私は馬上で、もう何度目なのか数えようもない深いため息をもらしてしまった。
脳裏によぎるのはもちろん、出立前日のレーゲンスベルグでのこと。
思い出さないよう、考えないよう。そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、その光景は眼裏に、感触は唇に甦ってくる。
あんなにも怒りと不快をあらわにしているブレイリーを見たのは、初めてかもしれない。その表情と言葉は、思い返しても胸に刺さる。そう理性は、彼の言い分が正しいと素直に認めている。
依怙地だ、と言われれば、その通りかもしれない。
それなのに、そんな彼に対して自分がやらかしたことが、あれだ。
そう、あれだ。
刹那、頭に血が上る。恥ずかしくて恥ずかしくて顔も上げられなくなる。
私は一体何を考えていたのだろうか。はしたないにもほどがあるだろう。
けれども、唇は、舌は、その感触を反芻しようとする。紛れもなく彼が私を求めたこと、その悦びを何度も巻き戻そうとする。
思い出したくないのに、思い出したい。思い出せば心はいたたまれないのに、体は熱をもつ。
どうしたらいいのか、もう自分でも判らない。
そんな一人百面相を繰り返すこと数日。私はマリコーンに入った。
グリマルディ伯爵領は、アルバ全体から見ればさほど広くはない。マリコーン自体も、中央陸路に面してはいるが、交易の主要都市となっているとは言いがたい。よく言ってのどか、悪く言って新時代の繁栄から取り残されつつある街と言えた。
学院の調査で地方に赴く際には、大体宿は中の上――裕福な市民階級が利用する宿を確保する。自分用の一人部屋と、随行たちの相部屋を確保して荷物を預けると、物見遊山を装って市場に出かけた。
確かに穀物の相場は高騰していた。
隣町のハイアワサからの道のり、途中の村々で密かに確認した。間違いなく災害や天候不順はなく、農民たちは余裕をもって年貢を納められている。それなのに、マリコーンの市場に穀物がない。
「親父さん、なんでこんなに小麦高いの? これじゃ街の人たち、パンもろくに焼けないじゃない」
「そうは言ってもな、そもそも問屋に麦が入ってこねえんだよ。仲買たちも他領に仕入れに行ってるらしいが、運べる量には限界ってもんがあるだろ。俺たちもしんどいんだよ」
なんだかなあ、とぼやく店主に、同情顔を作って「それは大変ねえ」と応える。だが内心で思うのは、勿論別のこと。
やはり年貢として収められた穀物は、グリマルディ伯爵のところで止まっているんだ。
しかしそれが判っても、何とも言えないし、何もできない。グリマルディ伯爵が徴収した穀物を、どの市場に卸そうがそれは伯の自由だ。
けれども、無視もできない。消えた穀物の行方だけでも探り出せれば、と思案しながら宿に戻ると、使者が待ち構えていた。
グリマルディ伯爵家の封蝋が押された書状に、私は眉をひそめるしかない。
確かに私は学術調査で地方に赴く際、その地方の領主たちに学院から事前の申し入れをしている。
私の研究自体はまったく後ろ暗くない。だがマリーシア王妃付の女官である以上、私の訪問は王家に何か含むところがあるのではないかと勘ぐられても仕方がない。
だから領主たちには、調査の内容や日程などを事前に連絡しているし、滞在中に領主から挨拶や招待を受けることはままあることだ。
だが、いくら何でも早すぎる。確かにマリコーンに着くのは今日の予定ではあったが、旅程など往々にしてずれる。到着して一昼夜もおかずに遣いが訪れるなど、まるで待ち構えられていたようだ。
見張られている? ロスマリンは微かに眉をひそめる。
送られてきたのは、平凡な招待状だった。マリコーンへの到着を歓迎すること、ついては領主館での午餐に招待したいこと。その日時は明日――あまりにも性急だ。
「私は今回、王立学院の一職員として貴領をお訪ねいたしました。ですから、伯爵様のお招きに失礼のないような支度がございません。お気遣いありがたく存じますが、このお招き、どうぞご容赦くださいと伯爵にお伝えください」
決して嘘ではない理由で、私は誘いを拒む。しかし使者は、引き下がってはくれなかった。
招待客も他にはなく、伯爵自身とだけの私的でごくささやかな午餐であること。旅装や平服で何ら構わないと主が申していた、と言われれば、断る理由が見つからない。
嫌な予感がしなかったわけでは勿論ない。けれどもこれ以上の固辞は、不審を招く。
かくして私は持参した衣服の中で、最も上等のものを選ぶと領主館へと赴いた。
「ようこそ、バルカロール侯爵令嬢」
「ロスマリンで結構です。今日のわたくしは、貴族としての礼儀を弁えられない有様で参りましたので。王立学院の一教員として接していただければ幸いです」
グリマルディ伯爵ケルナーは、私よりも一歳年下の二十四歳。二年前に父親の急逝により、爵位と領地を相続したはずだ。派閥から言えば、どちらかと言えば反主流派でバルカロールとは交流はない。すべての貴族が集う城での収穫祭辺りで、一度や二度は直面したことがあるはずだが、正直ろくに印象がない。
だがこうしてテーブルを挟んで直面してみて思う。終始変わらぬ穏やかな笑顔の下に、どんな感情を隠しているか判らない型の男だ、と。
午餐は当たり障りなく進んだ。食後のケーキとコーヒーを愉しむために談話室へと促され、そして。
伯爵は何でもないことのように、私に問うてきた。
「ところで以前からお聞きしたかったのですか、どうしてロスマリン様はご結婚されないのですか?」
「どうしても何も、これほど奇矯な女を妻に迎えようなんて男はいませんよ。わたくしが社交界でどのように言われているのか、ご存知でしょう?」
「ええ。だが私は率直に思いますよ。貴女を悪し様に言うどいつもこいつも、見る目がない、と」
まったく表情を変えることなく言い放った伯爵に、私は笑う。
「世辞がお上手で」
「私は貴女を高く評価しているのですよ。学識も、行動力も、容貌も。賢者の慰みもので終わるのでは、女としても惜しい」
聞き捨てならない発言だった。だが私は努めて表情を変えず、伯爵の暴言を受け止める。
私が兄様のお手つきだと思われていること、それはもとより覚悟している。どんなに否定して歩いたところで証拠があるものでもなし、そんなことを抜かす奴らは聞き耳を持たないだろう。
ただ今問題とすべきは――注意を払うべきことは、むしろ。
現宮廷において最大の禁忌、兄様の存在に言及したことだ。
カティス陛下は歴史の定めに従い、宮廷と記録から兄様の痕跡を抹消した。マリーシア様とのご成婚後は、兄様の部屋だった『銀嶺の間』も処分した。そして自身も公の場で、兄様のことについて触れることはない。
もちろん私的な場では別だ。『運命』の存在を知るマリーシア様と私と父。知らないまでも兄様のことがある意味大好きで、兄様を懐かしみたい陛下の本心を察したジェルカノディール公爵とドランブル侯爵。この五人だけが、耳目のない場所で折に触れ兄様のことを振り返る。
しかし他の貴族たちにとって賢者は、陛下の勘気を呼び起こす存在だと受け止められているだろう。だからカイルワーン・リーク大公の名と、賢者の尊称は、今のアルバ宮廷で口にする者などいない。
だというのに。なぜその名を侮蔑を漂わせながら口にする。
相手の内心は読めない。無言で己を見つめている私に、侯爵は続ける。
「そもそも貴女は王妃となっていても何らおかしくない、アルバで最も身分の高い女性だ。それがあんな平民出の女にかしずいている現状は、見るに堪えない」
「伯爵、王妃陛下を愚弄なさいますか」
「最初は賢者に差し出され、奴が消えれば今度は王妃だ。いかに家のためとはいえ、自分の娘をどこまで蔑ろにするのか。簒奪者におもねるバルカロール侯爵の形振りかまわなさには心底呆れますよ」
本気でこの男はそう思っているのか、本気で。
兄様を、マリーシア様を、父上を。そして何より陛下を愚弄するな、この愚か者。
私は怒りで目の前が真っ赤になった。だがそれと同時に心の中の冷えた一部分が、状況を理解しようと動く。
「貴方はわたくしが、嫌々王妃陛下に付き従っているとでも? バルカロールのために忍従を強いられているとでも?」
「だからこうして研究を口実に王宮を逃げ出しているのでしょう? 違いますか?」
思い込みと視野狭窄もはなはだしい返答に、私は軽い目眩を覚えた。
バルカロール侯爵令嬢が、平民出の王妃に頭を垂れることをよしとするはずがない。確かに旧態依然の貴族の常識で考えれば、そうかもしれない。すべてが私の意志――むしろ何もかも私の我が儘から始まったことだったなど、考えられもしないことかもしれない。
けれども、その思い込みを大前提として、私を判断しようとしているのならば――背筋を冷たいものが走る。
この男の狙いは、もしや。
ソファから立ち上がった瞬間、間髪入れずに突きつけられたのは刃。
伯爵が抜いた剣の切っ先は、ぶれることなく私の喉元に触れる。
「どうぞ抵抗はなさらないでください。私も、自分の妻になる女性に、無用な傷をつけたくはありませんから」
「バルカロールは、弟のものです。わたくしを手中に収めても、何も手に入らない。父への脅しにもならない」
そうでしょうか? と酷薄な笑みを浮かべながら、伯爵は私を追いつめる。壁を背に、逃げ場を失った私のおとがいに指を伸ばしてきた。
「お父上と弟君に何かあった時、正式な相続人は貴女お一人ですよね?」
伯爵の示唆するところは、明らか。私はきっと睨むと言い放つ。
「伯爵はバルカロールという家を見くびっている。たとえそうなっても、家臣団はわたくしに付き従うより、戦い独立を貫くことを選びます。貴方はバルカロールと――ひいては国軍と戦って、勝てると思っているのですか」
「そうですねえ。戦わずにすむなら、それに越したことはない。でも」
伸ばされた指はおとがいを滑り、私の首元に延びる。戯れのようにボタンを一つずつ外していく。
あらわになった首筋を、爪が掻いた。
「私たちと戦えば、バルカロールと国軍とて、無傷ではすまないと思いますけどねえ」
複数形が示唆するところに、私は目を見張る。
この謀反には、一体何人の貴族が加担しているのだ。それとも他国が後ろ盾についているのか。
何にしても、このままでは、再びアルバに内乱の火の手が上がる。
「貴方は、わたくしに何をさせようとしているのですか」
「何を仰っておられます、姫。私は貴女を、簒奪者から解き放って差し上げようと言ってるのですよ?」
にこり、と邪気のない笑顔で、伯爵は宣する。
「私と一緒に、貴女の人生を滅茶苦茶にしたロクサーヌ朝に復讐しましょう」
そして奪われた唇。暴れ、逃れようとする私をたやすく押さえ込み、男は私を思うがままに蹂躙する。
息も満足にできない。酸欠で意識が遠くなりかける。力の抜けた私の体を抱き留めると、まるで愛を囁くように――本人はそのつもりなのだろう宣告を下す。
「貴女を妻に迎えます、ロスマリン。結婚式は一ヶ月後にこの城で。沢山の人たちが、私とあなたを祝福してくれることでしょう。その日まで、この城で準備を整えなさい」
それはもう私は解放するつもりはない、という脅しだ。潤んだ眼差しで見上げる私に、伯爵は勝利の陶酔をにじませて囁く。
「私とて手荒な真似はしたくない。いいね」
拒めば力ずくで犯す。そう言外にほのめかす伯爵に私は。
言葉もなく頷いた。今はそれしか、なかった。
かくして私は領主館の客間という、贅沢極まりない牢獄に囚われることとなった。寝台に身を埋めてしばし。
思わず、呻く。
「あの、くそ。気持ち悪い」
貴族の子女にあるまじき品のなさだが、これ以上に私の内心を表すに適当な言葉が見つからない。
奪われた唇を押さえ、思うことは一つ。あの男のより先にここに触れた、別の唇の持ち主のこと。
「ブレイリー……いつ気づいてくれる?」
伯爵は私を罠に嵌めたつもりだろうが、一つ決定的な間違いを犯した。
私との結婚を宣し、それを示威に使うことだ。
私を反乱の旗手に祭り上げるつもりか。はたまた廷臣に動揺を与え、分裂を誘うつもりなのか。
それとも私を従順な操り人形に仕立てて、陛下に害を為そうと企んでいるのか。それは判らない。
だが彼らは判っていない。判るはずがない。
誰とも結婚しようとしないこの奇矯な姫君が、実は市井に長年思い慕う相手がいること。
そのことを、陛下のみならず父まで知っていること。
故に、私が別の男と結婚すると宣すること自体が、非常事態だと即座に理解されること。
その男のことを誰よりもよく理解しているのが、他ならぬ陛下であること。
そして陛下も、その男もまた、私のマリコーン行きが危険をはらんでいるということを、すでに認識しているということ。そのためにわざわざ中央陸路からそれて、レーゲンスベルグへ寄ったのだから。
伯爵は私のことを、飛んで火に入る夏の虫だと思っていることだろう。けれども私だって、無警戒に飛び込んだわけではない。随行たちは私が領主館に向かうと同時に、密かに宿を脱出させている。合流場所に私が現れなければ、彼らは即座にマリコーンを脱出してアルベルティーヌへ走ることになっている。おそらく私が領主館から出られなくなったことは、最速で王都へ伝わるはずだ。
そうでなくとも、もし伯爵が私との結婚を喧伝する準備を整えて待ち構えていたとしたら。
それだけで、もう事は伝わる。
だが問題は、もちろん。この事態に対し、誰がどう動くのかが判らないことと。
私自身が、もちこたえられるか、どうか。
「ブレイリー……ごめん、あなたの言うとおりだった」
結婚式まではまだ一月ある。だがそれまでの間、あの男は私に手を出さずにいるだろうか。あの男の気をそらし続けることができるだろうか。
嫌だ。そう思った。あの男を油断させるためには、貞操くらい――己が体くらい諦めればいい。それで傷つくような、やわな矜恃の持ち主ではないだろう。そう思う自分もいないではない。
でも嫌だ。それが本心だ。あんな男のものになるのは、決して。
誰かが助けに来てくれるのが早いか、それとも自分で逃げ出すのが早いか――そう考えて、私は自嘲を込めて笑う。
駄目だ、やっぱり私は奇矯だ。
「お願い、助けてブレイリーって、好きな人のことを思って泣けばいいのにねえ……」
しかし後になって思い返してみると、この時の私は十分恋する乙女だった。
この部屋に閉じ込められてから、一体何度彼の名を口にしていたことか。それは私の如実な本心だった。