それでも朝日は昇る 8章4節

 帳を引くと、窓の外には夜陰が広がっていた。天は雲に覆われ、月も星も見えない。
 暗い夜だった。
 王が死去してから、もうすぐ一日。外で騎士団を押し止めてくれているマリーの疲労を考えても、情勢の微妙さを考えても、アイラシェールは自分に残されている時間の少なさを自覚せざるを得なかった。
 彼女は人生の――運命の選択をしなければならない。
 城に残り、近衛騎士団たちの独裁政治に加担するか。
 それともバルカロール侯爵と共に城を脱出し、隠遁するか。
 後者は容易ではないが、全く不可能でもないだろう。自分たちは完全に袋の鼠だが、城外には侯爵夫人リフランヌがいる。侯爵と音信不通になったことで、彼女がまだ何の手も打っていないとは考えられない。
 侯爵の申し出に、心が動かなかったとは言えない。その気持ちに、追いつめられている心が慰められたことは事実だ。だが、だからといって、安易にそれを選ぶことも、アイラシェールにはできない。
「カティス陛下……貴方はどうして、この混迷に際しても、名乗りを上げようとしてくださらないのですか」
 呟きがもれた。それはアイラシェールの、心からの言葉。
「どうして貴方は、私を倒すその時まで、立つことを考えてくださらなかったのですか。今の今まで市井におり、それでいいと思っておられたのならば――王位を望んでおられなかったのならば、どうしてイプシラントに突然現れたのですか」
 疑問に答えてくれる者はいない。それが判っていてなお、口にせずにはいられない問い。
 もし今ここにカティスがいてくれたら。そうアイラシェールは切実に思う。今ならばまだ間に合う。今ならば、まだカティスを王にできる。おそらくは彼が持っているであろうレヴェルと、フィリスたちが握った権――国璽があれば、強引に彼を王位継承者として奉る――祭り上げることも不可能ではない。対外的にはまだウェンロック王は生きているのだから。
 だがカティスは一向に見つからない。バルカロール侯爵に捜索を依頼したのが、新年のこと。もう八月になるというのに、音沙汰すら掴むことができない。それは極めて、不自然なことだった。
 確かにレーゲンスベルグは大きな街だ。探すのに手間取るのも無理はないし、そして名のある傭兵団は、国家や都市と長期の雇用契約を結ぶことも少なくない。彼が別の都市、もしくは外国に雇われていて不在であることも考えられる。実際カティスの即位以前の動静は、史書にも何ら記されていないに等しい。様々な逸話が語られるが、それが事実なのか伝説なのか、判別がつかない。実際、史書に記されていることすら真実だという保証はないのだから。
 だがそれだけではなく、と考えて、アイラシェールは立ちのぼる寒気に己を抱きしめた。
 レーゲンスベルグという街は恐い――否、正確に言えば、アイラシェールはおそらく今レーゲンスベルクにいるであろう、ある人物のことが恐い。そしてこの事態に、その人物の作為を感じてならない。
 レーゲンスベルグの賢者カイルワーン――彼女がこの世で最も愛しいと思う人の、名の由来となった人物。アルバ史上、最高の天才と賞されるその人は、恐ろしいほど明確な状況判断力の持ち主だった――そう、何もかもを見通すという千里眼を持っているかのように。
 賢者と英雄王が、いつ、どこで出会ったのか、史書は語らない。だが文献を漁れば、999年の大飢饉の際、賢者がレーゲンスベルグにいたことは確認できる。むしろ今レーゲンスベルグにいる可能性が高いのは、カティスではなく賢者なのだ。
 主従でありながら、親友とされる二人。ならば、すでに出会っているのだろうか。すでに賢者は、カティスが王子であることを――唯一の王位継承者であることを、知っているのだろうか。
 だとすれば、カティスに貴族たちの手が延びぬよう、誰にも取り込まれ、利用されないよう、守っているのは賢者カイルワーンその人なのではないだろうか。賢者ならばそれも可能かもしれない、とアイラシェールは思う。すでに都市の守護聖人の如く崇められ、莫大な信奉者を抱えていたとされる彼ならば。
 恐い。賢者が恐い。自分を――魔女を除くために、カティスに立つことを促した彼が。どんな人の心さえも――敵の心さえも見透かし、鮮やかな策を持って三国を平定してみせ、伝説では神の使い――天使とさえ表現される彼が。そんな彼ならば、もはや判っているのかもしれない。自分が『魔女』と呼ばれるようになるわけも、国民に憎まれて殺されることになるわけも。
 カティスを見つけられたとして、その時賢者はどうするだろう。自分と彼との間に立ちはだかるだろうか。そして言うだろうか。
 王権を汚した挙句に、王子までも己に取り込もうというのか、この下賤の者が――。
 逃げ出したい。心の奥底が叫んでいる。だが、その思いに重なるのは別の思い。
 ここで逃げ出したら、この国は、どうなる。
 このままでは、内戦が始まる。アルバ全土を巻き込む、泥沼の内戦が。
 過去に来てやっと、はっきりと自覚した。カティスが民を救ったのは、魔女の圧政からだけではない。彼はラディアンス派とフレンシャム派との間で繰り広げられるはずだった王位継承戦争から、犠牲になるはずだった多くの民を救ったのだ。
 もはやラディアンス派とフレンシャム派は、戦わずに、お互いを決定的に滅ぼさずにすませることはできない。勢力が完全に拮抗しているこの二派の戦いは、終結までにどれほどの時間を要するだろうか。
 それまでに、どれほどの民が犠牲になるだろうか。
 千か、万か――いや、それどころではない数の人間が、死ぬ。
 逃げ出したい。心の奥底が叫んでいる。だが、それでも。
「止めなきゃ……ならない」
 カティスが自分という魔女がいなければ、王として立たないというのならば。
 彼がイプシラントに至るまでの惨劇がなければ、王として立つことを考えないというのならば。
 カティスを王にすることで解決を図ることを、賢者が許さないというのならば。
 道は、一つしかない。
 歴史は、運命は、何一つ変わらないのかもしれない。胸の中でさざめく、その思いにアイラシェールはそっと触れた。
 どんなに足掻いても無駄なのかもしれない。自分は定められた運命を、ただなぞることしかできないのかもしれない。そう諦めて、悩むことも苦しむことも全て投げ出して、享楽に浸っていればそれでいいのかもしれない。
 だが。
 肩が重い、とアイラシェールは感じた。ずしり、と何かが肩にのしかかっている。現実にはそんなものはありはしないのに、確かに重みを感じるのだ。
 それは無辜の民の重み。命の重み。どんなに拒んでも、抗っても、現実に今それは自分の肩にのしかかっている。自分の肩に、乗っているのだ。
「逃げられない……」
 逃げて、自分一人だけ安閑と暮らすことは。
 死んでいく者を、苦しんでいく者を、判っていて見捨てることは。
 できない。どうしても、できない。
 歴史を変えれば、自分は消えてしまうのかもしれない。
 だが、それでも。
「ベリンダ、外のマリーから騎士団の誰かに伝えてもらって。フィリスと話がしたいと」
 一人でこもっていた寝室から出て、アイラシェールはベリンダに告げる。その言葉に、バルカロール侯爵は表情を険しくした。
「アイラシェール、どうするつもりだ」
「ひとまず侯爵は、お隠れになっていてください。私が必ず脱出の糸口を見つけます。貴方はここで死んではならない――貴方にはこの先、出会わなければならない人がいます」
 真摯な眼差しで告げるアイラシェールに、侯爵は漠然と察した。
 これが彼女の、別れの言葉なのだと。
「私の運命がどこに転がるにせよ、貴方は多分カティス様に出会われる。それは私にとって運命を変えるものなのかもしれませんし、運命を決定づけるものなのかもしれません。その出会いが、何を歴史にもたらすのか、私にも判りません。ですが、どうかその時、侯爵様はどうぞご自身の御心のままに道をお選びください。誰のためでもなく、私のためでもなく、どうか自分のため、自分の守りたいもの、守るべきもののため、己に与えられた選択肢をお使いになられることを、切にお願い申し上げます」
 それは不思議な言葉だった。意を呑み込めず、押し黙った侯爵は、ついに今まで呑み込んできた疑問を口に出した。
「アイラシェール……君は一体、何者だったのだ? 預言者だと言う者があった。魔女だと罵る者がいた。だが私には、何も判らなかった。どうか、私には聞かせてくれないか?」
「そのどちらも、間違いではありません。私は確かに未来を知る者、このまま定められた運命を進めば、魔女と呼ばれるようになる者。でもそれは私の一側面であり、真実の全てではありません」
 ただ静かに、悟りに似た表情を浮かべて、告げた。
「この世界に、真実神がおわすかは存じません。しかし『運命』は確実に存在します。そしてその『運命』は、人間に歴史の中で役割を果たすことを要求します。それは私にも、貴方様にもある。――そう、人生は、全てあらかじめ決まっているのです。ただそのことに、気づいていないだけで」
 そんな馬鹿な、と言いかけた侯爵を、アイラシェールの笑みが封じる。
「私はそのことが、不幸にも判ってしまった人間です。歴史に要求された己の役割が何であったのかを――己の運命の、人生の結末がどんなものであるかを。だからそれに抗いたかった。その結末を変えたかった」
 私は、と続ける声が、微かに涙で詰まった。
「私はこの国の歴史に必要なのかもしれません。国を惑わせ、傾けることで、怒りや憤りを持って国民の心を一つにし、その力でもって新しい王を玉座に押し上げるために。ですが、だとしたら私の人生の価値は『悪党』であることなのですか? 私は逆賊として討たれるために生まれてきたのですか? そんなことは、決して受け入れられない!」
 唖然とし、言葉もない侯爵の手を、アイラシェールは取る。自分よりもずっと大きな手は、微かな温もりを伝えてきた。
「ありがとうございます。共に行こうと仰ってくださったこと、本当に嬉しく思いました。けれども、私は行けません。ここから――私は己の運命と戦うことから、逃げることはできません。それには、私の存在の意味が、価値がかかっています。それを自ら放棄することは、否定することはできません。――たとえ、その結果、何一つ変えることができなくても。たとえ、それこそが運命を全うする行為なのだとしても」
 多分、とアイラシェールは小さく笑った。
「侯爵様と私が出会ったことも、私のことを知り、共に逃げようとまで仰ってくださったことも、多分何か意味があるのだと思います。それが侯爵様に背負わされた『役割』のためであったのだとしても、それが『私のため』ではなかったのだとしても、それでも私は貴方に巡り合えたこと、そのお気持ちをいただけたこと、本当によかったと思っています」
 さようなら、という声にならない言葉を、確かに侯爵は聞いた。何事かを言いかけた瞬間、与えられたかすめるような口づけに、もはや彼女の気持ちを翻させることができないことを悟った。
 道は分かたれ、自分と彼女が違う結末に歩き出さなければならないことを、侯爵は感覚的に理解した。
 もはや何も、言葉はなかった。
 やがてフィリスの訪れが告げられ、アイラシェールは彼と向かい合う。
 たった一日しか実際の時間は経過していないのに、自分たちの間には悠久の時が隔たったように感じられてならなかった。
 その不思議な違和感。
 フィリスは明らかなほどに憔悴していた。しかしその身繕いには一分の隙もなく、冷静を装える程度には落ち着きを取り戻しているのが判った。
「今ここに貴方をお呼びしたのは、貴方を責めるためではありません。その気持ちは無論ないではないのですが、そんなことに費やしていられるほど、私にも貴方にも残された時間はないと思います」
「……はい」
 不思議なほど神妙に、だがどこか不遜に、フィリスは答えた。
「陛下はもういません。このことは、いかに押し隠そうとも、誰の口を封じようとも、必ず漏れます。ルナ・シェーナ王妃を摂政としていかに体裁を取り繕うとも、国権を専横し続けられる時間には限りがあります。それは貴方たちにもよく判っていることでしょう。その上でなお、貴方たちはこれからどうするつもりでいるのですか?」
「以前もお話した通り、私は貴方以外に、アルバを救える者はいないと思っている。貴方が国の中枢に座り、貴方が国を治める以外に救われる道はない――それが私の確信です」
「それは私を女王にしたいということ?」
 問いかけに、フィリスは無言の肯定を示した。それを認めると、アイラシェールは笑った――その笑いには、明らかに嘲りが含まれていた。
「モリノーの娼館で拾われた私を、女王に? 貴方は本気でそんなことが可能だと思っているのですか?」
 アイラシェールの告白に、フィリスは瞬間たじろいだ。それを見越して――謀ってアイラシェールは、きっぱりと言い放った。
「アルバの国王にふさわしいのは、ただ一人だけ。ウェンロック陛下ですら恐れていたあの御方――真の王、と呼ばれるあの方だけ」
 死に際のその言葉で、アイラシェールは悟った。ウェンロック王は、レオニダス王の用意した王位継承者――カティス王の存在を知っている、と。
 ウェンロック王が告げた『真の王』という言葉と、その存在への憎悪。そして王にしか持ち出せぬレヴェルの不在。ここから結び出される推論は一つ。
 おそらく糸を操っているのは、亡きレオニダス先王だ。
 もしかしたらウェンロック王は、それが自分の弟であること、その人物がカティス・ロクサーヌということまでは知らなかったかもしれない。知ろうともしなかったのかもしれない。だが間違いなく彼は、自分の後に王として立つ者がいることを、知っていたのだ。
 そしてそれをあんな形で阻まずにはいられないほど、憎んでいた――。
 その内心を、所以を、アイラシェールは察しようにも察しきれない。
「それは侯妃が以前仰っておられた英雄王、その方ですか」
「……覚えておられたのですね、私の話を。では問います。あの時の私の言葉を覚えているのならば、今の状況と照らし合わせてみてどうですか? 貴方は何を感じますか?」
 あの赤い夕焼けの光。それが全てを暗示していたのだろうか。
 血まみれの自分と、フィリス。
「あの時私は言いましたね。貴方は私の騎士になれば、大罪人として堕ちるところまで堕ちていくと。それが貴方の運命だと。そして貴方は、自分の手でその運命を斬ってみせると――その結果が、これです」
 厳しく指弾するアイラシェールに、フィリスの顔色は変わらない――変わらず、悪い。
「運命は変えようとすればするほど、その意思さえ呑み込んで遂行されてきました。そして運命は、変えたいという私や貴方の思いさえも、その一部として成り立っているのです。そのことを、私はこの一年で痛いほどに理解しました。それが判っていてもなお、貴方は足掻こうと思いますか? もう無残な結末しかないのだと判っていても?」
「それさえも、私の選んだことです」
 語調も強く言い放ち、フィリスはアイラシェールを睨んだ。
「確かに私は運命に対して無力だったかもしれません。確かに私の行ったことは罪でしょう。しかし、あの時ほかにどんな手段を用いれば、陛下をお止めできたでしょう。ノアゼットに併合されれば、アルバ国民にどんな苦難が降りかかったか、お判りのはずだ」
「フィリス、私が言いたいのはそういうことではないのです」
「私こそ、お話ししたでしょう。この国のためならば、どんな汚辱も引き受けてみせると。そのためにならどんな汚名を着ても構わないと――侯妃、私は私の個人の名誉などどうでもいいのです。それで民が、国が救われるというのならば、大罪人と呼ばれても、最低の騎士と呼ばれても、何ら心の痛むことはありません」
 駄目だ。話が通じない。この瞬間、アイラシェールは痛切に思った。
 フィリスは、根本的に自分の言うことを取り違えている――否、もしかしたら、それを彼は認めず、意図的に問題をすりかえているのかもしれない。
 その根幹。
「フィリス、私には判りません。どうして貴方は、そこまで自分の行いが正しいのだと、自信が持てるのですか? 胸が張れるのですか?」
 問いかけに、フィリスは疑問符を浮かべた。アイラシェールが何を行っているのか判らない、といった風に。その顔を見て、アイラシェールは暗澹たる思いにとらわれた。
 分かり合えない、と思った。
「貴方の正義が正しいという保証が、どこにあるのですか?」
 フィリスはここまで来ても、自分が正しいと思っている。大逆を犯しても、大罪人と罵られても、それでも自分が正義を貫いていると、自分が民や国のために最良のことを行っていると信じている。そしてそれを、かけらも疑わない。
 自分の行いが本当に誰にとっても正しいのか、それを疑うという発想が、彼にはそもそもないのだ。
「己を信じることもできずに、どうやって生きていけというのですか? それは人の顔色ばかりをうかがって、流され迎合し、他人の言いなりになって生きていくことではないですか」
 彼は決して気づかない。己の行いが正しいと絶対の自信があるからこそ、その誇りがあるからこそ、己の人生を全て自分で選び取ってきたのだと信じて疑わない。
 己が己の人生に対して自由であると、信じて疑わない。
 それは、アイラシェールにとっては無知だ。
 だが、もしかしたらその方が、人間としては幸せなのかもしれない。
「フィリス、貴方がそこまで己を信じ、己の中で夢見た未来を信じるのならばそれもいいでしょう。信じるが故に、運命が怖くないというのならば、それも。貴方は貴方の人生を、思った通りに選択した気になる権利がある。迎えた結末さえ、それで正しいと呑み込むことができるのならば」
「侯妃……」
「私は玉座にはつけません。民選の君主として立つ気もありません。私が陛下と呼び、跪くのは、英雄王その御方以外はないのですから。もし陛下が玉座にお着きになられるためならば、私は何でもする――その間、この城と国を預かることもいたしましょう。それが私の『正義』です。それは貴方の正義と相いれないかもしれませんが、貴方が己を譲れないように、私もこれを譲ることはできません。そんな私でも必要だというのならば、私は城に残りましょう」
 この時アイラシェールは、ひどく意地悪く笑った。それは挑発するような、弱みにつけこむような、そんな悪魔の笑み。
「そんな主張は呑めないというのならば、私はここを去ります。でも貴方たちが、陛下の死を知る私を容易に逃がしてくれるとは思えないから――斬られるのでしょうね。それでも私はちっとも構わない。そうやって私を殺して、貴方が君主として立ちなさい。私を主に据えるより、エスカペードを持つ貴方が立った方が、よっぽど話が早くてよ」
 そうは思わない? と問うたアイラシェールは、噛みしめたフィリスの唇がわなないているのを見て取った。
「私には……貴方は斬れない。判っていて、仰っているでしょう」
「それならば、私の要求を呑みなさい、フィリス。私を君主として据えようとするのならば、私の命に従いなさい」
 屹然として告げるアイラシェールに、フィリスは反射的に跪いた。向けられた声音は凛として険しく、人を圧する強さがあった。
 耳にした瞬間、臣下の礼を取らずにはいられなかった。
「バルカロール侯爵を城外に出しなさい。今侯爵家と事を構えるのは危険です」
「侯妃、それは――」
「バルカロール侯爵家が、ラディアンス派かフレンシャム派に走られた時、それに対抗できると思っているの? もし誼の深いジェルカノディール公爵が行動を共にしたら? それだけで私たちには勝ち目がありません」
 アイラシェールの言葉に、フィリスは言葉に詰まった。元の第三勢力、バルカロール侯爵・ジェルカノディール公爵・ドランブル侯爵の領地を足すと、それだけでアルバの三分の一。それがラディアンス派かフレンシャム派に流れられたら、それだけで勝敗は決してしまう。
「だからこそ、外に出すわけには」
「人質にしようとしても、無駄でしょう。私はリフランヌ様をよく存じあげております。あの方は脅しに諾々と従っておられる方ではありません。今は一戦構えるよりは、味方として取り込んでおいた方が得策でしょう。そしてそのためには、行動の制限を設けることはできない――侯爵にはここにおられるよりも、侯爵領を固めてもらわなくては。バルカロール侯領はラディアンス伯領と接している。ラディアンス伯が立たれた時、王領に駐留している国軍では対応が間に合わない。その時の楯が、北に必要です」
 矢継ぎ早に言われ、フィリスは返す言葉がなかった。アイラシェールの言葉はもっともで、反論の余地が全くない。
「少しは妥協を覚えなさい、フィリス」
「……判りました」
 フィリスは苦々しく、呻くように了承して辞去した。
 かくしてバルカロール侯爵はアルベルティーヌ城から脱出した。見送る人影は、ただの二つ。
「本当に、行かなくてよかったの?」
 問いかけたアイラシェールに、ベリンダは憮然とした表情で答えた。
「馬鹿」
 バルカロール侯爵と共にモリノーに戻ることを勧められたベリンダは、恐ろしいほどに憤慨してそれを拒んだ。
『あの狼の群れの中に、アイラ一人を置き去りにできるものですか』
『ベリンダ……』
 苦笑するアイラシェールに、ベリンダは表情を引きしめて、ぽつりと言った。
『アイラのためだけではなく、多分ここにはあたしが必要なのだと思う。――まあ、騎士団の連中があたしの言うことをまともに受け取るかは、大きな疑問だけどね』
『それは……?』
『あいつらは民のため、民のためって口を開けばそう言うけど、本当に民が何を思ってるのか、判っているのかなって、そう思うんだ』
 ベリンダの言葉は、ある示唆を含んでいた。だがその言葉の真意は、アイラシェールも真に知ることはなく。
「本当に、これでよかったんだね」
 走り去っていく馬車を見送りながら、今度は逆にベリンダが問いかけた。
「実のところ判らない。本当はどうすることがよかったのか。でもきっと、その答えは最後まで判らないのだと思う」
 本当に、何も判らない。
 正しいことも、良いことも、何一つ――。

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