天を渡る風 (3)

 見晴らしのよい小高い丘で、件の青年は一人天を仰ぐように立ち尽くしていた。
 人界の時間で、二、三日が経過していた。
「またお前か」
 青年は、宙に浮かぶ春螺の姿を認めると、千匹の苦虫を噛み潰したような渋面になった。
「神仙も、大概に暇だな。ただの人間に、何の用だ」
「何をしておる」
 嫌味にも構わず問い返す春螺に、青年はやれやれとばかりにため息をついた。
「仕事の邪魔をするな」
 青年はただ天を仰いでいる。青い目は、ひたむきに空を見つめつづけているが、ただそれだけだ。
 要領を得ない春螺に構わず、青年はかたわらに立ててある吹き流しに目を移し、ぽつりと呟く。
「雲が早いな……夜前に一雨来るかな」
 春螺が西を見やれば、人の目には見えぬほど遠くの空に、黒雲がわだかまっているのが判る。
 風の動きは早く、西の雲はほどなくこの地に届くだろう。青年の予見は、正しい。
「天気を、読んでいるのか」
「お前のような神様とやらと違って、俺たち人は天の気を動かすことはできないんでね。できることはせいぜい、気を読み、動きを予測する程度だ」
 青年の目は、眼下に向けられている。そこにはあまりにも貧弱な田畑が広がっていた。
「それでも天気を読み違えれば、作物に影響が出る。収量の下落は飢えに直結する。大嵐や大水は、逃げ後れたら命がない」
「なるほど」
 人界の気候は、力のない人間が生きていくにはあまりにも過酷だ、と春螺は思う。あまりにも苛烈な土地に、あまりにも脆弱な生き物が置かれた。彼女の目には、そうとしか映らない。
 それは、最初にこの世の仕組みを定めた者への不思議を感じずにはおれないことで。
「お前たち神にしてみれば馬鹿馬鹿しいことだろうが、俺たちにとっては重要なことだ」
「お前、神職だと言っていたな。天気を予測するということが、お前とっては神に仕えるということなのか」
「天の気は、人がどうあがこうが、どうにもなるものじゃないからな。好天も悪天も、すべて粛然として受け入れるしかない。人の力の及ばぬ領域に身を委ねているのだから、まあ神職といって間違いはなかろう―――というより」
 青年はふと苦笑した。
「己の田畑も持たず、鍬を持つこともなく、他の村人の稼ぎに養われる立場の人間なんざ、神職とでも言っておかなければ格好つかないだろう」
「それではお前は、天気予測だけをして暮らしているのか」
「それが『気読み』と呼ばれる者の役目だ。天の気を読み、天の動きを悟り、それを村人に伝えて導く。そしてその経験をと先人の記憶を脳裏に焼きつけ、それを次代へ確実に伝えて受け継がせる。記憶を少しでも風化させない、消滅させないためには、幼い頃から長い時間をかけて記憶を焼き付け、大人になっても思い出せなくならないよう反芻に時間をかけないといけない。俺には、粟の育て方も畦の作り方も学ぶ時間がなかったからな。今さらやれと言われてもできんよ」
 青年の言葉に、春螺は唖然とした。青年と彼の先祖がこれまでしてきたことは、常軌を逸しているとしか思えなかった。
 気の流れを目で見ることのできない人間では、確かに過去の事例に照らし合わせて気の流れを判断するのが、最も確実な方法だろう。だがその過去の事例を、全て口伝で一人の人間の頭の中に収めているとは。
 もしそのただ一人に、不慮の事態が起これば、過去からの蓄積は全て消え失せる。
 その不確実で、危うい方法。
「なんて馬鹿なことを」
「お前には言われたくないな。そりゃ神様から見れば、馬鹿げたやり方だろうが、他にどんな手段がある」
 冷めた、悟りきった眼差しで春螺を見上げ、青年は言った。
「本当にお前は、何しに来たんだ。神様は何でもできて、何もすることがなくて暇なのかもしれないが、俺には暇な時間は一刻もないんだ」
「……お前は、不思議な男だ」
 しみじみと呟く春螺に、青年は怪訝そうに眉をひそめる。
「なぜ来たか、と問われれば、判らんとしか答えようがない。暇なんだろうと言われれば、反論できないな。だが、お前が気になったのは事実だ」
 青年は答えない。
「人界に降りてきたことは、一度や二度ではない。そうして人間に会ったこともな。だが、お前以外の誰もが私を恐れて慈悲を請うか、すり寄って恩寵を得ようとした。お前は、そのどちらもしなかった」
 春螺は、青年を見て問いかける。
「どうしてだ?」
「……あそこまで恥ずかしい思いをさせてくれた相手に、恩寵を請い願うほど俺は間抜けじゃないぞ」
 口許を歪めて青年は笑い―――それは嘲笑とも、自嘲とも取れた―――そして、丘を降りていこうとする。
「雨のことを早く村に伝えに行かなきゃならないからな」
 行こうとする青年を引き止めず、春螺はただ問いかけた。
「名は?」
 期待はしていなかったのに、思いがけず青年は振り返った。そして少しだけ沈黙すると、答えた。
 それは、静かな声だった。
「ひりょう」
 字もいまだ持たぬ人の子の名は、音しか存在しない。だがそれを聞いた時、ふと真名が浮かんできた。
 深く、ただ深く鮮やかな緋色の髪。緋にあって、さらに緋を凌ぐもの。
 もし名に真名を当てるのなら、これ以上のものは思いつかない。
「緋凌。そう呼んでよいか?」
「は?」
「私は春螺だ。遠慮なくそう呼べ」
「……どういう意味だ」
「そのうち判るさ」
 春螺は狼狽する緋凌に構わず、ただ意地悪く、そして楽しそうに笑った。

Page Top