それでも朝日は昇る 1章4節

 グラウスは大使館の図書室で、一冊の本を手にしていた。
 アルバの史書の一つ『ブロードランズ列王記』――前王朝・ブロードランズ家の歴代王の伝記をまとめた、アルバ王国の正史の一つだ。
 グラウスの指は、史書を手繰る。探す名は、ウェンロック・ブロードランズ十六代王。
 大陸統一暦948年生、1000年没。享年五十二歳。レオニダス・ブロードランズ十五代王と、王妃アナベルとの間の一子。
 政務を疎んじ内政を腐敗させ、外政においてはセンティフォリア・ノアゼット両国から絶え間なく領土を揺さぶられた。その上奢侈を好み、女を好んだ。王家の財政が逼迫しているにもかかわらず、彼の後宮は贅の粋を極め、女たちの数は寵妃たちの女官・下女を含めれば千を越えたという。
 その後宮に、いつしか入り込んだのが、赤い魔女だった。
 それがどういう経緯であったのか、そもそも彼女が何者であったのかすら、いかなる歴史書も詳細には伝えない。けれども大陸統一暦998年、魔女は後宮に姿を現す。
『その髪は白絹の如く、その瞳は紅玉の如し。白磁の肌には一点の陰りもなく、相貌は月の如く玲瓏たり』
 魔女に対して恐れをもって記してあるこの本ですら、その美貌に関しては手放しの賛辞を贈っている。
 だが、史書は彼女の実像につながることを、これ以上記さない。
 彼女が何者であったのか。どこの生まれで、どのようにして後宮に入り込んだのか。
 そう、彼女の名すら記さない。ただかたくなまでに『魔女』とばかり記す。
 それで全て通じるとばかり――名を記すことすら憚られるとばかりに。
『魔女、占師として王に仕う。その預言違うことなく、あらゆる凶事ことごとく見抜く』
 後宮入り後、魔女は瞬く間に王の信頼を獲得した。王はいかなる時も魔女にはかり、彼女の意見に従い、そうしてやがては全ての政務を放棄するようになった。王は後宮に入り浸り、酒と快楽に耽溺し、堕落の一途を辿った。
 かくして魔女は、アルバの政治権力の全てを握った。
 魔女の為政は、まさしく恐怖政治だった。重税がかけられ、貴族は容赦なく財産を没収された。魔女を排除すべく張りめぐらされた謀略は、全て彼女の親衛隊によって阻止され、首謀者たちはことごとく返り討ちに遭った。
 法は厳格さを増し、裁きは酌量を知らず、刑場で血が流れぬ日はなかった。商人の往来は絶え、都市は荒廃し、農村部で続いた凶作が国民の貧困に追い打ちをかけた。
 困窮にあえぎながらも魔女を恐れ、息を詰めるように暮らしてきた国民たちの怒りがついに爆発したのが、大陸統一暦1000年。まさに千年紀元節の年のこと。
 そのきっかけとなったのが、『サンブレストの大虐殺』であった。
 サンブレスト村はアルバ辺境の、取り立てて特徴もない平穏な村であった。それがある日突然、魔女の親衛隊によって焼き討ちに遭ったのである。
 親衛隊は村を包囲し、矢をかけ、村人の一人たりとも外へ逃さなかった。女子供とて例外はなかった。全ての建物、家畜、そして村人を焼き尽くし、焼け跡に人が近づくことすら許されなかった。焼き殺された村人たちは埋葬さえされず、難を逃れた遺族たちが骨を拾うことすらできなかった。
 この凶行の真意は不明だ。魔女の気まぐれだとか、サンブレスト村が税納を拒否したためだとか様々な説があるが、反乱軍の拠点がサンブレスト村であった、というのが現在最も有力な説である。だがどの説にも疑問点・問題点があり、いずれにしても真実は歴史の闇の中である。
 ただ一つ間違いない事実は、この事件が魔女への国民の怒りを爆発させることとなり、それが革命の原動力となったことである。
 魔女を倒すべし。声はうねりとなって国に満ち、剣士たちは剣を、農民たちは鋤や鍬を手に首都・アルベルティーヌへと押し寄せた。魔女によって排斥された貴族たちも、そんな民衆の動きを後押しした。その数はおよそ十万。アルバ国軍首都防衛大隊を遥かに凌いでいた。
 そんな彼らは、大陸統一暦1000年五月、アルベルティーヌの北の原野・イプシラントで集結する。アルバ国軍とにらみ合い、一触即発の状況に到る。
 だが民衆たちは数こそ多いが、統率のかけらも存在しない烏合の衆であった。集まるだけ集まり、集結したもののその先の行動も起こせない彼らの前に、運命の六月一日。二人の青年が現れた。
 それが、カティス・ロクサーヌと、カイルワーン・リーク。
 後のロクサーヌ朝開祖・英雄王カティスと、現アルバ王国の基礎の全てを築いたといわれる大宰相・賢者カイルワーンである。


 カティスは当時二十六歳。アルベルティーヌにほど近い港町・レーゲンスベルグの出身で、名うての剣士として近隣に名を知られた男だった。明朗快活な性格で面倒見がよく、多くの市民に慕われ親しまれていた存在であったという。
 だがイプシラントの民衆を熱狂させたのは、真偽の定かでないある噂だった。
 彼が亡き先王の落胤、現王ウェンロックの異母弟である、という噂──。
 真偽のほどが定かでない、というのは、この時点も後年も、カティス王自身がそれを肯定も否定もしなかったからである。そして終生『ブロードランズ十七代王』と名乗ることはなかった。それ故現代の歴史学者によって、革命を勝利に導くための戦略としての嘘だったという説が盛んに主張されている。
 だが革命の瞬間、それは全ての人間において真実であった。
 その結果として、革命に参加した全ての貴族が、指導者として彼を推戴し、全軍を委任した。
 そうしてカティスが、民衆と貴族が帯同してきた軍勢をまとめあげ、そして運用するために招き入れた軍師が、賢者カイルワーン。伝説では、カティスを見いだし、彼に出生の秘密を告げ、民のために立つことを促した天使とされる人物だ。
 そんな英雄王と賢者がいつ、どのようにして出会ったのかも不明だが、革命以前から二人がレーゲンスベルグで誼を通じていたことは、疑いようはない。そして、来る日のために二人が雌伏の時をすごしていたこともまた。
 こうしてカティスと賢者カイルワーンによって再編された『革命軍』は、魔女により占領されている王城・首都の解放と、専横されている国権の奪還を題目に、アルベルティーヌへと進軍。大陸統一暦一〇〇〇年六月十日、魔女の親衛隊・緋焔騎士団が率いる国軍と衝突、これを撃破する。
 破竹の勢いはとどまるところを知らず、六月十二日、革命軍はアルベルティーヌを包囲する。国軍は籠城の構えを見せたが、内部で蜂起したアルベルティーヌ市民と、外部の革命軍に挟撃され、あえなく敗退する。また、正統の王位継承者を戴く革命軍に対し、魔女に仕える賊軍として戦うことに耐えられなくなった国軍兵が、戦いの最中多く離反したこともまた、国軍の敗因の一つだった。
 そして翌六月十三日。アルベルティーヌ城解放のため、カティス率いる精鋭部隊が突入、緋焔騎士団と壮絶な戦いを繰り広げた結果、これを撃破する。カティスにより追いつめられた魔女は、玉座につながる『拝謁の露台』から身を投げ、その生涯と圧政に終止符を打った。
 後にウェンロック王が魔女によって殺害されていたことが、正式に確認される。これに伴い、アルバ王国の全貴族の承認と、国民の歓喜の声に押され、カティスは王位に就く。
 これが二百有余年、十二代続く現王国・ロクサーヌ朝の始まりである――。

 グラウスは『ブロードランズ列王記』を閉じると棚に戻し、別の本を取り出す。民間によって書かれた、カティス王の伝記。そこには史書では省かれた、魔女の最期の言葉が克明に記されている。
『私を殺して、全てが終わったと思うな。これは始まり。滅びへの始まり。私が甦り、再びこのアルバに現れた時、この国は最期の時を迎える。私をここで殺すことで、この国は永遠に呪われたのだと知れ』
 その声は王宮に響き渡り、その言葉の禍々しさに誰もが一瞬、声をなくした。こうして魔女は未来永劫、アルバ国民に忌まれ、恐れられる存在となった。
 グラウス自身は、初めてこの呪いを聞いた時、馬鹿馬鹿しいと思った。いったいどこの世界に、死んだ人間が甦ってくる道理があるだろうか。呪いなどというもので滅びる国があるだろうか。二百年もの昔、魔術というものが真剣に信じられていた時代の戯言だと思っていた。取るにも足らない、おとぎ話だと。
 だが現実としてアルバでは、魔女の死から二百年以上が過ぎた今となっても、恐れは少しも薄まってはいなかった。親から子へ、孫へ語り継がれるうちに逆の意味で神格化され、絶対化された。歌で魔女と関連づけられただけで、国中から赤い薔薇が駆逐されてしまったように。
「私は必ず甦る……か」
 グラウスは小さく呟く。脳裏をよぎるのは、赤薔薇の園で見かけたあの少女の姿。
 先天性の白子。おそらく魔女と呼ばれた二百年前の女性も、あの少女もそうなのだろう。その病──異常は、医学が進んだ今日では広く世に知られてはいる。他国では、ただの病気以外の何物でもない。
 けれども、魔女の呪いの楔が刺さったアルバにおいては、それはあまりに大きな意味を持つ。
 あの少女は、甦った魔女なのか。
 そう内心で呟いて、グラウスは小さく笑った。問題は、あの少女が魔女の生まれ変わりであるかどうか、ではない。
 彼女が今、ここに、存在しているということ。
 それが人心に、何をもたらすのかということ。
 問題は、そこなのだ。
 脳裏を様々なものが駆けめぐる。可能性も、計算も、予測も。
 だが恐れは感じなかった。何故なら彼は、アルバ国民ではなかったから──。
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