彼方へと送る一筋の光 23

 今でも目を閉じれば、鮮やかに甦ってくる情景がある。
 路地裏の薄暗がりに、子どもがうずくまっている。その背中が小刻みに震えているのを見て取って、俺は努めて穏やかに声をかけた。
『カティス、帰ろう』
 アンナ・リヴィアが心配している。傍らに寄り添い告げると、カティスは顔を上げた。
 緑色の大きな目に涙が一杯にたまっているのを見て取って、俺は胸が詰まる。
 こいつが誰に苛められてきたのか、何を言われてどんな目に遭わされてきたのか。それが判っていてもなお、俺は言い放つ。
『馬鹿、なんて顔をしてるんだ。泣くな』
 セプタードならば怒りのあまり、苛めた奴らに突っ込んでいくかもしれない。けれども俺にはそれがどれほど無意味なことなのか、身にしみて判っていた。
 たとえ俺たちが何をしたところで、何も変わらない。
 自分より弱い者を嬲り、見下すことで己の優越感を満たそうとする輩は、決していなくならない。
 たとえ他人がどれほど戒め罰し報復したとしても、本人がそれをはねのける強さを見せない限りは、次の輩が現れるだけ。暴虐は決してやむことはない。
 相手はお前が傷つく様を見たいのだから。
 お前が屈する様を見て、己の優越感と嗜虐心を満たすのだから。
 この貧しく荒んだ者があふれる最下層では、加虐は最も手軽な娯楽なのだから。
 苛まれたくなければ、強くなるしかない。
 現状を、境遇を変える力など、子どもの自分たちにはない。ならばせめて強くあるしかない。
 決して屈せぬと、お前たちの思い通りにはならないと、折れぬ己を見せつけるしかない。
 だけど、だ。
 俺よりまだ小さい、たった八つのカティスにそれを突きつけることが、どれほど酷なことか。
 それを望むことが、どれほど無体なことか。
 そんなことは、俺が誰よりも判っている。だから俺はこれ以上何も言えなかった。
『だって……ブレイリー……だって……』
 ひくり、としゃくり上げるようにこぼされた言葉に、胸がきりきりと痛んだ。
 思わず伸ばした手。頭を撫でてやると、むしろそれはカティスの中の堰を切ってしまった。
 大粒の涙がぽろぽろと、後から後からこぼれ落ちる。噛み殺そうとし、けれども叶わずこぼれる嗚咽に俺は、たまらずその体を抱きしめていた。
 あやすように背中を撫でてやると、カティスも俺にしがみついてくる。
 堪えきれない。呑み込みきれない。それが判っていてもなお、懸命に堪えよう呑み込もうと強ばる体を、俺はただ抱きしめてやることしかできなかった。
 不憫だ。そう思った。
 貧しい私生児だと嘲笑われ虐げられることも、それを堪えろと強いることしかできないことも。
 こいつ自身は何も悪くないのに。何一つ、悪くないというのに。
『カティス、辛いよな』
 どれくらい俺たちはそうしていただろう。腕の中、泣き止んだカティスに、やがてそう問う。
『なんでこんな思いをしなきゃならないんだって、そう思うよな。俺もそう思うよ。だけど全ての人に好きになってもらえることも、優しくしてもらえることもありえない。自分を理由もなく嫌う奴も、傷つけてくる奴も、絶対いなくならない。そいつらを変えることもできない。悔しいけど、それが現実だ』
 こくり、と小さく頷くのを、俺の胸が感触で確かめていた。
『だけどカティス、一つだけ覚えていてくれ。全ての人を味方にすることはできない。けれども、全ての人が敵でもないってことだけは』
 それはこれ以降の俺の人生を決めることになる約束。
『俺はこの先何があろうとも、お前の味方だ。たとえ世界中の誰もがお前の敵になったとしても、少なくとも味方が一人はいる』
 カティスは俺を見上げていた。その眼差しに俺は、胸の中に温かいものがこみ上げてくるのを感じた。
『俺一人じゃ足らないだろう。俺じゃお前の辛いこと、何一つ変えられないかもしれない。何も減らしてやれないかもしれない。それでも世界の全てがお前の敵ではないんだってこと、それだけはどうか覚えておいてくれないか』
 カティスは黙って頷くと、再び俺に頭を預けてすがりついてきた。人の温もりを、慰めを求めて甘えるその仕草に、俺は紛れもなく充足感を抱いていた。
 今になってみれば判る。甘えていたのは俺の方だ、と。
 結局俺がカティスに抱いていた感情は、庇護欲に他ならない。けれどもそれは自分よりも相手を弱いものと見なし、愛玩しようとすること。己の方が優位であると確認し、優越感を満たそうとすること。
 守ることで、あいつを自分より下の位置だと誇示しようとすること。
 それはあいつを蔑み苛んでいた輩が抱いた感情と、一体何が違っていたのだろう。
 ロスマリンは、俺ほど人の心に聡く優しい人を知らない、と言った。冗談じゃない、ただの買いかぶりだと心底思う。
 もし俺が人に尽くしたことがあったのならば、それは誰かのためじゃない。自分のためだ。
 すべては俺の自己満足だ。俺はただ他者に対しての優越感と充足感を得たかっただけだ。
 俺は誰かのためになっている、俺は必要とされているという、実感がほしかっただけだ。
 それは俺のエゴから始まった押しつけに過ぎない。
 あの幼い日、カティスが痛みを堪えられなかったように、俺もまた自分の寄る辺なさを堪えることができなかったのだから。
 カティスを守りたいと願ったことも、セプタードと道を共にしたいと願ったことも、奴らのためじゃない。自分のため、自分の拠って立つ支えを得るためだった。
 自分の命は、存在は必要ないのだと――むしろ家のためには邪魔なのだと突きつけられた俺は、何のために生きればいいのか――何をしたら生きていていいのかが判らなくなっていた。
 あいつらにすがりついていたのは、むしろ俺の方だった。
 だからカティスもセプタードも、俺に恩義も負い目も感じる必要はない。俺は俺のしたいようにしたのだし、欲しかったものをお前たちから得た。それで十分だった。
 十分すぎるほどだと思っていたし、今でもそう思っている。
 けれども今になれば判る。きっとあいつらには何も伝わっていない。
 そばにいてくれたことを、共にあってくれたことを、俺がどれほど感謝していたのか。
 お前たちがいてくれたことで、俺がどれほど救われたのか。どれほど満たされたのか。
 そのことを伝えることを、俺は怠った。否、伝える必要を理解もしないほど俺は病んでいた。
 伝えなかったことが、これほどまでにセプタードとカティスを――二人だけじゃない、ウィミィや幹部を始めとした多くの傭兵団員たちや子どもたちを苦しめることになっていたなどとは、考えもしなかった。
 俺があいつらに必要とされることで心の充足を得たように、あいつらだって俺に必要とされたいと願っていたのだろう。必要とされているという実感が欲しかったのだろう。
 伝えたい、と今は心底願う。
 何もできてなくなんかない。
 お前たちは俺に沢山のものを与えてくれた。それがあったから、今まで生きてこられた。
 負い目なんて抱く必要はない。罪悪感に沈む必要なんてないと。
 だけど、どうしたら伝わるだろうか。どうしたら伝えることができるのだろうか。
「奥方様、皆様のおもてなしの準備が整いました」
 物思いはほんの一瞬、幻のように眼前を通り過ぎていく。はっと我に返るとそこはレーゲンスベルグの裏路地ではなく、豪奢な玄関ホール。
 そうだここは、アルベルティーヌのバルカロール侯爵邸。
 メイドのお仕着せを着た女性に告げられ、侯爵夫人は鷹揚に頷く。
「貴方のことだから、きっと気になっているでしょう。おいでなさい」
 夫人の言葉の意味は、訳が判らぬまま連れられ足を踏み入れた場所で理解した。
 そこはおそらく部下たちが通されたのだろう別棟。客人をもてなすためのものだという建物は、中央に吹き抜けの素晴らしいホールを持っていた。
 扉を開けると、沢山の者たちが立ち働く軽やかな喧噪があふれてきた。
 そこには立食の酒宴の用意が調えられていた。幾つもの大きなテーブルには、質量ともに見事な大皿料理がずらりと並べられ、湯気を上げている。またワインやビール、林檎酒の樽も積み上げられ、磨き上げられたグラスとともに注がれる時を待っていた。
 給仕のために集められたのだろう、年若いメイドと家令たちが、俺たちの姿を認めると華やいだ声を上げた。
「お帰りなさいませ、姫様!」
「よくぞご無事でお戻りくださいました!」
「初めまして、ザクセングルス様。ようこそバルカロールへ」
「傭兵団の皆様のご活躍、我々一堂胸がすきました。よくぞあの不埒な連中を打ちのめしてくださいました!」
「皆様のご到着、いまかいまかと待ちわびておりましたよ」
「今日のために心を込めてご準備いたしました。どうぞご賞味くださいませ」
 呆然とする俺に、キアノが満面の笑みをたたえて歩み寄ってくる。
「全力で歓待する、と申し上げましたでしょう? 旦那様」
 ちょっと待てその呼び名は何だ、という言葉は喉の奥に消えた。キアノは俺の動揺を意に介することなく、問いかける。
「我ら家臣一同、傭兵団の皆様の労をねぎらいたく存じます。粗食ではございますが、皆様をお招きしてよろしいでしょうか?」
「母上、さすがにここまでしていただくのは……」
 思わずこぼした俺に、侯爵夫人は面白そうに笑う。
「姫を助け出した者たちに対してのもてなしがこの程度かなどと吹聴されては、当家の名折れ。レーゲンスベルグで貴方たち二人が恥をかくような振る舞いなど、私が決して許しません」
「……はい」
「存分に食べて飲んで楽しんで、戦と旅の疲れを癒してもらいなさい。貴方の部下たちは、バルカロールの者たちにとっても大事な客人。私たちはこれから、そういう関係を築いていければと思っています」
 その言葉に俺は内心で、ああ難しいな、と正直に思った。
 俺は紛れもなくこの人に、バルカロール侯爵家の人間として働くことを求められている。レーゲンスベルグの重責を担う傭兵団の団長でありながら、同時にアルバの重責を担う宰相家の一員であれと。そう求められている。
 そのことには否は言えない。タランテルの恩義と今後のことがある以上、その覚悟は固めた――予想だにしていなかったことではあるが。
 だが傭兵団とバルカロールとをどう関わらせるべきか。どうやって、どれくらい距離を置くべきか。それはこれから俺が悩んで、はかっていかなければならないことだろう。
 だが少なくとも、今は。
「母上、お願いがあります」
「なんです?」
「俺たちを一方的にもてなすのではなく、この館の者たちもこの場に加えてはいただけませんか? あいつらと一緒に、ロスマリンの無事を祝ってやってもらえませんか? 無論手隙の者だけで構いません。その方があいつらも、身の置き所に困らずにすむでしょう」
 あら、と侯爵夫人はどこか楽しげに笑った。そうして傍らに控える家令に頷く。
「お前たち、喜びなさい。旦那様が、我々に相伴に預かれと仰せだ。お前たちも今日の良き日を存分に楽しむといい」
 キアノが告げると、歓喜の声があふれた。侯爵夫人がいるにも関わらず、かしこまるばかりではない使用人たちのその様子に、バルカロールが意外なほど砕けた明るい家であることを俺は実感した。
 そうしてホールに案内されてきた部下たちは、予想外の歓待にやはり目を丸くした。言葉に出さず、物問いたげに視線を送ってきたジリアンに歩み寄ると、軽く頭をはたいて告げる。
「全部うまくいった。安心していい」
 そして俺は戸惑う配下たちに気安く告げた。
「遠慮なく馳走になれ。ただし羽目を外しすぎるなよ。礼儀をわきまえぬ不調法者なのは俺も含めてだが、それでも傭兵団の面子に泥を塗らないようにな」
 わっという歓声とともに、賑やかに酒宴は始まる。色よく焼かれた塊肉や大きなチーズが切り分けられ、大きな鍋から汁物がよそわれる。傭兵団員と館の使用人たちが酒を酌み交わし始める様を確かめ、俺は侯爵夫人に問いかけた。
「一つ気になっていることがあります――侯爵様は、今登城されているのですか?」
「この数日――ロスマリンが貴方たちに救出されたとの連絡を受けて以来、城から戻ってきていません。陛下とともに、事態の収拾にあたっております」
 ジェルカノディール公爵の密偵たちがマリコーン領主館に入り込んでいた以上、現地入りしていた謀反貴族の詳細は早くからカティスに伝わっていたことだろう。
 おそらくカティスとバルカロール侯爵は、謀反失敗とロスマリン救出の報をもって、王都に潜んでいた残党のあぶり出しをしているはずだ。
 俺たちがマリコーンを出立して、今日で五日。おそらく捕縛と事態の沈静化は完了している頃合いではないかと思うが。
「城に俺たちが到着しているとの連絡は?」
「それは当然、すませてあります」
「ならばいつロスマリンに登城の命が下っても、侯爵様がお戻りになっても、不思議ではありませんね」
「さすがに着いたばかりの今日中に、登城を命じられることはないと思います。ですがエルフルトは戻ってくるでしょう。謁見の前に事の子細を確かめておきたいでしょうし、何より娘が無事に戻ったと聞いて、飛んで帰ってこない父親ではありませんよ」
 当然の回答に、俺は「だとすれば」と小さく笑う。
「ここで俺が飲んだくれているわけにはいきません。求婚相手の父君に初めてお目にかかる時、酔っ払って人事不省に陥っているのでは、許してもらえるものももらえなくなる」
 俺の言葉に、侯爵夫人は「それも道理ねえ」ところころと笑った。
「それなら食堂に軽食でも用意させましょう。ロスマリン、あなたはどうする?」
「私も彼と一緒に」
 いまだ顔色が回復しないロスマリンの内心は、手に取るように判った。だから俺は頷くと、一人壁際に寄ってホールの様子を見つめていたジリアンに歩み寄った。
「俺にはまだやることが残っている。この場は任せる」
「団長に、失礼を承知でお伺いしたいことがあります」
 俺を見上げるジリアンの目が、迷いと不安に揺れているのを見て取って、俺は首を傾げた。
「なんだ?」
「申し訳ありません。俺、昨日団長とアデライデさんが話していたこと、聞いてしまっていたんです」
 あんな場所で話してたら、あの時間の見張りに当たっていた者には聞こえてしまっていただろう。それは仕方ないことだが、ジリアンは何に迷っているのか。
「セプタードさんとタンロウィサ部隊長が、解団も退団もやむなしと仰った気持ちは判るんです。団長ご自身に望むように生きてほしい、これ以上望まぬ責務に縛りつけるようなことはしたくない、と思われたその気持ちは。自分たちのために、ロスマリンさんを諦めることはあってはならない。それは俺たちだって一緒です。だけど――だからこそ、お伺いしたいんです」
 まるで捨てられそうな子犬のようだ。俺はジリアンを見てそう思った。まるですがりつく子どものような顔。
「団長は、これまで通り俺たちの団長でいてくださるんですか」
「ジリアン、それは……」
「俺は団長がこの家に認められないはずはないと思っていた。だからこそ不安だった――団長が貴族たちに連れていかれてしまうんじゃないかって。それが部隊長たちが言った『退団もやむなし』の意味だって、そう思いました」
 どきり、とした。心臓が一つ大きな音を立てるのを、俺は聞いた。
 自分がつい先刻まで考えもしなかった可能性を、ジリアンが――ひいてはセプタードとウィミィが示唆する。
「確かに組織としての傭兵団は、もう団長がいなくとも回るかもしれない。団長がそれを選ばれるのなら、それがご自身の幸せになるのなら、俺たちは笑って見送らなければならないことは、理性では判っているんです。でも感情は、本心は違う」
 葛藤に震える唇が、その本心を紡いだ。
「俺は――俺たちは、あなたの下で働きたい。セプタードさんや部隊長が望むように、俺たちだってあなたと生涯を共にしたい」
 恐ろしいほど真っ直ぐな訴えかけだった。謙遜も卑下も自己否定も打ち砕かんとばかりに、ただ真っ直ぐはっきりとジリアンは俺に好意を突きつけてくる。
 逃れることもごまかすこともできないその問いかけに、俺は小さく嘆息した。
 そして正直に問いかける。
「お前たちはどうして、そんなに俺のことを慕ってくれるんだ?」
 卑下でも自己否定でもなく、純然たる疑問としてある。
 俺の何が、お前たちの心を捕らえたのか。俺の何が、お前たちの心を満たしたのか。
 お前たちは、どうしてこれから先も俺と人生を共にしたいと願うのか。
 俺はお前たちを恩義で縛りつけるつもりは毛頭ない。助けたことの報いとして、己の人生を捧げてほしいだなんて、かけらも思っていない。
 しかしお前たちは、自分のために、俺と共にありたいと願ってくれる。それはなぜなのだろう。
 判らず問うしかない俺にジリアンは、くしゃりと顔を歪めて呟いた。
「あなたほど、ちゃんと俺たち一人一人のことを見ていてくれた人はいない。何が好きなのか、何に秀でているのか、何に向いているのか――何に飢えていて、何に傷ついているのかちゃんと見ていて、全員が違う欲しいものを、間違わず与えてくれた」
 伸ばされた手は、すがりつくように俺の手を掴む。たった一本残された、俺の左手を。
 剣を握るにしてもペンを握るにしても、失った右手に比べて動いてくれない、力不足だとずっと思っていた俺の左手を。
「打ち捨てられ誰にも顧みられなかった俺たちを、あなたが肯定してくれたんだ。己の人生を嘆いていいと、辛いと言っていいと、その上でなお生きたいのなら、ここにいていいと言って抱きしめてくれたんだ。そんな相手を、どうして好きにならずにいられるというんですか」
 十四年前、大陸統一暦1000年のアルバは凄惨を極めた。二年続いた大凶作に、死者と貧民と孤児が街中にあふれかえった。カイルワーンとカティスが、たとえ大罪を犯し己の人生を犠牲にしても、疫病と内戦を止めなければならない――これ以上の悲劇を起こすわけにはいかない、と思い詰めるほどに。
 その苦悩と悲歎を一番近い場所で見ていた俺は、戦後あいつらとは別の高さで――市井の底辺で、現実に直面した。
 覚えている。ジリアンや他の子どもたちが、俺が拾った時どんなに追いつめられていたか。どんなに心が荒み、疲弊しきっていたか。
 それは三十二年前の己の姿だった。先生に掬い上げられ、ようやく息をすることを思い出した、かつての俺だった。
 判る。今なら正直に言える。
 見捨てられるはずがなかった。
 先生が俺に手を差し伸べてくれたように。先生が俺を抱きしめてくれたように。
 俺が同じことをせずにいられるはずなどなかった。
 それは傭兵団のためじゃない。己の心のためだ。
 こいつらを見捨てることは、過去の自分を見捨てることだ。過去の自分が抱いた感謝や尊敬や憧憬を、自ら穢すことだ。
 そして俺が先生のことを生涯慕い感謝し続けるように、同じ思いをお前は俺に抱くのだろう。
 あふれかえるほどの共感をもって、俺はジリアンを見つめた。
 俺たちは先生に、もっと長く生きていてほしかった。俺たちを見守っていてほしかった。
 もう少しだけでいいから、そばにいてほしかった。その思いは終生消えることはないだろう。
 お前がそんな俺と同じ思いを抱いているというのなら。俺が先生を恋うように、お前が俺を望むというのなら。
 俺はその気持ちに応えたい。応えなければならない、のではなく。自ら望む。
「確かに俺にはこれから、この家でしなければならないことがある。それはロスマリンのせいではなく、俺の出自に関わることだから、逃れられることでも逃れていいものでもない。そういう点で、俺が貴族社会に連れていかれるというお前の懸念は、当たりかもしれない」
 俺の左手を掴むあいつの手が、びくりと震えた。目の前の相貌が泣き出しそうに歪むのを見て、俺は小さく笑った。
「これから先、傭兵団とお前たちを全てにすることはできないかもしれない。それは許せ」
「団長……」
「だけど俺を信じろ。この十四年、俺をこの世に繋ぎとめてくれたお前たちを、見捨てることは決してしない」
 ジリアンはしばし黙りこくると、潤んだ眼差しで俺を見つめて頷いた。
「レーゲンスベルグでなくても構わない。傭兵団という形でなくとも、臣として仕えろというのならそれでも。あなたが何者であっても、気持ちは変わりません。あなたが俺たちを連れていってくれるのならば、どこへでも」
 ああ、こいつは昨晩のアデライデの示唆を、間違いなく読み取ったんだな。今まで聞いてきた噂も含んで、俺の素性も悟ったのだろう。こいつの勘と察しの良さは、俺が一番よく判っている。
「俺たちに、あなたの進む道の供をさせてもらえますか」
「約束する」
 ただ一つしかない俺の応えに、もはやすがりつく必要がなくなった左手は解かれる。だから俺はその手でジリアンの頭を撫でた。
 出会った時誰よりも子ども扱いされることを嫌った少年は、十四年たって子どものように安堵した顔を見せた。
「行ってらっしゃいませ。こちらのことはお任せください。ご武運をお祈りしています」
 ああ、と俺もまた素直に首肯した。
 そして俺とロスマリンは喧噪から離れ、母屋に戻る。その道すがら、俺はそっと問いかけた。
「今全部話した方がいいか? 昔のこと」
 ロスマリンは立ち止まり、俺を見上げた。その横顔が、夕陽に照らされて赤く染まる。
「落ち着いたらちゃんと全部話すつもりだったが、心底胸くそ悪い話だ。だから昨晩は、かいつまんでしか話さなかった」
「……うん」
「中途半端に聞かされた今の状態が生殺しで辛い、というのなら話す。ただお前は今、本当に疲れてる。正直こんな状態のお前に聞かせたら、倒れるんじゃないかと心配になる。それくらい気分が悪くなるような話だ」
 正直今は聞かせたくない。それが俺の本心だ。
 俺の内心を悟ったのか否か。わずかに悩む素振りを見せると、ロスマリンは小さく頷いた。
「気にならないと言ったら、それは嘘になります。だけど昨夜話したように、私が好きになったのは、今ここにいるあなた。そして母上が言ったように、その今のあなたを形作ったのは、その痛ましい過去です。それがどんなものであったとしても、あなたが何者であったとしても、それを私が知ろうと知るまいと、今のあなたという人が変わるわけではありません。そして勿論、あなたを好きだという私の気持ちも」
「……ありがとう」
「私が受け止められるとあなたが見極めたら、話して」
 答えは額に唇で返した。抱き寄せるとロスマリンは何も言わず身を預けてきた。その体の温かさに、俺は瞑目する。
 胸の中にゆるゆるとこみ上げてくるのは、実感。
 これからのことを考えれば不安も懸念もある。けれどもそれに優る大きな現実が一つ、今腕の中にある。
 俺はこいつを娶ることができる。それ以上に大きなものなんて、ない。
 そうして母屋に用意されていた食事を二人で取り終える頃には、日も完全に暮れた。侯爵の帰宅を待つにしても、お互い休んでいた方が無難だろう。ロスマリンにそう促すと、控えていた年配のメイドが恭しく告げた。
「ザクセングルス様のお部屋も、用意が調っております。どうぞこちらに」
 通されたのは、母屋の三階。俺はその部屋の設えに思わず息を呑む。
 重厚なマントルピースを備えた暖炉で薪が燃えさかり、ふんだんに灯された蝋燭が室内を照らしていた。敷かれた絨毯の織りも上等、大きな寝台の天蓋にも絹のリネンにも見事な刺繍が施されている。あまりにも暖かで明るく贅を尽くした寝室に呆気にとられた後、俺は内心で独りごちだ。
 なるほど、本当に婿だ、と。
 ここは客間ではない。おそらく当主一家用の居室。ロスマリンや侯爵令息の部屋と同格だろう。
 侯爵夫人は本当に、俺を今からバルカロール家の一員として遇するつもりなのだ。その意思がありありと伺えた。
 そのことが嬉しいかどうかは、自分でも掴めない。侯爵夫人が初対面の俺を、どうしてここまで高く評価するのかもまた。だが今目の前に広がる景色は、俺の記憶を揺さぶる。
 二度と足を踏み入れることもないと思っていた貴族の世界は、俺を過去へと引きずり戻す。
 懐かしい、という苦い思いが、胸いっぱいに広がる。
 タランテルはアルバ北部国境の街。決して大きくはないが、エグランテリアへの備えとして重要な位置にあった。ザクセングルスの父祖は戦功をもってこの地を賜り、以来街と領地、国境を守り続けていた。
 決して裕福な街ではなかった。それでも人は慎ましく日々を暮らし、ささやかな幸せを積み重ねていた。俺が母や家臣に連れられ街にでかければ、必ず温かく親しげな声をかけられた。
 公子、どうぞお健やかに。そう屈託なく笑いかけてくれた人たちも、今となっては遠い。
 あの人たちは、生きているだろうか。生きているとしたら、この三十二年をどんな思いで過ごしてきたのだろうか。
 ザクセングルス家崩壊の要因は二つ。一つは国境での衝突が頻発しているにもかかわらず、王家からの支援が滞りだしたこと。これはウェンロック王即位後顕著となり、そのためザクセングルス子爵領の財政は火の車となった。
 もう一つは母の実家・ハイデグルース家の没落だ。元々ザクセングルスより格上の伯爵家であったが、伯父が不祥事を起こしたことで家が一気に傾いた。
 ここにつけ込んできたのが、父に多額の貸し付けを行っていた豪商だった。側妾として娘を娶れという要求を、父は受け入れた。豪商の狙いが、家の乗っ取りにあると判っていても。
 いやむしろ父自ら、愛人を通じてその豪商と深く結びつくことを狙ったのかもしれない。実際その女は正妻ではないにもかかわらず、母を差し置くように振る舞い、それを父は一切咎めなかった。
 やがて愛人は妊娠し、男子を産んだ。この子が本当に父の子であったのかは定かではない。しかしこのことにより、母と俺の立場はより一層微妙なものとなった。
 母の生家ハイデグルースは、本来ザクセングルスよりずっと格上だ。これを蔑ろにすることは、父も愛人も表向きは許されない。父は体面上、母を離縁し愛人を正妻に据えることはできなかった。
 しかし現実では家が没落している以上、母は孤立無援だった。両親はすでに亡く、兄弟たちに後ろ盾になってもらえないのは明らかだった。
 格式か実利か。かくして家臣たちは正妻派と愛人派に分裂し、やがて決定的な事件が起きる。
 あの日のことを、三十二年たった今でも俺は鮮明に覚えている。
『その子が、私と私の子を殺そうとしたのです!』
 あの女は、芝居がかった口調で――だが明らかに勝ち誇った顔をして、そう俺を糾弾した。
 事実無根だった。けれどもそう訴える俺の叫びを、聞いてくれる者は誰もいなかった。俺は父の命により投獄され、自白を強要された。
 素直に認めろ、自分がやったと言え。捏造された証拠を突きつけられ、責め上げられても、俺は決して折れなかった。
 たった十歳だった俺にも判っていた。ここで俺が認めてしまったら終わりだと。
 この陰謀は、俺以上に母を陥れるためのものだ。俺を罪に問いその責任をもって、俺の廃嫡と母の離縁追放を目論むもの。最悪の場合は、諸共に処刑だってあり得る。罪を認めたところで、決して楽になることなどあり得ないと子供心に判っていた。
 俺はただひたすら、己の身の潔白を訴え続けるしかなかった。
 俺への追及は、やがて暴力――拷問へと進んでいった。自白を引き出した者を、高い地位で取り立ててやる。あの女の言葉に、愛人派の多くの家臣たちが競って俺を嬲った。
 あの底冷えのする牢獄の中で、沢山の大人たちにされたことを、俺は決して思い出したくない。
 そうして幾日が過ぎただろう。やがてその行為は、手段から目的へとすり替わっていく。
 正妻に見切りをつけ、私への恭順を誓うのならば、忠誠を形にして示せ。拒み逆らう者は容赦しない。
 あの女の下した残酷な命令は、ザクセングルスの家中に毒をまき散らした。
 母の敗北はもはや決定的だ。全ての家臣が愛人に下り、その忠誠の証として俺への暴行に加わった。
 生き残るため、家族を守るためだ。仕方ない許してくれ。
 そう口にしながら、俺に虐待を加えた。
 そうしてあの女は、ザクセングルスの全てを手中に収めた。もはやあの女に逆らえる者は、家内には誰もいなくなった。
 あの女が狡猾だと思うのは、そうやって反対派の家臣たちに罪悪感を植え付けたことだ。たった十歳の罪もない子どもを、保身のために見捨てた。後の主君と仰いだ者を、自らの手で苛み踏みにじった。
 これでお前も我らと同罪、我らの共犯。その罪から逃れるためには、その罪を許す我らと共にあるしかない。共にこの罪を隠蔽し続けるしかない。
 そう突きつけられた弱く善良な家臣たちは、もはやあの女の言いなりになるしかなかった。命じられるまま暴行に加担し続けて、やがてそれに慣れていった。
 嗜虐は人の心を狂わす甘い毒だ。そのことを、俺はあの地獄の中で思い知った。
 最初は命じられ、良心の呵責に耐えながら泣く泣く俺を苛んでいた者たちが、やがてそれを自ら喜々として行うようになる。そのまるで酔ったような、愉悦に満ちた眼差しに、俺は自らの心が凍っていくのを感じた。
 人を見下し傷つけ支配し、己の優越感を満たすことは、そんなにも気持ちのいいことなのかと。
 あれほど俺を慈しみ、大切にしてくれていると信じていた者でも、こんな風に変わり狂っていくのかと。
 人の心は変わる。こんなにも簡単に変えられてしまう。そのことに、俺はただ絶望するしかなかった。
 だがそれでも歯を食いしばり続けたのは、ここで自分が屈すれば母はどうなるという思いからと、そして。
 それでも俺はこの時まだ、父のことを信じていた。
 決して優しい人ではなかった。抱き上げてもらった記憶も、温かな言葉をかけてもらった記憶もない。家を守るための後継ぎとして、努力することが当たり前。しくじれば容赦のない叱責を浴びせられた。
 それでも血のつながった、実の親子だ。そこには一欠片は情愛があると、憐憫があると、そう信じていた。
『助けてください、父上。僕は何もしていない。僕は何もやっていない!』
 父が俺の下を訪れたのは、投獄されてからどれくらいたった頃だったのだろう。時間の感覚もなくなっていた俺には判らなかった。
 けれども俺はその姿を認めると、衰弱しきった体を懸命に起こし、訴えた。
 助けて。ここから出して。
 地位などいらない。廃嫡で構わない。家も財産も爵位も何もかも、弟とあの女にくれてやっていい。
 ただ命だけは助けて。この苦痛から、地獄から解放して。そう懇願した俺に、父はかけらも表情を変えずに言い放った。
『まだ生きていたのか。しぶといな。とっととくたばれ』
 その瞬間、俺の中で何かが壊れていくのを感じた。
 胸の中にあふれかえったのは、ただただ深い寂寥感と虚無感。
 もう悲しいとも、苦しいとも、辛いとも感じなかった。涙も出なかった。
 父にとって俺はもう用済みなのだ。愛人の家とつながり支援と財を得るためには、俺と母はただ邪魔なのだ。愛人とその家に、慰みものとして差し出したところで何も心は痛まない。その程度のものなのだ。そう突きつけられた。
 ああ、これが貴族という生き物か。ぼんやりと、そう思った。
 この人にとっては、子どもとはそういう存在なのだ。
 愛などない。大事なことは家を守ること。領地を守ること。母との結婚も、母との間に俺を為したことも、愛人との関係もそのためだけのもの。俺は後継ぎをもうけるという責務の産物に過ぎなかったし、異母弟という代わりが得られれば、もはや用済み。どうなっても構わないのだ。
 責務を果たすためなら、己の血を分けた子どもを犠牲にすることに何のためらいも感じない。父はそういう人だったのだ。
 きっとこの父だけがおかしいのではない。父もまたこの家を継ぎ守るために、祖父母にそうやって育てられた。この家は、ザクセングルスは――貴族とは、そういう生き物なのだ。
 そうしなければ、家や領地など守れない。そんな生き方しか許されない。
 だとしたら、貴族とは、なんて哀れな生き物なのだろう。そう心底思い、その端くれである己に絶望した。
 もういい。そう思った。もういい、死なせてくれ、と。
 そうして俺は、ただ加虐を受け入れる人形となった。泣きもせず、助けも求めず、抵抗もしない。何をされてもされるがままの俺を、嗤いながら多くの大人が弄んだ。
 もうどうでもいい。好きにすればいい。そうしていれば、そのうち息が、心臓が止まる。父が望んだように、惨めにくたばるだろう。もうそれでいいと思った。
 しかしそれは叶わなかった。父に見放されたあの日から、どれくらいたっていたのかは判らない。けれども疲れ果て、気を失っていた俺を抱き上げ、母は泣いた。
『ごめんなさい、本当にごめんなさい、あなたをこんな目に遭わせてしまって。こんなにも時間がかかってしまって』
 俺が投獄されてから、母がどんな日々を送っていたのか。母がこの時、どうやって牢の鍵を手に入れたのかは判らない。長じた後も聞かなかった。
『私が必ずあなたを守るから。私はあなたがいてくれれば、生きていてくれればそれでいいから。だから逃げましょう、ブレイリー』
 そうして母は子爵夫人と伯爵令嬢という身分も、それまでの人生も、何もかもを捨てた。華奢な体で俺を背負い、手引きしてくれた牢番の青年に見送られ、夜陰に紛れてタランテルを脱出した。
 この時の母に目指す場所があったのか、頼る当てがあったのか、俺にも判らない。愛人一派が俺たちに追及を差し向けていたのかどうかも。けれども俺と母は、ただひたすらに逃げた。
 タランテルは北の外れ。中央陸路を南へ――だがその逃避行は、たとえようもないほど過酷なものとなった。
 俺は自分の人生で、最も苦しかったのはいつだったか、と問われたら、ためらいなくこの時だと言う。投獄されていた時でも、王宮で死線をさまよい、此岸と彼岸をさまよっていた時でもない。
 母が家を出る時持ち出した金品は、早晩尽きた。伯爵令嬢として育てられた世間知らずの母は、金を稼ぐ術を知らなかった。
 村から村、街から街へ。母と俺は辿り着いた先々で心ない人たちに蔑まれ、騙され、追われることを繰り返した。
 何も食べられない日も珍しくなかった。野宿も当たり前、民家の軒先や馬小屋を借りられれば幸運だった。投獄でもとより消耗していた俺は何の役にも立たず、そんな俺の命を繋ぐために、母はもはや形振り構ってはいられなかった。
 ついに母はわずかな金銭と引き換えに、男たちに体を売った。
 元はいいところの令嬢だろう。そんな女が、ここまで堕ちるのか――俺の眼前で母を組み敷き貫いた男たちの嘲笑は、今でも耳に残っている。
 そんな下衆どもに一矢も報いることもできぬこと。そんな男どもにすがることでしか、生き延びられぬこと。その絶望に、俺は息が詰まった。ただ生きて、息をし続けていることすら辛かった。
 何のために生き続けなければならないのか。俺にはもう判らなかった。
 もう死なせて。お願いだから死なせてくれ。そう何度願っただろう。けれどもそれは母には言えず、そうしてあの運命の日が来た。
 あの日は冷たい雨が降っていた。そのことを俺は高熱にうかされた、朧気な意識の中で覚えている。
 辿り着いた南の街、その路地で俺は倒れた。
 もはや俺の体は限界だった。母がそんな俺を抱え続けることもまた。
 全身を叩く強い雨。泣きながら俺の名を呼ぶ母の声。遠くなっていく意識の中でそれらを感じながら、ただただ俺は安堵していた。
 これでやっと終われる。ゆっくり休める。この無間地獄から解放される。
 これ以上母が己をすり減らしていく様を見なくていい。苦しみに喘ぐ姿を見なくていい。
 けれども高熱の欠落から意識を取り戻した時、再び世界は一変した。
 決して贅沢ではない。けれども清潔で心地よい寝床で目覚めた俺を、発熱が治まっていく解放感と安堵感が包む。
『もう大丈夫。よく頑張った』
 俺を支え起こし水を飲ませてくれながら、男性はそう告げた。穏やかな笑みを浮かべながら、労るように俺の頭を撫でてくれる。
 慈しみ、という言葉が脳裏をよぎった。
 投獄されてから、己が嫌と言うほど味わってきたものとは対極にあるもの。かつてはこの世にあると信じられていたもの。それが目の前に現れたことに――見ず知らずの、縁もゆかりもない人が、それを顕してくれたことに、俺は戸惑う。
 礼を言えばいいのか。感謝すればいいのか。
 本当に、この人を信じていいのか。
 迷ったのは、ほんの刹那。俺の人生を決定づけた騒々しい足音が、俺の耳を打つ。
 階段を駆け上がる音を響かせ、騒々しく目の前に現れたのは、二人の子ども。
 一人は俺と同じくらいの年の頃。薄灰色の髪と青灰色の目、軽やかで弾むような身のこなしが羨望をもって俺を捕らえた。
 そしてもう一人は、俺よりも小さい。金髪はまるで糸のように細くしなやかで、明るく大きな緑の目はかけらも濁りなく、まるで宝石のようだ。
 こんなに愛らしい子どもは、絵画ですら今まで見たことがない。思わず息を呑むほど可愛らしい造作をしていた。
『親父、こいつもう起きて平気なのか?』
『大丈夫? 体苦しくない?』
 二人の男の子に邪気のない気遣いを向けられたその時、自分の中で何かが腑に落ちたような――何かが収まるべきところに収まったような、そんな不思議な感覚を得た。
 何だろう。それは直感としか言いようがない。けれどもその時俺は、真に感じたのだ。
 地獄は、終わったと。
 俺はここに辿り着くために、あの長く苦しい旅をしてきたのだと。
 根拠なんてない。この目の前の人たちを信じるべき根拠なんて、何も。
 けれどもこの時、俺は思った。信じたい、と。
 母上、俺はこの人たちを信じたい、と。もうこれ以上、遠くへは行きたくない、と。
 俺はここにいたい。
 その街の名は、レーゲンスベルグ。俺はその名を――自分が今どこにいるのかを、消耗から回復するまで知らなかった。
 そしてその直感は――この時俺たち母子を救ってくれた二組の親子は、俺たちを決して裏切らなかった。
 ランスロット・アイルとセプタード・アイル。
 アンナ・リヴィア・ロクサーヌとカティス・ロクサーヌ。
 大人たちは母を、子どもたちは俺を受け入れ、決して独りにはしなかった。
 俺たちは後に師となるアイルさんの手助けで、居を構えた。粗末な借家だったが、不平や不満など微塵も感じなかった。
 あの軒先や厩で夜露をしのいだ夜に比べれば、なんて温かで心地よく、安心して眠れることだろう。
 アンナ・リヴィアは母に、自分の雇用主を紹介してくれた。彼女は洋服の仕立てを請け負い生計を立てていたが、母はその店で刺繍を請け負うことになった。
 母は貴族の嗜みとして、刺繍を巧みにこなした。その腕前はこの市井にあっては十分すぎるもので、以降母は昼夜を問わず針を持ち続けた。
『ねえねえ見て、ブレイリー。完成したの! どう、素敵でしょう』
 全面に見事な刺繍が施された花嫁衣装を手に、弾んだ声を上げた母の姿を今でも思い出す。
 今になってみれば思う。レーゲンスベルグに落ち着いてから、亡くなるまでの八年間。母にとっての晩年は、決してすべてが不幸ではなかったかもしれない、と。
 自分の作り上げたものが、人の生活に彩りを与える。人の門出を華やかに飾り祝福する。
 自分が生きていくための生業は、人を幸せにするためのものである。
 その達成感と充足感は、紛れもなく母の心を救っただろう。
 そして似たような境遇の者として――父親のない子どもを一人で育てる母親として、アンナ・リヴィアが友としてそばにあり続けてくれたことは、どれほど心強かったことだろう。
 俺がカティスを守りたいと願ったことは、アンナ・リヴィアへの恩返しでもあった。母を救ってくれた人の子どものために、俺が全力を尽くすことは当たり前に過ぎることだった。
 そうしてレーゲンスベルグに落ち着いて間もなく、俺は父の死とザクセングルス家断絶、そしてタランテルの壊滅を知った。
 俺たちの脱出後ほどなく、父は急死していた。その死因が何なのかまでは、船乗りたちの噂では判らなかった。しかし父の死後、正妻かつ嫡子の実母であることを根拠とし、あの女がすべての実権を握った。その傍らにはいつからいたのかも判らない若い男たちが、寵臣という名の愛人として幾人も侍っていたという。
 ザクセングルスは、北方国境の守護。その内紛と弱体を、絶え間なく国境を揺さぶってきていたエグランテリアが見過ごすはずがない。一挙に攻勢に出た敵は、瞬く間にタランテルにまで侵入した。
 借財を盾に、その狡猾さと悪辣さで家を乗っ取ったはいいものの、当然のことながらあの女には政治も戦争も経験がない。そして父の代からの家臣たちは、愛人たちに席を奪われていたのだろう。ろくに戦うこともできず、タランテルとザクセングルスはたやすく陥落した。
 あの女と異母弟が、どんな末路を迎えたのかを俺は知らないし、知りたいとも思わない――昔も、これから先も。だが厳然たる事実として、これだけは確か。
 エグランテリアの侵攻とアルバによる奪還戦によって、街と領主館は灰燼に帰し、ザクセングルスに連なる者は死に絶えた。
 そのことを知らされた時も、俺の心は動かなかった。悲しいとも辛いとも思わなかったし、逆に溜飲が下がりもしなかった。
 ただ、ただ虚しさだけが、空っぽの胸の中を通り過ぎていった。
 家も領地も爵位も財産も係累も、もう何も残っていない。俺は本当にただの貧民の、ブレイリー・ザクセングルスになったのだと。そう淡々と思った。
 もう俺を縛るものは何もない。俺はどんな生き方を選んでもいい。それは理性では判っていた。けれども感情は決して能動的には動かなかった。
 正直どうしたらいいのか、どう生きればいいのかが、判らなかった。
 今になってみれば判る。あの時もまた、俺の精神は疲弊しきっていたのだろう。
 生きていくためには金がいる。そのことは痛いほど身にしみている。そして真っ当に金を稼ぐ手段は色々あるということも、セプタードやカティスとつるみ、下町を根城にして日々を暮らすにつれ判ってきた。
 自分がこの貧民街ではあり得ぬほど高い教養と技能を身につけていることは、やがて理解した。実際この頃俺は代書をして小銭を稼いでいたし、商家や富豪の家令でも、奉公先はおそらく引く手あまただっただろう。
 これからの人生と母の負担を考えれば、俺は十歳の段階でそれを考えるべきだったかもしれない。そうすればもっと簡単に貧民から脱出できただろう。
 だが、どんな選択肢にも俺の心は動かなかった。
 勿論母が俺を手放したがらなかったということもある。自分の人生すべてを捨てて守ろうとした、たった一人の息子だ。しかも投獄という形で引き離された挙げ句、心身共に蹂躙された経験がある以上、生活のためとはいえ他人に預けるなどという選択肢はありえなかっただろう。そして俺もまた、母を一人にすることなど考えられはしなかった。
 でもそれだけではなく。俺自身がきっと、俺たち親子を救い上げてくれた人たちとともにありたかったのだ。
『いつも私の代わりに勉強見てくれてありがとう。お駄賃だと思って、遠慮なく食べなさい』
 粉粧楼の二階、先生とセプタードの住居。仕込みを終えた先生が、勉強をしていた俺たちのところに、大きな皿を持ってやってくる。
 できたての揚げパンが放つ、小麦と卵の甘い匂い。カティスとセプタードが上げる無邪気な歓声。戸惑う俺の頭にぽんと置かれた、大きくて温かな手。
 先生がカティスだけではなく、セプタードにまで勉強をさせたのは、俺に対する援助の口実だったのかもしれない。素直に施しを受け入れられない俺の性格を、先生はきっと見抜いていただろう。
 母の稼ぎでは、生活は苦しかった。満腹になるまで食べられることなんてついぞなかった。多分それは同じような境遇のカティスも同じ。だから先生はそうやってしばしば、俺とカティスに様々なものを振る舞ってくれた。
 セプタードがあれだけ嫌いな勉強に、ふて腐れながらも付き合い続けてくれたのは、あいつなりに気を使ってのことだったのだろう。自分がそこから逃れれば、俺が先生の好意を受け入れる拠り所がなくなってしまう。それをあいつも察していたからに違いない。
 それからの二年は、穏やかかつ緩やかに過ぎていった。
 無論、辛いことが全くなかったとは言わない。上流階級からの転落者らしいことが噂で広まると、俺と母はしばしば嘲笑の的となったし、カティスが私生児だと苛められ泣かされて帰ってくることもしばしばだった。
 しかしながら、レーゲンスベルグの全ての人たちが冷酷だったというわけでもない。流れ者である俺と母に、手を差し伸べてくれた人も少なくなかったし、今の傭兵団幹部は大半がその人たちの子どもだ。そして何より先生が身近にいてくれたことが、身辺の安全という点で、間違いなく大きかった。
 アンナ・リヴィアは素晴らしい美女だったし、母も元々教養ある名家の令嬢だ。富豪が妾にと望んでくることもしばしばだったし、邪念を抱く男もあまたいた。しかしそいつらは、結果として先生が全て排除した。先生に睨まれ痛い目に遭わされてなお、二人に不埒を働ける輩などいなかった。
 多くの戦役で武勲を挙げ、多額の報酬を勝ち取り引退した傭兵剣士。その柔らかな物腰と外見に惑わされたならず者は、その笑顔の恐ろしさを肝に銘じることになったろう。そういうところが先生とセプタードは、本当にそっくりだと俺は思っている。
 無論邪念ではなく、純粋な好意を抱いた真っ当な男もいた――というか、先生こそがその筆頭だった。先生がアンナ・リヴィアを想っていることは明らかだったし、どうして先生がその気持ちを打ち明け求婚に至らなかったのかは、息子であるカティスとセプタードを除いた一門全員の永遠の謎だ。
 逆に言えば、だからこそ先生がなぜ俺と母をも助けてくれたのか。なぜ好意を抱くロクサーヌ親子と同様に、俺たちザクセングルス母子をも守り育んでくれたのか。心当たりがないでもないが、それも解けない謎だ。
 思うにレーゲンスベルグ傭兵団とは、この頃に先生と粉粧楼を中心にして構築されていた地縁共同体が基になってできたものだ。もしカティスが剣を望まず、俺や盟友たちが追従することがなかったとしても、俺たちはセプタードを中心としてそれぞれ職を得ながら粉粧楼に集い、助け合い生きていったのかもしれないと漠然と思う。
 しかし定められていた運命は、俺たちを安閑と暮らす人生を与えてはくれなかった。
 今でもあの一瞬のことは、まざまざと思い出せる。
 夜の港。波の音以外は、もはや何も聞こえない。カティスを浚おうとした卑劣な暴漢たちの苦鳴の声も、対峙したあいつの息づかいさえも何も。
 俺の目は、ただ真っ直ぐにあいつに惹きつけられていた。
 その時俺は初めて、剣を握るあいつを見た。
 そこにいたのは、今まで気安く付き合ってきた幼馴染みではない。
 苛烈で容赦なく、だからこそ何物にも侵されることのない崇高ないきもの。
 荒ぶる神がそこにいる。俺はこの時、そう思った。
 帯びているのは、握りしめているのは、いかなるものにも踏みにじられることも、屈服させられることもない圧倒的な力。
 血にまみれてなお、月の光を受けて輝いているもの。
 それが剣。
 それこそが、セプタード・アイルの剣だった。
 今目の前に広がっている凄惨な光景。これは罪だ。そんなことは判っている。それでなお俺は手を伸ばさずにはいられなかった。望まずにはいられなかった。
 ただの一目で魅了された。
 俺もこの力がほしい。俺もお前のようになりたい。空虚な俺の魂は、この時狂おしいほどの渇望を感じた。
 俺はもう二度と、他人に己の何をも犯されたくない。大事なものが踏みにじられるのを、黙って見ていたくなどない。
 力が。己に降りかかる悪意と暴力をはねのけられるほどの力が、ほしい。
 どうか俺を、お前がいるその高みへと連れていってくれ。そう狂おしいほどに願った。
 そうして俺は、あいつの共犯者となることを選んだ。
 言い訳などしない。誰かを守るためだったなんて自己弁護は決して。
 ただ俺は己のために力を望み、そのためにあいつの手を掴んだ。ただそれだけのことだった。
 たとえ自分の手もまた、血まみれになったとしても。
 そうして俺もまたカティスと同じく剣を望み、傭兵として生きることを選んだ。
 金を得るために、そしてカティスを利用しようとする輩を排除するために、その剣で幾人もの人を殺した。
 挙げ句俺が右手を失ったこと――沢山の人を殺した右手を失ったことは、確かに罰であったのかもしれない。だとしても、その罪は俺が自ら望んで犯したもの。自らの心の充足のために人を殺めた、俺の愚かさへの報いだ。
 カティスのためではない。セプタードのせいでもない。誰が責任を感じる必要もないこと。俺はこの十四年思ってきたのだが、それもきっとセプタードには伝わっていないのだろう。
 けれどもあの時――そしてこの三十二年、俺たちは本当はどうするべきだったのか。その答えは決して出ない。
 俺たちのしたことは、決して正しくない。けれども他にどんな手段があったのか。大切なものは、傷つけられ奪われようとしていた。それを守るためには、他にどんな手段があったのか。今となっても、俺には判らない。
 だからといって正当化も許されないだろう。それは確かなこと。
 そうやって守ろうと――王の道から遠ざけようとしたカティスが、あんな形で玉座に昇った今となってはなおのこと。
 己の抱いた願いそのものが――己の存在そのものが間違っていたのだ。そう突きつけられたとしても、俺は反論できない。
 だから、もういいと思った。もう十分だと。
 生きなければならない理由も、生きていたい理由も、もう俺にはなかった。
 結局俺は三十二年前のあの日から、自分のことを何の価値も必要もないものだと――いらないものだと心の底で思い続けていたのだろう。だから自分の命を、人生を、一度たりとも肯定できなかった。己の価値を――価値が存在すること自体を、理解することができなかった。あるということすら、思いつきもしなかった。
 だから他人が俺を必要としてくれているということが、惜しんでくれているということが、理解できなかった。気づきもしなかった。
 だけど沢山の人たちが、俺の残った左手を掴む。ロスマリンが、セプタードが、ウィミィが、盟友と子どもたちが、自分たちと共にあってくれと願い、そのためにこれほどまでに力を尽くしてくれる。
 その結果俺は今、想像もしなかった場所にいる。アルバ貴族の頂点に連なるなどという、考えもしなかった場所に。
 俺は、幸せになってもいいのだろうか。貴族の粋を集めた豪奢な部屋のただ中で、俺は一人立ち尽くす。
 許されるはずもないほどの罪を犯した、この俺が。
『まだ生きていたのか。しぶといな。とっととくたばれ』
 耳に甦るのは、あの日の父の言葉。もうお前など必要ない、家のために早く死ね。何度となく脳裏に甦り、俺の根底を踏みにじり否定していく呪いの言葉。
『私は自分を憐れむような男を、娘婿として認めるつもりはありません』
 反証のように重なるのは、先刻の侯爵夫人の言葉。どれほど己に咎なく傷つけられたのだとしても、それに捕らわれ続けることは自己憐憫に過ぎない。俺の新しい親となろうという女性は、全ての傷を己の甘えとして切り捨ててゆけと言い放つ。
 俺は瞑目して、心の中の闇に呼びかけた。
 父上。三十二年ぶりに、俺はそう呼んだ。
 あなたの人生は幸せだったか。ザクセングルスという家に捕らわれ、責務で女を抱き子を為し、誰かを愛する喜びも、愛される幸せも知らないまま終わったのだろう、あなたの人生は。
 俺もあなたのことを笑えはしないだろう。俺も愚かだった。沢山罪を犯し、沢山の人を傷つけた。あなたのようになるまいとばかりに、あんなにも真摯に愛してくれた女性を遠ざけ続け、傷つけ続けた。
 だけど全部終わりにする。俺はあなたが否定したもの全てを肯定してみせる。そうしていつかあの世で会えたら、あなたのことを嗤ってみせる。俺はあなたのように、空しいままで人生を終わらせはしなかったと。そう言って笑ってみせる。
 俺は生きていく。罪とともに、罰とともに、その償いとともに、この先も生き続けていく。
 あなたに沈められた泥沼から俺は、かけがえのない伴侶と親友たちに掬い上げられたのだから。
 あいつらのために、そして自分のために、俺は生きてみせる。
「父上、あなたがあんな馬鹿をしなければ、俺はあの街に辿り着けなかった。あいつらに出会えなかった」
 そうしなければ、今のこの未来はなかった。
 声を出し言葉にして、気持ちが落ちた。俺は眼を開け、天を仰ぎ、小さく笑った。
 もう全部、終わりにしよう。
「父上、お別れです。俺はもうあなたに捕らわれはしない」
 静寂に包まれていた部屋に、喧噪が届いたのはその時だった。上流の頂点であるこの館に似つかわしくないどよめきが、遠くから近づいてきている。
 侯爵が帰宅したのだろうか。だがそれで騒ぎになるとは、とても思えない。
 別棟で酒宴まっただ中であるあいつらが、何かやらかしたのだろうか――いや、そんなこともあるまい。今回同行してきたのは、傭兵団でも精鋭。普段は隊長として部下を率いている分別も責任感も持ち合わせている奴ばかりだ。ジリアンに含めてきたから、俺の身を慮って馬鹿やるようなことはないだろう。あいつらが今ここで、騒ぎを起こす理由がない。
 だとしたら、一体何が――俺は卓の上に置いていた短剣を掴む。左手だけでは抜けない。鞘を口にくわえ抜き放った。
 ざわめく人の声は、何と言っているかは聞き取れない。けれども気配が切迫して感じられる。幾人かの足早な足音が近づいてきている。俺が鞘を吹き出し、剣を構えるのと、荒々しく扉が開かれるのは、ほぼ同時だった。
 おそらく車止めから、三階にあるこの部屋まで全速力で走ってきたのだろう。闖入者は肩で息をしながら立ち尽くし、俺を見つめていた。
 がちゃり、という音を俺は遠く聞いた。それは俺が驚愕のあまり、構えていた剣を床に取り落とした音。
 信じがたい人物が、目の前に、いた。
 糸のように細くしなやかな金髪も、かけらの濁りもない宝石のような明るく大きな緑の目も、何も変わらない。
 しかし三十二年前には想像もできないほど上等な衣服に身を包み、あの時の幼児は見事な体躯の壮年となって俺の眼前にある。
 俺はただ呆然とその名を呼んだ。
「カ、ティス……」
 至尊の御位についたかつての弟分の名を、俺はただ呼ぶことしかできなかった。
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