賢者カイルワーンの失踪理由。それは後の史家たちによって大いに論議されることだろうが、定説がおそらく『英雄王との確執の末の追放』になってしまうだろうことを、私はとても残念に思う。
だがそれは完全に事実無根、というわけでもない。そう誤解されてしまうだけの素地が、大陸統一暦1004年に存在していたからだ。
「宰相職を退く? なぜだ!」
それを兄様は唐突に切り出したらしい。1004年9月、失踪のちょうど一年前のことだ。
「いや、別に肩書は残しておいても構わないんだけど、宰相の権限と実務の全部をしばらくエルフルトに預けたい。その間は枢密会議からも距離を置いておきたい」
「……理由は?」
「重要で時間のかかる仕事があるんだ。それに専念したい」
兄様は決して譲らぬ決意をもって、陛下に迫る。
「憲法を定め、議会制度を明確化して権限を拡充する。これが実現すれば、アルバはもう一段階国家としての進歩を遂げられる」
「全部聞く。最初から説明しろ」
親友としてではなく、現時点の為政者として陛下が問いかけてきたことを察し、兄様は臣下――国民の一人として、そして陛下の親友としてこれに答えた。
「憲法とは、王権や国権に対して設ける、決して侵すことも踏み越えることも許されない絶対の規範だ。これに反する為政も立法も許されないし、これを犯した為政者はその資格を失うという条項も盛り込むつもりだ。だからある意味では、王権に制限をかけるためにあるものだと言って過言ではない」
「その利点は?」
「現状の王制では、国の命運が王の資質に直結している。国王が暴君と成り果てた時、それを制止する手だてが存在しない。――ウェンロック王がどうしてフィリスに殺されたのか、君も話はエルフルトから聞いただろう。ウェンロック王には本心を言えば同情したいんだけど、王位と国土の他国への委譲など、国王がやっていいことじゃない。それを止める手段が弑逆しかなかったのもまた事実なんだ。今のアルバには、暴君を排斥する手だてが存在しない。枢密会議は勿論、選帝会議も廃帝の権限をもっていない」
ああ、と陛下は小さく呻いた。陛下は、自分が心の奥底に抱いている恐れを見透かされていることを理解する。つまりは、自分が本当は王にはふさわしくないのではないか――いつか過ち、民を虐げるのではないか、という恐れを。
その時には王位から下ろしてやれるような仕組みを作ってやる、と暗に兄様が言っていることに気づかずにはいられない。
「それに、好き放題していいわけじゃない、こういうことをして国を混乱させたり、民を傷つけては駄目だと最初から制限かけられた方が、楽だろ?」
それはまさに、親友としての言葉。こう言って笑った兄様に、陛下は返す言葉がなかったらしい。
「議会は現状の枢密会議よりも枠を広げ、様々な身分や立場の人間で構成されるように配慮する。最初はそりゃ貴族や富裕層だけに限られるだろうが、アルバがもうちょっと豊かになって国民全体の教育水準が上がれば、参加できる層はどんどん広くなっていくだろう。そして最終的に、全国民が投票して全議員を選べるようになればいいんだろうけど、まあ、僕の時代のアルバでもそこまでいってなかったことは以前言った通り」
それは兄様にとっては苦い思い出であっただろうに、淡々と語っていたと陛下は後に語る。
「議会が持つことになる権限は、王権から委譲されるものだ。今まで王と一部の貴族のみが決していた国政に、国民が直接関わることができる。それは返して言えば、王一人が背負っていた重みを少し国民に渡して、沢山の人間に分けて背負えるようにしようということだ。……一度に多くは渡せない。多分今議会に渡せる権限は、ほんのちょっとだ。けれどもまずは扉を開き、先鞭をつけなければ、何事も始まらない」
どこか苦笑じみた、けれども照れが混じったような笑みを、兄様は浮かべた。
「カティス、お前の荷物を少し軽くしてやる」
こう言われて、陛下が否を唱えられようか。何かを言いたげに口を開き、だが言えずに黙り……だが思い切って、口を開く。
「けれどもそれは、宰相職と兼務もできないものなのか。だってお前は、その」
「君の言いたいことは判る。確かに僕は、これから作る憲法の全文をほぼ暗記している。……でも、たとえ僕が全文を覚えているからといって、それをただ書き起こして簡単に発布して、それでいいのか? これからの国の基――王制の有り様を根本から改めようとする絶対の法を、僕一人で決めてしまっていいのか?」
「それは……」
「たとえ最終的に僕が、歴史通りの条文に整えるのだとしても、多くの人が携わり議論を尽くす過程を飛ばしては駄目だ。そうでなければ多くの貴族たちの反感を買うだけだし、後の王たちだって従いはしない。そうは思わないか?」
「それはどうしてもお前がやらなければならない仕事か?」
「僕以外の誰が責任者をやって、反対勢力を納得させられる?」
努めて穏やかに、けれども冷たさを含んだ口調で、兄様は言い放った。
「僕は政治家や歴史家として、後のアルバのためにここで王権に制限をかけるべきだと思う。そして君のことをよく知る者として、王にかかる責任という重荷を少し軽くすべきだと思う。けれども神授とされる王権に対し、臣民が枷をかけるような行為が冒涜であり、君への叛意があると考える人間は、決して少なくないだろうよ。だからこの仕事は、僕にしかできない。そしてそれを自ら受け入れてくれる王は、君しかいないんだよ。戦乱が終結し、統一アルバ王国が立ち上がったばかりの今しか機会はないんだ」
陛下が渋る気持ち――自分を手放したがらない理由を、兄様は百も承知していただろう。それを見越して、兄様は穏やかな笑顔で陛下に向かう。
「何も心配することはない。戦争は終わった。これから君はこの城に落ち着いて、じっくりと内政に取り組むことができる。そして僕がすぐ横にいることには変わりない。助言がほしいのならいくらでもするし、君が馬鹿やったらすぐに怒鳴ってやるから、安心しろ」
即位からの四年間、アルバの国政を主導していたのは兄様だった。だから陛下は自分一人で国政を預からなければならないことに不安を抱いたのだろうし、兄様は1005年ではなく、ここで全権を返してしまいたかったのだ。自分がまだいて助言できるうちに、緩やかに実権を移譲するために。自分が欠けるその時、少しでも政治に動揺が起こらないように。
「王は君だ。君がいる以上、君が政権を預かるべきだ。僕は君を補佐するためにいるのだし、この仕事が後の君の最大の助けになると、僕は確信している」
兄様は陛下に嘘はつかない。でも隠し事はするし、うまく自分の本心や真の意図をはぐらかすと私は思う。
この時兄様は、もはや自分が政治の表舞台に戻ってくる気はないことを、陛下に言わなかった。
かくして兄様は宰相職を退き、憲法策定の陣頭指揮を取り出した。そして閣議に出席しない兄様と、政務に忙殺されている陛下の距離は次第に離れていった。同じ城に住んでいながら、顔を合わせる機会も少なくなっていった。無論大公として、公式の行事には出席するし、以前と同じように陛下が兄様の下を訪れることもあった。しかし紛れもなく意図的に、兄様は少しずつ少しずつ陛下から遠ざかっていった。
憲法と議会が、兄様にとって大事な仕事だったのは間違いない。けれどもそれを隠れ蓑にして、兄様は自分から陛下との距離を開いていったのだ。それを横で見ていた私は正直、ひどいことをすると思った。『自分のための仕事』を楯にされた陛下は、兄様に何も言えない。そして失踪されて初めて、真の意図に気づいたのだ。その時の陛下の心中を察すれば、あんまりだと思う。
だが同時に、私には兄様の気持ちも判ってしまう。じゃあ何もせずにいきなり消えればよかったのか、と言われると、とても頷けない。宰相として全権を掌握したまま消えれば、残されたカティス陛下が宮廷で立ち往生したことは火を見るより明らかだし、宮廷における自分の影響力をできる限り薄めることで、混乱を少しでも減らそうとしたことを非難はできない。
そうしてもう一つ、兄様が張らずにはいられなかった意地――最後の一年の自分の姿を、陛下にできるだけ見せたくないと感じていたことに関しては、私は何も言えない。
ともかくも、そうやって陛下と兄様の距離が開いていくのは、傍目にも見えていた。それは蜜月と呼んでもいい二人の関係を見てきた者たちにとっては訝しいものであり、また邪推されても仕方のないことだ。
だから『国権を掌握したい王が、宰相に大役を与えることによって、政治の表舞台から遠ざけた』と思われてしまうことも、兄様の失踪理由を『二人の関係の決定的な破綻による追放、もしくは逃亡』と思われてしまうこともまた仕方ないことかもしれない。陛下と、事情を薄々察している廷臣たちが皆口をつぐみ、一言も反論しなかった以上は。
けれども私は真実を知っている。それをすべてつまびらかにすることはできないが、それでも少しだけ、握りしめた手のひらを開けて取り出すことができるものもある。それがこれから語ることだ。
私は主が不在の書斎で、床に散乱した紙片を拾い上げた。そこには文章がかなり乱雑に書きなぐってあり、ところどころに推敲が入っていた。兄様の書斎がこれほど乱れているところは、今まで私は見たことがなかった。
それは書斎だけは他人の手が触れることをよしとせず、自分できっちりと片づけてきた兄様の、焦燥と切迫を表していた。
私が原稿を拾い集め終わった頃、部屋の主は戻ってきた。憲法会議か、それとも陛下からの呼び出しか。何にしても顔に疲労の色が濃い。
……多分、今日もあまり寝ていない。
「ロスマリン、来てたんだ」
「はい、兄様にお願いがあってまいりました」
私は手の中の原稿と、兄様の顔を等分に見比べて言った。
「私に、兄様のお手伝いをさせていただけませんか」
「……というと?」
「これの清書、私に任せていただけませんか? 校正や清書までご自分でされる必要はないではないですか。兄様は書かなければならないものが、まだまだ沢山おありなんでしょう?」
書斎の壁には、この四年間で兄様が完成させた本の原稿が、綴られて収められている。それは全て綺麗に清書されているが、おそらく今の兄様はそこまでやる余裕がないのだろう。書きなぐって、朱を入れて、そこで止まっている紙片がだんだん溜まっていくのに私は気づいていたし、それが床に散らばりだしたのが――おそらく書いた先から床に放り投げている――兄様が焦っているためだということにもまた、気づかざるを得なかった。
その焦りが何なのかは、当時の私には判らなかった。けれども兄様の負担を減らしたくて、私は自分の立場でできることを精一杯考えた結果だった。
「駄目ですか?」
少し上目づかいに、私は兄様に問いかける。そんな私を、兄様は戸惑いもあらわに見つめていた。
おそらく兄様はこの時、迷ったのだと思う。兄様は自分の限界を――時間的な、そして気力体力的な限界を感じていたはずだ。そんな切羽詰まった自分の姿を陛下に見せたくなくて、口実を作って遠ざかったのだ。陛下にも見せられなかったものを、私になら見せていいのか――そう感じたのだろうと思う。
けれどもやがて、兄様は割り切ったように苦笑して答えた。その心中は、今となれば何となく判る。
なぜなら兄様は、私の未来を知っている。だからこれも運命のうちと兄様は割り切ったのだろうと。
「ごめん……助かる」
こうして私は兄様最後の一年間を、最もそば近くで見続けた。だから私が一番、真実に近いところにいた。
私はこの頃自分の目的があって毎日登城していたのだか、その詳細は後に記すこととして、兄様が憲法会議に出席している午前中をそちらにあてて、午後から夜までを『銀嶺の間』で過ごした。私は控えの間を一室自分用にもらって、そこで作業をした。兄様の下書きは、日を追うごとに量が増え字が荒くなっていった。それを清書して、目を通してもらう。一冊完成するごとに綴ってまとめ、書斎の書棚に並べていく。そんな日々が続いた。
そんな毎日の休憩ごとに、兄様は昔と同じように思い出話をしてくれた。ただ昔と違うのは、私が時の鏡がもたらした『真実』を知っているということ。そして兄様が私を大人と認めてくれたこと。そうして話をしてみると、兄様は昔はずいぶんと苦心して真実を回避し、私に姉様との思い出を語っていたのだと実感することになる。
そして兄様はこの時、それまでは決して話してくださらなかったレーゲンスベルグでの二年間について、多くのことを話してくださった。そこで起こった沢山の出来事、出会った沢山の人たちのこと、そして陛下のこと。それは後に神格化されることによって葬られ、後の世に残ることのなかった、賢者カイルワーンの真実の姿。
兄様が語ることによってしか、決して他人に伝わることのなかった、歴史の真実だ。
後の世に言う『六月の革命』――すなわち英雄王と賢者と魔女の物語。その全ての真実は、畢竟四分割だ。英雄王の真実は陛下自身、賢者の真実は兄様自身、魔女の真実は姉様自身、王妃の真実はマリーシア様自身以外には判らない。兄様がいかにして生まれ、育ち、どのような経緯を辿って時を越えたのか。どのようにして姉様を探し求め、その過程で賢者となっていったのか、それを知っている者は兄様ただ一人だけだ。
そしてそれは、闇に葬らねばならないものだったはずだ。後に陛下は、暴虐とまで言える過酷さで兄様の痕跡を正史から抹消したのだ。それが兄様の遺志だったことは、もう疑うべくもない。それなのに兄様は、なぜ真実を――残されていく人たちへの思いを、思い出と共に口にしたのか。
自分の胸にだけ秘めて、葬ることが、できなかったのか。
それはもう、考えるまでもないことかもしれない。
そうして時間は刻々と過ぎていった。書棚には完成した著作が増えていき、憲法の草案は多くの議論を重ね、形ができていった。陛下による内政は、手さぐりながらもだんだんと堅調さを増し、そして。
大陸統一暦1005年3月、残り半年。この頃の私にはすでに、結末の予感があった。
兄様がなぜ焦っていたのか。兄様が何に焦っていたのか。それが朧げながら、察せられた。
それがどういう形で結末となるかは、判らない。けれども一つだけ判っていた。
兄様には時間がないのだ。
それはつまり、兄様はいずれここからいなくなるということ。それはもうこの時点で、確信していた。
だからあの運命の日、私は兄様の問いにこう答えることになったのだ。
その日、いつものように『銀嶺の間』を訪れた私は、書斎の机で沈没していた兄様と出会う。内心に冷たいものを感じながら駆け寄り揺さぶると、まだ焦点の合わぬ目が私を見た。
「まったくもう、寝るなら寝台で寝てください。時間の無駄になるだけで休養になりません!」
ほっと息をつき、わざとらしすぎるくらい明るく怒鳴った私に、兄様は頭をかきながら言った。
「参ったな……ロスマリン、ここのところ、同じ夢ばかり見るんだ」
「はい?」
「カティスが、泣いてる」
その瞬間、私は心臓を掴まれたような錯覚を覚えた。
兄様は今、とても、とても大事なことを――そしてとても、恐ろしい話をしようとしている。それを直感した。
「僕は今まで、カティスが泣いてるとこ、見たことないんだよ。辛いこと、今までいっぱいあったのに、でもあいつは僕の前で泣こうとはしなかったんだ。そのあいつが、ずっと、ずっと泣いてるんだ……」
絞り出すような、震える呻きが落ちた。
「僕は、どうしたらいいんだろう……」
これが兄様が唯一、たった一度だけこぼした弱音だった。これ以外、兄様は私にも、勿論陛下にも何も言わなかった。辛いとも、苦しいとも、悲しいとも、本当に何一つ。
九月二十七日のその日まで、兄様は陛下にも私にも、本当に何も教えてくれなかったのだ。多くの者に終末の予感を感じさせながらも、それでも何も言わず有無を言わせず。
今となっては、兄様自身が迫り来る時限をどう感じていたのか、確かめる術はない。
けれどもこの一言が全てを語る。兄様が考えていたこと、案じていたことは、ただ一つだけ。
陛下のことだけ、だったのだ。
共に歩んできた道の途中で、ただ独り置いていくことになる陛下のこと。
兄様はもうただひたすら、陛下のことだけしか考えていなかったのだ。
自身の痛みや、苦しみや、孤独すら振り捨てて。ただひたすら『陛下のため』だけ。
そうして下した様々な兄様の選択を、私は非難できない。それがどれほど陛下を苦しめることになったのだとしても、兄様にとってそれは自分で選んだ『陛下にとっての最善』だったのだから。そしてその選択が間違っていたのか、私には判断できなかったのだから。
もっと苦しめずにすんだ道があったのか、と聞かれれば、私にも答えようがなかったのだから。
だが同時に、私には兄様に言えたことがあった。だからそれを、多大な不安と緊張に身を震わせながら告げた。
それは兄様と姉様の『真実』を知ったあの日からずっと、考え続けてきたこと。
「兄様がご自分でそう仰られるのならば、判っているのでしょう? 陛下が誰のことを思って、泣いておられるのか」
沈黙は、何よりも雄弁な答えだった。
「では、陛下は兄様の何を思って、何が悲しくて、泣いておられるのだと思いますか?」
自分のそばにいてくれないことが悲しいのか。
自分をもう助けてくれないことが悲しいのか。
自分が独りになるから悲しいのか。
違う。私には判る。
「私には判ります。陛下はやり切れないのです。自分がもう兄様に何もして上げられないことが、何の力にもなれないことが、自分の無力さが悔しくて辛くて、泣いておられるのです」
「ロスマリン、僕はカティスに――」
「兄様は何も判っておられない」
反駁の声を上げた兄様を、私は怒気もあらわに遮る。
「兄様が、陛下にどれほど救われたと感じておられるかは存じています。どれほど陛下に感謝しているのかも。でも、陛下はそうは思っておりません――なぜなら陛下は、兄様に一番してあげたかったことが、できなかったから。それがどれほど陛下の負い目になっているのか、兄様に対する罪悪感となっているのか、兄様はお気づきではない」
「負い目? カティスが僕に?」
それは一体、とばかりに目を見はった兄様に、私は静かに告げた。
どうしてこんな簡単なことが、兄様には判らないのか。
――判らないのだろう、本人には、決して。
「判りませんか? 陛下は、姉様を助けたかったんです」
それはあまりにも単純で、当たり前で、大きすぎた願い。
「自分の親友に、恋人とともに幸せになってほしい。そう願うことは、それを叶えたいと思うことは、ごく当たり前のことじゃないでしょうか。陛下にとっても、兄様のために戦った人たちにとっても。でも陛下は、姉様を助けられなかった。兄様が姉様を見送るのを、止めることができなかった。そして――自分と自分の王朝のために、追わせてやることすら叶えさせてやれなかった」
その時の兄様の顔が忘れられない。あんなに苦しそうな、追いつめられたような顔をしたことは、一度としてない。
「兄様と姉様は、自分たちで選んだ結末に納得しておられるかもしれません。何一つ、悔いてはおられないのでしょう。けれども、私を含めて、兄様や姉様を好きだった者たちは誰一人、割り切ることなんてできないんです。だって、誰もがみんな兄様たちに当たり前の幸せを掴んでほしかった。叶えたかった願いは、ただそれだけだった。……だからね、兄様、判ってください。私たちは、苦しいんです。もっと何かできたんじゃないか、どうにかすることができたんじゃないかと、己を責めずにはいられない私たちは、これから先もずっとずっと苦しいんです」
その言葉を、紛れもなく責めと取っただろう。顔を歪ませる兄様に、私はそっと告げた。
「だから兄様、私たちに何かできることを下さい。あなたの力になれたと、そう心を慰められることを、その確信を抱けるほどのことを何か、させてください」
それは気休めだ。けれどもそれは遺された者には、よすがとなるだろう。
あなたとの思い出を、振り返る記憶を、負い目だけで、罪悪感だけで埋めたくはない。
「誰だってみんな、好きな人の力になりたいんですよ。兄様が陛下にそう思うように。陛下がそれくらい、兄様のこと好きだってこと、ご自分のことを嫌いな兄様でも認められるでしょう? だから陛下が泣くと、兄様はご自分でも思っておられるんじゃないですか」
違いますか、と問いかけた私に、兄様は力なく頷いた。脱力した風情で天を仰ぎ、やがて力なく呟いた。
「カティスには、本当に、本当に沢山助けてもらったんだ。あいつがいなければ、僕はとうに力尽きてた」
「はい」
「もう十分すぎる。これ以上してもらうことなんて、思いつかない。それなのに、何をさせたら、あいつの――あいつだけじゃない、君も含めたみんなの負い目は軽くなるんだろう」
「兄様は本当に、一つの心残りもないですか? 私はあると思っているんですけど」
私の返答に、兄様は身を起こした。まじまじと見つめる視線に、私はついにそれを切り出す。
「真実、本当に残さなくていいですか。本当に全て闇に葬って、それでいいですか」
「……ロスマリン?」
「私は兄様と姉様の真実を、どうしても伝えなければならない方がいると思っているのですけど」
それは憧憬と悔恨をもって、私に告げられた名。
「オフェリア様に――アイラ姉様の姉姫様に、真実を伝えなくてよろしいですか」
「だけど、それは……」
「兄様は、オフェリア姫様が1217年以降も存命であるだろう、とお話しされていましたよね。おそらくはアルバ侵攻の大義名分とするため、外国へと拉致されているだろうと。内乱に介入――煽動した外国の狙いは、おそらくそこにあるだろうと」
「……ああ」
歴史と政治を見る者の冷徹な眼差しで、兄様は答えた。だから私は、私の推論を告げる。
「陰謀の首謀者は、オフェリア姫様にお二人の消息をどのように伝えると思いますか? まずそもそも、1217年において、最終的に魔女――第三王女は、どうなったことになっていると思います?」
兄様と姉様が『時の鏡』で過去に来た以上、その消息を辿る術はないはずだ。だが陰謀の首謀者とイントリーグ党が二人を『消息不明』ですませられるはずがないのは、自明の理だ。
「魔女を処刑しなければ、暴走した市民をなだめられない。内々で処刑したと遺体なしでごり押ししたか、誰かの遺体を使って公開処刑を偽装したか、それとも……身代わりを用意したか。全く関係ない女性を処刑するほど、イントリーグ党が悪辣ではないと思いたいけれども」
「どうあれオフェリア姫様には、姉様は殺害されたか処刑されたと伝えられていると思うんです。そして普通なら、残った王族と関係者――つまりは兄様も処刑されたと考えると思います」
「そう……だろうね」
「オフェリア姫様は間違いなく、兄様と姉様がイントリーグ党に殺されたと思っておられる。それでよろしいですか?」
単刀直入の問いかけに、兄様は動揺した。
「他国がオフェリア姫様を利用しようとするならば、憎しみをあおるのが常套手段だと思います。あなたの大事な妹と弟をむごたらしく殺した者たちに復讐しないか、そう唆すのが一番簡単。そんなことに、自分たちが利用されて、それでいいですか。自分たちの大切な人が、そんな虚言に惑わされて甲斐のない復讐に身を費やす様を、兄様は見たいですか」
兄様は答えなかった。けれどもその手はぎゅっと握りしめられ、小さく震えていた。それは兄様の迷いであり、葛藤を表しているだろう。
「『六月の革命』の真実は、未来には伝わっていない。そう兄様はおっしゃいました。けれども未来の兄様が知らない――すなわち広く世に知らしめられなかった、ということが、真実が全く未来に伝わらなかった、ということではないと私は考えます。重大な秘密として守りながら、ごく一部の者たちだけで未来まで伝えていくこと、そうして1217年以降のオフェリア様のもとまで届けることは、不可能でしょうか」
それは予感だ。姉様と出会い、兄様と出会い、陛下と出会ったことによって規定されることになる私の人生への、予感。
おそらくこれが私の役割――私に定められた『運命』だと。
「今の段階で、真実は全て揃ってはいません。今の段階で、全ての真相をつぶさに知る者は存在しません――兄様ですら、全てをご存知ではない。けれどもこれからそれを、集めることは叶うのではないでしょうか。……申し訳ありません、黙っていましたけど、この四年間でお伺いした話、全部書き留めてあるんです。多分私は今の段階でも、兄様の伝記が書けると思います」
「なっ……」
一声挙げて絶句した兄様に、私は動ぜず続けた。
「そして私は過分にも、陛下にも目をかけていただいております。私ならば、理由を話せば、陛下のみが知る真実を頂戴することが叶うでしょう。そしてお判りでしょう、兄様。私はこの世で唯一、登城前――バルカロール家での姉様をよく知る人間でもあるのです」
そう、これが私の運命だと直感するのは、この世で私ただ一人だけだからだ。
私なら『全員』に会える。私ならそれぞれの『真実』に辿り着き、後の世に残すことができる。
「それでも姉様側の真実が圧倒的に足りません。でも、思うんです。私はいつか、ベリンダに会えるのではないかと――いえ、出会ってみせます、必ず」
それは陛下と兄様が極秘裏に探し続けている人物の名。そして実はすでに私も面識のある女性だ。
彼女は姉様の下に侍女として上がる際、準備のためにモリノーの領主館に滞在していた。無論引き合わされたわけではないが、こっそりと彼女の下を訪れて、城の姉様への伝言を託したりしたのだ。
この時の私は、彼女が後にどんな存在となるのかは知らない。けれども確信を持って、告げる。
「必ずオフェリア様に、真実を届けます。兄様と姉様がイントリーグ党に殺されたのではないことを、どれほど懸命に生きて、どれほど沢山の人たちに光を残されたのかを。ですから私に、兄様の持つ『真実』を全部お預けください。私が他の『真実』と合わせて、必ず未来に届けます」
兄様は両手のひらで顔を覆った。うなだれて、ずいぶん長い間黙っていた。その間何を考えていたのか――どんな思考が巡っていたのかは探りようもないが、やがて私に渋い顔をして言った。
「ロスマリン、僕も今色々考えてみた。確かに真実を『残す』ことは、可能だと思う。書物一冊、秘密を一つ、二百年間守り伝えていくことは物理的には不可能ではないかもしれない。けれどもそれをするのは、誰なんだ? 君たちが、僕やアイラのことを思ってくれる気持ちはありがたく認める。けれども君たちだって二百年は生きられない。代を経て、僕のことも君のことも知らない人たちを、僕たちだけの想念で縛ることが可能なのか? ましてや、1217年以降のこの国は、戦乱の只中だ。そしてオフェリア様はおそらく他国に囚われている。そのオフェリア様に、真実の書を誰がどうやって届けるんだ? 君は二百年後の人たちに、僕たちのためにオフェリア様を救い出すべく戦えと、本気で言っているのか」
「はい」
ごく大真面目に、当たり前のように言った私に、兄様は唖然とする。
「ここから先は、確かに賭です。絶対可能か、と問われれば『はい』とは答えません。けれども、思うんです。アルバ王国の第一王女、正当な王位継承者、そして兄様がそれほどまでにお慕いになるほどの素晴らしい女性を、助けたい、他国から取り戻したいと思う人間が、果たして1217年に一人もいないんでしょうか?」
それほどに隠れない第一王女が、一人の支持者も信奉者もいないとは、私には考えづらいのだ。その目的はアルバ王国の再興であったり、オフェリア個人を慕っていたりと一様ではないだろうが。
「つまり、オフェリア様を救出しようとしている人間を探し出して、その真実を託せばいいと?」
「そういう人間を支援する組織を作れないか、と私は考えています」
姉様はカティス陛下の九代後の子孫だという。ならば実際オフェリア様を救出できるのも、私たちから同じだけの世代を経た人間だ。それだけの世代で秘密と悲願を継承するとすれば、単純かつ強固な仕組みが必要だろう。
そう、それが『契約』だ。私たちと、未来の者たちとの間に結ぶもの。
「これから二百年の間に、財力や権力を持つ『組織』を作り上げます。その組織に属する者は、その力を自分たちのために行使してよい代わりに、その力と秘密の継承を義務づけられます。そういう契約を、未来の者と結ぶ」
「そして1217年が来た時に、オフェリア様の救出にあたれと?」
「無論自分たちでやってもいいのですが、先に述べたように、オフェリア様を救出したい人たちを支援できればそれで十分とも考えます。オフェリア様が救出できて、真実をお渡しできれば、誰がやっても別にいいわけですから。その結果を確実に残せるだけの『力』が『組織』にあれば、それでいいかと」
私の計画に、兄様は考え込む。私よりも明晰な頭脳の持ち主は、当然の問いをすぐさま投げてきた。
「その『組織』が、二百年後にそれだけの『力』を蓄えられるようになると考える根拠は? 『組織』として人を参加させるのならば、そこには恩恵が必要だ。つまりは最初からある程度の『力』が必要だ。――ロスマリン、確かに僕や君ならかなりの資金は用意できるかもしれない。けれどもそれは、二百年後の確実な成功を約束しはしない」
その問いは当然。だから私は、一番重要で一番反応が恐ろしい願いを、兄様に告げる。
「ですから、二百年後の確実な成功をもたらす『魔法』を、『組織』のために用意したい」
それは幼い頃『記憶お化け』とまで呼ばれた兄様のみが生み出せる、信じがたい魔法。
「兄様、ご不快を承知でお願いいたします。この計画のために、預言書を作ってください」
この一言で、兄様は全てを悟ったらしい。大きく目を見開き、私を凝視し……やがて、小さな吐息をもらした。
それは何かひどく恐ろしいものに出会い緊張した時のような、息をすることすらままならないような、そんなか細いものだった。
「ロスマリン、それは駄目だ」
「でも」
「これ以上未来を知り、自分の人生を目に見えない何かに縛られる人間を作ってはいけない!」
兄様が過去に来て以来、どれほど苦しみぬいたのか。それを私は知らない。他人には決して判らない。
けれどもその時思った。血を吐くような叫びとは、きっとこんな声を言う。
「君は自分が作る真実の書と、僕が作る預言書を、誰に残すつもりだ。歴史の機に乗じて『組織』を大きくするため、預言書に動かされるのは誰なんだ。僕や君の願いに――二百年前の亡霊に、延々縛られ利用され続けるのは、一体誰なんだ」
ひたり、と黒い目が私を見つめる。
「確かに僕が預言書を遺せば、絶大な力になる。けれどもその存在が世に知られれば、それを巡ってどれほどの血が流れるかしれない。預言書の秘密を守ることは、真実の書の秘密を守ることよりも遥かに困難だ。それほどの重い責務を、継承していかなければならない――二百年もの間戦い続けなければならない定めを、一体僕たちは何の権利があって、未来の人たちに押しつけられるというんだ」
「力は、それを欲する者が掴む。私はそう考えています」
自分でもびっくりするほど冷徹な声が出た。兄様は、驚いた顔つきで私を見る。
「だから組織なんです。力がほしい者だけが、そこに加わればいい。組織の力によって自分の身を立て、自分の望みを叶え、その見返りに契約を果たすために組織のために働く。そして頂点を望んだ者だけが、預言書を背負う。大きな力を望むということは、大きな責務を負う覚悟を固めるということです。それが判る者でなければ、組織の頂点になど立たせない。そんな組織に加わっていることが嫌なら、出ていけばいい。組織に与することも、頂点に立つことも、何一つ強制などしない。それでも自ら力を望み、望んで責務を負って契約を果たす者は現れる、と私は思います。――力とは、そういうものではないでしょうか」
私の言葉に、兄様は沈黙した。手のひらで顔を多い、惑うように揺れる小さな肩に、私はそっと触れた。
「確かにこの力は、オフェリア様をお助けするために私たちが用意するものです。しかし『組織』が発展し、力を集積していくということは、それに関わる多くの人たち――組織という共同体に生きる人たちの生活を潤していくことになる、多くの人たちのささやかな生活を守ることにもつながると思います。……何といっても二百年ですからね、沢山の人間が使命も知らぬ間に関わることになるでしょう。それは決して、悪いことではないと私は思うのですが、どうでしょう」
「だけど、それは……」
「今ここで私たちが紡ぐ因縁は、確かに後の世の人間の一生を縛るでしょう。けれども、この世には誰一人自由な人間なんていないんです。誰だって、様々な因縁に縛られてこの世に生まれてくる。そしてここで私たちが紡ぐ運命は、そんなに不幸でしょうか?」
もし不幸な人間がいるとしたら、それは――。
「オフェリア様でしょう? 国を滅ぼした輩に利用された上に、体まで好きにされているかもしれないなんて、同じ女性としてそんなの許せない。姉様や兄様の大切な方が、そんな目に遭わされているなんて我慢ならない。それは私自身の願いですし、知ったら陛下だってそう思うでしょう」
兄様は、長い間黙っていた。私もそれ以上何も言わなかった。重苦しい静寂の後、兄様は絞り出すように呟いた。
「ごめん、ロスマリン。考える時間がほしい」
「……はい」
兄様がその結論を出したのは、半年後のことだった。