それでも朝日は昇る 2章10節

 薔薇園の奥の奥、ひっそりと佇む小さな塔があった。そこに自分が一人の赤子を託されてやってきたのが、十七年前のことだった。
 それから三年後、一人の男の子が父親に連れられてやってきた。王命もあったが、それよりも研究だ授業だと多忙をきわめる父親を、一人で待たねばならないその子の生活を見かね、共に育てることになった。
 女の子と男の子は、共に幸福な境遇とは言えなかった。それでもお互いを共に支え合うようにして、ここまで大きくなった。
 男の子が自分の人生を賭けて望んだことは、本当にささやかな幸せだった。女の子はそんな幸せすら、己が境遇のために諦め、でも諦めきれず泣くことしかできなかった。そんな二人に、自分は何もしてやることができなかった。
 ささやかな幸せ。人の望みとしては平凡で、当たり前すぎるほどの願い。
 そんなものすら、壊そうとする者たちがいる。
 許せるはずがなかった。
「女! この塔は何だ! どうして燃えている!」
 燃え盛る塔に押し寄せてきた一団に、コーネリアは振り返り、手にしたたいまつを向けた。
 青薔薇の指輪をはめた手には、血にまみれた剣。
 その剣は、果たして誰を、何のために斬ったのか。
「この塔は可哀相な子どもの、ささやかな隠れ家。本人には何の罪もないのに、ただ白子に生まれついたというだけで親に捨てられ、国民に憎まれ、人としての望みも捨てて、何も望まず誰も恨まず誰にも迷惑をかけることもなく、ただ静かに暮らしていた場所」
 コーネリアの言葉に、一団がざわめいた。
「それは、王女の――魔女のことか」
 首領格の男が、切っ先をコーネリアに向け、焦りの浮かぶ声色で問うた。
「中か」
「ええ。そう……すべてはもうおしまい。あの子は炎の中に消え、預言は成就される。あなたたちがあの子を利用したから――あの子をこんな風に殺したから、この国は滅ぶんだわ」
「……なんだと?」
「まだ判らないの、この愚か者!」
 コーネリアは、青い薔薇の旗を掲げる者たちに叫んだ。
「自由? 平等? 聞いて呆れるわ。あの子が何をしたって言うのよ! あの子が重税を課したわけじゃない。あの子が病気をはやらせたのでも、飢饉を招いたのでもない。あの子は魔女じゃない! あなたたちの理想が聞いて呆れる。人が皆平等なら、どうしてあの子は平等じゃないのよ。あんたたちはただ、王家を乗っ取って自分たちが王権を握りたいだけじゃない!」
「王家が民を虐げる存在であることは、もはや明白ではないか! 王家や一部の貴族だけが政治を握るから、自分たちに都合のいい施政がまかり通る!」
「だから、なんでそのためにあの子を利用したって言ってるのよ」
 一転、ひやり、とする声でコーネリアは告げた。それは激情をもって叫ぶより、強さをもっていた。
「真実民衆が王家を疎み、自分たちの手で政治を行おうとするのであれば、何も『魔女の呪い』など利用しなくても、民衆は立ったでしょう。それは他国の情勢を見るに、火を見るより明らかなこと。違って? あなたたちが民衆を啓蒙し、説得し、その思想をもって民衆を率いたのならば、王家は倒れても何ら文句のつけようはないのよ。王家は民によって政治を託されたもの。民の信なくして立つことはない。だけど」
 コーネリアはきっぱりと言い放った。
「民はあなたたちに政治を預けるために立ったんじゃない。魔女を恐れ、呪いを恐れて恐慌を起こし、あの子を殺した余勢で王家を滅ぼすでしょうけれど、それはあなたたちに政治を任せるためじゃないのよ! 恐れによる熱情が冷め、我に返った後、民衆はあなたたちが政権を握ることを、果たして承認してくれるの?」
「我々は民の代表だ! 民の信を負うものだ」
「自信満々ね。それも結構。けれどあなたたちは見落としている。ここまで国を混乱状態にして、国家を解体状態にして、これで外国と戦えるの?」
「……なに?」
「とことん馬鹿ね。この好機を、外国が見落とすわけないじゃない。どこぞの国が演習と称して、全艦隊を集結させたのは何のため? 全軍が出航しようとしているのは何のため? 権力の掌握もできていないあなたたちが、北の強国とどうやって戦おうっていうの。この事態を招いたあなたたちのために、民衆は武器をとって抗戦してくれるの? 楽しい夢だったわね。ガルテンツァウバーにどんな楽しい話をされたの? 甘い夢を語られたの? すべて侵略の罠だと、どうして気づかなかったの、愚か者!」
「うるさいっ!」
 激情に駆られた男の一人が、手にしていた剣をふり下ろした。風がうなりを上げ、たやすく血が地面に散った。
 崩れ落ちたコーネリアを見下ろしながら、男は荒い呼吸で呟いた。
 愕然とした表情で。
「グラウス・ブレンハイム……貴様は我々を騙したのか? 我々は、ガルテンツァウバーに謀られたのか……?」
 そんな男の呟きも、コーネリアの遠くなる意識には聞こえてこない。冷たい地面を舐めながら、内心で呟いた。
 滅んでしまえばいい。
 アイラシェールとカイルワーンの――自分の子どもたちの居場所がどこにもない、二人のささやかな幸せすら認めないこんな国なんて。
 滅んでしまえ、こんな国なんて――。


 一歩、また一歩とカイルワーンは道のりを踏みしめる。
 背負うアイラシェールの体の重みは、細身のカイルワーンにはこたえた。抜け道の出口へ、シャンビランの山荘へは徒歩で一時間。
 歩みが進まないカイルワーンには、その長さが永遠に感じられた。
 歩いては止まり、滴り落ちる汗をぬぐい、それでもまた進んでいくカイルワーンの唇から、微かな呟きが漏れる。
「陛下……オフェリア様……」
 自分に優しくしてくれた、親しい人の名だけを口にして、それでもカイルワーンはその人たちから離れるために進んでいく。
 誰かともう一度でも会えるのか。誰か一人でも、生き延びてくれるのか。
「父さん……コーネリア……」
 母同然に慕っていた人の死を知らず、けれどもその予感を感じながら、それでもカイルワーンは前に進んでいく。
 ぽたぽたと、汗と涙が顔から滴り落ちていく。

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