天を渡る風 (19)

「もしかしたら緋凌は、どこか己の存在に、一生に、絶望していたのかもしれん。何一つ自由もなく、定められた責務を果たさなければ、生きていくことすら許されない己の一生というものに。発病したら、三年ともたない不治の病を抱える、常に死と隣り合わせの短命な一生に。責務を果たす以外に何も許されない日々を送っていた奴は私と出会い、何を考えたのだろう? 判らぬ。今となっては、何も。私を愛していてくれたのかどうかも」
「春螺……」
「けれども、これだけは判る。人が死んだ後、その魂が行く世界が――あの世と呼ばれる世界が本当にあるのならば、そこで緋凌は私が来るのを、今でも待っていてくれているだろう。それだけは、疑うこともなく、信じられる。あれは隠し事はしても、嘘は決してつかぬ男だったから」
 くすり、と笑って、春螺は彩妃に向かって言った。
「彩妃、そなたは私たちにできぬことはない、と言ったな。だが私には、できぬことばかりだ。できぬことがないのならば、どうして私は緋凌を助けられなかった。どうして私は緋凌と共に生きて行くことができなかった。どうしてこんなに、会いたいと願ってもそれが叶わぬ」
 一千歳、二千歳。どれほどの月日がたとうと、決して薄まることのない思い。
 会いたい。思うことは、願うことは、ただそれだけ。
 それなのに、その思いは、どんなに願っても決して叶わない。
「私の力を持ってすれば、緋凌を生き返らせることはできよう。時を戻すことだって叶うかもしれない。けれどもそんなことをしたところで、それは『違う』のだ。己で選べるものは何一つなく、全て望まぬまま押しつけられたものでも、それでも逃げず投げ出さず責務を全うしたあの誇り高い魂は、私の力如きでは決して甦りはしないのだ。私の力でできるのは、緋凌の形をした偽物を作るだけだ」
 彩妃は、もはや春螺に向けられる言葉を持たない。ただひたすら、その悲痛な言葉を聞くばかり。
「力があるから、無限の命があるから、それが何になる。私は緋凌の、偕良の半分も真摯に生きた気がしない。誰かのために、何かのために、そして自分のために、己の全てを尽くす彼らの生き方を、短命な者の儚い一生と、どうして笑えよう? それならば我らは果たして、彼ら以上に価値のある生を、歩んでいるのか?」
 彩妃は、何も答えられない。
「あれから、人界では膨大な月日がたった。それでも胸の中の思いは決して薄まることはなく、時は忘却という癒しの手を差し伸べてはくれぬ。変わることができぬ以上、忘れることも叶わぬ。私は私で在り続ける限り、緋凌を、偕良を恋うるだろう。変わらぬ代わりに、先にも進まぬもの。それが我らだ」
 春螺は緋凌のものによく似た苦笑いを浮かべて、言った。
 己を嗤う、その自嘲的な笑み。
「昔、偕良が言っていた。ここは、時に忘れられたような場所だと。だが、それは少し違う。我らは、時を超越したのではない。時に忘れられたのでもない」
 その、答え。
「我らは、時に見捨てられた存在なのだ」
 春螺は、笑っていた。彩妃とは比べ物にならぬ長い時を独りで生きた神仙は、部外者である彩妃が聞いても胸がつまる話の後に、笑ってみせた。
「私は何も悔いてはいない。あの二十年は、本当に幸せだったのだから。けれども……私の真似はするものではないぞ。こんな思いは、しないにこしたことはない」
「どうして、行かない?」
 ようよう彩妃は、春螺に問いかけた。
「待っていてくれているのだろう? ならどうして、行かない」
 目的地の省かれた問いかけに、春螺は苦笑して答えた。
「私はまだ、緋凌や偕良の半分も、価値のある一生を歩んだとは思えていないからな。そんな中途半端な私を、二人とも迎えてはくれんよ。だから、まだ、行けない」
 遠くにいる誰かを見るように、春螺は目を細めた。
「病み疲れるほどに、私はまだ己の責務を全うしてはいないよ」
 ゆるやかな沈黙が、二人の間に降りた。彩妃は長いこと迷いつづけ、だがやがて思い切って口を開く。
「そなたの先程までの口ぶりを聞いていると、判らないことがあるのだが……偕良は――そなたの子は、その後一体どうなったのだ。今で言う天仙だったのだろう? それが――」
 春螺の言葉の中で、答えは明白だ。その理由を問いかける言葉に、春螺はわずかな視線を落とした。
「偕良は地仙になった李青と、ずいぶんと長い時間を生きたよ。けれども、二人の子、孫と代を経ることに、私の力はずいぶんと不完全な形で現れるようになった」
 完全な白布で生まれてくるのならば、まだよかった。だが、中途半端で未完成な刺繍を施されて生まれてくる子は、その乱れた糸が織りなす制御不能の力に振り回されるようになった。
「そのために、偕良は自分の力を分け与えた。刺繍布は、次第に地布をあらわにするようになり、そこから傷んでいった――」

 封土の見回りをしていた春螺は、不意に顔を上げた。
 東から西へ吹き抜けていく一陣の風。それに呼ばれた気がした。
 緋凌を失い、封土に戻ってきてから、ずいぶんな時間が経っていた。
「慧、一刻でいい。すぐ戻る。私に時間をくれ」
 言い残して、虚空を駆けた。あまりにも懐かしい匂いのするあの界に降り立ち、目を開けた瞬間、春螺は己が目を疑った。
 季節は秋。
 風は天を渡り、地を吹き抜けて、揺れる稲穂のさざめきを伝える。
 周囲は、果てさえ見えぬ、見渡すばかりの金色の海――。
「偕良……」
 名を呼ぶことしかできぬ。広がる光景に、ただただ呑まれ、春螺は言葉をなくす。
『母上――』
 声が聞こえて気がして、春螺は胸が締めつけられた。
 もう何もかもが、判ってしまった。
 遠くを歩く人々の列が、何を意味しているのかさえも。
「これがお前の、選んだ道なのか……?」
 たわわに実って首を垂れる稲穂。遥か遠くまで続いていく金色の波。明日になれば、収穫を喜ぶ人々の歌が空気に溶けていくだろう。
 それをもたらした、この地を吹く風。
 私の愛しい人たち。
 もう二度と会えぬ、私のかけがえない人たち。
 私の緋凌。
 私の偕良。
 無限に生きる手だてはあった。永遠にそばにいることもできた。
 けれども。けれども。
「私は必ず行くから……必ず会いに行くから、だから忘れないで」
 私を、私がいたことを。
「必ず行くから……だから、待っていて」
 お前たちに誇れるような最期を迎えたら、必ず。
 その時一陣の風が天を渡り、緩く結わえた春螺の髪の飾り紐をさらう。
 黒銀の輝きを残して紐は天を駆け上がり、春螺はほどけて乱れた髪を押さえながら、風の軌跡をただ見つめていた。
 ただずっとそこで、見つめ続けていた――。

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