扉の隙間から、強く青い光が漏れだしてきた。その意味を、私は誰よりも知っている。
やがてそれがやんだのを見届けて、私は扉を開けた。そこにはもはや誰の姿はなく、ただ室内を映すばかりの大きな青い鏡があるだけだ。
私はこの数日間身につけていた仮面を外し、大きくため息をもらした。
「終わった……」
思わず私は呟いていた。
これでようやく私は一人だ。やっと私は、この世界でただ唯一、一人の存在になれた。
もはや本物だとか、二人目だとか、そんなことを考えなくていい。それは身震いするほどの解放感と安堵感を私にもたらす。
歴史は決して変わらないとは思いながらも、それでも心の中には絶えず不安があった。もし「オフェリア」に何かあったら、私は消えてしまう。そして何かあっても不思議ではないような環境に「オフェリア」は置かれていたのだから。
だが、そんな心配ももうない。私はもう誰にも影響されることはない。誰に存在を依拠することもない。
私は私だ。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいとは。
「姐さん、王女は『行った』んですね」
コモンがそんな私を見つけて、声をかけてきてくれた。ここまで同行してくれた武装船団の乗組員たちも現れ、私は笑う。
私がザクセングルス一族に迎えられて四年。もはや彼らは私のことを「ジュリアさん」とか「姫」だとか、取り澄ましたり他人行儀に呼んだりはしない。誰もが皆、親しみをもって「姐さん」と呼ぶ。
私自身、その無頼な響きが気に入っていたりする。
「みんな、今まで窮屈な思いをさせてしまってごめんなさい。もう仮面を外して大丈夫よ」
私の言葉に、皆はとりどりの仮面を外した。そこから現れるのは、陽気で屈強な海の男たちの顔。武装船団の中でも精鋭と謳われる者たちばかりだ。
この道行に同行した者は、皆私の事情を知っている。そうでなければこの奇妙な状態に、耐えられはしなかっただろう。
「姐さんの言葉を信じないではなかったんですが、一緒におられるところを見て、納得しました。本当にオフェリア王女様だったんですね」
「同じ声で二人で会話してるから、聞いててどっちが喋ってるのか分かんなくなりそうでしたよ」
「王女様は目の前にいる姐さんが同じ声で喋ってるのに、おかしいと思わなかったんでしょうかね?」
当然の問いかけは、この四年間私の中でも謎だった。だがその謎は、私が「ジュリア」として「オフェリア」に会ってみて解けた。
「これが不思議な話なんだけど……私の耳は、自分の声と彼女の声が、全く別の声に聞こえてたの。だから多分、彼女もそうだったと思う」
「それも『時の鏡』の不思議ですかね?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。でも確かめる手段はないでしょうね。同じ人間が二人同時に存在するなんて不条理、そうそう起こるはずもないし」
私は目の前に立つ『時の鏡』を見つめた。私をかつて1215年に運び、今また「オフェリア」を1215年に送り込んだ魔法の道具を。
アイラとカイルの時間がねじれていたように、私の時間もまた四年という短い円環でねじれていた。しかしながら私の時間は、一度ぐるりと巡って、また同じ一瞬に辿り着いて、再び一直線の流れへと復帰していく。彷徨はたった四年に過ぎないが、私はそれをまさに全力で駆け抜けた。
1217年の六月までに、私とレイン、そして各家の当主たちは様々に準備を進めた。
私はまず自分が使い物になるよう努力した。ヴァルトとレインから習った剣は、一応形にはなった。コモンやレインと共に、何度か短めの航海に出て、船上生活のコツも船団指揮も完璧ではないが覚えた。レインの伴侶として他の施政人たちと誼を通じ、多くの協力と有事の際の一致団結の確約を取り付けた。
そして1217年六月、あの運命の日、私たち一族は動乱の影、歴史の影で、様々な暗躍を行った。
傭兵団の一団は、城から脱出した私が、ガルテンツァウバーに拉致される前に誰の手にもかからぬよう、秘かに護衛した。ある一団はアイラシェールとカイルワーンに追及が及ばぬよう、『赤の塔』の隠し通路の痕跡を抹消した。この一団にはコーネリア救出も命じていたが、残念ながらこれは叶わなかった。そして万一にもアイラとカイルがイントリーグ党に発見されないよう、シャンビランの山荘にも護衛と監視を配備した。
そして私とレインの率いた精鋭部隊は、暴徒に紛れて城内に侵入した。危険な賭ではあったが、髪と顔の下を覆う覆面だけで、混乱の中では意外に見とがめられなかった。母とエリーナの救出はやはり不可能だったが、宝物庫からレヴェルとエスカペードを奪取することには成功した。私がこの先どこに転ぶにしても、どんな人生を選択するにしても、これはイントリーグ党には渡せない。ましてや財宝狙いの暴徒や、混ざっていただろう他国の間諜には、決して。
そして最大の収穫は、リメンブランス博士を救出できたことだった。突然現れた私に、動揺し混乱はされたが、それでも信じてもらうことができた。レーゲンスベルグで『赤の禁書』を読んだ時は――息子たちの辿った運命を知った時は、大分衝撃を受けてはいたが、今は私の師として、一族の相談役として、アルバ史上最高の天才の持てる知識の全てを惜しみなく教授してくれている。
そしてそれから二年、1219年五月。私たちは歴史の定め通り――卵が先か鶏が先かの因果で、ガルテンツァウバー海軍へと奇襲をかけ、オフェリア王女を拉致した。
かつての私がそうして未来の私に助けられたから、私は1219年で過去の私を助けてやらなければならない。助けられたから、助ける。では最初に助けたのは誰なのか、初めがどこなのかも判らない因果をまた私は繰り返し、そしてここに到る。
「オフェリア」はまたこうして、1215年へと旅立った。彼女もまた隊商の一家に拾われ、アルベルティーヌをさまよった後、レーゲンスベルグへと辿り着くだろう。そして多くの人に出会い、妹たちの潔い人生と、自分の運命を知るだろう。
そうして彼女もまた1219年へと辿り着き、自らを救う。
永遠に繰り返される輪。閉ざされた輪は無限に連なっているが、今私はそこから出ていく。
閉ざされた輪の、向こう側へと進んでいく。
「姐さん、総領がおつきになりました」
あれから四年、常に最前線で一族を率いてきたレインのことを、もはや「若」と呼ぶ者はいない。
グラウスとの対決の後、私とコモンの艦を逃がすため、追手を全て引き受けてくれた彼は、無事レーゲンスベルグへと全艦を帰還させた。そしてその後、「オフェリア」が消える頃合いを計らってやってきたのだろう。来いとも来なくてもいいとも言わなかったが、やはり来たかという思いで、私は彼を迎える。
「終わったか」
「ええ、無事に」
万感の思いを込めて答えた私に、レインは労うように私の肩に手を乗せた。
そうしてしばし。レインはいつかは口にしなくてはならない問いを、私に向けてきた。
「それでこれから、どうするつもりだ?」
漠然とした問いかけの意味は判っている。
私がこのまま「ジュリア」として生きていくのか、それとも「オフェリア」に戻るのか。
オフェリアに成り代わり、アルバ王国ロクサーヌ朝の再興を目指す。それも決してあり得ない選択肢ではない。
だが、と勿論思う。
「この四年間で、私とオフェリアの『別人証明』は、レーゲンスベルグの中で散々できているのよね。もう私は、オフェリアですと名乗って信じてはもらえぬほど、レーゲンスベルグや他国との交渉で顔と名を売ってきた」
「ああ」
「私がここでオフェリアを名乗り、ロクサーヌ朝を再興しようとしたとて、国民は決して一枚岩にはなれない。イントリーグ党の暫定政府に対してそうであるように。だからそれは内戦の引き金を引くだけ。違う?」
もはやオフェリアには戻らない。言外に込めた決意に、レインは頷く。
そんな彼と、私を救ったくれた一族に、私は告げる。
「内戦となれば、多くの人が焼け出される。……家を失う辛さを、飢える辛さを、本当にささやかだけど私も知っている。そんな思いは、できる限り多くの人にさせたくない。それは私を廃したアルバ国民でも、同じこと――そう心から思っている。だとしたら、暫定政府に何とか頑張ってもらうしかないと思う。そしていつかは、ちゃんとした選挙によって選ばれた者たちが政権を握る、正しい民主主義国家になってほしいと思う。それが最後の王女だった私の願いで――そしてもはや王女ではない私には、守らなければならないものがある」
心から愛している、私の街。小さな私の国。
カティス陛下が、そしてカイルワーンが愛した私たちの故郷。
「レーゲンスベルグを、ガルテンツァウバーにもアルバ暫定政府にも、虎視眈々と狙っているだろう他国にも、決して渡すわけにはいかない。私のために、私の街のものの一人でも、踏みにじらせるわけにはいかない」
船団の所属はできる限り隠蔽したが、隠し通せるとは思えない。そしてその中心に、消えたオフェリアと瓜二つの私がいるのだ。ガルテンツァウバーが――グラウスが気づかないわけも、無視してくれることもあり得ないだろう。
侵攻の大義名分であるオフェリアを失ったガルテンツァウバーとグラウスは、これからどうするのか。それは未知数ではあるが、一番考えられるのはその事実を隠し、瓜二つの私を身代わりにすることだろう。すでに私がオフェリアと『別人』であることはある程度知れ渡っているが、ガルテンツァウバーはなりふり構ってはいられまい。
私を巡って、ガルテンツァウバーとレーゲンスベルグは全面戦争に陥る。それはこの因果が生じてしまっている以上、卵と鶏ですでに確定事項なのだ。だからこそ、私はレーゲンスベルグと一族に対し無責任でいることなどできはしないのだ。
ここは一つの終わりだ。だがその終わりは、大きな戦いの始まりでもある。
私は逃げることなどできない。そんなことは許されはしないのだ。
「本当の戦いは、これからでしょう。私はぬくぬくと、あなたたちに守られるつもりはない」
力強く宣した言葉に、周囲から「それでこそ姐さん!」とばかりに歓声や口笛が飛んだが、それをたしなめることもせず、私はレインをじっと見つめた。
「だからレイン」
「なんだ?」
「いい加減嫁にしなさい」
不意打ちに、レインが吹き出した。面白いくらいに狼狽する様を、私は冷やかに見つめる。
「お前、いきなり何を!」
「判っているでしょう、今の私に必要なものは、確固たる地位なのだということくらい。ザクセングルスの総領夫人、施政人会議の一員の妻という立場が、どれほどガルテンツァウバーに対する威圧になるのか、レーゲンスベルグでの重要性になるのか、判らないあなたではないでしょう」
冷徹に言い放った私に、焦りまくったレインの声が返される。
「お前、そんな戦略のために俺と結婚するのかっ!」
「そのためだけに結婚するのだと思っているのなら、今すぐここではっ倒す!」
私の一喝に、外野から「やれやれ!」とばかりに煽りが飛んだ。これ以上面白い見せ物はないとばかりに見物を決め込んでいる配下たちをレインは睨むが、気心が知れた腹心たちはそんなことには動じない。
「お前、こんなに人目があるところで……」
「人目がなければ、言質も取れない」
「全部が片づいたら、俺から切り出すつもりだったのに……」
「全部が終わるのって、いつ? むしろ長いのはこれからなのよ」
畳みかける私に、レインは大仰なため息をもらした。観念したように肩を落とし、やがて。
いきなり私を抱き寄せると、唇をふさいだ。
浅い口づけから私を解放すると、レインは強い口調で言った。
「誰にも渡さん。ガルテンツァウバー皇帝にも、グラウス・ブレンハイムにも、他のどんな男にも」
どんな求婚の言葉よりも重く、華々しい返答に、一際大きな歓声と口笛が渦を巻く。私はレインの腕に捕らわれたまま、それにしっかりと頷いて答えた。
アイラ、カイル、ありがとう。
あなたたちがいてくれたから、私は生きてこれた。
そしてこれから先は、この人たちと生きていく。
それがどれほど血にまみれていようと。どれほど平穏からほど遠いものであったとしても。
生涯戦い続け、その中でお互い果てることになったとしても。
それでも私は、胸を張って生きていく。あなたたちに恥じないように、あなたたちとの思い出を誇りながら。
黒の禁書はその力を失い、私は閉ざされた輪を抜け出した。
たとえ人間の一生が全て決まっているのだとしても。たとえその人生は実は、何も選べないものであったとしても。
それでも、その未来はもはや誰も知らない。
私の目の前には、まるで船上で見た大海原のような、茫漠とした未来が広がっていた。