一方その頃を境に、神仙界でひどい苦労を強いられることとなる人物がいた。
春螺の留守を預けられた、慧である。
彼女は普段の衣ではなく、戦装束を身につけている。もはや春螺の封土は、安全な場所ではなくなっていた。
春螺は緋凌には言わなかったが、生き物は界だけではなく、虚空にも存在する。そして虚空の生き物はどうやら『始まりの御方』が築いた世界の摂理に反するようで、界――特に神仙界に入り込んでは、界の生き物たちを荒らす。
言わばそれらは、神仙の天敵と言えた。
年若い春螺の封土は神仙界の端で、常に虚空と接している。そして練れた神仙ならば封土も磐石だが、若い春螺の界はいまだ完全に安定しているとは言いがたい。
重ねて今回の出産で、春螺の力は確実に低下した。体の中で一つの命を生み出すのだから、己が身と言うべき力が欠けるのは、如何ともしがたかった。
結果。春螺の封土は、虚空の生き物の侵入を許すこととなってしまったのである。
「烈風陣!」
慧の結んだ印から鎌鼬が放たれ、うじゅるうじゅるとうごめいていた虚空の生き物を切り裂く。一匹、二匹と地に溶けて消えていく。
だが死んだと思っていた一匹が、突然飛び上がり己の背後に襲いかかった。
「なに!」
振り返ると、今の今まで気配も微塵も感じなかったのに、一人の女の子が歩いている。
不定形の生き物は、女の子にまっしぐらに襲いかかった。
「しまった!」
力を繰り出そうにも、もはや間に合わない。慧が悲鳴を上げかけた瞬間。
突然、生き物が消し飛んだ。
「全く、こんな下郎の侵入を許すなど」
黒髪に紫の瞳をした幼女は、あっけに取られる慧に、子供らしからぬ冷やかな表情と口調で告げた。
「これだからおばさんは」
それだけ言い残し、すたすたと言ってしまう幼女を呆然と見送った後、次第が飲み込めた慧は有らん限りの声で叫んだ。
「なんで私が、あんな主なしのガキに、あそこまで言われなきゃなんないのよーーーーーっっ!」
叫び声は荒野に響きわたる。
「あーん、春螺様、お早くお帰りくださいまし!」