それでも朝日は昇る 1章3節

 早朝の薔薇園は、凛とした静けさに包まれていた。
 父の任期の間、グラウスは王宮内にある王立学院での聴講を許された。それは彼が、登城の特免を得たことを意味する。無論、城内のあらゆる場所に立ち入れるということではないが、少なくとも学院の敷地と外苑ほどならば、自由に歩き回ることができる。
 入学手続きを口実に、開門の時刻に王宮に入る。だが学院の学舎ではなく、彼が足を向けたのは外苑の最深部。鬱蒼とした木立を背後に背負わせた、広大な花園。
 アルバ王宮の神髄でありながら、同時に最も忌まれ、恐れられている場所。
 王宮薔薇園だった。
 微かに靄がかかる園に、馥郁とした香りが立ちこめている。それを胸いっぱい吸い込むと、グラウスは鉄の門扉に手をかけた。
 目的はただ一つ。それは、禁断の赤薔薇を目にすること、ただそれだけ。
 アルバの国民が忌み嫌い、省みることのない赤薔薇は、ひどくグラウスの心を引きつけた。オフェリア王女と別れ、また独りで夜会を眺めるにつれ、その思いはいや増した。
 白薔薇や黄薔薇や、薄紅の薔薇が悪いわけではない。いや、それが美しければ美しいほど、決して見ることのできない赤薔薇の存在が心から離れなくなる。
 あの渦を巻く、それでいて剣を思わせる鋭角的な花は、たおやかな薄紅や柔和な白ではなく、他を圧する強さをもつ赤の方がむしろ似つかわしいのではないか。
 朝の静寂の中に佇む薔薇園は、グラウスの想像を遥かに凌駕する強さを持って、彼に迫ってきた。
 綻びようとする蕾。時に丸く弧を描き、時に剣の如く尖る様々な色の花弁と、それを一層艶やかに引き立てる濃い緑の葉。
 そして中でも一際まばゆく奥ゆかしく、強く目に届いてくるのは、咲き誇る、赤い薔薇。
 言葉もなかった。手を伸ばし、触れる気にさえならなかった。どうしてこれほどまでのものを、忌んで遠ざけることができるのか。迷信に捕らわれているとはいえ、それはあまりにも愚かだと、グラウスは内心で独りごちた。
 いや、だからこそなのだろうか。あまりにも美しすぎるから、人を捕らえて放さないから、だからそこにアルバ人は魔性を見たのだろうか。
 かつての『赤い魔女』が、そうであったように――。
 いずれにしても──そうグラウスが思い、歩みを一つ次の繁みに進めた時、彼は薔薇園の奥に人影を見いだした。咄嗟にしゃがみこみ、繁みの陰に身を隠す。
 王宮薔薇園は別段、立入禁止というわけではない。しかし、赤薔薇の区域に外国人の自分がいたとなれば、何かを勘繰られたり怪しまれたりする恐れはある。だからこそ、こんな人気のない時間を選んだのだから。
 だからこそ、こんな時間にこんな場所にいる人物は不審だ。
 気取られないよう気配を殺しながらも、グラウスは隙間からそっと人影を覗いた。
 小さな椅子に座って、何をするではなく赤薔薇を眺めていたのは、小柄な少女だった。歳の頃は十四、五歳だろうか。長い栗色の髪を無造作に流し、簡素な部屋着姿で、そこに佇んでいる。
 こんな時間に、およそ宮廷に登るにはふさわしくない服装をして、こんな場所にいる。それはグラウスの常識から考えれば、一つの結論しかない。
 この少女は、王宮内に居住している。
 だが、それが意味するところは?
 食い入るように少女を見つめ続けたグラウスは、刹那、はっと息を呑んだ。上げかけた声を、咄嗟に呑み込んだ。
 椅子にもたれ、薔薇を見つめる少女の双眸が、その色が。
 目の前の薔薇と同じ、赤。
 まさか──。上げかけた声が、脳裏を駆けめぐる。

「アイラ」
 自分に向けられたその声に、少女は椅子に座ったまま、背後を振り返る。
「カイル、おはよう」
「今日はまた、ずいぶんと早起きだね」
 皮肉が混じる言葉に、少女は少しばかり罰が悪そうに笑った。
 現れたのは、少女と同じくらいか少しばかり年上と思われる少年。ひどく華奢な体は、少女と大差ない。
 くせのない黒髪と深い黒い瞳が、アルバ人としては珍しい。
「何をしてた?」
「うん。外の空気を吸いたかったの。珍しく早く目が覚めて、窓を開けたらとても気持ちよかったから。……こんな時間のこんなところに、人なんかいっこないし」
「まあ、それはね。……でも、朝起きて、君がいないことに気づいた僕の心中も、少しは察してくれないか?」
「はぁい」
 ぴょこん、と勢いよく椅子から立ち上がると、少女は黒髪の少年ににこり、と笑いかけた。
 それに応えて少年も優しく微笑むと、少女を促す。
「体に障る。日が昇る前に、帰ろう」
「うん。朝御飯にしようね」
 さわさわ、と衣擦れを残して、少女たちは薔薇園の奥へと消えていく。気配を殺し、慎重に間合いをとりながら二人を追うと、やがて人影は薔薇園を抜けて木立の中に消えた。
 見上げれば、木々の隙間から煉瓦造りの建物が見えた。森の奥に、古びた小さな塔が立っている。
 グラウスは、森の入口で足を止めた。だがやがて、来た道を戻り薔薇園を後にする。
 王立学院の学舎まで来て、大きく詰めていた息を吐いた。
 森に踏み込むことはできた。追うことはできた。だが興味本位で追いかけるには、あまりにもそこには危険な匂いがする。
 自分の推論が当たっていれば、それは、国家を揺るがすほどの秘匿だ。
 髪の色は、いくらでも染めて変えることができる。だが、目の色だけは変えることはできない。もし変えることができたとしても、このアルバでよりにもよってあの色にする者がいるだろうか。
 そう、あの赤の瞳。
 アルバにおいて禁忌中の禁忌。決してあらざるべきもの。それがよりにもよって、王宮の中にある。それの意味するところは。
 確証はない。だが、もし自分の推測が正しいとすれば。
「ふっ……ふふっ」
 不意に笑いがこぼれて、グラウスは口を指で押さえた。
 早朝のアルベルティーヌ城に、その声を聞く者は、ない。

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