彼方から届く一筋の光 13

 当主会議でレインが投じた一石は、平穏な湖面に幾重も重なり合う波紋を落とした。
 各家の当主たちは、レインの元を頻繁に訪れるようになった。そしてそれは、彼の仕事を手伝う私とも顔を合わせるようになることを意味する。
 あの会議以来、彼らの態度は一変した。気さくに声をかけてくれたり逆に恭しく接したりと、人それぞれではあったが、それらは「一目置く」という言葉でくくることができた。それは彼らが、私をレインの情婦ではなく、公私を問わない伴侶として認めたということなのだろうか。困惑し、否定しようとした私にコモンが言ったことは。
「レインがまだあなたのことを落とせていないことは、誰の目から見ても明らかですって」
 だから私たちもからかうし、隙あらばと狙ってみたりするんですって。
 そう笑う彼に、私は返答できなかった。こう言われては、もはや何をどう否定していいのか、私自身も判らなくなってくる。
 薔薇園の手入れは、私がレインの秘書をするようになってからも、変わらず続けている。この日私はシェイラと二人で芽接ぎの作業をしていた。
「この家ではささやかですが、育種もしているんですよ。二百年の間に、色々面白い品種も生まれていて、他国ではそれなりに評価を受けてもいます。――無論、アルバで生まれたという素性は隠していますけどね。なにせこの庭から生まれる薔薇は、大概赤薔薇ですから」
「なぜ、そこまで赤薔薇にこだわるの?」
 それは率直にして、ある意味危険な質問だったかもしれない。だが勇気を出して問うた私に、シェイラは思いがけない答えを返してきた。
「黒薔薇を作るためです」
 一瞬意味が判らなかった私に、シェイラは続ける。
「お姉様もご存知のことと思いますが、今この世界に、真に黒い薔薇は存在しません」
「ええ」
 世間に黒薔薇として流通しているものは、実のところ赤黒色だ。どれほど黒いといわれようと、その底には深紅を忍ばせている。
「アルバは魔女を恐れるあまり、赤い薔薇を国内から駆逐しましたが、その結果として黒薔薇――賢者の薔薇までも駆逐してしまいました。まるで歴史と同じように」
 シェイラの皮肉は、ロクサーヌ朝の闇に食い込む言葉だ。やはり彼女は――この一族はただ者ではないと、私は警戒を深くする。
 アルバ国民の大部分は、自分たちが信じているアルバ史――英雄王と賢者の物語に、隠蔽や操作があるであろうことに、気づいていない。気づく機会を与えられていない。
 賢者が神格化されることによって、かえって正しい歴史から葬られた存在であることも、また。
「黒薔薇は、青薔薇と同じく決して実現しないものかもしれません。しかしより漆黒に近い黒薔薇を生み出すのは、やはり深紅の薔薇であると私たちは考えています。だから、ここで赤薔薇を育て守ることは、賢者への感謝の気持ちであるとも伝えられています。だって賢者の薔薇は、魔女の薔薇の向こうにあるのですから」
「その意図をもって、この庭を造ったのが、二百年前の初代」
「ええ」
「その二百年も前の方が、今レインに何をさせようとしているの?」
 それは危険すぎる賭だった。凍りつくシェイラに、私は慎重に問いを重ねた。
「レインは最後の禁書の守り手として、初代との約束を果たすために行動している、と言ったわ。それは初代が、二百年後の今、何らかの行動をせよと子孫であるレインに命じているということでしょう。それは一体、何なの。そして」
 そして何より。
「なぜ、今なの?」
 シェイラは、今まで見たこともないほど緊迫した表情をしていた。わずかにうつむき、しばらく考え込み、そして大きなため息をついた。
「兄様も姉様もずるい」
「え?」
「兄様はなんでそこまで言っておきながら、その先を自分で言わないし、お姉様はなんでそれを兄様じゃなく、私に聞くのかな」
 シェイラの非難に、私は謝罪の言葉さえ口にできない。
「兄様はそれを、一体どういう状況でお姉様に言ったんですか? その言葉だけだったら、ひどい生殺しの状況の気がするんですけど」
「ええと……当主会議の場で、私と皆様の前で」
 私の返答に、シェイラは前にもまして大きなため息をついた。
「どうしてあの男は、ああも煮え切らないんだ。遠回りするのにもほどがある!」
「あの……」
「お姉様も、それを私に聞く勇気があるなら、兄様に直で聞いた方がいいんです。お姉様が不審に思うことを想定――意図した上で、兄様はお姉様の前でその話をしたんですから。仄めかして生殺しにすることが目的だと、お姉様は思います?」
「……ごめんなさい」
「まああの兄に、切り出しづらいのは判りますけどね」
 最後のため息を落として、シェイラは私に向いた。その青い目は、真剣そのものだった。
「そこまで兄様が話したのなら、私もばっさりとお話しします。禁書は魔法の道具です。二百年前、初代がこの一族にもたらし、以降一族を守り導いてきたものだといわれています」
 確かにシェイラの返答はばっさりだった。あまりにもばっさりすぎて、私の思考が一瞬停止したほどだ。
 魔法の道具。その言葉を「そんな馬鹿な」と切り捨てたり、一笑に付すことはできない。なぜなら私は、この世に魔法としか言いようのないものがあることを知っているのだから。
 時の鏡。私を四年前から、この1215年に連れてきたもの。その力を、「魔法」以外に何と呼べばいいのだろうか。
「現在の一族の繁栄は、先人の努力と禁書の力で築かれたと言われています。だから禁書は一族にとって最も大切な宝であり、それを守ることが総領の最も重要な責務です。だから総領を私たちは『禁書の守り手』とも呼びますし、総領が自らをその呼称した時は、禁書に関わるお役目を果たしている最中として、一族の者は絶対服従します。それがどれほど不審でも、不服であっても、従います。なぜならば禁書のことは、守り手にしか判らないからです」
「判らない、とは」
「言葉通りの意味です。禁書の実物に触れることのできるのは、禁書の守り手ただ一人。禁書の力を行使できるのもです。禁書の正体が何なのか、それが一族にどのように勝機を与えてきたのかは、当代では兄様以外誰も知らないことになっています。……ただ」
 少し言いよどんで、シェイラは庭のあの碑を見た。何かを示唆するように。
「初代から言い伝えられていることがあります。禁書は、ある願いを叶えるために作られたものである、と。だから、禁書の恩恵に浴する者は、その願いを叶えるために尽力するように、と。その約束をもって、初代は禁書を一族にもたらしたと、そう伝えられています」
「……レインはそれを、約束の時が来た、と言っていたわ」
「総領であるお兄様が言うのならば、今がそうなのでしょう。ただそれがなぜ今なのかは、私には答えられません」
 もし私に関わるレインの謎の行動が、彼の言う『初代との約束』に基づくものだとすれば、全ての黒幕はレイン本人ではなく、二百年前の初代ということになる。だが魔法の道具さえもたらすことのできるほどの人物とは、一体何者なのか。その人物は、二百年もたった今、子孫に何をさせようとしているのか。
 もしかして、という思いが頭をかすめる。それは突拍子もないが、信憑性がなくもない推論。
 まさかこの一族の初代は、賢者カイルワーンなのではないか。
 賢者が英雄王と袂を分かって以降、どこに行ったのか。どこに消えたのか。その謎は伝説となって、アルバ各地に残っている。多くの土地に奇跡を行う聖人が現れ、それが実は賢者だったと結ぶ伝説は数多い。だがそのほとんどが、歴史学者からは史実としての信憑性はないとされている。
 その歴史学者たちが最も可能性が高いものとして上げるのが、レーゲンスベルグへの帰還だ。これについて多くの学者が現地で調査を行ったが、その痕跡を見つけることはできず、施政人会議もこれを否定している。だがそれも、レーゲンスベルグが一致して賢者を匿っていたのならば、当然の結果だろう。賢者が英雄王との間に、何らかの諍いを起こして放逐されたというのならば、彼がその身分や素性を隠してその後を生きたと考えるのは、すこぶる妥当だ。
 もし彼がこの一族の始祖だというのなら、この庭の存在も意図も納得できる。そして魔法の道具だという禁書をもたらしたということも。彼が『天使』と呼ばれるのは、それだけの不可思議を身にまとうものであったからではないのか――それでも一人の人間だったと、ヴァルトは言っていたけれども、その上でも魔法をまとうことは可能であることを、私は知っている。
 なんといっても、私が今現在、預言者のようなものなのだから。
 先日、オフィシナリスとブールソールの派兵選択において、オフィシナリスを強く押したのは、レインがそちらを望んだからだけではない。この衝突が、オフィシナリスの勝利で終わることを、私が知っていたからだ。
 当主たちが予想したように、この衝突は二国の全面戦争までは発展しない。だが敗者の側に参戦するということは、一族に大きな打撃を与え、多くの戦死者を出すことにつながるだろう。だから私は、レインが望まなくとも強くオフィシナリスを押すつもりだった。そのくらいの恩は、この一族に感じている。
 その魔法は、あと四年で解けるささやかなものだ。特に後の二年間は、ガルテンツァウバー後宮に軟禁され、情報から隔絶されていたのだから、判らないことも多い。だがこれから二年間、私は絶大な力を持つ預言者になれるだろう。私は王太女として、父の元に集められた情報の全てを閲覧させてもらっていたのだから。
 それでもガルテンツァウバーの陰謀を看破できなかったのは、私が未熟だったのか、それともグラウスが上手だったのか。考えても詮のないことだが、胸の奥に広がる苦いものは悔しさだろう。
「今お話ししたことは、一族の者以外に明かすことなど許されない秘中の秘です。それをお話ししたということの意味、お姉様なら判っていらっしゃいますよね?」
「え?」
「というわけで、貸し一つです。この対価に、お姉様も私のお願いを一つ、聞いてくださいますわよね?」
 シェイラがにっこり笑う時、何かを企んでいなかったことがあるだろうか。思わず引きつるが、立場的にも状況的にも、拒めるわけがなく。
「ああ、やっぱり私よりちょっと細いくらいですね。これならすぐ直しがすみそう」
 どれにしようかな、とシェイラは広間の床一面に広げられた何枚ものドレスを順に指さす。私はそのうちの一枚を、お針子さんとおぼしき女性たちに着せられ、部屋の中心で立たされていた。
「ええと、そろそろ事情を説明してくれないかしら……」
「お姉様用のドレスを一着、来週まで用意しろ、というのが兄様からの厳命で。でも一週間で一から仕立てるのは無理でしょう? だから今回ばかりは、私のを直して着ていただこうというわけです」
 次はお下がりじゃなくて、ちゃんと新しいのを仕立てさせましょうね。そう言われても、私としては「うん」とは言えないだろう。次があるとは思えない、という思いと、なぜこんな正装をしなければならないのか、その説明が先だろうという思いが渦巻く。
 だが、まずは取りあえず当面の問題として。
「一週間後に、私がこういうドレスを着なければならないような催しがある、という解釈でいいのかしら」
「施政人会議が主催する晩餐会が、ギルドホールであるんですよ。築港記念日のお祝いだから、兄様がどんな理由をつけても欠席できるものじゃありません。そこにお姉様を同伴せざるを得ない状況に追い込まれたようです」
 それはいかがなものか、と私は思った。そんな正式な会に同伴すれば、それは私が彼の伴侶だと宣言するようなものだろう。それはレインとしてもシェイラとしても、いいのか。
「同伴すべきは私じゃなくて、シェイラじゃないの?」
「なんで私が? 嫌ですよ、あんな堅苦しいの。それに今回兄様は、お姉様を連れてこいとお歴々に要求されているんです。最年少者としては、拒みようがなかったようですね」
「なぜ」
「だからぁ、お姉様の話題はレーゲンスベルグの津々浦々まで鳴り響いているんですって。レインズ・モスが助けて自邸に招き入れた絶世の美女を一目見てみたいと思ったのは、一族の者だけじゃないってことですよ。それに」
 いつものように、心の底が冷えることはさらりと言う。
「その女性がオフェリア王女に瓜二つと聞けば、お歴々が興味を持たないはずがないでしょう」
「……知られてるんだ」
「王家の方々のお姿は、市民にまで知られていますからね。お姉様が怪我されたあの一件は沢山の人が見ていましたから、噂になるのは当然だし、それがお歴々の耳に入らないわけはないでしょう」
 レーゲンスベルグは自治領といえども、アルベルティーヌと交流が盛んだ。アルベルティーヌであれほど知られていたオフェリアの姿が、ここで知られていないはずもない。
 この館に来てから今まで、療養と諸々の仕事で、私は一度も外に出ていない。だからそんなことになっているとは知らなかった。
「というわけで、今回ばかりは兄に付き合ってやってください。婚約者だとかいう発言が出たら、きっぱり否定しても構いませんから。そこら辺は兄が何とかするでしょう――施政人会議でも否定し続けて、同伴を拒否し続けたんですから。金で買われたとかいう馬鹿な発言が出たら、この家の名に賭けて無礼を咎めて構いませんが、できればその相手のことを殴らないできてくださると助かります。一応、兄にも立場があるでしょうから」
「……はい……」
 それ以外に、私には返答のしようがなかった。
 それから一週間は、怒濤のように過ぎていった。剣のための鍛練を続け、レインの仕事と薔薇園の手入れを手伝うかたわらに、晩餐会への準備が攻めてくる。靴、装身具、手袋、下着、切ってしまった髪を補うための付け毛と用意するものはあまりにも多く、レーゲンスベルグで最も格式高い集まりにふさわしいものを揃えるには、時間があまりにも足りない。結果一族の女性たちをも巻き込んでの、上へ下への大騒ぎとなり、それでも当日には何とか間に合わせることができた。
 当日何人もの人に手伝ってもらって、私は用意されたそれらをやっと身につけた。それは昔は日常のことであったはずなのに、今の私は満足に息もできなくなったような錯覚を覚えた。
 私はこんなにも窮屈なものを身につけていたのか。こんにもきつく髪を結っていたのか。よくこれで動けていたものだ、と思い、やがて納得した。
 動けてなかったんだ、あの頃は全然。
「仕度終わったか? そろそろ行くぞ」
 化粧部屋に姿を現したレインも、当然礼装をしている。その姿に、仕度を手伝ってくれていた若い女の子たちから歓声が上がった。
 こうして礼装をした彼を見ると、いかに彼が普段気取らない格好をしているのかが判る。ヴァルトやロジャーよりは幾分小柄だが、鍛え上げられ均整の取れた体格は、文句なしに人目を惹く。立派な衣服に飲まれることなく着こなしているその様は、なるほどレーゲンスベルグの最上流階級の者として施政に加わってきただけある風格を備えていた。
 自称花嫁が何人も押しかけてきたのは、彼の持つ地位や財産目当てばかりではないのだ、と私は納得すると同時に、さらに既視感を感じた。
 何だろう、私は、レインがこういう格好をしているところを、見たことがある気がする。
 彼の正装など、初めて見るはずなのに。
「シェイラの見立ては当たったな、よく似合ってる」
 意外なことに、レインは何のてらいもなくそう言った。それに私はかえって面食らって、返答ができない。
 シェイラが選んだのは、紅茶色のシンプルなドレスだった。開いた胸元には共布で作られた、小さな薔薇の飾りが連なっている。大人っぽすぎてまだ一度も着ていない、と彼女が言ったそれは、十七歳の彼女にはまだ無理でも、二十四歳の私にはもういくらか若いほどだ。
 レインに伴われて乗り込んだ馬車は、館を出ていく。ギルドホールは町の中心部にあるというが、意識のない状態で総領館に運び込まれた私は、どれくらいかかるか判らない。けれども私は今しかない機会に賭けて、この問いを口にする。
 動いている馬車の中、向かい合う私とレイン。決して逃げ隠れもできなければ、邪魔も入らないこの一時を、私はずっと待っていた。
「レイン、私、あなたに聞きたいことがあるの」
「……なんだ?」
 かしこまって聞く私に、レインは微かに眉根をひそめた。私は絹の手袋をはめた手をぎゅっと握りしめて、問いかける。
「あなた、私に、何かを隠していない?」
「ああ、隠してるぞ」
 驚くほど平然と、レインは答えた。
「それを言ったら、俺よりずっとお前の方が隠し事しているんじゃないか? 俺はまだお前のことを、何も知らない」
 嘘、と言いたかった。あなたは私のことを幾つも幾つも見透かして、沢山揺さぶりをかけてきているのに。それらに、私がどれほど凍りつくような思いをしてきたことか。
 知っているのでしょう、その言葉が出かかった。あなたは私がオフェリアだと、知っているのでしょうと。けれどもその一言が、言えなかった。やはりどうしても、言えなかった。
 その理由は。
「だって、信じてもらえるとは思えないもの」
 この一言に、全ては集約されるのだ。
 一体どうしたら、信じてもらえると思えるのだ。自分が時を越えて、四年前の世界から来たのだなんて。頭がおかしいと思われるのが関の山だ。
 だが私の言葉に、レインは顔をしかめて答えた。
「それはお前が、俺のことを信用していないってことだろ」
「そうじゃない。私自身が自分に起こったことを、いまだに信じられずにいるの。こんな常識はずれなこと、言って信じてもらえるだなんて思えない」
「常識はずれなことと言ったら、俺だって相当なものだけどな――俺は魔法使いだから」
 悠然と足を組み換えながら言ったレインに、私は身構える。話題はじりじりと核心に近づいてきていた。
「禁書のこと、シェイラに聞いたんだろ? 中途半端なことをするなってあいつに怒られた」
「ええ」
「禁書の持つ力は、魔法としか言いようがない。種も仕掛けもある魔法だ――種と仕掛けを用意したのは俺じゃないが、その結果は魔法みたいなもんだし、それを行使できる俺はまあ、魔法使いみたいなものだ。だが、その種と仕掛けは、まず間違いなく人に話しても信用されない。正気を疑われるのがオチだ」
 だから、と語気を強めて、レインは私に迫る。
「この世にどんな魔法や、信じがたい奇異な現象が存在しても、俺はそれを信じる。というか、疑う権利はない。その奇異の恩恵に浴して、総領なんてものに収まってふんぞりかえっている男だからな、俺は」
 どこか自嘲的に彼が言ったところで時間切れだった。馬車は停まり、御者が扉を開ける。ここから先は沢山の耳目がある場所だ。迂闊な話はもうできない。
 レインが先に降り、私に手を差し出す。それを取った私に、レインは最後にこう告げた。
 ひどく謹厳な表情で。
「俺のことが信用できないのは、当然だ。俺はそう思われるだけのことを、お前にしている。だがそれでも今は、これだけは信じろ――俺は、お前の味方だ」
 私は知らず、その手を握り返していた。突然の言葉は、私の心に驚くほどの衝撃を与えた。
 レインにさっき「そうじゃない」と言ったが、それは本当は嘘だ。そうだ、私は彼を信じていない。彼への猜疑は大きくなるばかりで、その言葉や行動の真意を探ろうとばかりしている。
 そしてそれが、私を利用しようとするものだと、心のどこかで思っている。だから私は、自分がオフェリアだと、彼に告げられずにいるのではないか。
 だからこそ、その一言は心に沁みた。私の心がひび割れているのではないかと思うほど、染み通っていくような感じがした。
 信じていいのだろうか――いや、違う。
 私は、信じたいのだろうか。
 レインを。今握る、この冷たくて固い手を。
 その手に誘われて進んだギルドホールは、レーゲンスベルグの栄華を表すにふさわしい建物だった。待合では多くの人たちに声をかけられ、それににこやかに応対するレインを見て、ヴァルトが言う『腹芸』が実感できた。社交界はもとより見えない仮面を身につけて出るようなところだが、レインがそれをそつなくこなしていことが、実のところ意外だった。
 やがて多くのテーブルがしつらえられた大広間に通され、晩餐が始まる。港町らしく、新鮮な魚や外国の珍味をふんだんに取り入れられた贅沢な料理を、私は何の感慨もなく口に運ぶ。
 無論おいしくなかったわけではない。こんなもの食べ慣れている、と思ったわけでもない。食べるものがあるありがたさと、今の自分の立場でこんなものを食べさせてもらえることが贅沢であることも、百も承知だ。けれども、だからこそ判ってしまったのだ。
 彼らのことを信じられない。そう思いながらも、レインとシェイラと囲んだ食卓に上がる素朴な夕食は、おいしかったのだと。他愛のない話をしながら口に運んだあのシチューや、煮込みや、スープは、この贅沢な晩餐よりずっとおいしかったのだと。
 晩餐は、表面上はとても和やかに進んだ。だが本当の戦いが後に待っていることは、言うまでもない。ダンスホールに移れば、多くの人たちがレインと自分に声をかけてくる。そしてそれは皆、このレーゲンスベルグの上層に位置し、大きな権力を握っている者たちだ。
 そういう連中に顔を売っておくのは、損じゃないと思うぞ。レインはすでに私にそう言っていたのだが、そこは微妙なところだと思う。オフェリアと瓜二つな、だが別人が存在している――同じ顔をしたそっくりの人間は、二人いる。それを多くの人に認めさせることは、有益なことか危険なことか、私は見極めきれていない。
 こうして、ここに――この時間に、ジュリア・シュパリスホープという女が存在したことの証明ができあがっていく。私とオフェリアの『別人証明』が構築されていく。それはいいことなのか、悪いことなのか。
 悪いことじゃ、ないんじゃないか。そうささやく自分がいる。だって自分は、戻りたくない。あの人生へ――オフェリア・ロクサーヌが辿る、あの無残で甲斐のない人生へは。
 ジュリア・シュパリスホープとして、ただの一人の平民の女として、生きていくことはできるだろうか。アイラとカイルを助けて、三人でどこか遠くで、ひっそりとでいい。生きていくことはできるだろうか。
 私は無力だ。それはこの二ヶ月で思い知った。けれども今、このギルドホールというレーゲンスベルグの最上流階級に集まる場所にいる。それは好機なのだろうか。大きな力を持つ人たちと誼を通じ、その力を借りればいいのだろうか。
 だが、もしそれを望むのならば、助けてくれと、力を貸してくれと私が言うべき相手は、他でもないただ一人だろう。
 レイン――私は小さく心の中でその名を呼んだ。千を超える一族を従え、諸外国にまで名を轟かせる軍事力を保有する人。
 私はあなたに返せるものは何もない。あなたにそれを望む権利も何もない。
 それでも言っていいのだろうか。言っていいだろうか。
 私の妹と弟を、助けるための力を貸してください、と。
 心のどこかで迷いながらも、話しかけてくる人たちの応対はこなせる。それは城で生まれ育ち、飽きるほどの夜会をくぐり抜けてきた経験がものをいう。事前に準備していた、オフィシナリス・シュパリスホープ家の遠縁の娘という経歴を口にし、オフェリア王女とは遠い親戚に当たるから似たのかも、いやいや王女の方がずっと若くてお綺麗です、という口上を何度繰り返した辺りだったか。別の場所でやはり多くの人たちに捕まっていたレインが、ようやく解放されたらしく私のところにやって来た。
「飲むか?」
 手にはワインの入ったグラス。それを受け取ると、彼は私を露台に促す。それが息抜きしたいということだと解釈して、それに従った。
 喧騒を離れ、二人きりになると、レインは大きなため息をついた。
「……疲れた」
 今までの『にこやかでそつのない』という仮面を外したその口調も、いつもの彼のものだ。それがどこかおかしくて、小さく苦笑を浮かべた私に、レインは率直にこぼす。
「これも総領の仕事だが、やっぱり性に合わん」
 自分の手の中のグラスから、ワインをちびちびと舐めるレインに、機を得て私は聞いてみた。それはヴァルトが以前「直接聞け」と言ったこと。
「どうしてレインは、総領になろうと思ったの? こんなに大変なものに、どうしてなろうと思ったの?」
 私の問いかけに、レインはなぜか複雑な顔をした。困ったような、迷うような頼りない表情を見せ、だがやがて、どこか苦笑いをするように言った。
「親父に、小さい頃から言われ続けて育ったんだ。総領になれって。その方が、お前の人生は絶対面白いからって」
「面白い、とは」
「俺もどういう意味なんだって、聞いたんだよ。そうしたらこう答えたんだ。一族の総領は初代から数えて歴代何人もいて、それぞれが皆精一杯役目を果たしてきたが、俺の代の総領だけが決定的に与えられた役目が違うと。そのことを、親父は総領になって初めて知ったと。で、言うんだ。もっと後の時代に、お前の世代に生まれたかった。今自分がしている務めより、俺の時代の方がずっと面白いって。だからお前が羨ましいと。そう何回も何回も、耳にタコができるくらい言われた」
「それで、どうだったの? その理由は、判ったの?」
 私の問いかけに、レインは今度こそ間違いなく苦笑した。
「ある意味、親父に騙されたような気もする」
「……そうなの?」
 怪訝に問いかけた私に、レインは苦笑を崩さない。
「いや、親父の言うことは間違いじゃない。確かに親父にしてみればそうなんだろうが、それが俺の考えてた面白いとは違ったというだけで。……正直、判った時は絶叫した。よくもこんな大変なことを、面白いだなんて言ってくれたもんだこのクソ親父、てな」
「……レインは総領になるために、凄い努力をしたってヴァルトが言ってたんだけど……」
 その結果がそれなら、レインは総領などやってられないのではないか。ためらいがちに口にした私に、レインは小さな吐息をこぼした。
「努力したさ。あの親父の息子でこれか、と散々言われてきたガキだったからな。総領選挙に名乗りを上げた時だって、お前じゃ無理だと年寄たちには散々言われたもんだ。そういう小物だから、時々、迷う」
「迷う?」
「俺が最後の禁書の守り手でいいのか。一族の滅亡すらあり得る戦いに、俺は挑んでいいのか。今平穏に暮らしている一族郎党全てを危険に晒してまで、俺は戦いを選んでいいのか。人が思っている以上に俺は臆病だから、総領になって以来ずっと迷っている」
 彼らしくない気弱な言葉に、私は面食らう。今まで見てきた彼は自信と覇気にあふれ、年長の当主たちすら従えていたのに、一体どうしたというのだろう。
 いや、これがきっと彼の本音なのだろう。総領だからこそ、配下の当主たちには決して口にできない、本音。
「だがジュリア、先人が言っていた。人は自分の人生から決して降りられないのだと。定められた運命の中で、それでも望み、それでも選び、それでも最後まで自分の人生を全うするしかないのだと。そうだとしたら、俺の人生は何だったのか、俺に定められた運命は何だったのか――そう考えれば、やっぱり俺も思うんだ」
 背筋を伸ばし、露台の向こうの夜空を見つめながら、レインは言った。
「この人生は、俺が選んだ。俺が望んだんだ。それがあらかじめ、すべて決まっていたことだとしても、な」
 このレインの言葉もまた、謎だった。だが彼が今、ひどく大事なことを口にしていることは判る。
 感覚として、判るのだ。
 私と、あなたが出会ったことが、偶然ではなくて、運命であったとして。
 あなたの持つ謎が、私に直結していると思うことは、私の自意識過剰や思い込みではなかったとして。
 あなたが今挑んでいる『初代との約束』が、私と無関係ではないと思い上がって考えるとして。
 それでもあなたが、その人生を、運命を、自分で選ぶというのならば。
 その運命の対局にいるかもしれない私は、どうしたらいい?
 あなたは、私に、どうしてほしい?
 今回の夜会の目玉である私たちが、二人で逃避していられたのは、ここまでだった。目ざとく私たちを見つけた人たちによってホールに連れ戻されたのは、このすぐ後のこと。その後はお互い、沢山の人たちに応対に追われ、ろくに言葉を交わすこともできないまま時は果て、総領館にようやく帰り着いた時には、お互いくたくたに疲れ果てていた。
「お疲れさまでした、お姉様」
 一人でドレスを脱ぎ、コルセットを外すことができない私のために、シェイラは遅くまで起きて待っていてくれた。化粧部屋まで私に付き添ってくれたレインは、小さくあくびをこぼしてからそこを後にしようとする。
「堅苦しいものに突き合わせてしまって、すまなかった。とっとと脱いで、休んでくれ」
「ええ、お疲れさまでした。お休みなさい、レイン」
「じゃあな、お休み。ジュリアーヌ」
 何気なく言って、バタンと閉められた扉。重たいドレスを身につけ、高いヒールの靴を履いていた私はそれを追いかけることもままならず、呆然と彼の消えた扉を凝視する。
 今、今レインは何と言った?
 思わず膝から力が抜けた。前からつんのめった私を、慌ててシェイラが抱き留めてくれる。二人でよろけながら、私の唇は小さくうわ言を呟いていた。
 なぜ、なぜと。
 アイラシェールにシャルロット、エリーナにアンジェリカという二つ名があるように、私にもある。それがジュリアーヌだ。私が名乗ったジュリアという名は、確かにそこから取ったものだ。
 けれども私は誓って一度も、その名を名乗ったことはない。過去に来る前でさえも、そうだ。女性の二つ名は基本的に名乗るものではない。よほどの相手から求められるのでなければ、打ち明けることもないものだ。
 だから私のこの名を知っているのは家族だけ。アルバのどんな上級貴族でも、廷臣でも、その名を知っている者はいないはずだ。それなのに、どうしてレインは今それを口にした。
 それは偶然なのか。それとも禁書の魔法が、それをレインに知らしめたのか。
 かたかたと体が震える。それが驚愕のためなのか、恐怖のためなのかも判らない。だが私は両手のひらで耳を押さえ、自分の中に吹き荒れる恐慌に身を任せるよりない。
 もう。もう駄目だ。
 もう限界だ。
 これ以上、素知らぬ顔をして様子を探ることなど、機を待つことなどできやしない。そんなことをしていたら、私は壊れてしまう。
 教えてほしい、答えてほしい、レイン。
 あなたは、一体、何者なのだ――。

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