王宮からの帰り道は、すでにたそがれていた。人気のない薔薇園を通り抜けたカイルワーンは、不意に一枝白薔薇を切り取る。
「ただいま」
薔薇を手に扉を開けると、今度はコーネリアが待ち構えていた。
「お帰りなさい、カイルワーン」
笑顔でコーネリアは迎える。だが長いつきあいで、カイルワーンはコーネリアが何かを企んでいることを容易に読み取れた。
「何の用? その前に、とりあえず着替えさせて――」
「そのままで、ちょっと来て」
連れていかれたのは、塔の応接の間――普段は使うことはないけれども、この塔で一番立派な部屋の前。
「開けなさい」
訳がわからないまま促され、扉を開けた。
そして、息を呑んだ。
「カイルワーン……?」
おずおずとした、ためらいがちな声がかけられても、返事ができない。動けない。
そこには、純白の見事なドレスで正装した、アイラシェールが立っていた。
「陛下の、今年の贈り物なの」
背後から、小さな声が聞こえた。
そう、今日はアイラシェールの十七歳の誕生日なのだ。
コーネリア――カイルワーンは内心で、自分を育ててくれた女性を毒づく。
白いドレスは成人の証。十七歳になった女性は、親から贈られた純白のドレスをまとって、初めて夜会に出ていく。 それがアルバ社交界の習わし。
けれどもそんな日は、アイラシェールには来ない。それなのに。
ああ、そうか。これもまた。
覚悟なのか。
覚悟を決めろと言うのか。
「ああ、だから私、恥ずかしいって……コーネリア!」
顔を赤らめて叫ぶアイラシェールに、カイルワーンを首を振って近づいていく。
手には白い薔薇。その偶然をカイルワーンを苦々しく思う。
自分にも、予感が、あったのかもしれない。
「カイル……?」
カイルワーンはひどく真面目な、緊張した面持ちでいた。アイラシェールが訝しんだ時、それは起こった。
音もなくカイルワーンは跪き、当惑するアイラシェールを見上げて言った。
「私は捧げる剣も持たない非力な男ですが、どうか私を貴女の騎士にお加えください」
差し出される――捧げられる白い薔薇。
それは臣従を、忠誠を、そして情愛を誓う、騎士の礼――。
「私の心を、お受け取りくださいますか」
真っ直ぐな視線に見つめられて、思いもかけない言葉にさらされて、アイラシェールは立ち尽くした。
どうしたらいいのか、判らなかった。
長い沈黙があった。アイラシェールは答えず、カイルワーンはただ待った。
捧げられる白い薔薇。礼とともに捧げられたものを取ることは、その申し出を受諾すること。
その心に応えること。
だけどそれは。
だけどそれは――。
「…………できない……」
その長い時間のあと、アイラシェールは震える声でこぼした。
あふれる、涙とともに。
わっ、と泣きだし、アイラシェールは駆け出していってしまう。自分の部屋に飛び込む荒々しい音を聞き、カイルワーンは立ち上がった。
うなだれた彼は、ただ静かな表情をしていた。
この結末を、どこか予想していたかのように。
「……やるじゃない、カイルワーン。格好よかったわよ」
軽く肩を叩くコーネリアに、カイルワーンは沈んだ表情を見せた。
「よくないよ。やっぱりアイラを追いつめることになった」
「追いつめる、ね……。確かにそうね。そうかもしれない。でも」
コーネリアは、きっぱりと言う。
「もうアイラも、覚悟を決めなければならないのではないの? あなたが覚悟を決めたように」
もう子どもではいられない。このまま塔の中で二人仲良く、というわけにはいかない。この先の人生をどうするのか、ともに生きていくのか、否か。
ともに生きていくのならば、どういう関係を築いていくのか――。
その問題から、もう逃げることはできないのだ。
「僕の覚悟はどうでもいいんだよ。僕は自分がしたいようにすればいい。生きたい道を選べばいい。ただそれだけだ。でも、アイラは――」
階上の彼女の部屋から、泣き声が聞こえる。こんな風にアイラシェールが声を上げて泣くことは、ついぞないことだ。
「慰めに行ってやってくれないか? コーネリア」
「私が?」
「僕が行ったら逆効果だろうに」
苦々しいため息をもらすカイルワーンに、コーネリアは切なそうに目を細めた。
「アイラシェールは、あなたのことが嫌で花を取らなかったんじゃないわ」
「それだって、どうでもいいことなんだよ」
ぽつり、とカイルワーンはこぼした。応接間から出ていこうとする背中は、それでも沈んで見えた。
アイラシェールだけでなく、カイルワーンの育ての親でもあるだけに、コーネリアにはそれがとても切なかった。
「アイラ、入るわよ」
コーネリアがアイラシェールの部屋の扉を開けると、勢いよくクッションが飛んできた。
次々と飛んでくるクッションを避けることなく、嵐が収まるのをただコーネリアは待った。
「ひどい、ひどいひどいひどい!」
泣きはらした真っ赤な目で、アイラシェールはコーネリアを睨んだ。
「何でこんなひどいことをするの! なんで、なんでなのっ!」
感極まって、再び泣き伏すアイラシェールに、コーネリアは静かに歩み寄ると、その背中を静かに撫でた。
「どうしてみんなで寄ってたかって私を追いつめるの! なんて答えたらいいって言うの!」
はいとも、いいえとも答えられない。どちらにも逃げ道がなくて、自分にできることといったらただ泣くだけだ。
情けない。カイルワーンは自分がぐずぐずしている間に、あんなに鮮やかに覚悟を決めてしまったというのに。
「私、どうしたらいいの……?」
この後どんな顔をしてカイルワーンに会えばいいというのだ。どんな言葉をかければいい。どんな風に暮らしていけばいいというのだ。
それとも拒絶されたカイルワーンは、このままいなくなってしまうのだろうか。
そうなったとしても、それは身から出た錆だ。何も文句は言えない。言える立場ではない。
だが、そのことに自分は耐えられるだろうか?
「私、私、私……」
ただ泣くばかりのアイラシェールの苦悩が、どんなものであるのかコーネリアには判る。だがそれが避けて通ることが決してできないことを知っているだけに、何もできない。
できたことは、ただそばにいることだけだった。
この二人の未来がどうなっていくのか、育て親として何をしてやればいいのか、何をしてやれるのか――そんなコーネリアの物思いは、たったの一夜しか許されなかった。
翌日のことだったのだ。コーネリアが王宮内で、その報を聞きつけたのは。
「センティフォリアと、ノアゼットで反乱――」
王宮内に広がっていく不穏な気配に、コーネリアは胸を押さえた。
水辺に広がった小さな波紋。それがさざ波になり、いずれ大波となる――それは予感にすぎない。
だが、それをただの杞憂と笑うことが、コーネリアにはどうしてもできなかった。