1217年のあの時――セミプレナ運河のほとりで、私は死を選んだ。だが自分に向けた刃はグラウスに阻まれ、私は虜囚となった。
ガルテンツァウバーへの海路、私は何度も自殺を試み、全て未然に防がれた。一筋の傷さえもつけぬよう配慮された結果として、最後は体の自由をほぼ奪われる形になった。それを虜囚と呼ばずに、他に何と呼ぼう
そこで待っていたのは、皇太子ではなく皇帝による凌辱だった。
皇帝は私の抵抗も悲鳴も意に介さなかった。むしろそんな私を力でねじ伏せ、征服することを愉しんだ。
アルバがガルテンツァウバーによって滅んだように、敗者である私もここで勝者である皇帝に征服されるのだと。そう言って皇帝は、泣き叫ぶ私をいいように弄んだ。悲鳴も罵声も呪詛も哀願も、何もかもを勝者の愉悦の中に呑み込んで、幾日も責め苛んだ。
傷つき疲れ果て、抵抗する気力の全てを失った頃には、婚礼の準備が整っていた。豪奢な花嫁衣装を着せられ、皇太子との式に臨まされて初めて、あの時のグラウスの言葉の意味を知った。
ガルテンツァウバーの次代皇帝になるはずの男は、まともではなかった。
なぜなら、己の結婚式に当人が、出てこなかったのだから。
まるでそこに皇太子がいるかのように結婚式は行われ、代理人が宣誓を行い、結婚は神の名において成立したとされた。その場の厳かで白けきった雰囲気に、私はこの国の宮廷の歪みをまざまざと見せつけられた。
そして私はやがて、皇太子がこの十数年、まったく自室から出てこないままであることを知った。その原因が何なのかは私には判らない。心の病なのか、何らかの障害を抱えているのか、それが自分の意思なのか他人の思惑なのかも、何一つ。そしてそれを知ったところで、どうなることでもなかったので、敢えて追求もしなかった。
『お判りになったでしょう。あの皇太子では、この国を治めることはできません』
結婚式から数日後、私を訪ねてきたグラウスは、そこでようやく自らの真意を語った。
『皇帝には側妃との間に、まだ皇子が幾人もいるはず。なぜ彼らを擁立しようとはしないのです』
『それは端的に、皇太子が皇后の唯一の御子だからです。皇后はノルマリスの王女だ。これでお判りでしょう?』
確かにその一言で、私は事情が推測できた。ノルマリスはガルテンツァウバーの隣にある大国で、双方の建国以来衝突を繰り返してきた。現在は同盟を結んでいるが、それは皇帝とノルマリス王女である皇后との政略結婚により成立しているものだ。
ここで皇后の子である皇太子を廃太子にしたら、同盟関係に亀裂が入る。そして最悪、全面戦争への引き金を引きかねない。
そして記憶違いでなければ。
『ノルマリスの王位継承者は、確定していないのではなかった?』
『王太子が先日死去しましたからね。継承権順位から考えれば、皇太子でも王位を窺うことは不可能ではありません。そこまでしないまでも、これからノルマリスが王位継承で揺れるとすれば、ガルテンツァウバーがノルマリスの王位継承権を持つ者を手放すことなど考えられない。そういうことです』
ここでもう私は、ガルテンツァウバーの企みが全て理解できた。どうして私が、皇帝の後宮に納められるのではなく、皇太子妃の位を与えられたのか。本人が妻を娶れる状態でもないのに、結婚を強行――偽装したのか。その上でなぜ、皇帝が私を執拗に求めるのか。その理由が、全て。
必要なのは、私ではない。私の子どもだ。
アルバとガルテンツァウバーとノルマリスの王位継承権を持つ、私と皇太子との間の子ども。皇帝とガルテンツァウバーが必要としているのは、その子どもだ。
私の産む子どもは、アルバの国民感情を考えれば、庶子ではなく嫡子でなくてはならない。だが皇帝はノルマリス王女である皇后を廃し、私を新たに皇后にすることはできない。だから私は、皇太子妃にされた。だが皇太子には、私との間に子を生す意志がないし、もしかしたらその能力もないのかもしれない。
だから皇帝が、私を犯す。それはアルバ王女を征服し従属させるという、皇帝自身の欲望もあるのかもしれないが、それは一番の目的ではない。私は子を産む道具だったのだ。私自身が必要だったのではない。アルバ王位継承権を持つ子どもが産める女であれば、それでよかったのだ。
そうして私の産んだ子を皇孫として、皇太子を飛ばして次代の皇帝に据える。そういう計画だったのだ。
『私は何も弁解はいたしません。ですが私はあの日、貴女に申し上げたでしょう。――貴女にガルテンツァウバーを治めてもらわなければ困る、と。その言葉は偽りではありません』
『それは……』
『皇帝陛下は、先に申し上げた理由で統治者として不適格な皇子を皇太子としていますが、では陛下に万一のことがあった時どうすべきか、その時誰が国権を預かるのかという問題が生じます。それを楯に、他の皇子たちの陣営も揺さぶりをかけてきています――皇子たちの母親の背後には、有力貴族が控えていますからね。ノルマリスの王位など諦めろ、という声は少なからず存在します。決してガルテンツァウバーも一枚岩ではありません。今陛下に何かがあれば、帝位を巡って内戦が勃発するのは必至です』
『でしょうね』
『ここまでお話しすれば、私の言いたいことはお判りになるはずだ』
『だから私に、皇太子を傀儡にして実権を握れと? 皇帝との間に子を生して、ゆくゆくは幼い皇帝の摂政として立てと? あなたは本気で、私にそんなことを言うの!』
激して叫んだ私に、グラウスは苦渋をたたえて叫び返した。
『私はこの国が焼けるところを見たくなどない!』
それはなんて、身勝手な言い分だろう。
『私はガルテンツァウバーの国民であり、軍人だ。私にはこの国を守る責務がある。そしてこの方法でしか、内戦を回避する方法が見つからなかった』
グラウスは大まじめに言ってるのだろう。そして自分が誠実だと思っているのだろう。
だが私は、ふざけるなと思う。
『この国を助けてください、姫』
何を寝ぼけたことを、この男は言っているのだろう。そう心から思う。
それならば焼かれた私の国はどうなるのだ。
惨たらしく殺された、父や、母や、妹たちはどうなるというのだ。
どうして他人の国を救うために、私は大切なものを何もかも奪われなければならなかったというのだ。
どうして他人の国を救うために、私は目に見えぬ鎖につながれて、来る日も来る日も辱めを受け続けなければならないのだ。
私の気持ちは、どうでもいいのか。そうやって踏みにじられた私の心や体がずたずたになってもお構いなしか。そんな人間がどうして国を治められると? そんなことを私にした国を私が守ると、どうしてそんな寝ぼけたことをあの男は考えられるというのだろう。
それから二年間、私は一体何度皇帝の夜伽を強いられたことだろう。抵抗すれば、さらなる責めが待っているだけだ。ならば抵抗するだけ無駄だった。従順な奴隷となった私に皇帝は満足し、宮廷人たちはそんな私を軽蔑した。自分の意志も何もない脱け殻、足を開くしか脳のないお人形だと。
いっそ復讐に走った方が楽だったのかもしれない。憎しみをもって心を律し、皇帝をたぶらかして帝国の実権を握った方が。そうしてガルテンツァウバーを滅ぼすことに一生を費やした方が、いっそ楽だったのかもしれない。
けれども、私にはもう何もかもが面倒だった。そうして己をすり減らして戦って、それが何を生むだろう。そうして多くの人たちを傷つけ、殺して、それが何が得られるのか。何が取り戻せるのか。
それでアイラシェールとカイルワーンが、浮かばれるというのか。
ガルテンツァウバーにとって唯一の誤算は、私が妊娠しなかったことだろう。私の子を――それもできることならば皇子を正当な王位継承者として戴き、そうしてアルバへ侵攻する予定だったのに、私は一向に子を身ごもる気配がない。1219年のアルバ侵攻はかねてからの計画ではなく、業を煮やして踏み切った結果だったのだ。
私の心は凍りついていた。皇帝に凌辱され、アイラとカイルの惨たらしい死を聞かされたあの日から。
でもそれは、そうしなければ生きていけなかったからだ。これ以上傷つかないためには、何も感じずにいるしかなかった。心を閉ざしてしまわなければ、生きていけなかったのだ。
けれども、と思う。どうして私は、それほどまでの思いをしてまでも、生き続けていたのだろう。
どうして私は、死を選ばなかったのだろう。
どうして、私は、死ななかったんだろう――。
「大丈夫だ」
不意に声が聞こえた。そうして誰かの手が額に触れる。それはうっとりするほどに冷たく、私は自分の中に暗く凝った何かが、溶けていくのを感じた。
「悪い夢はもう終わった。だからゆっくり眠れ」
その声の主は判らない。だが私は小さく頷いて、また眠りに落ちた。
体が熱くて、ひどく痛んだ。眠ることさえ本当は苦しかった。けれども額から伝わってくる心地よさに、私はその言葉がためらいなく信じられた。
そしてそれから目覚めるまでは、変わらず痛くて苦しかったけれども、悪夢を見ることだけはなかった。