広げられる偕良と李青の口喧嘩に、緋凌と春螺は苦笑いを浮かべた。
 二人は偕良が物心つくと、村に頻繁に行かせるとともに、村の子供たちを丘に招いて、様々なことを教えた。村の禁域とも言える気読みの領域と、神仙である春螺に、大人たちは尻込みをしていたが、子供たちは全く屈託がなく、結果丘は子供たちの遊び場になった。
 春螺と緋凌は、自分たちで教えられることで、本人が興味を持ったのなら何でも教えた。その結果、かなりの人数の若者が字の読み書きができるようになったし、基本的な天気の読み方を覚えた者もいる。楽器をこなせるようになった者もいたし、果てには。
 春螺から、剣技を教わった者もいた。
 李青は、最も率先して緋凌と春螺を訪れた子供だった。それは親である冬李の方針もあるだろうが、学ぶということの熱心さと負けん気の強さは、そこらの男の子よりは遥かに強かった。
 子供たちの中で、最も優秀な生徒はやはり偕良だったが、李青は彼に張り合いつづけ、今日に到っている。女だてらにとか、いい年の娘がとか様々に陰口を叩かれるところであるが、本人は一向に介せず、村の少年たちと渡り合っている。
 逆に言えば、もはや李青と対等に勝負できるのは、偕良だけと言えるのかもしれない。
「……お前が、剣才があるなんて李青を誉めるから悪いんだぞ」
「女だからといって、才能を正当に評価しないのは、よくない」
「……正論といえば正論だがな、女に剣技が本当に必要なのか?」
 緋凌と春螺は、嬉々として剣技の習練に励む李青を見ながら、こんな会話を交わしたのだった。
「いいから、行くの! ほら、偕良」
「俺も手伝うのか?」
「息子であるあんたが働かないでどうするの!」
 ずるずると引きずられんばかりに連れていかれる偕良と、李青の後を、やれやれとばかりに少年たちが追いかける。
 それは何をするにしても、馴染みの光景である。
「……完全に、尻に敷かれているな」
 少年たちを見送り、二人きりになった後、春螺は緋凌に言った。
「俺はそうとばかりは言えないと思うが」
「そうか?」
「偕良は、李青を含めた子供たちに合わせて、自分を抑えていると思うぞ」
 緋凌の言葉に、春螺は沈黙した。
 下の者に上まで登ってこいというのは。酷だ。だったら、上にいる者が下に降りなければならない。しかもそれを誰も侮辱することなく――悟られることなく行うのは、細心の気配りがいる。
「あれはあれなりに、気をつかって生きているのだろうな」
「それが誰とも違うということの――異端だということの、意味だ」
 緋凌はいくらか切なそうに言った。
「偕良は、どんな道を選ぶんだろうな」
「後を継がせるつもりは、お前にはないのか?」
「判っていることを聞くな。字を読むことのできるのも、初歩だが気読みの術を覚えたのも何人もいるだろう。もう俺みたいに、専従する奴は必要なかろう。畑を耕しながら空を見て、迷ったら過去の記録をひっくり返して、他人と意見を交わして、そうやって気を見ていけばそれでいい。そうは思わないか?」
 おそらくそれは、緋凌の理想の形なのだろう。自分では実現しえなかったそれが、今確かに叶いつつある。
「これから無限に続く長い時間を、あいつがどうやって生きていくのか。その人生の中で負っていくものを、誰も肩代わりはできない。助けてはやれても、代わってはやれない。だから悔いることのないよう、自分で考えて、結論を出さなければならない」
 親としては冷たいかもしれないが、それが現実だ。
「偕良にとっては、何が幸せなんだろうな」
 もう偕良も十五。一緒に育った村の子供たちで、年長の者たちはぼちぼち所帯を持ち始めている。一人前の大人になり始めているからこそ、こうやって自分たちの力になりたいと申し出、実際実行できる年になった。
 どんなに楽しく遊んでも、どんなに仲良く暮らしても、決して同じものにはなれないことを、偕良は気づいているだろう。
 そして選択を下さなければならない時期に来ているのだ。
 ある日村から帰ってきた偕良は、金色の植物を手にしていた。
「おや、水稲の穂じゃないか。どうしたんだ?」
 春螺の問いかけに、偕良は上気した顔で答えた。
「隣村の人が交易に来ていて、布と変えてもらった。隣村では、何年か前から水稲を作っていて、試食させてもらったけれども」
「うまかったろう」
「そりゃあ、もう」
 この村では、まだ米や麦は作っていない。作物の中心は粟や稗で、それが村の貧しさを表しているとも言えた。
「かなりの量の種籾を手に入れられたんで、来年から徐々に作っていこうかと皆で話をしてきたところで」
「で、俺の許可が欲しいということなんだな」
 緋凌の言葉に、春螺が待ったをかけた。
「待て、偕良。陸稲ならともかく、水稲は格段に栽培が難しい。畦を作って、水を引いて……田の整備だけで、半端でない労力が必要だ。それは全て、考慮の上の結論か?」
 思ってもみなかった反論に顔色をなくした偕良に、春螺は努めて優しく語りかけた。
「水稲の栽培に成功すれば、村の人々の暮らし向きは格段によくなるだろう。けれども、それまでの労苦を背負うのもまた村の人たちだ。同意なくして事を進めようとすれば、それは独善でしかない」
「母上……」
「焦らず、ゆっくりと事は進めることだ。よいことだからと先走れば、自分にはできるから俺たちのことは省みないと、恨まれることになる」
 春螺の言葉に、偕良は深く考え込んだ。
 いよいよ偕良は、難しい年頃になりはじめていた。

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