彼方から届く一筋の光 03

 私を拾った行商の一家は、善良ではあったが正しく商売人でもあった。アルベルティーヌまで乗せていってほしいと願い出た私は、運賃とそれまでの日数の食費を請求され、そこで自分が一文なしであることに気づく。
 というより、私は今までの人生で一度も金銭というものを持ったことがなかった。城から出る機会は少なく、視察などでも文官や護衛が必ず随行している。金銭が必要なことがあっても、その者たちが支払っていたし、ガルテンツァウバーでは、後宮から出してもらえたことなど一度もなかった。
 思えば自分は、今まで一度たりとも独りになったことがないのだ。自分の身はよきにつき悪きにつけ、他人の思惑の中にあった。己の人生や未来だけでなく、日常の些細なことの全てまでが自分の自由にならず、また他人任せだった。
 だが――混乱と驚愕に揺れる心をまずは半分にして、私は残り半分で努めて冷静に考える。
 時を戻ってしまった。そのことは信じがたいし、まだ悪い夢ではないかと思う。だがそれ以前の問題――時が戻っていようがいまいが、私はまず「自分をどうするのか」を考えなければならないのだ。
 この近くに、あの女たちはいない。それは確定的だ。だとしたら私をオフェリア・ロクサーヌとして庇護する者も、利用する者もいない。
 私は今、真に独りなのだ。よくも悪くも、独り。
 ならば私は、まずどうしたらいい? 何をしなければならない?
「それにしてもあんた、凄いものを着てるよねえ。その指輪もガラス玉じゃなくて本物なんだろう? あんたもしかして、貴族の妾か何かかい?」
 言われて、私は自らの指に目を落とした。左薬指には豪奢な指輪。あの偽りの結婚式で皇太子――否、皇帝から与えられ、はめられたものだ。
 ぞわり、と背筋を悪寒が走った。気持ちの悪い虫が背中をはい回るような感覚、とめどない嫌悪の理由は、あまりにも明白だ。
 指輪をつまんだ右手すら、小刻みに震えた。二年間指に食い込み続けていた枷は、私を容易には解放してくれない。長い格闘とひどい痛みを伴ってようやく外れたそれを、私は差し出す。
「これを買い取ってください」
「え?」
「ガルテンツァウバー産のダイヤです。その代金の中から、アルベルティーヌまで必要なお金も払います」
「あんた……こんなもの売っていいのかい」
「あと商品の中に、洋服はありませんか? いいものでなくていいので、あるだけ見せてください」
 私は何においてもまず、我が身をどうにかしなくてはならないのだ。そのために必要なものは、まず金銭。それが判らぬほど私は世間知らずではないし、こんなドレスを着て歩けると思うほど馬鹿でもないつもりだ。
 比較的動きやすそうな女物を一揃え手に入れて着替え、脱いだドレスや靴、全ての宝飾品を別に買った鞄にしまう。この程度の商人では、私の身につけているもの全てを換金するのは無理だ。アルベルティーヌについた後で換金するとして――そう考えて、私は疲労を感じて背もたれ代わりの木箱にもたれかかった。
 私は多分――いや間違いなく、大陸統一暦1215年7月にいるのだろう。どれほど認めたくなくとも、理性はその結論を下す。なぜならこの一家が、今が1215年7月であるように小芝居を打って私を騙して得することなど、何もありはしないからだ。
 そして仮にこの一家が、あの女たちの一味だったとしても、それは同じことだ。
 今私がアルバのどの辺にいるのかは判らない。だがこの一家が私を騙そうとしない限りは、いずれこの馬車はアルベルティーヌに着くだろう。だがそこから、私はどうしたらいいのだろう。
 グラウスがアルベルティーヌにやってきたのが五月くらいだったから、あの陰謀はすでに走り出しているのだろうか。イントリーグ党、センティフォリア・ノアゼットの独立活動家の三者を結託させるという難行を、一朝一夕に遂げられたはずはない。おそらくはかなりの時間をかけ、周到に準備は進められていたはずだ。
 もしかしたらもう全ては、始まっているのかもしれない。
 けれども今ならば、まだ間に合う。あの三者に楔を打つ方法は、まだいくらでもあるはずだ。そうして陰謀を――動乱を止める手だては、何かしら、きっと。
 そう考えて、己の中の己が問う。
 なぜ、止めたい、と。
 答えは簡単だった。国を、民を救いたいからじゃない。かつての自分の居場所を取り戻したいからじゃない。
 本当のところ、答えは一つしかないのだ。
 アイラ、カイル。
 ぽつりと心の中に落ちた答えは、何よりも重くて、私は微かに震える己をぎゅっと抱きしめる。
 アイラとカイルの二人が、シャンビランの後どうなったのか。二人に何があったのか。結局は判らずじまいになってしまった。あの女たちが私に何を見せたかったのか、何を知らせようとしたのかも、今となってはもう。
 ただ、一つだけ判ることはある。女の弁を信じれば、二人は城を脱出し、シャンビランに辿り着き、その後も生きたということになる。そうして女が『恩』と語った何かをなした後に、死んだ。だとしたらそれは、自分がガルテンツァウバーで何の甲斐もなく生き長らえていたあの二年の間のことだ。
 何かできたのかもしれない。そう思うのは幻想かもしれない。傀儡であり、虜囚である自分にできたことなど、何一つなかったのかもしれない。けれどもグラウスの虚言に惑わされず、二人の無事を信じて戦っていれば。なりふり構わず皇帝をも呑み込んでしまえば。
 もしかしたら私は、二人を助けられたのかもしれない。
 それは甘い夢想かもしれないが、ゼロでない可能性は責めとなる。もしこんなことにならなかったら私は、それを一生悔やんで生きていくことになっただろう。
 だけど今自分は、過去にいる。これから起こる全てを知りながら、過去にいるのだ。
 助けられるのかもしれない。
 動乱を止められなくていい。ただこれから起こることを、二人に伝えられれば。そしてアイラの存在が明るみに出る前に、二人を城から逃がしてやれば、それでいい。それだけでいいのだ。
 では、そのためには――具体的に、どうする?
 かたかたと荷馬車は揺れる。問いに対するもやもやとした答えはそれ以上はっきりとした形にはならず、振動に身を任せて、私は目を閉じた。
 何もかもが、アルベルティーヌに着かなければ始まらない。ならばそれまでは、一時眠っても構わないだろう。この一時だけは。
 そうして二日。もうすぐアルベルティーヌに着くと言われて、私は御者台へと移った。やがて道の向こうから姿を現した白く鋭い尖塔に、私は胸が詰まった。
 白亜のアルベルティーヌ城、そしてそれを中心に円を描く城砦都市アルベルティーヌ。
 紛れもない私の故郷。そして故無い迷信と狂信から、私の全てを叩き壊した街。
 城門で、行商の一家とは別れた。全財産の入った鞄一つを手に、私は街の中心へと歩みを進める。
 門を越えた私を待っていたのは、浮いて抜けるような甲高い歓声だった。
 祝祭の熱が、風に乗って漂っているようだった。
 私の誕生祝いは、父のそれとは違い、そんなに盛大なものではない。それでもペルゴレーズ通りには露店が建ち並び、家々は白い夏薔薇と青いクレマチスで涼しげに飾られている。
 ここは過去だ。この美しく華やかな光景に、私は染み通るようにそれを実感した。
 ここは、動乱と戦乱に焦がされ煤けた、1219年のアルベルティーヌではない。
 おそらく、ここが頂点だったのだ。過去を振り返り、そう思う。
 ロクサーヌ朝の崩壊は、グラウスとガルテンツァウバーのせいだけではないことは、自分にも判っている。ロクサーヌ朝の財政は破綻していた。歳入と釣り合わぬ浪費によって作り出された繁栄は、しょせんはうたかた。しわ寄せは、弱い者たちの生活を押しつぶしていたのだろう。二年後に国民の怒りを買ったのは、魔女の呪いのためだけでは決してない。
 ここはその享楽の頂点、あとは坂を転げていくだけ。それを知る者は誰もいない――未来を知るこの私以外に。
 だが、私が今ここにいて、それに何ができるだろう。その問いに、私は答えを持たない。
 通りに面した店を一通り見て歩き、宝石商を見つけて入った。置いてある品を見れば、店の格は判る。真珠の耳飾りを当座の生活費のために引き取りに出して、そして。
 支払いの段階で、店主は私の顔をまじまじと見つめた。その無礼を私が咎めようとした時、店主は不意に納得したように言った。
「いや、失礼いたしました。お嬢様とは初めてお目にかかるはずなのに、どこかでお見かけしたような気がしてならなかったのですか」
「なんでしょう?」
「ようやく判りました。オフェリア姫様の絵姿ですね。いや、びっくりするほどよく似ておられる」
 私はその瞬間、必死に動揺を抑え込んだ。にっこり笑って応えたが、その笑顔が引きつっていなかったか実のところ自信がない。
「ええ、よく言われます。光栄ですけど、きっと姫様の方が若くてお綺麗でいらっしゃいますよ」
 店主に不審に思われたかどうかは判らない。だが代価を受け取り、店から出て、高鳴る心臓を押さえた。
 面識のある人たちだけではなく、一般市民にまで、オフェリアに似ていると言われる。それほど私の顔は市民に浸透しているのか。店主は絵姿といったが、それは一体どんなものなのか――答えは馬鹿馬鹿しいほどすぐ判った。
 それは宝石商のすぐ近く、幾つかの露店で売られていた。陶板に彩色された肖像は様々な種類があり、父王や自分だけでなく、エリーナや病んで表に出ることのなくなった母后のものもあった。そしてその肖像は、実物を知る自分ですらも驚くほどよく描けている。
 それが祭のみやげ物として、市民や旅行者に売れていく光景を目にして、私は軽い目眩を感じた。
 下手するとこれは、アルベルティーヌ市民は全て、私の顔を知っているのかもしれない。
 まさか王女が、こんな市井にいるとは思うまい。他人の空似で押し通すことは、不可能ではないだろう。だが――先行きのあまりの暗さに、私は小さくため息をついた。
 私はどこに行くのだろう。これからどうなっていくのだろう。それを私は、誰よりも知りたかった。

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