天を渡る風 (16)

「そもそも、なぜ畑も耕さず天気だけを見て村人に養ってもらう職務が存在したのか。それこそが答えだった」
「それはすなわち」
「緋凌の家系は、畑仕事ができるほど――一人前の労働力として認められるほど、強くはなかったのだ。遺伝性の病を持ち、体も強くなく、ただ空を見、風を感じることしかできなかった男が、その膨大な時間を蓄積に変えた。正確な天気を村人に伝えることで、ようやく一種の労働力と認められ、妻を娶り子を残すことを許された――それが気読みの真実だ」
 春螺は苦いため息をこぼし、彩妃はそんな彼女にかける言葉がない。
「なぜ緋凌が妻を娶り、子を残すことをあんなにもためらっていたのか。真実はそういうことだったんだ。緋凌は心のどこかで、病も責務も何もかも、自分で終わりにしてしまいたいと思っていたのかもしれない。結局成り行きで私と寝て、私との間に子をもうけたけれども、偕良が人間ではないことに一番ほっとしていたのは、間違いなくあいつだったんだろう。病を、うつさずにすんだからな」
 ため息をこぼす。今ではもう泣くこともない。ただひたすら、苦い吐息がこぼれるばかり。
「緋凌は、私の人界行きが一時の戯れに終わることを、始めから判っていたのだ。なぜなら」
 それは緋凌が、慧に告げた言葉の意味。
「あいつは、自分が遠からず死ぬことを、知っていたのだから」

 その日から三年、春螺と偕良は苦しい日々を送った。
 成人してから発病するその病は、確かに緋凌の体を蝕んでいた。緋凌は毎日を変わりなく過ごし、村人たちには何一つ気取られることはなかったが、共に暮らす春螺と偕良には、病状の進行は一目瞭然だった。
 偕良が十八になった年、緋凌はついに床について、二度と起き上がれなくなった。意識が朦朧として、堪えきれずに苦痛の声を上げる緋凌に、春螺と偕良は何度となく痛覚を麻痺させ、そしてもはや緋凌はそれを拒まなかった。
 しかし、それでも、力による根治を切り出せば、頑として首を縦に振らなかった。
「お袋」
「母上と呼べ、と言ってるだろう」
「どっちでもいい! 母上は、このまま親父を見殺しにするつもりなのか」
 とうとう業を煮やして切り出した偕良に、春螺は首を横に振る。
「緋凌がうんと言わないことを、私たちが勝手にすることはできないだろう」
「寝てる間にでも、勝手にやったらいいだろうが! このまま手をこまねいて、死なすよりはよっぽどいいだろう!」
 血気盛んな偕良の叫びに、春螺はうつむいてしばらく唇を噛み……やがて、ぽつりと言った。
「それをすれば、確かに命は助かる。だがその代わりに、殺すものがあるのだ」
「それは」
「緋凌の、心だ」
 まばゆいばかりに自分を引きつけ、捕らえた、あのいとおしい心。
「それがどうしてなのかは、私にだって判らない。けれども、緋凌は命を捨ててまで貫き通したいものがあるのだ。その意志を私たちの勝手で汚せば、緋凌の心は壊れる。命を捨ててまで守り通そうとした尊厳を否定されたら、人間だって神仙だって生きてはいけない。脈を打ってても、呼吸はできても、それは生きてることにならない。壊れた心を抱えてまで生き続けろだなんて、そんな残酷なことを要求はできない!」
「だったら、母上はこのまま親父が死んでいくのを、黙って見ているのか! 親父が死んでしまっても構わないって言うのか!」
 追いつめられ叫ぶ偕良に、春螺は堰が切れた。
 耐えてきたものが、一度にあふれ返す。
「お前が私に、それを言うのか! 判っていることを、わざわざ聞き返すな!」
 道を塞がれ、追いつめられているているのは春螺とて同じ。
 いや、自分などより遥かに深く、激しく。
 一体自分に何を言う権利がある。
「お袋……すまない」
「母上と呼べと……言っているだろう」
 顔を覆い、切れ切れの声でそれしか答えない春螺に、もはや偕良はかける言葉がない。
 家の外に出ると、そこに佇んでいる人影を見いだした。
 天を仰ぎ、雲を見つめる銀の瞳。
「積乱雲だ……雨になりそうだね」
「そうだな」
 李青に並んで空を見上げると、夏の空は目を射抜くほどに青い。
「伝えにいくか?」
「いらない。それは緋凌様の仕事だもの。差し出がましいことはしたくない」
 きっぱりと言いきる李青の気持ちが、今はとても嬉しかった。
 李青も今年で十九。男勝りで可愛げがないと陰口の叩かれる彼女は、同年配の女の子たちがどんどん嫁いでいく中、いまだに独りだ。
「李青は嫁に行く気はないのか?」
「……お嫁に行ってしまったら、全部終わりだからね」
「終わり?」
「ここに来ることもできない。春螺様や緋凌様に何かを教えてもらうことも、偕良と手合わせすることも、何もかも全部」
「それ以前に、ここももう終わりだよ」
 偕良がうつむいてこぼした言葉に、李青は静かに問いかけた。
「春螺様は、自分の国に戻られるの?」
「親父が死んじまったら、そうするだろうな。親父の望みもそうだろうし、親父がいなければお袋にはここにいる理由がない」
「偕良は、どうするの」
「判らん。正直、今は何も。ただ」
「ただ?」
「親父は好きにしろって言うだろうな。気読みの後を継ぐ必要はないと。残した記録も、村の共有財産として継いでいってくれればいいって言うと思うし」
 自由ということは、拠り所がないということなのだと、偕良はしみじみ思った。
 確定的な未来も、他人に必要とされることもなく、この地平にただ己の身だけがあるのみ。その他には、何もない。
 己が孤独であることを、初めて思い知らされた。
「偕良がここを出ていくというのなら、私たちのために留まってくれなんて浅ましいこと、誰にも言わせやしないけど」
「李青……」
「でも」
 冷たい言葉に驚き、李青の顔を見つめた偕良は、思いがけない表情に出会って、目を瞬かせた。
 いつも強い意志が感じられる顔をしている李青が、消え入りそうなほど寂しげな表情をしていた。
「私は、偕良が春螺様の子供だから――神仙の力を持っているから、ここにいてほしいんじゃないよ。ただそれだけは――どうか、それだけは、覚えていて」
 銀の瞳が、頼りなく揺れるのを、偕良はただ驚きながら見つめ続けた。

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